1-1 出会い
山の端から紺色に染まっていく空には、二つの月がかかっている。西から昇った雷鳥月と、東から昇った夜蛍月が、中天からやや東の空ではち合わせようとしていた。こりゃあマズいな、と思いながら、連れの背中を追って大通りに出る。
雷鳥月はこの惑星ナズリのまわりを一日に二周し、夜蛍月は七日で一周する。せっかちで反抗的な鳥の神と、穏やかに人々を見守る蛍の神。この世界の人間は昔から、二つの月を時計代わりに生きている。
「サラク、ちょっと待……うわっ!?」
大荷物を積んだ三輪自転車と鉢合わせ、あやうくぶつかりそうになった。くそっ、オッサンじゃねえか。こういう時に飛び出してくるのは美少女って相場が決まってんだろうがよ。
街にはどこか浮ついたような、慌しい雰囲気が漂っていた。なにしろ春分の週の第二曜日といえば、いわゆる年度初めにあたる日だ。
こんな人ごみの中でわざわざ地上を走るのだから、さっきの自転車は飛行装置のついていない安物だろう。混み合った道の両脇で、立ち並ぶ街灯のスイッチが順々に入る。照明用の魔具から発生する青白い光の粒子が、太陽に代わって辺りを照らしはじめた。大気中の妖精力を動力源とする、魔法駆動のランプだ。
照明や車の動力、料理や空調に至るまで、魔法と呼ばれる力は日常生活のあらゆる場所で使われている。その力を自由に制御するために使われるのが魔具だ。遠い過去の時代には、選ばれた才能ある人間たちが魔具なしで魔法を使ったというが、現代でそんなことができるのは、ドラゴンをはじめとした一部の生物くらいである。
「おいしい肉まんはいかがですか! ひとつ百ギエンです!」
夕飯の時間が近づき、あちこちの店からスープや焼いた肉の美味しそうな匂いがあふれ出している。喧騒の中に初々しい呼び込みの声。連れとひとつずつ買って、かぶりつきながら大通りを東へ。日中はずいぶん暖かくなってきたとはいえ、夕暮れになるとまだまだ肌寒い。気温だけが理由ではないが、薄手のコートを引っかけてきたのは正解だった。
「遅れるぞ、リツ」
前を行くサラクが振り返った。首の後ろで括った金茶の髪が跳ねる。怒っているような顔だが、別に機嫌が悪いわけじゃない。この職場の先輩は、いつでもこんな調子だ。
「すんません!」
開いた距離を走って詰める。Y字路を右に進んで短い坂を上ると、そこに石造りの門が鎮座していた。門の脇には「エルトラ国立アクナム第一総合学院」の文字。
俺たちは、今日から晴れてこの学校の生徒になるのだ。
前方から制服を着た生徒たちが歩いてきた。昼間部の生徒たちだ。真新しいえんじ色のケープを見る限り、おそらくあちらも同じ第三課程の新入生だろう。お互いに目を合わせることもなく、近づきすぎず遠ざかりすぎず、微妙な距離を保ってすれ違う。
まだ冷たさの残る春風に乗って、
「あら、夜間部の人たちかしら」
「イヤだ、何だか怖いわ。早く行きましょう」
なんて言葉が聞こえてきた。うーん、実にお育ちの良さそうなお嬢様らしい会話だ。どうか今夜あたり、タンスの角に足の小指をぶつけて悶絶しますように。
学校の広い敷地の中には、教会じみた尖塔にレトロな木造の二階建て校舎、石造りのホールに鉄筋コンクリート風の五階建てビルまで、まるで統一感のない建物が、これまた統一感のない配置でバラバラと建てられている。あらゆる種類の建物を少しずつサンプリングした、ノアの箱船の建築バージョンといった雰囲気。クリーム色の四角い建物で統一されていた、前の学校とはまるで違う。
