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ユートピアのその先に

作者:

 ――未だ、瞼の裏には紅蓮が焼き付いていた。

 トラウマを振り切るかのように、シャルル・ホーレルンはただ走る。

 煌めきを有していただろうブロンドのポニーテールは灰に汚れ、砂塵をかぶり、面影を無くすほどくすんでいた。凛々しい顔立ちは苦痛に歪み、頬にある一閃の傷からは赤色が流れ出している。

 金色で彩られた豪奢な軍服は擦れて裂け、軍刀にあしらわれた宝石にはいくつもの罅が入っていた。

 それでもなお、足が縺れながらも這いずるように走り続ける。

 幻聴であると分かっているはずの砲撃音が、体を恐怖で支配していた。遥か遠くの戦火の熱が白い肌をひりつかせ、蹂躙される民衆の叫び声に思わず耳をふさいでしまう。

 それでも、高ぶる感情に任せてしゃがみ込むことは、シャルルにはできなかった。

破壊と侵略、強奪に処刑――それらが深く刻み付けた感情が、今も四肢の動力源となっている。

 心はとっくに折れていても、生物としての本能が体の死を許してはいない。

 無残な逃走の中で、もはや涙は枯れている。悲しみの感情は心の許容を超えて、家族や故郷への思いはどこか遠くへ消え失せていた。

 シャルルは決して振り返らない。

 銃口を向けられているかもしれないという恐れに、意志はまったく太刀打ちが出来なかった。

 存在しない射線から逃れるため、シャルルはジグザグに走る。木の根に足をとられながらも、身を低くしながら草むらに飛び込む。

 そこまでしても安堵はせず、ふらつきながら立ち上がって駆け出していく。

 目的は一つだけ――逃れる、それだけのために。

 森の深くまで入り込み、川を越え、山を歩き回り――そうして突然、シャルルの前に開けた平原が広がった。

 そよ風が丘を越えて緑の大地を撫で、そのまま髪をたなびかせる。ポニーテールをまとめていた水色のリボンは、とうに紛失していた。

 視界を遮るものなど何もない草原に一歩を踏み出し、そのまま歩調を速めていく。

「あ、ぁ、ぁぁぁ、ぁぁぁぁぁぁ、ぁぁぁぁっ…………」

 なだらかな丘の上に立ち、眼下に広がる光景を目にして――シャルルは声にならない声を吐き出した。様々な感情が綯い交ぜになって、吐き出されるモノはコトバの形を成していない。

 無限に流れ出していくかのように広がる花畑に、感情が溶かされていく。恐怖も怒りも悲しみも羞恥も――そしてやっと手に入れた安堵でさえも、大自然の美景の前に塗りつぶされてしまう。

 シャルルには確かに、ぷつりと張り詰めた糸の切れる音が聞こえた。その瞬間、膝からくずおれて地面に倒れこんでしまう。

「は、ははは、はは、ははははは……」

 自分にだけ聞こえる小さな声で、シャルルはむなしく笑った。

(いっそここで野垂死ぬのも悪くない、か。祖国を捨てて逃げ出した私には、少しばかり良すぎる死に場所かもしれないがな……)

 そんな投げやりな意志に反して、丘陵は柔らかな日差しに包まれていた。

 積み重なった疲労と積もり切った心労から、シャルルの瞼は次第に落ちていく。視界が段々と狭まり、意識が奥底に沈みかけた、その時。


「おやおや珍しい。この土地に踏み入ってくるとは」


 ザリ、と地面を踏みしめる音が、シャルルの体を強制的に反応させた。

 飛び跳ねるように起きようとし、態勢を崩して土ぼこりが舞う。唇を屈辱に噛みしめながら、足音の主をキッとにらみつける。

 そして、シャルルは自身の目を疑った。瞳に映った相手の容貌が、あまりにも現実離れしていたからだ。

 まず意識を引くのは、地面に触れるか否かというほどまで長い白髪。一切の汚れも、わずかな乱れさえもないその美しさに、シャルルは一旦まぶたを閉じた。それ程に、魔性ともいえる美しさを誇っていた。

 顔つきも体つきも幼い。しかし、無視など許さない蠱惑が彼女の美貌の根底にあった。

 水晶そのものとしか思えない、まあるく大きな瞳がシャルルの心を捉えて逃さない。

 童女の一挙手一投足に従って、彼女の身に纏う衣服が揺れる。ひらひらとした宗教色の強い薄手の服は、見る者に幻想の存在を想起させた。天使や妖精、もしくは精霊と呼んでも差支えがないほどに、彼女の外見は現実から乖離している。

