手の届かないもの
その日、未明から振り続けた冷たい雨が、良かったとも悪かったとも評されたのは数日を過ぎてからのことであった。
コ・ジエは、霧の立ったその場で、煤まみれになった筆記台の中から奇跡的に父の手記を見つける事が叶った。引き出しの中は、天井を失ったその部屋に降り注ぐ冷たい雨からも、屋敷を焼いたその炎からも、その一冊を守り続けた。
屋敷の炎上と、黒く焼けただれたコヴ・ヘスらしき亡骸が報告されてから、五日が過ぎていた。
数日を前に別れたばかりの父が、この世を去った。
もうその声を聞くことも、叶わない。そんな別れは、ジエにとって二度目の事であった事が、唯一、絶望に対しての抑止となって、それをせき止めた。
外套の内に招き入れたその手記は、数少ない遺留品である。少しでも、父の名残と、領主として必要になるであろう資料を回収せねばならない。
家令も、給仕も、行方の知れない古馴染みの役人たちも、そして父でさえも、彼の前に並べられた、人の名残を形に残すだけの、遺体のどれか、なのだろう。だがこれから本当に必要なものは、そんなものではない。
屋敷を火をかけた、その主因と思われる焦げた矢じりだけは、少し探しただけでも数多発見された。
入念に、執念とも思える、その数の多さに、残された者たちはただ、唖然とする。
「ジエ様。」
馬が駆け込んできて、その次第を聞き取った役人が、ジエに声をかけたのは、霧が引いて、昼の日差しが雲の隙間から顔をのぞかせた頃であった。
「シギザ領との領境街道に展開していたバルドー国の兵士が次々と増員されているとの報告です。」
周囲でそれを聞いていた役人たちが否応なくざわめく。
「戦が、始まるのか。」
シギザ領は既に、サザウ国の領土に非ず。それは、遺された三領、そして王領の「健在な役人」には共通の見解とされていた。
それだけに、この場には王権移譲に反抗をした衛士長の下、衛士も数人、動員されている。「事実上の国境」とされた周囲にも、衛士が派遣されている。報告は密に行われ、この知らせもまた、その一環でのことであった。
突然でもあり、必然でもある。予想はできたことでもあり、読み通りでもある。
しかし、それに対しての備えは間に合っていない。
始まった時には、最早避けられない事が確定している。それを決断する権は、暫定的にではあるが、今はジエが持っていた。持たざるを得なかった。
「領民の疎開準備を開始してください。衛士の皆さんにも出来うる限りで協力を願います。」
王太子拘束劇の後、王城で行われた会談で取り決められた通り、それを発する。次代のコヴとしてその場に同席していたジエ自身も、その内容は把握している。そして納得もしていた。
「対象となる領民はサト川より東に居住する者。またこれより、ディル領の領館はポッコ村にあるものとして扱います。サト川より東は緩衝地帯、戦場となる場所として扱います。」
指示を受け、その場に集った役人たちは速やかに行動を開始する。
サザウ国にとってはこれが建国来、初の戦争となる。その最悪の幕開けであった。
最早これは、王城の宮廷劇ではない。サザウ国は、コヴ・ダナウに見限られ、そして追い込みを掛けられる相手となった。このまま何もしないでいれば、領民も領土も、ダナウの腹の肥えた血肉となる。
「大人しく喰われてなどやるものか!ダナウ!」
外套の下にあるその手記を、ジエは強く握りしめる。
「必ず、必ずここにまた帰ってきます、父上。今は、静かにお休みください。」
土葬のため急ぎ浅く掘られた穴へ、丁度、数多の亡骸が収められたところであった。
そこへ背を向け、そしてそのジエの背中を合図に、衛士達によって土が被せられる。
「戦争、かぁ。」
甲高い音が鳴り響くその周囲を見回し、起こり得る現実的な話として認識しているそれを思い浮かべ、幢子はひとり呟く。
「死にたくは、ないよね。」
国の事情は、未だ村人たちには伝えられていない。そこにはそれまでと地続きの日常があるだけ。幢子の眼の前に広がっている光景は、後どれだけ続けられる事なのか。今の幢子の脳裏に浮かぶのは、答えの見つからないそれに対する考察ばかりであった。
作りたいものはたくさんある。直ぐにでも取りかかれる作業はいくらでもある。
けれども、幢子はどうしても、工作に手が伸びない。今日はもう作業をする気になれないでいた。
「そういう世界、そういう時代。」
そう思うと、幢子は色々な事に気がついていく。
「私は、この世界の事について、まだ何もわかっていないんだよね。きっと。」
生き残るためにはどうしたらいいか。戦争が始まったらどうすればいいか。
相手はどんな戦い方をするのか。相手はどんな武器を持っているのか。
生活水準を上げるための試行錯誤に手は伸ばせても、生き残るための試行錯誤には、未だその手が届かない。
「ジエさん、帰ってこれるのかな。教えて貰わないといけない事が、沢山出来ちゃったよ。」
今の河内幢子は、工具に手が届かない。




