3-3 婚約者
耳元で風がうなる。色濃く周囲を覆う妖精力が、魔法となって重力のくびきからネーヤの身体を解放し、飛んでいくための道を作ってくれる。
整備を受けた魔具は、まるで別物のようにイキイキと動いてくれる。五感とは似て非なる第六の感覚が、背中の魔具の動きを身体の一部として捉えていた。
「カッ飛ばせ!」
どこかでリツの声が聞こえたような気がした。振り向いたりはしない。喜んだりもしていられない。前を行く選手の軌跡を追って飛ぶ。鳥や飛行機ならば、ぴたりと後ろにつければ楽ができるというが、《レース》でそんなことをすれば、前を行く選手の魔法に自分の魔法がかき乱される。こんなところで墜落はごめんだ。
前の選手が、障害物である大きなボールに足をひっかける。空中で弾き飛ばされたボールが不規則に揺れる。魔具の左右に取り付けられたハンドルを握った。意識を集中するだけでも操作はできるが、確実を期すなら魔具自体に仕込まれた機構のアシストを受けるべきだ。現に姉はそうしていた。
――お姉ちゃん、知ってる? あたし、《銀翼杯》の予選会を飛んでるんだよ。
姉が知ったら何と言うだろう。きっと怒るだろうな、とネーヤは思う。あんなことがあったのだ、二度と《レース》に関わりたくないという気持ちも、自分にだって関わらせたくないという気持ちも、理解はできる。
――それでもやっぱり、あたし、あんな終わり方は納得いかない!
リツの職場で整備をしてもらったとき、手伝ってくれた彼の従姉が言っていた。保存状態がとても良い、愛情をこめて使われていたのがよく分かる、と。携帯電話を放っておけばバッテリーが痛むように、魔具だって放っておけば劣化は避けられない。妖精力のない地球ならばなおさらだ。四年ぶりに引っぱり出した魔具がいきなり使えるなんて、大変なことなんだよ、と彼女は言った。
やはり姉は、《レース》のすべてを嫌いになったわけではなかったのだ。この世界には、もう二度と戻る気はないと言い捨てた彼女だが、それでも大切な相棒には、最後まで敬意を払っていた。
――お姉ちゃんみたいに上手くは飛べないけど、お願い、あたしにも力を貸して!
感知魔法を広げて障害物の全容を把握し、通るべき道を直感で理解して、ネーヤは思いきり加速する。この試合、もはやタイムで勝てないというなら、精度で勝つしかない。
周囲の選手も障害物と同じだ。すべては敵。《レース》はもともと、山林の中での戦いのシミュレーション。木々を揺らさず、足跡を残さず、妨害に屈せず、ひそかにゴールへと近づいて目的を遂げる。
ゴールゲートに飛び込み、急制動をかけながら右に逸れて道を開ける。後から二人の選手が滑り込んできた。
――六人中、三位。
ルーキーばかりの中でこの数字は、決して良いものとは言えなかったが、それでもこれが、今のネーヤの全力だった。
* * *
「ちっ……アレが発動してりゃ、あんなヒョロい連中なんて目じゃなかったのにな」
問題ない、これくらいは予想の範囲内だ。最初から勝てるなんて期待しちゃいなかった。俺がすべきことは、とにかく偉そうにふんぞり返って、それがどうした、って顔をすることだ。
「驚かせてくれますね。異世界人が何をしに来たのかと思いましたが、しょせんは口だけでしたか」
眼鏡をかけた神経質そうな男子がそんなことを言ってきたので、舌打ちして「あぁん!?」と凄んでみせる。おお、我ながらこれは決まったんじゃないか。いずれボロが出るかもしれないが、この場さえ乗り切れば、どうせコイツらと顔を合わせる機会もないだろう。