 童女が口を開くと、その白く細い喉からは琴の音にも劣らない美声が投じられた。

「おぉおぉ、なんとも元気なことだ。そんな有様でも反抗の意志を折らないとは――気高いね」

「ばかに、しているのかっ……」

「いえいえ。今ボクは、貴方の気高さに感服していたところだ。一度消えかけた心の炎を熾すことは、容易なことではないからね」

 にまにまと笑う童女は、しゃがみこんでシャルルに手を伸ばす。

「……………⁉」

「いったい何をしているの? さ、はやく」

 きょとんとするシャルルの顔に押し付けそうなぐらい、童女は片手を突き出した。

(けい)は一体何であるのだ……。私の味方か、それとも敵なのか……」

 問いに対し、童女は少し黙って差し出した手を振った。催促するように、ふりふりと揺すった。

 それを受けて、シャルルはしぶしぶ手を伸ばす。土と血に汚れた細い指先が触れた瞬間、

「よしよし、それでいい」

 満足そうにうなずいて、童女はシャルルを引っ張り上げた。とても、子供の膂力とは考えられない力で。

「きゃっ⁉」

 驚きに声を挙げながら、シャルルは転びそうな姿勢をコントロール。童女に引っ張られるまま、ぎこちなく彼女の後に付いていく。

 ぐいぐいと飼い犬のようにリードされる、なすがままにされる状態。奇妙な現状は、シャルルの心から再び恐怖の感情を引き出した。負のイメージはあっという間に増殖して、シャルルの瞳を濁らせる。

「ま、待て! 私の質問に答えろっ、卿は何者だっ!」

 シャルルが心身の奥底からふりしぼった詰問にゆっくり振り返って、彼女はただ一言。


「神さま」


「は?」

 たった一言。童女がぞんざいに放った短い言葉は、シャルルの心を白紙に戻した。

 神を名乗るということの不敬。その領域まで踏み込んだ冒涜は、少女の常識から大幅に外れていた。シャルルにも、シャルルの国にも、その国が治める民にも、これと定めた宗教がある。この世の理不尽を納得するために奉じる神がいる。

 その柱である存在を悪戯に騙るなど――彼女は考えたことすらなかった。

「何を呆けているのだい? 獅子が突然またたびキメられたような顔をして」

 可愛らしく小首を傾げて、童女はシャルルの様子をまじまじと見つめる。瞳は大きく開かれて、動揺する少女の表情を鮮明に映していた。

「あ、そっか。名前を言ってなかったね。神といっても他に何柱も在るものだから、ボクが『ナニカ』はわからないか」

「卿はこれ以上戯言を申すか……」

 一神教を信じるシャルルは、顔を青くして薄く笑った。

 やれやれ戯言ではないというのに……と零しながら、童女はゆっくりと口を開く。

「ボクの名はテナ。この世界の創世より大地に根付いた、由緒正しき地母神だ。よろしくね、悲しい男装の『お姫様』」

 ウインクをキメて、童女は――テナはいたずらっぽく微笑んだ。親愛一〇〇パーセントの気色悪いアルカイックスマイルに、目つきを変えたシャルルが吼える。

「その話、一体どこから――っ⁉」

 もはや無いに等しい僅かな体力を、全て残さず全身に回す。シャルルは腰の軍刀をそのまま引き抜き、全身全霊で振り抜いた。

 宙に弧を描く鈍い光が、遅れて見えそうなほどの斬撃。ひびの入った刀は相手の体を見事に裂くはずだった。ただしそれは、相手が普通であればの話である。

 神を名乗る不心得者は、凶刃程度では動じない。

「あうあう、危ないね。女の子がそんなモノを振り回してはいけませんよ、っと」

 ほんの数瞬の目配せ。テナが地面に眼を向ければ、それだけで大地が隆起し盾と成る。

 城壁のごとき分厚い土壁に、一振りの刀が敵うはずもない。刃が壁に触れた瞬間、刀身はすぐさま大地に呑まれてしまった。捕まえた軍刀と共に、土壁は音も無く地面へと沈み込んでいく。

