4-2 招待
それからの十日間は、何事もなく過ぎていった。
いや、“何事もなかった”かと言われると、そんなことはないのかもしれない。あの手紙の他にもいくつか、俺たちの周りに変化があった。
一つ目は、手紙を受け取った翌日。あのお下げのドジッ子少女、フェリ・ナナムが、「リツ・エイス、聞きましたよ!」と始業前の教室にやって来たのだ。
「《レース》、お辞めになるんですか? 辞めないでください! お願いします……!」
とか何とか言いながら涙ぐむフェリには、庇護欲をそそる小動物のような可愛らしさがあって、さすがに俺もドキリとした。サラクが怖い顔でこちらを凝視している。たぶん、俺に怒っているとかそういうわけではなく、この可憐なフェリの姿を脳裏に焼き付けようと必死なのだろう。
「ひょっとして、マリナ・リグに聞いたのか?」
「はっ、はい! リツ・エイスがたいそう落ち込んで、“俺さえいなければ、彼女はもっと自由に空を飛べたはずなのに……俺の翼が彼女を地面に縛り付ける重荷になってしまうのならば、俺は身を引くべきだろうか……”と言ってらしたと」
「言ってねえぞ!? 少なくともそんなポエムみたいな台詞は吐いてねえ!」
舞台演劇のごとく、身振り手振りつきで語るフェリを、思わず怒鳴りつける。背後にネーヤがいることは知っていたが、彼女はどんな顔をしているのだろうか。怖くて振り返れない。
――ん?
いま、俺、何でそんなことを思ったんだ? 俺が辞めるかもしれないと聞いて、ネーヤが残念そうにしているとでも思ったのか? べつに、今さら俺が《レース》から手を引いたところで、何の問題もないだろうに。俺はもう、あの場でやるべきことをやり尽くしたんだから。
あるいは、俺が辞めると聞いても、何とも思っていないネーヤの顔を見るのが怖いのだろうか。あれだけ尽くしたんだから少しは寂しそうにしろよ、ってか。なに恥ずかしいこと考えてんだよ、俺。そんなのアイツの自由じゃないか。
ユイルが背後で爆笑しているのが聞こえた。ああ、うん、そうだよな。それが当然の反応だろう。ネーヤだって、きっとそうだ。
「では、辞めないんですね? 次もお二人で出てくださるんですね!?」
「い、いや、なんでオマエがそんな熱心に引き留めてくるんだ?」
「あの時、おそばで見ていて思ったのです。リツ・エイスとネーヤ・イクルは、きっと素晴らしいヴェチカブル……じゃなかった、仲間になると!」
「ヴェチカブル?」
その後、なぜか横からユイルが現れて、「よう分かっとるやん! うちも同感や!」とフェリに握手を求めていた。いや、だから、ヴェチカブルって何なんだ。
「ほら、ネーヤ、ちゃんと言ったらええやん。“次もよろしゅうな”って!」
「あ……」
ユイルに腕を引っ張られたネーヤが、戸惑ったような表情で俺を見る。
「え、えっと……次、どうする?」
何だかぎこちない笑顔。そりゃ、こっちの台詞だっつうの。
「まあ……まずは一人で頑張ってみたらいいんじゃねえの。上手くいかなかったら、また手ェ貸してやってもいいけどよ、セコい小細工はそう何度も通用しねえからな」
コイツはコイツなりに、自分の力で努力すりゃいい。本来は、それが正しい姿なんだから。
「魔具の整備くらいはしてやっから、調子悪くなったら声かけろよ」
そっちの方面でなら、俺にもできることはあるだろう。言いながら、何となく照れくさくなって目を逸らす。マリナ・リグの言葉を思い出したせいだろうか。あんな風に俺を評価しているとは思わなかったけど、それはマリナ・リグの勘違いなのか、それとも。
「うん、ありがとう!」
顔をそむけたまま視線だけ戻すと、今度はちゃんと笑っているネーヤの顔が見えた。
――彼女には俺が必要だなんて、うぬぼれてしまってもいいんだろうか?
