3-2 スタート
翌日は晴天だった。こんな明るい時間から外に出るのは久しぶりな気がする。なにしろいつも休みの日は部屋に引きこもっているし、平日は家と工房との行き来しかしていないのだ。
「大丈夫かなあ?」
「さあな。なるようにしかならねえよ」
そして俺は、校舎の屋上に設けられた荷物置き場の片隅に、作業着姿で腰を下ろしている。
作業着はいつも工房で使っているものだ。そこそこいい感じにくたびれていて、いかにも職人っぽいオーラが出ている、ような気がする。髪だって、魔具職人によくある“妖精焼け”――黒髪の色が抜けて赤っぽくなること――をしているから説得力もアップだ。もっとも、魔具工房をウロついていれば、何もしていなくたって魔法の反応に巻き込まれて、髪の色は少しずつ抜けてしまう。作業着だって、床や机の掃除をするから汚れているだけだ。
とはいえ、この格好で神妙な顔をして魔具をいじっていれば、それなりにメカニックっぽく見える……はずだ。そう願いたい。俺が手にしている工具は昨日と同じく、職場で箱ごと借りてきたものである。ついでに、来る途中で適当に買って来た、マフラーだかスカーフだか分からない謎のオシャレアイテムを首元に深く巻き、気休め程度に顔を隠してみている。
「あたしなんかのために、色々ありがとう」
「別にオマエのためじゃねえ。オマエが一人でイジメられるのは結構だが、俺まで巻き込まれたくはねえからな」
はいよ、とネーヤに渡した飛行用魔具は俺に分かった範囲で整備してあるが、そのついでに、昨日はなかったパーツがいくつかついている。存在を主張すべく、わざわざ派手な色のビニールテープで外側に貼り付けたそれは、一見すると中に魔法回路を組み込んだ魔具に見えるが、中身は空っぽだ。
「とにかく堂々としてろ。今のオマエはデキる女だ。全力で飛べ」
そして、失敗の責任をすべて、このパーツにおっ被せるのだ。我ながら、実にコスい作戦である。
「ごきげんよう、ネーヤ・イクル。それと……リツ・エイス、だったかしら」
マリナの声だ。マフラーを引き下げ、勿体をつけて振り返る。
「覚えていてもらえて嬉しいっす、マリナ・リグ」
ぴんと背筋を伸ばしたマリナの姿が目に入る。髪は先日と同じ巻き髪。赤い長衣にキュロットパンツのようなものを合わせて、足元はタイツと、ふくらはぎくらいまでのブーツ。よく見かける民族衣装を、下品にならない程度に着崩したという雰囲気だ。
マリナのほうもまた、俺の服装をじろじろと見ている。
「その格好……もしかして貴方、お仕事は魔具職人か何か?」
「はい。昼間は魔具工房で働いてるっす。つっても、まだ下っ端なんすけどね」
正直なところ、一生この道で食っていく気はない俺だが、今だけは希望に燃える若き職人のたまごだ。
「でも、せっかく魔具工房で働いてんのに、うちの親方は、俺にはまだ魔具を触るのは早いって言うんすよ」
聞かれてもいないのに、ちょっと不服そうな顔をしてみせる。
「だから今日は、ネーヤに頼んで、俺の作ったものを取り付けさせて貰ったんす。俺にだってちゃんと出来るってトコ、親方に見せてやりたいんすよね!」
身の程知らずなバカっぽさを出せていればいいのだが、演劇なんて最後にやったのはいつだったか。保育園の五歳児クラスでやったタヌキBかな? 台詞が「たいへんだー」の一言しかないやつ。そういや、あの劇の最後、どうなったんだっけ? 確かそのあと、前人未踏のジャングルからやって来た人食い炊飯器に食われたことは覚えてるんだけど……。
「それは結構なことですわね」