「くっ、このっ!」

「だめだよ。王女様がそこまで足を上げては」

 とっさに繰り出される上段蹴りを、テナは笑って回避。踊るような優美な動きで、続けざまに飛んでくる拳も躱し続ける。

「――っ、だったら!」

 迷いを刹那で切り捨てて、シャルルは懐に右手を突っ込んだ。引き抜かれたその手にあるのは、黒々とした小型のリボルバー拳銃。燦々と差す陽光を受けて、銃身は一層鈍く輝いた。

 膨らみきった自暴自棄に身も心も任せて、少女は人差し指に力を込める。

 一、二、三。間などなく、火薬の炸裂音が連続して丘陵に響き渡る。残る三発も撃とうとシャルルは拳銃を構え直したが、もう引き金を引くことは出来なかった。

「ボクは地母神。大地そのものだ。であれば、大地から生み出された鉛なぞに傷つけられる道理はないね。小石ほどの大きさで、大陸に喧嘩を売ろうなんて馬鹿馬鹿しい」

 シャルルが放った三つの弾は、全てテナに命中していた。一発目は胸部に、二発目は喉に、三発目は眉間に当たって――悉くが肉体に吸い込まれた。

 あまりにも衝撃的な光景を目の当たりにして、シャルルの全身に震えが走る。強く握られていたはずの銃はかちゃりと地面に落下して、深々と地中に沈み込んだ。

「あは、こんなか弱い女の子にぶっ放すなんて、よほど精神にキてるねー。ま、それだけぼろぼろになれば無理もない……かな?」

 微笑を絶やさずに、テナはシャルルへと歩み寄る。彼女の震える手にそっと両手を添えて、

「ボクは神様だ。それ故に、気まぐれに君を『楽園』に招こう」

「らく、えんだと……?」

「誰も傷つかず、飢えず、安らかにいられる場所だ。嗚呼――なんて素晴らしい場所なんだろうね」

「…………」

 シャルルは無言で、こくりと首を縦に振る。その反応にテナは満面の笑顔で返し、

「さあ、それでは案内しよう――ここが、その『楽園』だ」

 テナがか細い指をぱちりと鳴らすと、シャルルの視界に突如巨大な庭園が現れた。彼女が以前暮らしていた、王宮に勝るとも劣らない大きさのモノだ。その入り口には高く立派な門が聳え、周りを囲う植え込みは深い緑に染まり、内部を隠す壁の役割を果たしている。

「どうだい。これがボクの、神の不可視の権能というやつだ」

 格好つけて表情をつくるテナに、返ってくる声はなかった。

「あれ? ――って、気絶してるや。びっくりさせ過ぎちゃったかな?」



 花とはちみつが混ざったような甘い香りが鼻腔を一杯に満たしていた。

 とろんと融かされた精神の状態で、シャルル・ホーレルンはゆっくりと覚醒する。重たい瞼を開けば、見慣れぬ木製の天井が出迎えた。石造りがメインの彼女の国では、非常にまれな光景だ。

