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空を地竜が飛ぶまでに  作者: こうづき
6 海竜(ハラン)のごとく深く静かな偵察
18/21

6-2 墜落

 その手紙が届いた二日後、予選会カドランの十日前。

 フェリが、珍しくマリナを伴って夜間部の校舎にやって来た。いや、正確には、マリナがフェリを抱っこして空を飛んできたのだが。

「そこのお二人、少し時間を頂いてもよろしくて?」

 屋上で声をかけられ、ネーヤも魔法ハイデーレンを切って地面に降りる。俺も構えていた銃を下ろした。ちなみに銃は昨夜改造した最新型、今のところ順調に稼働している。この分なら、次の段階にもすぐ移行できそうだった。

「何すか? 次の試合の申し込みなら、ちゃんと受理されたはずっすけど」

「そのことで、お伺いしたいことがありますの」

 マリナはケープの内側から、一通の手紙を取り出す。シンプルなエルトラ式の封筒だ。

「実行委員会に、無記名の手紙が届いておりましたわ。貴方がたが危険な魔具を予選会に使うつもりでいるようだから、調べてくれるようにと」

 だん! と屋上のデッキを踏みしめ、ネーヤが早足でマリナに近づく。

「何ですかそれ、知りませんよ! あたしがお姉ちゃんの妹だからですか? だからそうやってイヤガラセするつもりなんですか!」

「自覚はあるようですわね。フーカ・イクル・ハヤサカが起こしたあの大事故のことは、皆まだ忘れていなくってよ」

「あれはわざとじゃない! お姉ちゃんはそんなことしないもん!」

 自分達を裏切った、とマリナはフーカを評していた。天才が事故を起こした、とアンナムンはフーカについて話していた。

 ――妖精力ルーシュを奪った上で墜落させるのは、重大な反則行為だよ。

 そう、ネーヤも言っていた。

 二人とも、奥歯にものが挟まったような言い方しやがって。俺にも分かるように、もっとくっきりハッキリ喋れってんだ。どうも聞いててイライラする。

「何だか知らねえけど、昔のことなんざコイツに関係ねえだろ! そりゃさんざん墜落はしたが、周りに迷惑はかけちゃいねえはずだぞ!」

 フェリが泣きそうな顔でびくりと肩を震わせる。マリナは「ごもっとも」と唇の端をつり上げ、肩にかかる髪を片手で払いのける。

「わたくしも、貴女のことを本気で疑っているわけではありませんの。だって貴女、彼女とは違って……頭、悪そうですし」

「なっ、そ、そうだけど! そんなにハッキリ本当のこと言わなくていいじゃないですか!」

 マリナのストレートな悪口に、ネーヤは大げさな身振りで答える。わざとらしい身振りは、逆にあまり怒ってはいない証拠だ。いかん、俺もちょっと頭を冷やさないと。

「つーか、アンタだって選手なら暇じゃねえだろうに、なんでわざわざこんなトコに来るんすか? 他にも実行委員はいるんすよね?」

「夜間部の校舎になんて、近寄りたい人間がそうそういるものですか。少しでも縁のある人間として、責任を感じて来ただけのことですわ」

「ちょっと、そういう差別はよくないと思うんですけど!」

 ネーヤが叫んだ隙に、あの、とフェリが俺の袖を引っ張る。マリナとネーヤのにらみ合いから逃れるように、二人して物陰に避難した。

「す、すみません、リツ・エイス……ひとつ、お願いしたいことがありまして」

「お願い?」

 はい、と頷いたフェリは、一冊のノートを差し出してくる。表紙には「資料」の文字。

「ご本人にお渡しするのは良くないと分かっているのですが、私が知る限り、ちょっと状況が変わりつつありまして……これだけは、どうしても、急いでお見せする必要があるかと……! 必ず、お帰りになってすぐに、最後まで、読んでください! お願いします!」

「ど、どうして」

「お二人のことは、これまで陰に日向に見守らせて頂きました。ですが、私は……これではあまりに、リツ・エイスが気の毒だと思うんです……!」

「き、気の毒?」

「と、とにかく! このノートのことはくれぐれもご内密に!」

 それでは、とペコペコと頭を下げ、フェリはまたマリナに担がれてどこかへ飛んでいった。

 ……何なんだ、これ?