マリナの目が、値踏みするように俺とネーヤを見る。ちなみに今日の俺は作業着だから、私服のセンスを問われる心配はない。ネーヤのほうはと言えば、これは昨日と同じ学校のジャージである。下に着ているのはセーラー服ではなく、これもたぶん学校の体操着。
「ネーヤは勝つっすよ。俺の実力を見せてやるっす」
「まあ、それは楽しみですわ。頑張ってくださいませ、若き職人さん」
ひらりと手を振り、マリナは踵を返す。
その背中が見えなくなったところで、俺は長い息を吐いた。妖精焼けした赤い髪は、それだけでバカっぽく見えるともいうし、上手く騙されてくれていればいいが。
「そういや、約束のアレ、持ってきてくれたんだろうな」
「あっ、うん! 好きなだけ使って!」
ネーヤが差し出したのは、スマホ用のモバイルバッテリーだ。持参したスマホに繋ぐと、無事に充電の表示が出る。
「よ、良かった……死んでなかった……! 苦労かけて悪かったなぁ、ヴォルフガング三世……ふがいない主人を許してくれ……!」
「……リツって、服だけじゃなくて名前のセンスもダサいよね」
「うるせえ! このセンスを理解できねえオマエが悪いんだよ!」
カッコいいじゃないか、ドイツ語。カッコいいからとエルトラ語の名前をつけようとしたこともあるが、思い止まって良かった、と今では心から思う。
* * *
しばらく充電してから電源を入れると、ヴォルフガング三世、もとい俺のスマホは無事に起動してくれた。ガッツポーズをしたいのをぐっと我慢。もちろん圏外だし、そもそも契約が切れているだろうが、ひとまずカメラが起動すれば充分だ。
この校舎は他より頭一つ高く、それだけに景色は抜群だ。試合の開始が近づいているのだろう、増えてきた人波のせいで柵のほうへと押し出されそうになり、俺は慌てて後ずさる。中には揃いのTシャツを着ている、ちょっと気合の入ったチームもあった。あんなに大勢で何をする気なんだ。人ごみを避けて浮いてるヤツもいるが、そういう連中はもっと高い位置にいるからジャマにはならなかった。そもそも、贅沢を言わなければ、人の頭越しにでもコースの全容くらいは見て取れる。
エルトラの多くの建物の屋上は、着地に適した、そこそこの広さの平らなエリアを持っている。そして今日は、そのうちいくつかの屋上に、高さが三メートル近くある、軽い材質でできたアーチが置かれていた。
スタート地点を出発する数人――だいたい六人前後――の選手たちは、あのアーチをひとつずつ順番に潜りながら、お互いを蹴落とし、出し抜き、手を組み、裏切り、一番でのゴールを目指す。アーチのない屋上にも、進行方向を示す標識が置かれていたり、網や布を使った障害物が張られていたり。ゴールのいくらか手前には、校舎と校舎の間の空間に、魔法でたくさんの大きなボールが浮いている場所まである。バランスボールと同じくらいの大きさだから、直径は五、六十センチというところか。
軽く背伸びをしながらコースを眺めていたところに、「あのう」と声がかかる。
「こんにちは。リツ・エイス……ですよね?」
振り返ると、受付をしてくれたあのおさげの女の子、フェリがこちらを見上げていた。
「うっす。俺に何か用事でも?」
「いえ、その……こちらのチームは初参加ですので、もし分からないことがあれば、ご説明しようかと思いまして」
思わず「委員長」とあだ名をつけたくなるような、真面目くさった表情だ。俺は肩をすくめて答える。
「そりゃありがたい。でもアンタ、実行委員なんだろ? こんなところで、俺なんかに構ってていいのかよ?」
「あっ、はい、私もそう思って先輩方にお手伝いを申し出たのですが、皆さん、ここはもういいから他に行ってくれと……」
……ちょっと待て。申し込みの時に見せたあのドジっ子具合から察するに、それって、ただの厄介払いなんじゃないだろうな?