「ここ、は……」

 のそのそ身を起こし、シャルルははっきりとしない視界で辺りをまさぐる。ベッドさえもジャルルの国とは違うことに、不思議な感覚を覚えた。

 掛け布団の手触りがやけによく、何度も何度もさすってしまう。心地よい手触りに浸るにつれ、意識が段々とぼんやりしてくる。

 甘い匂いも相まって、意識が底に落下していく。しっかりしなければ、と麗しの姫君が思うころには、彼女は横になっていた。


「はい、物語の定番いきますよー。さん、に、いちっ、ちゅっ」

「っ⁉」

 シャルルは飛び起きた。否、跳び起きた。唇に触れる暖かい何かの感覚と、口腔内に侵入してくるぬるぬるしたナニカの感触に、シャルルの意識は急浮上した。

「おはよーございます、姫殿下」

「な、な、ななななんだ今のひゃ⁉」

 動揺のあまり舌を噛むシャルルに、テナはころころと笑う。

「焦り過ぎだよ。生娘だとは思っていたけど、ボクの想像以上だ」

「卿、一体何をした⁉」

「よくある民話の再現をしたに過ぎないよ。リスペクトさ」

「民草がうるさく語る世迷言なぞ私は知らぬ! 何をしたと訊いている!」

「眠りこける王子様は美しい姫のキスで目覚めるのが鉄板だろう? 違うかい?」

「違う違う違う! 何もかもがあべこべでぐちゃぐちゃではないか! それに、そういうのは運命の如く引き合わされた恋仲同士の間柄で行うのがテンプレートであって……」

「ふむ、随分詳しいじゃないか、世迷言について」

「う、うるさいっ!」

 真っ赤になりながら声を弱めるシャルル。からかうテナは、心底楽しそうにリアクションをとる。

「まあ、気に入らない男装ばかりしていた反動かな。乙女趣味に走るのも無理はないね」

「私は断じて乙女趣味などでは……」

 何も言わずにテナはシャルルの胴を指さした。指の動きに釣られて、シャルルは自身の身体を――その身に纏っている衣服をまじまじと見下ろすことになる。

「ん? お、おぉ……」

 思わず感嘆の声を漏らすのには、十分な理由があった。白をベースとした透け気味のドレスは、シャルルの趣味に見事に合致していたからだ。

 まさにお姫さまの服装。それも、夢物語に登場するようなひらひらしたもの。

「その反応……そろそろ認めてはどうかな? 表情が緩みっぱなしだよ?」

「はっ……⁉」

 急いでキリっと意識を締め直しても、身体をくねらせて衣装のひらひら度合いを楽しむ動きは止まらなかった。無意識だった。

「わ、私の衣服や趣味なぞ、どうだっていいのだ! ここはどこだ、説明を要求する!」

「まあまあそう焦らないで」

 シャルルの前に、テナは優美に自らの右手を差し出した。

「案内しましょう、マドモアゼル」


 ――香りに、意識が揺られる。

 空を見れば夕焼けの橙色は消えかけていて、もう夜であることが実感できた。シャルルはやわらかな草原を素足で踏みしめながら、前を歩くテナに導かれている。

「君が気絶する前に説明した通り、ここは『楽園』さ。飢えることは無く、傷つくことも無く、争うことも無い――絵に描いた通りのユートピアだよ。ここを出てしまえば、外界は全て地獄と化す――といってしまっても良いくらいの理想郷かもね」

「甘ったるい芳香に、撫でるように流れるそよ風、ありとあらゆるのモノが自然のままで構成されている……」

 極めて自然な光景は、シャルルの瞳に映ると不自然の塊となった。

 高く伸びるいくつもの樹木が、編まれるように組み合わさって造られた宮殿。後ろを振り向いてその全景を見、シャルルは息を呑む。

 小枝で作られた窓に嵌まるガラスはなく、どういうわけか零れ落ちない水がその役割を果たしていた。装飾に彫られた痕跡はなく、のたうつような枝と濃い緑の葉っぱが建物にアクセントを加えている。

「色々と紹介したいところだけど、まずはご飯と行こうか」

 そう言ってテナがシャルルを招き入れたのは、一軒のログハウス。室内には木製のテーブルとイス。準備されたナプキンは綿のような手触りで、整然と並べられたナイフやフォーク、スプーンからはもちろん木の温もりが感じられる。

「じゃあ、並べてくれるかな?」

 テナが二回手を叩いて合図すると、外からしゅるりと枝が入ってくる。掌のように広がった小枝の上には、色鮮やかな料理の乗った皿があった。

 整然とした動きで、素早く食事の準備が行われる。

「まだ急な準備だったからフルコースとはいかないけど、結構贅沢にしてみた。どうかな?」

「どうって……」

 シャルルは眼前の食卓を眺めて、表情には出さずに心の中で舌を巻いた。

 みずみずしく色鮮やかなサラダに、ふかふかで小麦の香りが漂うパン。食欲をそそる橙色のスープの隣には、深い赤色のソースが添えられたうさぎ肉のローストが存在感を放っている。

 戦時中の王宮では久しく見ることの無かった料理に、シャルルの心は躍ってしまった。

 全く融けるそぶりを見せない氷のグラスを持ち上げ、中で揺れる薄い桃色の液体に舌を湿らす。

「…………」

 口から鼻に抜けていくその香りに、シャルルは無言になるしかなかった。この美酒を評するにふさわしい言葉を、貧しくなった彼女の心は持ち合わせていなかった。

「いいだろう? ボクのげぼ――おほん、部下である酒造の神に持ってこさせたとっておきだ」

 ふふんと鼻を鳴らし、慎ましい胸を張って、テナも酒を舌の上で転がした。

「さあ、存分に楽しむといい。これを以って歓迎としよう」

 