 * * *


「どうした、リツ。また寝不足か」

「そっすね……昨日もちょっと、遅くなっちまって」

 人を眠らせる魔法には色々なパターンがあるくせに、眠気を取る魔法はあまり発達していないというのは納得いかない。手の甲をつねって、ひとつあくびをしてから、俺は再び仕事に戻る。最近は翻訳を中心とした事務仕事が増えてきた。時間の調節がしやすいよう、伯父も気をつかってくれている。

 昨日、帰ってから渡されたノートを読み切ったのだが……ありゃあ一体、何なんだ。

 中には俺とネーヤのプロフィールだの行動記録だのがやたらと詳細にメモされていて、あちこちに「愛の力」だの「不器用なふたり」だの、訳の分からないアオリ文句が散りばめられている。台詞や行動から勝手に心情を推測されているが、捏造もいいところだ。ノートだけ読んだら、俺たちはすっかり似合いのカップルじゃないか。どこの韓流ドラマの話だよ、こりゃ。

 とりあえず分かったのは、前の予選会のとき、俺とネーヤの宣戦布告のことをウワサとして広めたのはフェリだったということ。まあ、あの場にいたのは他にサラクとマリナだけだと考えれば、犯人は決まっていたようなものではあるのだが。

 その時点でもう頭が痛いのだが、問題は終盤の、「備考」と銘打たれた数ページだった。

 中身は他のページとはうって変わって、最近の社会情勢について書かれた、とても基本的で分かりやすい解説である。学校の授業よりも、数段踏み込んだ内容が書かれていた。


 エルトラという国は、三方を山脈に、一方を海に囲まれた平野にある。かつてはいくつかの国に別れていたこの地域は、長い戦争の末に、ようやく現在の形にまとまった。

 どの山脈を越えてもその先には居住に適さない土地が広がり、隣国もはるか遠く。衣食住に必要なものは、平野の中だけで充分に生産できる。そんな環境の中で、最初は自然に、後には法律によって、エルトラは鎖国体制に入っていった。

 そんなこの国に、《トンネル》が出現してしまったのだ。もちろんエルトラでも大騒ぎになったが、日本と違い、この国は他国に対してその存在をひた隠した。ナズリでは地球のように、全世界を巻き込んだ騒ぎは起こっていないのである。

 その結果として、エルトラは――もちろん、非公式には他国にも情報が伝わっているはずだが――今のところ、地球との交流で得た技術や富を、ひそやかに独占しているのだ。

 さて、《トンネル》に対する人々の反応は、今のところ大きく三つに分かれている。

 一つ目は、今のままの距離感を保って、ほどほどに付き合おう、という保守派。

 二つ目は、どうせだからこの地球って世界に攻め込んでやろう、という開戦派。

 三つ目は、地球から得た武器を使って他国に攻め込んでやろう、という拡大派。

 今のところは一つ目の勢力が優位ではあるが、かつて武力でもって平野を統一することで生まれたエルトラという国のこと、二つ目や三つ目の考え方に惹かれる人間は多い……らしい。おい、平和的に文化交流でもしながら、お互いの技術を生かして仲良く発展していこう、って考えるヤツはいねえのか。俺の記憶じゃ、日本だとそれが一番の多数派だぞ。

 「備考」の最後のページには、デフォルメされた鳥とドラゴンの絵。尾の長い鳥――雷鳥イクルのほうには「拡大派」、翼が小さくツノのあるドラゴン――地竜エイスのほうには「進歩派」と書かれている。……って、おい、いきなり四つ目が出てきてんじゃねえか。

 よく探すと、「その他」というコーナーにいくつかの派閥がまとめられていた。進歩派は、要約すると「地球からの技術や知識を独占して、ウチの国だけ豊かになろうぜ」という、他に比べるとわりあい平和的な派閥である。先々代の騎士隊長――日本で言う総理大臣みたいな立場の人が属しているとかで、その他大勢の中では元気がある方、なのだそうだ。

 ついでに、なぜかお下げ髪のオマケがついたクリオネ風の生き物――夜蛍ナナムの横には「保守派」、巻き髪のオマケがついた翼の大きな竜――天竜リグの隣には「拡大派」の文字。要するに、それぞれネーヤと俺とフェリとマリナなんだろうが……なんで俺が進歩派になってるんだ?

