1-3 工房の夜
クドナーゼン魔具工房は、大通りから少し離れた路地沿いに建っている。この町の中では比較的古い地区のひとつだ。地球とこの星を繋ぐ《トンネル》の出現以前にも、このあたりに小さな集落はあったそうだが、その頃の名残は、もはやこの町には存在しない。サラクは同じ地区に建つ安アパートに住んでいるので、工房の少し手前にある交差点で別れた。
「ただいま帰りました」
工房の裏手にある扉を開け、声をかける。右手の扉を開ければ工房につながり、左手の階段を上がれば親方の家のダイニングキッチンだ。どの部屋もあまり広くないのは、冷暖房や照明のためにムダな妖精力を浪費しないための知恵らしい。
ちなみに、親方――というか伯父と俺の母の関係は、こちらの言葉で言えば「ナレィス・テイア」、頑張って日本語に意訳すると「家業を継がせるために交換した養子」ってところだ。職種によっては、家業と資称が合わないと跡を継ぐのが難しいため、しばしば町の長老の采配でそういう調整をするのだという。
幼少時に交換されたふたりは、お互いを実の兄妹と同等以上に思って育ち――ナレィス・テイアの間には、神が与えた運命の絆があるのだと信じられている――、妹が異世界に行こうとしたときには心配した兄もついて来た。そして「なんとかなるさ」とノープランで日本に来た兄妹は、言葉も分からない、魔法も使えない異世界であっさりと行き倒れ、俺の父親に拾われた、らしい。拾う親父も親父だと思うが、おかげで俺が生まれたわけだから、そういう意味では親父の決断に感謝している。
その後しばらく経って、伯父が故郷に帰ってみると、そこには大きいお腹で「できちゃったの」と微笑む恋人の姿があって、これはこれで修羅場になったとかいう話だ。そして、そんな話を聞かせてくれたのが――
「おっかえりー! どうだいリツ、好みの女の子はいたかい? もうナンパはしたかな?」
「最初に聞くことがそれっすか、ユキちゃん……」
――そのときお腹の中にいた伯父の娘、ユキちゃんことユキネ・エイス・クドナーゼンである。
ダイニングキッチンで待ち構えていたユキちゃんは、俺の肩に手を回して頭をぐりぐりと撫でてくる。ユキちゃんの背は、百七十センチには届かない俺と同じくらいで、女子にしては大柄だ。出るとこは出ているが、出るべきでないところもそこそこ出ている。力仕事で鍛えられたその手は、強化用の魔具を使わなくても、俺の肩をがっちりとホールドしていた。
「大事なことじゃないか! アタシにはお姉ちゃんとして、従弟の健全な成長を見守る義務があるからねえ!」
「見守らなくていいっすよ、そんなもん!」
ユキちゃんと俺の年はさして変わらないものの、彼女は俺のことを完全に弟扱いしてくる。ひとりっ子として育った俺としては新鮮ではあるのだが、しかし……これ、俺が思ってた「お姉ちゃん」と違う。
「まあそう照れるなって。それで? これからやっていけそうかい?」
「ええ、何とか。意外に言葉も通じたっす」
「そこはもっと自信持ちな! あんたが頑張ってるのは知ってるし、父ちゃんだって、さすがアヤ叔母さんの息子だって言ってるよ!」
肩から手が離れたと思ったら、バンバン、と景気良く背中を叩かれて息が詰まる。加減を知らない大型犬にじゃれつかれる気分だ。いや、むしろトラか。今日の服はトラっぽい柄だし。
余談だが、彼女は俺が知る限り、この世界でもっとも「大阪のオバチャン」っぽい生き物だ。何かとアメくれるし。髪もパーマっぽくフワフワしてるし。トドメに、「強そうだろう?」とかなんとか言って、ヒョウ柄をはじめとした動物柄の服ばっかり着ているのだ。
「その調子で、頑張って友達いっぱい作るんだよ!」
「いや、俺、できるだけ目立たねえように生きていきたいんすけど……」
「借金取りの話? 気にしない、気にしない! どうせ見つかる時は見つかるんだからね!」
「ちょっ、不吉なこと言うのはやめてくださいよ! マジで見つかったらどうすんすか!」
騙されてうっかり危ないところからお金を借りてしまい、借金取りに追われて逃げてきた――と、周囲には俺の事情を説明している。伯父は俺が知らない事情まで母さんから聞いているようだが、訊ねてみても「お前は知らなくていい」の一点張りだ。
「冗談はさておき、リツはせっかく賢いんだから、学校でちゃんと勉強しておくんだよ。一人でも生きていけるようにさ」
「……分かってるっすよ」
ことが落ち着いたら迎えにくる、と母さんは去り際に言っていたが……さすがにこの年になって、ママのお迎えを大人しく待っている、というわけにもいくまい。そもそも、いつか迎えが来るという保証だってないのだ。
「ついでに、将来の結婚相手も見繕っておくようにね!」
「見繕わねえっす!」