――甘い芳香は、時間を忘れさせてしまう。

「非常に美味だった。もてなしに感謝する」

「お堅いなぁ。もっとゆったり楽しんでくれればいいのに」

 デザートであるハニーアイスクリームを食べ終え、二人は静かにグラスを傾けていた。

 水をガラス代わりにした木枠の窓からは、太陽など欠片も見えない。

「ボクは結構、お酒には強い方なんだけれど――君はどうだい?」

「いや、私はそこまでだ。無論、下戸というわけではないが」

 虚勢を張りながらも、シャルルの顔は赤く色づいていた。一方のテナはといえば全く変化がない。アルコールを水のように飲み干している。

「このままお付き合いしてくれるかな?」

「先の言葉の通りだ。私はこれで――っ」

 立ち去ろうとするシャルルに抱きつくような形で、テナが引き留めにかかる。

「ぜひ、君に飲んでもらいたい特別なモノがあるんだ。あと――ちょっとだけ、ね?」

 自信満々にキメられたウインクに、アルカイックスマイル。同性であろうとも断ちがたい魅惑に捕えられ、シャルルはそのまま椅子に腰を降ろした。

「あれ持ってきて。昨日届いたやつ」

 傍に寄ってきた蔓にテナが声をかけると、すぐさま大きな樽が運ばれてくる。テナ程度の童女ならば、すっぽりと入ってしまいそうなほどだ。

「おい、ちょっとという話ではなかったか?」

「あは、さすがにこれ全部なわけないよ」

 テーブルにことりと置かれる小さなコップ。一般的なモノの三分の一といった大きさだ。

「……これで飲むのか?」

「かわいらしく飲むのがいいんだよ」

 何本もの蔓が器用に樽を持ち上げて、蛇口から琥珀色の液体をコップに注いでいく。

 シャルルは小さなコップをそっと持ち、揺れる液体をじっと眺めた。

「別に毒じゃないさ。ほら、ぐっと」

 微笑むテナに勧められ、一気にくっと煽る。芳醇な香りと共に、少し焼け付く感覚が喉に走った。

「えほっ、けほっ」

飲み干して少々咳き込んだシャルルは、若干不機嫌そうにテナを睨む。

「リアクションいいなぁ。ほら、これでも飲んで落ち着いて」

 テナは黄金色に色づいた液体の入ったグラスをシャルルに差し出した。

「さっきの酒……美味いが、相当強いな。割って飲むべきものだと思うが……」

「ストレートで飲むのがいいんだよ」

 テナは小ぶりなグラスを揺らしてから、ちびちび液体を口につける。シャルルは渡されたグラスをそのまま一気飲みし、

「っ⁉」

 途端に顔が真っ赤になる。

「あ、びっくりした? チェイサーっていって、キツいお酒を飲んだ後に弱いお酒を飲むんだ。水でもいいんだけど、こっちの方が楽しいでしょ?」

「それは酒豪の言葉だ‼ 水をくれ! 何も入っていない透明なやつでいい!」

 飲み物を求めて右手を差し出す。傍に侍っていた蔓が、即座に新しいグラスを彼女に手渡した。

 中に注がれていた透明な液体を体に流し込み、

「っ!」

 味わったことのないひりつきに、シャルルは驚愕する。そしてそのまま、意識がふわりと浮くような感覚がした。

「…………?」

 テナは、沈黙を保ったまま動かなくなった少女を見つめる。

そして。

「――こんにゃの、みじゅじゃない……」

 二分ほど間を空けてようやく喋りだした彼女の呂律は、ずたぼろだった。明らかに酔っている。

「ふむ……」

「おとこになりきるためにおしゃけのくんれんはしたけど、こんなにつおいののんだことにゃい……」

 ふにゃふにゃの少女をつついて、テナは反応を確かめる。

 酔った勢いそのままに、流れ出す言葉はもう止める手立てがなかった。思いを制する堰は決壊しており、募った感情は本来の流れから外れていく。

「おとうさまはおかしいのよ……おとこだからっておさけにちゅよいとはかぎらないじゃない……」

 テーブルに突っ伏し、半ば寝言のような状態でシャルルは不満を漏らし続ける。