 ネーヤが拡大派というのも、知らなきゃ良かった事実である。おそらくこれはネーヤ自身ではなく、その父親である自衛官が属する派閥だ。今まで知らなかったが、ネーヤの父親はけっこう偉い人らしい。ネーヤの育ちから察するに、さまざまな事情が絡んだ結果として、《トンネル》関連の仕事から離れられなくなってしまった人なのだろう。

 どうやら派閥同士は中が悪いのか、雷鳥と地竜の間には「禁断の恋!」という文字が、たいそうウキウキした筆致で書かれている。ロミオとジュリエットってか。「熱した恋は、打たれるほどに強くなる!」という言葉もあるが、これはたしか前にユキちゃんも口にしていた。数年前に大流行したラブストーリーのアオリ文句らしい。

 ついでに、「その他」コーナーのそばには、見慣れた日本製の付箋が貼ってあった。ピンク色の正方形の付箋に、几帳面な字が並んでいた。

「見る人が見たらバレバレですよ! もうちょっと用心してください!」

 ……あれ、これ、俺に言ってるのか? 何の話をしてるんだかさっぱり分からないぞ。

「でも私は、ちょっと悪い人もステキだと思います! 運命を乗り越えて、幸せになってください!」

 誰がだよ。何でだよ。


 と、まあ、そんな謎のノートを読んでしまったせいか、今日はすこぶる調子が悪い。

「このあと、学校の近くまで配送の車が行くそうだ。ついでに乗せて貰おう、俺も行く」

「く、車って、どっちの」

「飛ばない方だ。安心しろ」

 せめて移動中だけでも寝ていけ、とサラク。たぶん、今日の配送ルートからすれば、学校へ行くのは少し遠回りだ。彼が頼んでくれたのだろうか。「あざっす」と頭を下げると、サラクはいつもの仏頂面のまま、「気にするな」と軽く手を振った。

「……おれにも用事があるしな」


 * * *


 今日は天気がいまひとつだ。夕暮れの空はどんよりと曇っている。降らなきゃいいが、とサラクが空を見上げた。

「そういや、《レース》って雨が降ったらどうなるんすかね?」

「延期だな。魔法ハイデーレンのコンディションが変わりすぎる。首都には雨よけのついた試合場もあるそうだが、学生の試合にそんな贅沢品を使う意味もなかろう」

 サラクに手伝ってもらい、屋上にアーチ代わりの紐をかけながら、そんな会話をすることしばし。

「あれ、今日は早いね!」

 空からネーヤが降ってくる。とん、と屋上に降り立つ姿は慣れたものだ。最近では、飛行中にどこかへ吹っ飛ぶことはほとんどない。

「ついでがあってな。……ところで、フェリ・ナナムは今日はいないのか」

「そうだね。最近はしょっちゅう来るし、どこかで見てるのかもしれないけど……」

 昨日のこともあるし、とネーヤが俺にだけ聞こえるような声でつぶやく。マリナがあの手紙にどの程度の信憑性を見出しているかは分からないが、わざわざ警告をしに来たのは事実だ。

「ま、いっか。それじゃ、今日も頑張りましょう!」


 * * *


 高い位置から加速して急降下。アーチ代わりの紐をくぐり抜け、スピードを落とさず上昇。紐の高さはアーチと同じくらいだが、実際の《レース》ではこんなにいい位置は取れない。入射角を変えてもう一度。リツはスマホを構えて写真を撮ったり、同じくスマホのストップウォッチでタイムを計ってくれたりと、すっかり良きマネージャーだ。

 最初は成り行きで巻き込んだ少年だったが、今となっては、彼以外のパートナーは考えられないとネーヤは思う。ルグイに聞いた話も、気にはなっているのだが……実のところ、心の中で、ネーヤはほんの少し安堵もしていたのだ。

 ――良かった。隠し事をしてたのは、あたしだけじゃない。

 リツは何かとかばってくれるが、初対面の時からマリナに浴びせられている言葉の原因を、ネーヤはよく知っている。だから本当は、ごまかさずに彼に話さなければならないのだ。姉のこと。彼女が起こした事件のこと。そしてその結果を。