ユキちゃんはニヤニヤと笑いながら俺の胸元を突っついてくる。女は恋バナが好き、ってのは、日本でもエルトラでも変わらないらしい。俺はひとつため息をついた。
「……彼女を作るとか、そんな無責任なことはできねえっすよ。俺の事情に巻き込んじまったりしたら困るっすからね。ユキちゃん達にだって、さんざん迷惑かけてるわけですし」
「ウチのことは気にするんじゃないよ。ナレィス・テイアは助け合うものさ。きっと、こうなることは運命で決まってたんだ」
ナレィス・テイアがその片割れを見捨てることは、神の与えた絆に背くこと、なのだとか。まあ、うちの伯父の場合は、ただのシスコンなんじゃないかって気がするけど。
「でも、確かにリツの心配はもっともだ。困ったねえ、おちおち恋もできないなんて、若い男の子にとってはあんまりじゃないか」
そう言うユキちゃんは、言葉とは裏腹にずいぶんと楽しそうだ。さてはこの女、「障害のある恋って燃える!」とかなんとか考えてやがるな。
「早く叔母さんが戻ってくりゃあいいんだけどね。……ああ、でも、そうしたらリツは日本に帰っちまうのかい」
「まあ……そうっすね」
今から元の高校には戻りようがないが、それでも進学するにしろ働くにしろ、日本にさえ行ければどうにでもなるだろう。
それに俺は、やっぱり、あの世界が恋しい。
「心配いらねえっすよ。どうせ俺、モテるような男じゃねえっすから。結婚相手を見つけてくるとしたら、俺よりサラクでしょう」
サラクの名前を聞いた途端に、びくっ、とユキちゃんの肩が震える。
「さ、サラクに何かあったのかい?」
「えっ? いや、だってほら、俺よりイケメンですし……どうしたんすか、ユキちゃん」
「いや……そうか、しまったな。その可能性は考えてなかったよ……いやいや、まさか、あの朴念仁がそんな……しかし、学校と言えば若くて可愛い女の子がたくさん……」
「ユキちゃん? あの、俺、もう部屋に戻っていいっすか?」
「あ……ああ。疲れてるところ、引き留めて悪かったね」
それでは、と声をかけて、上階にある俺の部屋に向かう。
俺にあてがわれているのは、もともと物置として使われていたという、四畳半より少し狭いくらいの部屋だ。窓があって採光は充分だし、狭い部屋は冷暖房の効きが良くて助かる。
扉をしっかりと閉めてかんぬきをかけ、敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。
「疲れた……」
もう一歩も動きたくない。工房でそれなりに体力はついたつもりだが、それでも軽減できない疲労が、身体を、あるいは心を蝕んでいる。
横になっていると、ふと日本から持ってきたデイパックが目に入った。片手を伸ばし、中から一台のスマートフォンを取り出す。とうの昔にバッテリーは切れていて、充電の手段もなければ、その必要もなかった。
手の中のスマホは、いやにしっくりと手になじむ。なにしろ、日本ではいつも一緒だった相方だ。俺の無茶振りにさんざん耐えてきたコイツは、最高に信頼できるパートナー。デイパックの中のノートパソコンとタッグを組めば、もはや無敵と言ってもいい。
だが、この世界で携帯電話は使えない。《トンネル》越しの通信どころか、この世界にある携帯電話同士でも、たとえ基地局を置いたところで繋がりはしないらしい。大気に満ちる妖精力が電波を攪乱するのだと言われているが、詳しいことはよく知らない。日本にいれば簡単に検索できる情報なのだろうが、この世界にいては調べようもない。こちらにいる限り、俺はあの世界から、すっかり切り離されてしまっているのだ。
ため息をついて、目を閉じる。
彼女が羨ましい。
ネーヤ・イクル・ハヤサカ。日本とエルトラを、自由に行き来できる女。
「俺だって、あっちに帰りたいよ……」
だからと言って、勝手なことはできない。日本に行ってあれこれ動き回れば、どこかで足がつくかもしれない。そして伯父いわく、俺が追っ手に捕まれば、おそらく親父を呼び出すための人質にされる可能性が高いという。
「殺されはしないかもしれないが、五体満足でいられるとは思わないほうがいい」
そこまで言われては、ちょっとした望郷の念ごときで動けるはずもない。そうじゃなくたって、住む場所も仕事も、給料だって貰っているのに、ここから逃げるのはさすがに不誠実ってものだろう。
「ちくしょう……」
それもこれも、ネーヤのせいだ。せっかく忘れかけていた日本のことも、彼女を見ては思い出さずにはいられない。
明かりを消して、着替えもせずに布団の中に潜り込む。作業着じゃないんだから構わないだろう。シャワーなら朝にでも浴びられる。
布団から出る気は起きなかったが、さりとて眠れるわけでもなく、俺は暗闇の中で、動かないスマホを長いこと弄んでいた。