「ちょうどこの下に来たところで、屋上にネーヤ・イクルの相方がいるだろうから、助けてあげるように……と言われたんです」
「そ……そうか。そりゃどうも」
こ、これはやっぱり……俺たちに対する、ちょっと遠回しなイヤガラセ、なのだろうか。いや、本当にただの親切心かもしれないし。
サラクがここにいたら素直に喜んでくれるんだろうが、残念なことに彼はいま、なぜかついて来たユキちゃんに付き合わされ、どこか遠くの校舎の窓からコースを眺めているはずだ。ユキちゃんは朝からいやに張りきって、「従姉として、従弟の晴れ舞台は見に行かなきゃあね!」と主張していた。べつに、俺の晴れ舞台でも何でもないんだけどな……。
そんなことを思い出しつつ、フェリからさり気なく一歩距離を置く。先日見せてくれたような、あのどうしようもないドジッ子フィールドに巻き込まれるのは勘弁だ。
「あー……そんじゃさ、とりあえず聞いときたいんだけど」
「はい! 何なりと!」
「あの選手の組み合わせってのは、どうやって決まるんだ?」
《レース》はマラソンのように全員が一斉に出走するわけではなく、徒競走のように、数人ずつが組になって試合を行う。
「今回は、一人の選手が最低でも二回飛ぶことになっています。一回目については実行委員のほうで、実力が近くなるよう調整をしています。予選会には初参加という方でも、委員会が選手の印象や学校の成績をもとに、これくらいの実力があるだろうと予想することになりますね。二回目は、あえてレベルの違う選手と組みあわせるようになっているはずです」
「そのあとは?」
「二試合を終えて、総合順位の高かった上位の六名が決勝戦を行います。普段はもっと丁寧に上位決定戦を行いますが、初回の予選会はプレ試合とはいえ、参加人数も多いので……」
「へえ……その総合順位って、どうやって決めてんの?」
「まず、重みが大きいのはタイムと着順ですね。途中で墜落してゴールできなかった方については、スタートから墜落地点までの距離で着順を決めます。未成年の試合は通常、他人を撃墜しても得点は加算されませんので、墜落する人はあまり多くありませんが」
ってことは、大人の試合なら加算されるのか。ネーヤみたいに、勝手に壁に突っ込んで自爆するケースはどうなるんだろう。
説明には慣れているのか、フェリはメモを見ることもなく、アナウンサーばりに聞き取りやすい発音で説明してくれる。分からない単語は、訊ねれば日本語を交えつつ説明してくれた。カタコトの日本語が微笑ましい。
「バルーンなどの障害物にぶつかったり、屋根に着地すれば減点。それぞれのアーチを最初にくぐったり、障害物のすぐ近くを通ることができれば加点。他にもいくつかありますが、それらの得点を加えて総合順位が決まります。細かい計算は自動で行われますので、試合中に意識しなくても平気ですよ。計算式が見たければ、委員会室に資料がありますので、いつでもおっしゃってください」
「マジかよ、意外とややこしいんだな……」
一番にゴールしたからと言って一位になるわけでもない、のか。
「あ、もう始まりますよ! 一番最初の試合は、まず最上級生が出るならわしできゃっ!?」
フェリがスタート地点を指さし、一歩前に出て――そのはずみに、解けていたブーツの紐を踏んで見事にスッ転んだ。うーん、すらすらと解説してくれた時の様子だけを見れば、本当に有能そうだったのに。
「大丈夫か?」
「慣れてますので……」
いや、慣れちゃダメだろ、そこは。
そうこうしているうちに、拡声器から選手の名前を読み上げる声が聞こえてきた。予選会だけあって、特に長々とした開会式のようなものはないらしい。選手のフルネームを聞くと、資称はリグの生徒がほとんどだ。おそるべき資質格差社会である。
ピーッ、と電子音のようなサイレンが鳴り、遠くで選手たちが地を蹴った。
「おお……」
風を切って飛ぶ選手たちは、こちらが心配になるほどの速度でアーチに突っ込み、背中のブースターを吹かし、たまに空中で衝突し、それでも墜落はせずに飛んでいく。一見すると軽装に見えるが、プロテクターの役割をする魔具をあちこちに取り付けているのだろう。ネーヤだって、背中以外にも手足や頭に一式、その手の品を装備していた。