 今からおよそ三年前、《銀翼杯》のアクナム代表を決める試合が行われた。会場はこの第一総合学院。当時は第二課程ちゅうがっこうの生徒だったネーヤも、もちろん応援に行った。

 十二人の選手から、一人を決める大会。本戦に出られるとなれば、それは大変な栄誉だ。ことに注目されていたのが、純粋な日本人ながら圧倒的な成績を収める、フーカ・イクル・ハヤサカ。

 母親似の美人で、勉強でも何でもよくできるくせに、どこか抜けたところのある姉だった。好きなものに夢中になると、寝食を忘れて没頭してしまう。アリの行列を追いかけて騎士隊の詰め所に入り込んだり、本で読んだ魔法を試しているうちに自分の髪をアフロにしてしまったり。だからこそ、どこか似たところのあるリツに惹かれるのかもしれない、とネーヤは思う。

 ――そういえば、あの日もこんな、冴えない天気だった。

 全部で五回行われる試合の、第二回戦。

 最初は順調に滑り出したはずの選手たちが――不意に、軌道を乱した。

 ゆるやかに。しかし、はっきりと。

「お姉ちゃん!」

 不安にかられて叫んだ自分の声を覚えている。姉は誰よりも速く飛んでいた。だがそれは、いつもの姉の飛び方ではない。まるで何かに連れ去られるような、乱暴な軌道。

 一人の選手が墜落する。それ自体は珍しいことではないが、様子がおかしい。観客たちがざわつき始める。ぼんやりとした違和感の正体を、ネーヤは誰かの悲鳴と共に悟った。

 ――空気が、違う。

 地球に行ったときわずかに感じる、奇妙な空虚さ。いま自分たちを取り巻いている空気は、あの異世界のものとよく似ていた。

 妖精力ルーシュが切れたのだ――と気づいたのは、すべてが終わったあと。

 何者かの手で、妖精力が大量に消費された結果、競技場内のあらゆる魔法が無効化された。鳥ならぬ身は魔法なしには空を飛べず、多くの選手が墜落。だが、衝撃を和らげるための魔法さえもが無効化された結果――事故は、幾人もの死傷者を出した。

 常識的に考えれば、起こるはずのない事故だった。

 雪のように降る灰色のグレズに、血が染みていくさまを、ネーヤは今でもはっきりと思い出せる。


 リツが銃を構える。ずんぐりとした魔具は、小さい頃に買ってもらった、タンクのついた立派な水鉄砲を思わせるつくりだ。

 いいよ、と手を振ると、いつものように金色の弾が撃ち出される。周りが暗いせいか、いつもよりもその光が明るく見えた。リツの話では、中にはいくつかの魔法がセットされていて、引き金を引く度にランダムでどれかが発動するのだそうだ。明るくまっすぐなもの、光の弱いもの、途中で枝分かれするものなど、いくつかのバリエーションがある。

 あれ、と思ったのは、三発目が発射されたときだった。

 打ち上げられた光が、大きく広がる。魔法爆発か。光の魔法が失敗して爆発することは、よほどのことがない限り存在しないが、それは魔具のエストルのつくりがあまりにも単純だからだ。手作りの魔具なら、おかしな発動をすることもあるだろう。

 大きく上方に迂回しようとしたそのとき、がくん、と経験したこともないような感覚が襲ってくる。いつも自分を支えてくれている力が、唐突に消失したような。大きく息を吸う。

 ――ああ、これは、まさか――あの時と、同じ。


 リツは、空を落ちる怖さを知っている人だ。

 三島の昔話を思い出す。小学生の頃、遊んでいる途中に、リツが自転車で崖から落ちたという話。横浜には坂が多く、ちょっとした崖は町のあちこちに存在しているのだそうだ。彼らの家の近所にあったガードレールは、坂でスピードのついた自転車を止められなかった。