「どのみち、庶民が出る幕なんて《銀翼杯》にはないんですよ。あんなことがあったのに、まだ懲りていなかったことには驚きましたが、これで分かったでしょう」
この男子も昼間部の制服を着ているし、ひょっとすると騎士の家の人間だったりするのかもしれない。地球と違って魔法があるせいで、ケンカの強さは見た目じゃ判断できないのが問題だ。ヒョロそうだとナメていると、パンチ一発で殴り倒されかねない。
言っていることの意味は、言葉の壁もあって正直よく分からないが、まあいい。コイツらとマトモに会話をしてしまったら、その時点で俺の負けだ。
「るっせえ! 騎士サマがどんだけ偉かろうが、俺の知ったことか!」
荷物の上に腰かけたまま、俺は眼鏡男子を怒鳴りつける。俺にサラクくらい身長があれば、文字通りの上から目線で威嚇してやれたのに。
「やめなさいよ、そんな子と話していたらバカがうつるわ」
上級生らしい女子が眼鏡男子を諭す。彼女が向けてくる不快そうな視線を鼻で笑う。
「そのバカに負けて悔しがるテメエらの顔が楽しみだ。じゃあな」
次の試合が始まる。視線が離れたのに乗じて、俺は荷物を担ぎ、そそくさと屋上を離れた。
* * *
「そういや、昔の日本には、騎士がバカにされたら相手を殺していいって制度があってな」
「『キリステゴメン』ですね! 時代劇で見ました……!」
とぼとぼと階段を降りる俺に、フェリは律儀について来てくれる。七階建ての建物のくせにエレベーターがないなんて、と思ったが、よく考えれば屋上には駐輪場があった。上層階を使う人間は、空を飛んで屋上側から入ればいいという設計なのだろう。
「エルトラにも、そういう制度ってあるのか?」
「ここが西部州の湖畔地方なら、先ほどの会話だけで、リツ・エイスは少なくとも五回は処刑されているかと……あっ、いえ、この町は大丈夫ですよ! あの地方が特別なんです!」
あれ、地方によっては死罪モノの言動だったのか……気をつけよう。
「それにしても……あんなにケンカを売ってしまって、大丈夫なんですか?」
「いいんじゃねえの? まあ、ネーヤが勝とうが負けようが、向こうは許しちゃくれねえだろうけど……次に校内で見かけたら、そん時は逃げるか謝るかすりゃいいんだし」
「……そんな情けないこと、本気で言ってるんですか?」
呆れたようにこちらを睨むフェリに、「ああ」と返す。
「オマエが俺を何だと思ってるのか知らねえけど、日本にいた頃は俺、すげえマジメな生徒だったんだからな? ケンカなんて得意じゃねえんだよ」
おかげで、売っちまったケンカの処理方法がさっぱり分からない。異国ともなれば尚更だ。
「ご冗談……ですよね?」
真顔で訊ねられる。あ、これ、マジで信じてないな。
「俺が見た目通りのヤンキーだと思うなら、なんでオマエは俺と一緒にいて平気なんだ?」
「私は騎士の家の娘です。自分の身くらいは自分で守れまっきゃぁ!」
フェリが階段を三段ばかり踏み外し、踊り場に滑り落ちた。あいたた、と足首を押さえ、流れるような手つきでそこに魔法をかける。切り傷やすり傷と違い、捻挫のような見えない傷を治すのは難しいと聞いたことがあるが、フェリはすぐに「い、今のはうっかりしていただけです!」と立ち上がった。……見た目だけで評価しちゃいけないのは、コイツも同じか。
* * *
「何をやっているんだ、ネーヤ! お父様はご存知なのかい!?」