「しせいもあるきかたも、くちょうやふるまいも、みんなみんなほーれるんけのためにやったのに……けっきょくみんなしんじゃった………………うわぁぁぁぁぁん!」

「…………」

 とうとう泣き出すシャルルを眺めてテナは口を噤む。シャルルが最後に口にしたグラスを手に取って、中の透明な液体を味見する。

「きつ……」

 想像したよりも強いアルコールに顔をしかめて、傍に控えていた蔓に非難の視線を送る。

「君は水と間違えて、スピリッツ――蒸留酒をもってきたのか。まったく……使えないやつだな」

 パチン、とテナの指が鳴る。たちまち蔓は色を失い、枯れ落ちる。それは神によって齎された、明確な生命の死であった。

「ボクは凛とした姿を装いながらも、隠しきれない愛らしさを備えたこれを見たかったというのに……」

 しかめっ面のまま、テナは眠りこけてしまったシャルルのおとがいを撫でる。

「あひゃ、くすぐったいよぅ……えへへ」

「――ふむ、まあ、この姿も悪くない、かもしれない…………」

 再度、テナの指が鳴る。色を失って落下していた蔓の残骸が、再び生命として動き出した。徐々に生気のある緑に染まり、しゅるりと機敏に活動する。

「あーあ、これどうしよっか」

 寝息を立てる少女を前にして、とりあえず童女は美酒に逃げた。

 寝顔を肴に十回グラスを空にしても、女神に酔いは回らない。


 夢を見る。

 威厳のあるお父様と、慈愛に溢れたお母様と、可愛さそのものの妹と――王権の象徴となったはずの私が、皆で笑っている夢を見る。

 私は滅多に、家族全員と一緒に過ごすことなんてなかった。だからこれは幻想だ。儚い夢幻に過ぎない。煌めく宮中を見た瞬間に、この光景が偽りであると看破できた。

 それでも、想う。

 どうにかして昔に戻れないものかと。我がホーレルン家に男子が生まれないものかと。妹とおそろいのドレスを着て、晩餐会に出られないものかと。

 国に縛られ、男子としての生活に苦心していた頃にはこんなことは願わなかった。『楽園』に来てから、随分と自分の感情を表に出すようになった気がする。

 これが甘えだろうか?

 これが堕落だろうか?

 ならば、堕ちることはそれほど悪いことでもないと――甘い香りに溺れながら思った。


 豪奢な暮らしはそれから一週間ほど続いた。自称女神・テナのもてなしは、様々な方法でシャルルを楽しませた。

 毎晩、眠るのがもったいなく感じるほどに。毎朝、起床するのが待ち遠しく思えるほどに。

 だから今日の朝、シャルル・ホーレルンはいつもより早く目が覚めてしまった。外の様子を窺えば、まだ空には闇が残っている。

「どうしようか……」

 上体を起こしたままで、シャルルは顎に右手を添えた。型から入ってみたものの、何も頭の中に浮かんでこない。

「てなをさがそう……」

 退屈を消し飛ばすために、まずは童女の行方を求めて彷徨い歩く。ベッドからのそのそと這い出し、とたとたと寝室を出て、ぼんやりと宮殿を後にして、当てもなく足を動かした。

「どこだ~、てな~、どこだ~」

 ねぼけまなこは頼りにならず、甘ったるい匂いに釣られるように少女は進む。宮殿の裏手、農園部分にて漂う白い影を捉えた。純白の女神を発見して、シャルルは遠くから声をかけようと、した。


「ぉ――――――――――――――――――――」

 

 けれども彼女の喉は、その役割を果たさない。


 テナと離れていたシャルルの視界でさえも、真っ赤なモノが埋め尽くしていた、から。


 血液が、臓物が、筋が、脳漿が――緑の地面にアクセントとして散らばっていた。

「あーあーあーあーあーあー、つっかえないなぁ‼ こんな肉質じゃダメだよー! やりなおしー!」

 サイケデリックな赤色が、大地に溶けて一瞬で消えてしまう。そして消失した途端に地面から、子うさぎが一頭生えてきた。遠くからでもはっきりと息遣いを実感できる、本物のうさぎだ。それが瞬く間に成長して、立派な一頭の成体になる。