 リツが落ちていくところを、三島は目の前で目撃した。地面に叩きつけられ、重傷を負った彼の姿も。彼が空を飛べないのはその経験のせいだろう、と三島はネーヤに語った。

 ――リツがお姉ちゃんに似ているなら、私は三島君に似ている。

 大切な人が落ちていく時に、何もできなくて、ただ悲鳴を上げるしかなくて。

 頼ってほしい時に、黙って置いていかれて、ただ祈っているしかなくて。


 十二時の鐘が鳴って、魔法が解けたシンデレラは、こんな気分だったんだろうか。

 地面が近づいてくる。カートリッジに蓄えられた妖精力を種に、安全装置が起爆する。誘爆を起こせないささやかな魔法は、それでもどうにか、ネーヤの頭が地面に叩きつけられる事態だけは防いでくれた。

 ――でも、どうして突然、こんなことに?

 気持ちの悪い、夕焼けの曇り空が目に映る。

 次の瞬間、背中全体に金鎚で殴られたような衝撃を受けて、ネーヤの意識は途切れた。


 * * *


 呆然と立ちすくむ俺よりも先に、サラクが動き出した。手首の魔具をいじり、屋上の端から飛び降りる。俺は飛び降りる勇気も装備もないくせに、階段ではなく、その屋上の端に向かっていた。

 下の階から女子の叫び声が聞こえる。はっ、と振り返ったサラクが再び飛び上がった。一瞬だけ俺の死角に入ったサラクは、フェリを横抱きにして戻って来る。下の階にいた彼女を、窓から入って連れ出したのだろう。

 彼が向かう先にあるものを、怖くて正視できない。

 俺には……彼女が感じたであろう衝撃を、思い出すことができる。子供の頃、うっかり事故で崖から投げ出され、アスファルトに叩きつけられたことがあるのだ。打ち所が悪ければ死んでいたと言われた。あちこちに大怪我をして、それを治すためにあちこちに手術もして、しばらく入院したのを覚えている。

「だっ、ダメ、これじゃ間に合わない……」

「これなら使えるか、調整中だがエイス用だ!」

 サラクがフェリに何かを渡す。いくばくかの会話を交わし、フェリが大きく頷いた。サラクが振り返り、いつもより何倍も怖い顔で飛んできて、有無を言わさず俺を担いで飛び降りた。

「そこにいろ、リツ! おれは医務棟に行ってくる!」

 下ろされたのは、フェリの――そして、地面に横たわるネーヤのそばだった。

 フェリの膝に頭を乗せ、ネーヤはぐったりと目を閉じている。飛んでいた彼女が、突然落下したのは理解した。だが、それ以上のことは、頭が混乱してさっぱり分からない。いったい、何がどうなったっていうんだ?

 フェリが別の魔法で、リュック状の魔具の肩紐部分を切断する。魔具を背負ったまま背中から落ちたため、これ自体がクッションになり、石畳への直撃は避けたようだった。

「しっかりしてください、ネーヤ・イクル! すぐに先生が来ますから!」

 右手にはめて使っている治療用魔具は、いつもの指輪ではない。ないのだが、どう見ても、メリケンサックの形をしている……ような気がする。俺の視線に気付いたのか、フェリが「サラク・タットのです」と補足する。

「以前ご一緒に予選会にいらしていた、あの女性の方への贈り物でしょう。お借りして申し訳ないことをしました」

 幅の広いメリケンサックはトラ柄に塗装されている。なるほど、確かにどう見てもユキちゃんへのプレゼントだ。殴ってもその場で治せる、というのがコンセプトか。対生物魔法の苦手なエイスに合わせて調節したのなら、かなり強力な拡大系の補助魔法が入っているはずだ。

 そんなことはすぐに考えられるのに、どうして目の前にいる女の子から、こんなにも目を逸らしたくなるのか。分かってる。怖いからだ。理解したくないから、理解できないんだ。

 いくつかの声が近づいて来る。サラクが呼んだ先生が来たのか、と振り返ると、そこには想定外の情景があった。

 揃いの制服を着た数人の男女。騎士隊の人間か。どうして、と思う間もなく、一人が魔法を発動させた。

「っ!」

 不意に身体がこわばる。え? ちょっと待って、俺?

「話を聞かせてもらおうか」

 刑事ドラマみたいな言葉と共に、中年の騎士が俺の腕を無造作に捻り上げた。

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