選手たちが集まるスタート地点に向かう途中、そんな声が聞こえて俺は立ち止まる。道の先にある円形広場のほうからだ。試合を観るのには適していない場所だが、人ごみを避けてきたらしい観客や選手がうろついている。
「パパのことはどうでもいいでしょ? どうせあたしのことなんて、面倒さえ起こさなきゃいいって思ってるんだから!」
答えているのはネーヤだ。相手は知らない男。サラクと変わらないくらいの長身だが、この男のほうがガタイがいい。薄い色のサングラスをかけているのだが、これがもっと濃い色だったら、とてもカタギには見えないだろう。
何を言い争っているのか知らないが、どちらも一歩も引きそうにない構えだ。
「あ! ちょっとリツ、こっちこっち!」
思わず固唾を呑んで見守っていると、横からその緊張感をぶち壊す、駅で知り合いを見つけたオバチャンみたいな声がした。見れば、ベンチに座ったユイルが、おやつ代わりなのか何かの串焼きを食べながら手を振っている。そういえば、さっき観客が集まる校舎の近くに模擬店が出ていたっけ。ユイルの隣には、優雅にお茶を飲むメリサばあちゃんの姿もある。
「お疲れだろう。良かったら一つ」
「あっ、ありがとうございます!」
どこから湧いてきたのか、サラクがフェリにタコ焼きっぽいもの――よく似ているが、なぜかアクナムではタコの代わりにキノコを入れるのが標準だ――を勧めている。サラクがいるということは、ユキちゃんも近くに来ているのだろう。
「ユイル、あの人は?」
ネーヤの隣にいる男を視線で示すと、ユイルは「やっぱ、気になるやんなぁ?」と意地の悪い笑みを浮かべる。
「まあ、本人に直接聞いたらええよ。ついでに仲裁も頼むわ」
「待てよ、おい、何か知ってるなら教えろって! わっ!」
ユイルに背中を押されて、口論の最中だったネーヤと男の間に踏み込んでしまう。ふたりの言葉が途切れたので、「どうも、こんちはっす」と男のほうに頭を下げてみた。おそるおそる顔を上げると、男の困惑したような表情が待っている。
「……見たところ、君も夜間部の子かな?」
「そうっすけど、アンタは?」
「これは失礼。僕はルグイ・リグ・クラハナム=ストヴェン。普段は騎士隊の仕事をしているけれど、一応、この学校の高等課程にも所属しているよ」
高等課程、は日本で言う大学のことだ。この国の大学進学率は日本よりだいぶ低いはずだから、きっとエリートなんだろう。騎士隊の一員ともなればなおさらだ。そんな立場とデカい図体のわりに、優しげな口調が印象に残る。
「良かったら、君からも言ってやってくれないか。《銀翼杯》なんて危険なものに、彼女が参加するべきではないと」
「ムダよ! 彼はリツ・エイス・ヴァネイザ、あたしの相方なんだから!」
ネーヤが俺の両肩を掴んで押し出す。おや、と驚いた顔をするルグイ。
「君だったのかい、この珍妙な魔具を作ったのは。こんな町に住んでいるくらいだ、新しいことをしたい気持ちは分かるけれど……うちのネーヤを、あまり巻き込まないでおくれよ」
「うちの?」
訊ねると、ああ、とルグイは当然のようにうなずく。
「――彼女は、僕の婚約者だからね」
「……は、はい?」
ようやくそれだけ言うのに、何秒かかっただろう。婚約者、と言ったか、今?
『婚約者?』
『うん。婚約者。まだ、正式に返事をしたわけじゃないけど』
思わず日本語でネーヤに訊ねたが、しれっと答えが返ってきてしまった。聞き間違いではなかったらしい。
……マジで?