「次はいいやつかなー」

 鼻歌を歌いながら、女神はその腕を振るう。きれいにまっすぐ揃えられた五指の手刀がもふもふの胴に入ると、スプーンでゼリーでも掬うかのように肉が裂けた。

 鮮血が零れ出る。辺りに撒き散らされる。下手人の身体をぽつぽつと、真っ赤なしずくが汚していく。

「ふんふん、これは――だめだね」

 露出した赤黒い断面をじっくり眺めて、テナは淡々と評価を下した。抉り取った肉片を地面に捨てた瞬間に、うさぎは文字通り弾け飛ぶ。

「あれに食事を出すって言うのに、こんな肉じゃだめだよ。もっと締まってるのないのー?」

 テナの言葉に応じて、子うさぎが再び生み出される。それが成長し、裂かれ、確認の後壊される――命を弄ぶループがシャルルの眼前で繰り返された。

 何度も何度も何度も。鮮血が塗り重ねられて、周りが真っ黒に見えるくらいに。

「よっし、これでいいかな? いいかんじ! 今日のごはんはうさぎのテリーヌにしよう!」

 頬に付いた血液を拭って満足そうに微笑むころには、もう十数回の試行が終了していた。

 テナは切り取った肉をパズルでも嵌めるかのように元に戻し、農園の奥へと進んでいく。

「ソースに使うはっちみつさんはっと!」

 鼻歌を歌いながら養蜂のスペースまで進み、テナは突如として不機嫌になる。蜂蜜作りのために溢れんばかりに咲いている植物を見て、

「色が悪い、枯れて」

 一瞥しただけでカラフルな光景を枯草の茶色に塗り替える。テナはパチンと柏手を打って、新たな花畑を生み出した。

 するとそこに、蜂が一匹飛来する。花弁から蜜を集めるでもなく、それは葉っぱに着地するとじっと固まっている。

「働き蜂が休んじゃだめでしょ、消えろ」 

 触角すらも動かさずに止まっていた虫は、その場で音も無く散り散りに飛散した。

 一瞬の散り際すら見届けずに、テナはとって返して農園部分から立ち去り、

「やあ、シャルル! 今朝は早いね!」

 シャルル・ホーレルンと相対した。


「何を、していたんだ……」

「ん? 食材の選定と農園の手入れ」

 平然と言い放つテナに、シャルルはしばし呆然とした。

 しかし、

「あれが手入れなのか⁉ 生命の冒涜だろう⁉」

「あは、どこが?」

 屈託などまるでなく、テナはころころと笑う。それはシャルルと一緒に笑いあう時と、同じような笑みだ。

「生かして殺してまた生かす――これは明らかに命に対する冒涜だろう⁉ 何故あのようなことをする‼」

「何故って、いいモノを揃えるには必要だからでしょ。折角なら美味しいご飯を食べたいよね?」

 当然じゃないか、と付け加えて童女は首を傾げる。

「卿ならば、他ならぬ神である卿ならば、『いいモノ』とやらを一回で創り出すことも可能ではないのか⁉」

「あは。そんなの、不自然じゃん」

「――――は?」

 テナの言葉は、シャルルにはまるで理解ができなかった。食事のために幾度も命を作り直すことを良しとする姿勢も、それを不自然でないと思う心も。

「卿が手を加えている時点で、不自然だろう――」

「ボクはいわば、自然の神だよ? だから、最初の発生を促すのはボクの仕事みたいなものだ」

 テナが地面に手をかざすと、一輪の花が生えてきた。その花から種が落ち、それが新しく芽生え、また花開けば親よりも華やかな花弁と成る。しかし、次の流れは異なった。前代より、色も大きさも悪い花弁を備えていた。

「でもその最初以外は――最初期からの進化は、ボクの手を介せず行われるべきなんだ。あくまで、生命の良し悪しはランダムでなくてはならない。そうでないと、価値が無くなってしまうだろう?」

「――なんだ、それは」

 エゴだった。少し丸く表現すれば、こだわりと表しても良いかも知れない。

「何度も繰り返して希少価値の高いものが生まれる――いくつも転がっているゴミの中から輝く宝石を見つけ出す――そんな事実がいいんじゃないか。君もその中の一つだろう、シャルル・ホーレルン」

「私が、そうだと……?」

 テナは足元の地面を隆起させて、背の高さをシャルルに合わせた。そのまま彼女の首に手を回し、顔を近づけて妖しく微笑む。

「君が気高くなければ、君が美しくなければ、君が愛らしくなければ、ボクは君をここへ――『楽園』になど招かなかった。君が蕩けていく姿を見たくて、ボクはここに導いたんだ」