《レース》は身体が小さくて軽い女子のほうが有利だと言われているが、男子の選手もそれなりに多い。現に、いま飛んでいる生徒のうちふたりは男子だ。レディには遠慮するのかと思いきや、積極的に攻撃していくスタイル。もっとも、撃墜に集中して速度が落ちては意味がないので、片手間に撃てる単純な魔法が中心になるが。
「それにしても、学生がやるにはずいぶん危ない競技なんじゃねえのか、これ」
「軍のデモンストレーションから生まれた競技ですから……現代でも、《レース》は名目としては軍事訓練の一環ですよ。だからこそ騎士階級の方が多く参加するんです」
そういや忘れてたけど、エルトラって軍を中心に回ってる国なんだっけか。この国の人は、強いヤツが偉い、という分かりやすい価値観を持っていて、そのせいで日本人だって、政治家よりも自衛隊のほうが丁寧に扱われている……ような気がする。
《レース》に勝てば誰も文句は言わない、というような意味のことをマリナが言っていた気がするが、それもこの国の価値観に根ざす感覚なのだろう。
しばらくして、ネーヤの名前が呼ばれた。「ハヤサカ……」「あれだ、噂の」とささやき交わす声が聞こえる。どんなウワサになってんだよ、と思いながらスマホを構えた。
――頼むから、上手く運んでくれよ。
祈りながらスタート地点を見る。白い魔具を背負った、ポニーテールの女子。緊張の面持ちは周囲と変わらない。
サイレンが弾けるように鳴った。選手たちが一斉にスタート。フェリの話では、一緒に飛んでいるのも同じ一年生で、まだ試合には不慣れな者ばかりだろうと言う。聞いた限り、他の選手の資称は見事にリグばかりだ。
その中で、ネーヤは勢いよく前へ飛び出した。イクルの特性か、スタートダッシュはリグの面々より速い。だが、いずれはパワーで押されていくはずだ。
「行け! カッ飛ばせ! 気合だッ!」
さすがに聞こえないだろうとは思いつつも、精一杯叫ぶ。大丈夫だ。まだまっすぐ飛んでいる。昨日、近所に住むサラクまで呼びつけて整備した甲斐があるってものだ。
「あっ!」
誰かが声を上げる。一人の男子が放った銀色の風が、先頭を飛んでいたネーヤを直撃。彼女はコースを大きく逸れる。その勢いでアーチの一つを潜り損ねたネーヤは、しかし慌てることなく、くるりと旋回してコースに戻った。まだ致命的な遅れではない。アーチの直前で選手を弾き飛ばすのは、どうやら常套手段のようで、他の場所でも相手を変えて発生している。
「ずいぶんハデな攻撃だな。あれ、光らせる必要あるのか?」
「自分が攻撃したということを、周囲にアピールするのは大事なことですよ。得点にはならなくても、周囲からの個人的な評価に関わりますので」
自分が速く飛ぶか、他人を追い落とすか。自分の適性や性格に合わせて、その辺りを選ぶのも大事なことらしい。三番手あたりに付けておいて、最後に優勝をかっさらう、なんて手も使えるだろう。とにかく最後の最後まで気は抜けない。
この学校の建物は町中に比べて高低差が激しいので、ルートも上下に大きく揺れる。出遅れたネーヤは、的確に最短ルートを選んで飛んでいく。あれ、意外にイケんじゃねえの?
「日本人なんかに負けるな!」
同じ屋上で誰かが叫んでいる。
「夜間部の平民なんかに負けたら、承知しないからね!」
うっわ。それ堂々と言っちゃう? だいたい、ネーヤだって自衛官の娘なんだから、いちおうこっちで言う騎士階級みたいなもんだろうに。
「どうなんだ? あれ」
「仕方ありませんよ。あの方々も騎士の家のかたですから……人によっては、《銀翼杯》をきっかけに、上の人に目をかけてもらおうと必死になっているんです。この学校は他所より騎士の子弟が多いので、余計に目立ちますね」
さっき言っていた、周囲からの個人的な評価……ってのは、そういうことか。
「ただのスポーツかと思ったら、けっこう大変なんだな。……ま、騎士だろうが平民だろうが関係ねえけどな! まとめてブッ飛ばしちまえばいいんだろ!」
後半は意識して声を大きくする。飛んでくる視線には強気の表情で応対し、コースに視線を戻した。