『相手の人、すごいエリートじゃないのか? なんでオマエが?』
『うーん、なんでだろうねぇ』
のほほんとした返事。しかし言われてみれば、さっきの口論にも、恋人を通り越して家族めいた雰囲気があったのは確かだ。
「僕と彼女の関係は分かってもらえたかな。改めてお願いしよう、うちのネーヤに、《レース》を諦めさせてやってはくれないか」
「アンタもコイツの性格は知ってると思うっすけど、どうせ俺が言ってもムダっすよ。もうダメだって思えるまで、好きにさせるのがいいんじゃねえっすか」
俺の軽い返事は、どうも彼のお気に召さなかったようだ。眉間にぐっと皺が寄る。
「そんな悠長な考えで、またあんなことになったらどうするつもりだ……!」
低く唸るようなその声に驚いた。頭ごなしに怒鳴るわけではないが、腹のあたりを掴まれるような怒りを感じる。ずいぶんな剣幕だが、そんなに危ないものなのか? 俺から見れば、空なんか飛んでる時点で、その辺の通行人も《レース》の選手も同レベルの命知らずなんだが。
「こっ、こちらです、マリナ・リグ!」
「フェリ・ナナム、走るのはおやめなさいと言っているでしょう! また転びますわよ!」
遠くから声が近づいて来る。いつの間にかフェリはマリナを呼びに行っていたらしい。
「あら、ルグイ従兄さま。ネーヤ・イクルとご一緒でしたの」
「お疲れさま、マリナ。さっきの試合は見ていたよ、また一段と腕を上げたようだね」
ルグイは瞬時に怒りの矛を収め、元の優しげな態度に戻っていた。紳士と淑女、という言葉はこういう連中のためにあるんじゃないかと思うような、実にお上品なやりとり。正直、お上品すぎて逆に聞き取りづらい。従兄さま、ということは親戚なのか。そういえば、さっき呼ばれていたマリナの苗字はイザリエラ=ストヴェン、ルグイのものと似ている。
「お褒めいただき光栄ですわ。次の試合も、どうぞ楽しみにしてくださいませ。もっとも、従兄さまはネーヤ・イクルを応援なさるのでしょうけど」
「えっ? 次の試合、同じ組なんすか?」
思わず口を挟んでしまった俺に、「ええ」とマリナは優しくうなずいた。
「ネーヤ・イクルとご一緒に飛べることを、大変嬉しく思いますわ。先ほどは調子が出なかったご様子ですけれど、次こそはきっと、素晴らしい飛翔を見せてくれるのですわよね?」
「はい! よろしくお願いします!」
何を言ってるんだこのアホは。さっきの試合はどう見たって、オマエのベストを尽くした結果だったじゃないか。正直、まさかあんなにマトモな勝負になるなんて思ってなかったよ。
父親のように二人を見守っていたルグイが、「そうだ!」と手を叩く。
「なら、こうしようじゃないか。ネーヤ、僕はもし君が次の試合でマリナに勝ったなら、君が《レース》を続けることを認めよう。どうだい、簡単だろう?」
「ホントに!? 認めてくれるの!?」
ネーヤの返事を聞いて、俺は膝の力が抜ける思いだった。バカだ。コイツ本当にバカだ!
「おい、オマエはなんで喜んでんだよ! それって、負けたら潔く《レース》を辞めろってことだぞ! オマエにそんなことできんのかよ!」
「え? でも、勝てばいいんでしょ?」
「うるせえ! オマエはついさっきの順位をもう忘れたのか! 相手は優勝候補だぞ、魔具の調子が悪いのに勝てるわけねえだろ!」
周囲の人間にも聞こえるように怒鳴る。ルグイが俺に向けて苦笑いをしてみせた。見透かされているようで腹が立つ。
「こらこら。魔具と身体のコンディションを整えるのも、選手の実力のうちだよ」
おっしゃる通り、あちらが正しい。とはいえ俺がそれを認めるわけにもいかないので、「ヘリクツ言いやがって、どうせ俺はヘボ技師だよ」と舌打ちしておいた。本当にごめんなさい。
きょとんとした顔のネーヤに、ルグイが噛んで含めるように言い聞かせる。
「僕だって、君の《銀翼杯》に出たいって気持ちは分かっているつもりだ。でもね、ネーヤ。マリナにも勝てないようじゃ、君はどうせ代表にはなれない。そうだろう? となれば、早めに見切りをつけるのも、ひとつの勇気ある決断だと思うよ」
ネーヤが「たしかに!」と頷いた。いや、納得すんなよ! さてはオマエ、相手の話ぜんぜん聞いてないだろ! でなきゃ、聞いても分かんなかったんだろ!
「話は決まったね。それじゃあ、試合を楽しみにしているよ」
「うん!」
しかし、さすがは婚約者。ネーヤの扱いには実に慣れている。
感心しながらルグイを眺めていると、ふと彼が訝しげな表情を浮かべた。俺が怪しげなダミーパーツでデコってしまった、ネーヤの白い魔具を指さす。
「ところでネーヤ、それ……まさか、三年前のあの魔具じゃあないだろうね? ちょっと……面影があるような……」
「そ、それじゃリツ、あっちに行こうか。今のうちにしっかり点検をしなくちゃね!」
ルグイの言葉を無視して、ネーヤは俺の腕を引っ張って行った。