学校に通うのは五ヶ月ぶりだ。たった五ヶ月か、とも思うし、もう五ヶ月も経ったのか、とも思う。夜間部には制服が指定されていないから、コートの下にはむかし通っていた高校の制服を着てはみたけれど、なんだか自分の身体にしっくりこない気がする。半年にも満たないこの町での生活で、どうやら俺は、すっかりこの世界の空気に馴染んでしまったらしい。
地球の暦で五ヶ月前、俺は唐突に、日本からこの異世界へと放り出された。
と言っても、別に勇者として召還されたとか、女の子を助けてトラックに轢かれたら神様に見初められて転生したとか、そんなカッコいい理由ではない。そもそもここは、召喚だの転生だのを経なければ来られないような遠い場所でもないのだ。
ここはアクナム。日本と異世界の国エルトラを繋ぐ、国境の町。
日本に帰りたければ、北の山の中腹に見える渡界局に行けばいい。白いドーム状の建物の中には、この世界と日本を繋いでいる《トンネル》がある。二十年近く前にひょっこり現れ、来る者拒まず去る者追わず、雨の日も風の日も元気に稼働する正体不明のトンネルだ。たぶん宇宙人かなんかが気まぐれに作っていったんだと思う。
当初はもちろん大騒ぎになったらしいが、どうにか二つの世界は戦いになることもなく、いまのところは平和的な共存が続いている。
だから別に、物理的には何の障害もないのだが……いまの俺には、日本に戻るわけにいかない、わりと切実かつ残念な理由があった。
――端的に言うと、我が家は地球から夜逃げしてきたのである。
* * *
「色々あって、我が家は夜逃げすることになりました。いやあメンゴメンゴ」
要約するとそんな感じのことを親父に言われたのは、よりにもよって俺の十六歳の誕生日だった。間違いなく、人生最悪の誕生日プレゼントである。
「夜逃げって、じゃあ学校は」
「すまん。辞めてくれ」
「ま、マジすか……」
「ちなみに、行き先はエルトラだから。ほら、あの、奥多摩から行ける異世界の」
「えっ」
「父さんと母さんは別のところに逃げるから、おまえは異世界で強く生きるんだぞ」
「ええっ?」
「ついでに、今まで何となく黙ってたが、実はお前の母さんは異世界人なんだ」
「はぁ!?」
「異世界には母さんの親戚もいる。きっとお前を助けてくれるはずだ」
「いやいやいやいや!」
そんなやり取りを経て、俺はひとり、義理の伯父だという人に預けられることになった。ふざけんな、言葉とか魔法とか文化とかぜんぜん知らねえよ、と抗議したが、「大丈夫! 笑顔と気合があればどうにかなるって!」と母に言われて諦めた。しかし考えてみれば、あの母親も異世界人ってことは、マジで笑顔と気合だけでどうにかしてきたんだろうな……何なんだあの人。神か。
別れ際に、親父は俺に真剣な表情で言い含めた。
「父さん達の代わりにケジメ取らされたくなかったら、絶対ヤツらに見つからないように、大人しくしてるんだぞ。ドラゴンのウロコとか取りに行かされたくないだろ?」
「え、何それちょっと面白そう」
「ちなみにハンターの生還率は一割くらいだ。誰かが食われてるスキを狙うのがコツらしい」
「やっぱいいです!」
それはヤバい。マグロ漁船とか山奥のタコ部屋より怖いじゃん、つーか間違いなく死ぬじゃん。保険金かけられて殺られるのと大差ないじゃん!
「つーか親父、いったい何をやらかしたらこんな状況になるんだ……? 借金か?」
「いや……むしろ、ヤクザみたいな組織の偉い人を怒らせた、というほうが近いかな」
「ホントに何やったの!?」
「聞かないでくれ。父さんはまだ父としての尊厳を失いたくない」
「えー……」
そうは言ったものの、正直あんまり詳しい話は聞きたくなかった。せめて、昔ツチノコを探すために大枚はたいて装備を整えたときよりはマシな理由であってほしい。母さん、あのときのツチノコセンサー、どこへ行ったんでしょうね?