* * *
変化の二つ目は、そのさらに翌日から始まった。
「何だろ、これ?」
ロッカーを開けたネーヤが、封筒を手に不思議そうにしている。思わず身構えたが、こちらの封筒はアンナムンのものとは違い、エルトラの形式のものだ。
「そんなトコに入ってる手紙なんて、ラブレターに決まっとるやんか!」
ひゅーひゅー、とユイルが茶化す中、ネーヤは便箋を広げて――
「ありゃ……」
――一瞬あっけにとられた顔をした後で、くくっ、と笑い出す。
「見て見て! すごい! こんな手紙、本当に来るんだね!」
ぴらっ、とこちらに見せた便箋には、殴り書きのような字で「調子に乗るな! さっさと日本に帰れ、バーカ!」と書いてある。
「……まあ、バカなのは事実だしなぁ」
「ひどいよリツ! あたしもそう思うけど!」
けらけらと笑っているネーヤの様子は、気にしていないフリをしているというよりは、なぜだか少しホッとしているように見えた。これは俺の勝手な想像だが、おそらくマリナに切った啖呵がウワサになったあたりから、中傷の手紙くらいは来るだろうと予想していたのではないだろうか。
こういうものは、早いうちに来てくれたほうがいい。アンナムンの手紙を受け取った今、心からそう言える。警戒しながら待ち続ければ疲れるし、かと言って、忘れて油断した頃に来れば案外ダメージが大きい。そういう意味では、ネーヤが安心するのもよく分かる。
「ねえ、そっちには何か入ってないの?」
「え? いや……そういうのは入ってねえな」
しかし、あの「バーカ!」の手紙は、アンナムンのものとは関係ないだろう。明らかに差出人が違う。タイミングからすると、あの予選会を見て色々と思うところがあったのだろうか。
その次の日からも、ネーヤのロッカーにはちょくちょく手紙が投げ込まれていた。俺のほうにも何通か来ていたが……どちらにせよ、内容が少し妙なのだ。
あれこれ罵倒語が書かれたものが半分。もう半分は、どうやらファンレターらしい。差出人は複数の女性からなるようで、「頑張ってください!」だの「予選会での活躍、カッコよかったです!」だの、妙に日本のアニメチックなネーヤの似顔絵だのといった内容が、可愛らしい封筒と便箋に、これまた可愛らしい文字で書かれている。誰の手紙も示し合わせたように本文は短く、差出人の名はないが、「ファンレターとはそういうものだ。用件を伝える書簡とは違う」とサラクが言っていた。そういうものなのか。
油断していたら、可愛らしい封筒の中に、丸っこいエルトラ文字で「消えろ、ブス」と書かれている手紙が届いた。俺のロッカーにも同じ封筒で「チンコもげろ」という罵倒のお手紙が入っていて、うっかり意味をネーヤに聞いたら「女子にそんなこと言わせないでよ!」と怒られた。いや、だって、知らない言い回しだったんだから仕方ねえじゃんか。理不尽だ。
それにしても、どうしてファンレターが来るんだろうか。マリナと絡んだせいで多少は目立っただろうが、ネーヤの総合順位は大して高くないはずだし、俺のほうにまで似顔絵付きの手紙が来るのも解せない。あんまり似てねえし。ファンレターに悪口を混ぜ込むことでダメージを引き上げようという策だろうか。それにしては気合が入りすぎている気がするのだが。
とはいえ、ネーヤが「誰かに気にかけてもらえるのって、なんだか嬉しいね!」と気楽に笑っているので、ひとまず俺も、原因については気にしないことにした。
そんな事態が続いたせいか、アンナムンに怯えて暮らすのにもすぐに飽き、俺はすっかり平常運転に戻っていた。考えてみれば、この世界に来た当初だってそうだった。追っ手が来るのでは、と怖がったわりには何も起こらず、そんなものよりは親方やユキちゃんによる、スパルタなエルトラ語講座のほうがよっぽど恐ろしかった。