 甘く、ただ甘ったるく囁いて、テナはシャルルに口づけをした。

 だが、唇が触れるか触れないかのところでシャルルはテナを突き飛ばす。

 少女は女神を、拒絶した。

「私は、見せ物などではないっ‼」

 バックステップして距離をとり、少女は女神を一心に睨みつける。

「ここは――本当に『閉鎖世界(らくえん)』か」

「嗚呼――正真正銘の『理想郷(らくえん)』さ」

「きらびやかな衣服は瞳を曇らせ、自然に満ちた建物は心を緩ませ、贅を尽くした食事は身体を弱らせ――甘い香は魂を堕落させる。まるで、阿片のように」

「麻薬は時に良薬となるんだ――知らないのかい?」

 シャルルは眼光を弱めず、テナは微笑を絶やさない。少女と女神の関係は、まるで出会いの頃まで遡ったようで。

「私の軍服はどこだ」

「必要あるのかい? そのドレスの方がよっぽど似合うのに」

「返してもらおうか。私が私へ戻るために」

 そのまま向かい合う時間は短いものではなかった。テナはおろか、シャルルの顔つきさえも変わることはなかった。

「――わかった、もうおしまいだね。残念だ」

「卿にふさわしい人形は、私でなかったということだ」

 テナが口笛を吹いて合図すると、蔓がシャルルの軍服と軍刀を運んできた。それらは新品同様に修繕され、王族の輝きを発している。

「ほら」

 テナが投げ渡すと、

「感謝する」

 シャルルは短く礼を言って受け取り、すぐさま身に着けて背を向けた。

 少女が門まで歩くのに続いて、女神は黙って付いていく。

 固く閉ざされた大きな門に触れて、シャルルは口を開いた。

「開けてくれ」

「本当に行くのかい? 楽園の先は、どこへいこうと地獄だよ」

「かまわない。私にとっては、ここ以外が楽園だ」

「ふむ、面白い答えだ」

 にやりと笑って、テナは鋼鉄の門に手をかざす。ぎぃぃと鈍い音を立てて、立ちはだかる壁がゆっくりと動き出した。

「っ⁉」

 刹那、門の隙間から漏れ出るのは熱気。合間から見えるのは死体と瓦礫の山。甘い香りに代わって鼻腔に流れ込むのは濃厚な鉄の匂い。

 楽園を出るということは、地獄へ行くということ。即ち、外へ出る者にとっての地獄へと、楽園の門は直接繋がっている。

「――ああ、これでいい」

「変わり者だね」

 シャルル・ホーレルンは進む。昔彼女が暮らし、今は争いのさなかにある王宮へと。

「私は、玉座へと向かわねばならない。皇太子として」

「もう、君の国は負けているも同然なのに? 死ににいくようなものなのに?」

「だからこそ――だ」

「ふむ、いい答えだ」

 テナはずっと、シャルルの顔を見ながら並んで歩いていた。女神の喜悦は加速度的に増していき、抑えきれない微笑で皇太子を見守っている。

 しばらくすると、彼女たち二人の行く手を阻むように人波が押し寄せてきた。皆が同じような服に身を包み、片手には銃を持って腰には刀を下げている――集団は明らかに軍隊だった。有象無象のなかから、威勢の良い声がする。

 ――――逃げた王族を発見したぞ、と。

「邪魔だ、どけ」

 皇太子は高貴なる者として言葉を発した。返答として、いくつもの銃口がシャルルに向けられる。

 次いで発せられる降伏勧告を遮るようにして、傍らの童女が言葉を紡ぐ。

「おい、神と王子の御前だぞ。ひれ伏せ」

 テナが右手を前に突きだすと、大地からいくつもの土塊が射出された。目標はもちろん兵士の集団だ。

 何人かがぺしゃんこになり、物言わぬ肉の塊に成り果てる。その異様な事態を集団の指揮官が認識するには、二、三秒ほどを有した。

 しばしの混乱の後に放たれる銃弾は、瞬時に創造された土壁によって阻まれる。

「格を理解しろ、ゴミが」

 重厚な壁は崩れて土の津波となり、多くの人を押しつぶす。玉座への道は赤黒く染まり、死臭はどこまでも広がっていく。

「女神よ、私は進むぞ。道を用意しろ」

「ただの道では味気ないね。パレットには赤系統しか色がないけれど、ボクが精一杯の彩りを加えてあげよう」

 麗しい金髪の流れを伴って少女は一歩を踏み出し、その背後の童女は無造作に猛威を振るう。

 国王の間までは未だ遠く、数多の兵士が道を阻んでいた。

 突き進む皇族の一歩はとても重く、付き従う女神の足取りはまだ軽い。


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