そういえば、
「これはお守りだ」
とか何とか言って渡された謎の魔具もあるのだが……できればコイツに守ってもらうような事態だけは避けたい。見た目はただのアンクレットだが、ツチノコセンサーを上回るほどのヤバいオーラが出ているのだ。オマケにつけたら最後外せないという、まさかの呪いの装備である。それを知ってたら迷わず捨てたのに。だいたい経験上、うちの親父が気合を入れて作ったものにはロクなものがない。ひとり息子の俺が言うんだから間違いない。
たとえば小学一年生のとき、遠足の前日から母さんがカゼを引いてしまい、代わりに親父が作ってくれた弁当はおそろしく本格的なインドカレーだった。なにせライスの代わりにナンが入っていたくらいだ。あれからしばらく、他のクラスのヤツにまで「カレーの子」と呼ばれたことはまだ根に持っている。水筒にまでラッシーを入れてきたのは、いま考えてもちょっとしたテロだったと思う。
小学三年生の夏休みに工作の宿題を手伝ってもらったときは、「ロボットの貯金箱が作りたい!」という俺のリクエストに応えて、素晴らしくカッコいいロボを作ってくれた。金属の武骨なボディも美しかったが、最大のポイントはその貯金箱らしいギミック。なんと、お金を入れると目が光ってビームが出るのだ! ……もちろん宿題は再提出を言い渡されたが、ロボットはあまりにもカッコよかったため、そのあと何年か校長室に飾られていた。
そういうわけで、うちの親父はかなり器用な人間だとは思うのだが、たいてい頑張る方向性がちょっと間違っているのだ。どうせ夜逃げするようなことになったのも、良かれと思ってなにか間違った方向に頑張ってしまったのが原因だろう。
気になるのは、俺もその親父の血を、いやおそらく気質も、受け継いでしまっているということなのだが……俺にはまだ自覚があるぶん、親父よりはマシだと思いたい。
* * *
そんなことを思い出しながら渋面になっていた俺の頭上で、ちら、と光が瞬いた。
何の気なしに顔を上げた俺は、高い空から何かが落ちてくるのに気付いた。魔法の発動を示す光の粒子を振りまきながら、まっすぐこちらに飛んでくるアレは……人間か?
空を飛ぶ人間そのものは、この世界ではそれほど珍しくない。日本で言えば原付くらいの感覚で、人はひょいひょい空を飛ぶ。けれどそれは普通、屋根から屋根に飛び移るようにして使うもので、高度を上げるのは目立ちたがり屋の暴走族か、あるいは高さに取り憑かれてしまった変態か、どちらにしてもロクでなしだ。
しかし、何にせよこんな時、日本人として言うべき言葉は、間違いなくひとつしかない。
「親方! 空から――」
言い終える前に、そいつは俺たちのすぐ側の地面に激突し、光と煙と轟音をまき散らして景気よく爆発した。
「――お、女の子がっ!?」
やっべえ、ちょっとタイミング外した。
サラクが「おれは親方じゃないぞ」と冷静に訂正してくれたせいで、余計にいたたまれない気分になる。
「何を突っ立ってるんだ。急ぐぞ、リツ」
「え、この子置いて行くんすか?」
「残る必要があるのか? 小さな子供じゃないんだぞ」
一瞬の閃光と爆音、そして爆風。日本でなら爆薬でも使わない限り発生しない現象で、そうなれば女の子だってタダではすまない。とはいえ、この世界で爆発といえば、それは基本的に魔法爆発を指す。こいつは巻き込まれれば即死するものから、人体には無害なものまでさまざまだ。
至近距離で食らった俺たちが無事だということは、まあ、死ぬようなものではなかったんだろうが……。
女の子は身を起こし、緩慢な仕草で腕や頭についた煤を払っている。目が合うと、女の子はちょっと恥ずかしそうにしながら、「バルス!」と言って笑った。今の発言を聞かれていて、おまけに意味まで通じてしまっていたことに、俺はちょっと戸惑う。
「ありがとう、あたしは大丈夫だから」
「お、おう。次から気をつけろよ」
――それが、俺と彼女の最初の出会いだった。
できればもう少しだけ、マシな形で出会いたかったものである。