ついでに言えば、実害のないアンナムンより、ちょくちょく物理的に攻撃してくる昼間部の生徒たちのほうが地味に怖い。うっかり練習している《レース》選手のそばを通ると、狙い澄ましたように魔法だの石だのが飛んでくるのだ。フタを開けたコーラのペットボトルが飛んできたときはさすがにビビった。個人的には、売店に地球のコーラが置いてあるという事実のほうが驚きだったが。ウァズに聞いたら「ありゃよく売れるからな」だそうで。
まあそんなわけで、アンナムンからの二通目の手紙を、俺は前よりはだいぶ落ち着いた気分で開封したのである。
* * *
休日の太陽は中天から少し西へ傾いたところだ。学校の図書館で勉強してくる、と家を出た俺は、手紙に記された場所を目指して歩き出す。今日は私服だが、俺なりに多少は頑張ってオシャレをしてみた。ユキちゃんにも「いつもよりはコーシェム一匹分くらいマシ」という高評価を頂いている。コーシェムというのが何なのかは知らない。
『ぜひ一緒にお茶でも』
そんなアンナムンからの手紙の誘いを、無視する勇気はなかった。心の中を占めるのは、これからどうなってしまうんだろう、という不安が二割、相手は何者なんだろうか、という好奇心が三割、もうどうにでもなっちまえ、というヤケクソが五割というところ。しょせんは俺もあの親父の息子、人生なんて出たトコ勝負だ。姿の見えない敵にビビり続けるよりは、さっさと虎穴に飛び込んでカタをつけるほうが性に合っている。
もちろん、カタをつけた結果として、今夜あたりそこらの山の中に埋められているかもしれないが……まあ、それくらいのチップは賭けてやるべきだろう。考えてみれば、負けたときのリスクはそんなに大きくない。なにせ死体は後悔なんかしないのだ。それよりも、いつ何をされるか分からない、というストレスから逃れるほうが、俺にとってはよっぽど重要だ。
ちょっとオシャレをしてみたのも、一応は殺される事態を想定しているからだ。「あ、なんかこの死体、ダサい服着てるな……」だなんて、発見者に思われたくないじゃないか。
故郷と似て坂の多いアクナムの町をうろつき、ようやくたどり着いたのは、何やら高級そうな集合住宅だった。鮮やかな常緑樹に囲まれた、白い壁の洒落た建物。入るなり広々としたロビーに出迎えられた。この一階ですら花が飾られ、豪華なつくりになっているが、この手の建物なら屋上側の入口はもっと豪華なはずだ。空を飛ぶ気のない俺には関係ないことだけれど。
手紙に記された部屋を見つけて呼び鈴を鳴らす。中から三十代くらいの、いかにもお手伝いさんという風情の女性が出てきて、「お待ちしておりました」と出迎えてくれた。
外廊下でさえホテルのような立派なたたずまいだが、家の中も負けていない。シックな色合いでまとめられた調度品はどれも高級そうだ。
「どうぞこちらへ」
通されたのは窓のない部屋だった。いや、おそらく窓があったのであろう場所を、背の高い棚が塞いでいる。天井に設けられた照明が、室内を明るく照らしていた。
手前に革張りのソファー。ローテーブルを挟んだ反対側には、何やら人間のようなものが座っている。紳士らしい服を着た人形だが、顔のあるべき部分にスピーカーらしき魔具が収まっていた。これは……一体、何のつもりだ。
お手伝いさんが、ペットボトルのミネラルウォーターをグラスと共に置いていく。彼女が退室するときに、カチリと外からカギをかける音が聞こえた。
「ようこそ、吉村くん。来てくれて嬉しいよ」
人形の顔から声が流れ出す。見れば、人形の足元からケーブルが伸びていた。どこかと通信でもしているのだろうか。顔の魔具にはスピーカーだけでなく、カメラの機能でもついているのかもしれない。
