プロローグ
夕暮れ時の広いグラウンドに、長い影が伸びていた。影の主である女は、数歩の助走をつけ、走り高跳びを思わせる動きで、たん、と地を踏み切る。
そしてそのまま、見えない糸に引かれるように、あるいは透明な翼を羽ばたかせたように、ぐんと空へ飛び立った。
ああ、綺麗だ、と思う。
背に負う白く角張った魔具から淡い金色の粒子がこぼれ、夕陽の中できらきらと輝く。髪をひとつにまとめるリボンが、先端についた飾り玉の重みで元気よく躍っている。地上からその表情は窺えないが、きっと楽しそうに笑っているのだろう。
いくつもの校舎の間を縫って、校内をぐるりと回るように作られた《コース》は、スタートからゴールまで、今はすべてが彼女ひとりのための舞台。自由に、朗らかに、そしてひたすらに速く、駆け抜けていく彼女の姿が見えるようだ。
重力の束縛から解き放たれた彼女は、ぐん、と加速し――
「……あっ」
――近くの校舎の壁に力いっぱい突っ込んで、光と煙と轟音をまき散らしながら爆発した。
「って、ふざけんじゃねえぞコラ!」
ずいぶんド派手な魔法爆発が起こっていたが、どうせ死んじゃあいないだろう。しかし、あの女は俺と初めて会った時も、地面に思い切り顔を埋めていたはずだ。地面やら壁やらにキスするのがそんなに好きなのか。うら若き女子高生としては渋すぎる趣味じゃないのか。
爆発のあった場所へと駆けつければ、彼女の姿が見えてくる。風呂上がりのオッサンのごとく腰に両手を当て、「あいたたた……」とか何とか言いながら立ち上がったところだ。さっき一瞬だけ見せた、天使めいた荘厳な雰囲気は何だったのか。詐欺罪で訴えてやる。
「あ、リツ……」
俺の姿を見てなにか言いかけた彼女の頭を、
「アホか!」
とりあえず、平手でひっぱたいてみた。ハリセンが手元にないのが悔やまれる。
「論外じゃねーかコレ! ちょっとでも期待した俺がバカだったよ! 《レース(ヴェルガ)》って絶対、こんな競技じゃねえだろ! せめてゴールまで飛べよ! 最初の直線でいきなりクラッシュって! それも自損で! なんであのコースで右に旋回するんだよ! おかしいだろ!」
彼女の頬を両手でつまみ、むにっと左右に引っ張る。
「うにぇっ!?」
肌は思ったよりもやわらかくてすべすべしていた。これが灰色の煤まみれでなかったら、少しはドキッとしたかもしれない。手を離し、コートの裾で指先を拭うと、黒い布地に煤がくっきりと線を残す。まあいい。魔法の副産物である煤は、放っておけばそのうち消える。ここはそういう世界だ。
「ネーヤ・イクル・ハヤサカ!」
「は、はい!」
背筋を伸ばしたネーヤの襟を掴んで、ぐっと力を篭める。
「たしかオマエ、学校代表を目指すとか、《銀翼杯》で全国一になるんだとか、威勢のいいこと言ってたよなあ? え? その結果がこれか? オマエの頭ん中には煤でも詰まってんのか? それとも中身は闇獣にでも食われちまったか?」
「ちゃんと脳ミソ入ってるよ! そ、それに、もう少し何とかなると思ってたんだもん!」
「なってねえよ! 気合でどうこうなるレベルにすら達してねえよ! キャッチボールもできねえ素人が甲子園目指すレベルだよ! どこのバラエティ番組の企画だよ! 俺がプロデューサーなら、そんな企画はソッコーでボツにしてやるよ!」
しょぼんと肩を落としたネーヤは、しかしすぐさま「いやいや」と首を振って顔を上げ、妙にキリッとした表情で俺の目を見つめてくる。いや、オマエ、ちょっと立ち直るの早すぎじゃねえの? もうちょっとじっくり落ち込んでくれません?