聞こえてくる声には、スピーカーの音質のせいか、それとも何か加工しているのか、どこか人工的な響きがある。そして彼は、当然のように、俺のことを日本名で呼んできた。
「はあ。この度はどうも、リツ・エイス・ヴァネイザっす」
「実のところ、君を家まで迎えに行かなくてはならないんじゃないかと心配していたんだ。手間が省けて助かった」
「俺も道に迷わねえか心配だったっすよ。こんな高級住宅街には縁がねえっすからね」
もし手紙を無視してたら、無理やり連れ出されでもしてたんだろうか。どうせ俺の居候先なんて、とっくに割れているんだろうし。
「喉が渇いただろう、その水は好きに飲んでくれ。ボトルのままで失礼するよ」
「失礼はお互い様ってことで。俺だって、人んちに行くのに土産も持ってこねえようなモノ知らずなんで」
地球産のペットボトルのキャップをあらため、いじった痕跡がないことを一応は確認して開ける。念のためにグラスには手を触れず、そのまま口をつけた。変な味はしないようだ。
「そんなことを気にするものか。君の都合も聞かずに招待状を出したのは、こちらの方なのだからね」
「予定のない日で良かったっすよ。んで、今日は俺の命でも取りに来たんすか?」
「残念ながら、君の首にはまだそこまでの価値はないかな」
俺の冗談めかした問いには、笑いを含んだ返事。「そっすか」と答えながら、長椅子の背もたれに体重を預ける。
――まだ、そこまでの価値はない……か。どう判断すべきだろう。
「たとえ君の身柄を預かっても、それを君のご両親に伝える手段がなくては意味がないしね。ひとまず、こうして君と話ができただけでも良しとしよう」
「そりゃあ良かったっす」
思ったより穏やかな展開だ。調子が狂うな、と思いながら、人形の顔を睨み付けた。
「ところで、もちろんアンタも知ってると思うんすけど、俺はエルトラ語がロクに喋れねえんすよ。顔さえ見えりゃ、大体なに言ってるか見当はつくんすけどね。良かったら、顔を見せてくれるか、日本語で喋ってもらってもいいっすかね?」
「おやおや。君はあの第一学院夜間部の入試を、優秀な成績で突破したと聞いているよ。あれは言葉もおぼつかないような人間が解けるような試験じゃない。第二課程までの教育を受けていないなら尚更だ。面接試験だってあっただろう?」
まあ、そりゃ、そういう反応になるよな。ハイそうですかと出て来られたらむしろビビる。
「関係ねえっすよ。あんなもん、何となく単語が分かりゃどうにでもなるっす」
「普通はどうにもならないものだよ。まったく惜しい才能だ。そのあたりはお母上に似たのだろうね。今ごろ、お母上はどうしているのかな? お元気かい?」
「……俺、両親の行方については何も知らねえっすから、無理やり聞きだそうったってムダっすよ。知らねえもんは答えらんねえっす」
「そうか。君がそう言うのなら仕方ないね」
「分かってくれたんなら嬉しいっすよ」
ペットボトルの水を取り、もう一口飲みくだしたところで――
「え?」
――くらり、と目眩がした。
ボトルを机の上に戻そうとしたが、手が滑って倒してしまう。おかしい。確認はしたつもりだが、やはり何か入っていたのか?
「ずいぶん効きが早い。君、疲れが溜まっているんじゃないかな?」
「アンタのせいで、ここんとこずっと寝不足なんすよ……」
「それは申し訳ない。しばらくゆっくり眠っているといい」
言われるまでもなかった。急激な眠気に襲われ、俺は倒したペットボトルをそのままに、長椅子に倒れ込む。
ふと、妙な匂いを嗅いだような気がした。
塞がれた窓、人形越しの会話、カギのかかったドア。何かのガス、いやそれに似た効果の魔法か。たしか、眠らせるのはファゼイの資称を持つ人間が得意とする魔法だが、それ以外にもいくつか適性のある資称が――などと考えながら、俺は耐え難い眠気に逆らえず目を閉じた。