「まだ分かんないって! もしかしたら、あたしにだって才能が隠されてるかもしれないじゃない! ちょっと失敗したくらいで、諦めるなんて早すぎるよ!」
確かに、この女にだって才能のひとつくらいは隠されてるかもしれない。何もないところで転んで爆発する才能とか、俺をイラつかせる才能とかが。
「それにあたし、本番には強いタイプだから! 明日はもっと上手くいくって!」
爆発の影響でリボンが解けかかり、ついでに背中の魔具のフタが開いたせいで全身に煤をかぶっているネーヤは、その灰色の粉をまき散らしながら拳を握って叫ぶ。こんなに同情したくない灰かぶり姫は初めてだ。前向きならいいってもんじゃねえぞ。
俺はもう一度ネーヤの頭を引っぱたく。
「寝言はまっすぐ飛んでから言え! オマエ、今の状況が分かってんのか!?」
「わ、分かってるよ! 明日は《銀翼杯》に向けた予選会の初回、正式なポイントにはならないけど、その代わりみんな手を抜いてくるから、実力をアピールするにはいいチャンス……なんだよね?」
「俺もそう思ってたんだ。さっきまでは」
「今は違うの?」
「当たり前だ! オマエは優勝候補にケンカ売ってんだぞ。誰から広まったのかは知らんが、昼間部じゃそのことが相当ウワサになってるって話だ。あの優勝候補のマリナ・リグに、夜間部の異世界人が宣戦布告した、ってな!」
言ってるうちに、胃と頭が同時にキリキリしてきた。クソったれ。
「わあ、なんか照れるね」
「呑気に照れてる場合か! つまり、オマエは明日の試合の注目株! ここでズバッといい成績を上げられる実力があるなら、このウワサも歓迎なんだが……」
なあ、と努力して笑顔を作ってみせる。
「オマエはあれか? 夢と希望があれば人生どうにかなるとでも思ってんのか? オマエが恥をさらすのは勝手だが、その仲間だと思われてる俺はどうすりゃいいんだ? ええ?」
「あ、あのときタンカ切ってくれたリツ、カッコ良かったよ! ヒーローっぽかったよ!」
「話を逸らすんじゃねえ! オマエの実力を知ってたら、俺は絶対、オマエの味方なんかしなかったっつーの!」
くそっ。自分に人を見る目があるほうだとは思っちゃいないが、さすがにこれは予想外だ。キラキラした目で「あたし、絶対に勝つから!」とか言ってくる女が、まさかこんなド素人以下の飛びっぷりを見せてくれるとは。あんな目で見られたら、普通はもっと強いもんだと思うだろうがよ。
思わずため息が漏れる。空を仰ぐと、夕闇をぽっかり切り取るような月が見えた。今日は第七曜日だから、空に見える月は雷鳥月ひとつだけ。明るい月はあと一時間かそこらで山の向こうに沈み、夜半にはまた西の空に上ってくる。
「とりあえず、ちょっとそれ見せてみろ」
ネーヤが下ろした魔具を手に取る。煤を払いのけると、細かい灰色の粒子がコートに降りかかる。舌打ちしてコートを脱ぐと、ネーヤが「初めて見たけど、リツって私服ダサいね……」と正直な感想を述べてくださった。うるせえ。
魔具技師として多少は経験を積んだつもりの俺ではあるが、この時間からできることは多くない。日が沈んでしまえば全力での飛行は危険だし、その前に魔具の点検にどれくらい時間がかかるやら。まずはいま作動した衝撃緩和装置に妖精力をチャージして、また煤入れのフタが開かないようにしっかり留め直さなければ。職場で借りた簡易工具だけで足りるだろうか。休日のこの時間じゃあ、学校の設備も使えない。職場まで持って行けば設備も消耗品もバッチリ揃っているが、移動に往復で三十分はかかる。もちろん飛んでいけばもっと早いのだろうけど、俺は一身上の都合で、絶対に自力で空は飛ばないと決めているのだ。当然、そのための魔具だって持ってきちゃいない。
他に今からできることは何だろう。そもそも、一朝一夕でどうにかなる問題なんだろうか。気合とイメトレは充分すぎるほど充分。ゆっくり寝て明日に備えろ、なんてアドバイスは、コンディションさえ良ければいい成績が取れるって時に言うものだ。
考えれば考えるほど詰んでいる気がする。くそっ、一体どうすりゃいいんだ――
――って、あれ?
なんで俺、こんなスポ根モノのコーチみたいなことしてるんだっけ。
コイツはただのクラスメイトで、俺はただ巻き込まれただけの通りすがりで、べつにコーチをしてくれなんて頼まれた記憶もないのに。
「仕方ねえな」
ネーヤが横でじっと俺の手元をのぞき込んでいる。ポニーテールを括る飾り紐はこの世界の品だが、着ているのはジャージ、その下にはセーラー服。「早坂音衣也」という日本名が、ジャージの袖に刺繍してある。魔法の使えない世界からやって来た客人。まあ、俺も似たようなものではあるのだが。
先週のはじめ、彼女と初めて会ってからのことを思い出しながら、俺はおごそかに口を開いた。
「――とりあえず、マリナ・リグに土下座する練習をしよう」