第二話 魔素というもの
「……はい。それじゃあこんな感じに描いてみて…………うん。そうそう。……あー、ソフィは少しずれてるな」
「むぅ~」
「だけど図形と図形の相関関係を上手く突いた配置……あー。えぇと、良い場所に描いてるから、もう少しだけこっち側に描けばもっと良くなるよ」
「……うん!」
「それでエミー姉さんの方は……うん、ここまでは問題なし。で、問題の箇所だけど……」
俺は現在、姉と妹の家庭教師をやっていた。妹はともかくとして、六歳の弟が九歳の姉に物事を教えているという奇怪極まりない逆転現象。それを語るには、先日の朝食時の出来事を先に語らねばならないだろう。
・ ・ ・
「……それで、姉さんに魔法陣の仕組みを理解させる、ということだったけど」
「ええ。魔法の発動自体はどんな教育施設であれ生活能力向上の名目で必ず学ばされるわ。エミーが通うことになっているのはいわゆるお嬢様学校だけど、その点は変わらないわね」
「あー、なるほど。わかりましたよ」
「……リーンの洞察力は、我が子ながらその歳で? と毎度驚かされるもので怖いのだけれど、一応聞くわ。何を納得したのかしら?」
酷い言われようだ。俺が何をしたというのだ。六歳と少しの今日という今日まで、俺は幼児特有の癇癪を起こしたりもせず、真摯に紳士の如く勉学に励み、物静かで理知的な幼児としてすくすくと育ってきていたというのに。
しかし、俺は紳士志望の物静かで理知的な幼児である。そのくらいで腹を立てても仕方がないので、ここは目を瞑ろうではないか。
「要するに、魔法を発動するのに必要な基礎を、ダリアではなく俺に教えさせることにより、相互に成長させることが狙いなんですね」
あながち間違ってはいないであろうが、この解答は正確には違っている。恐らくエミー姉さんは、魔法陣の仕組みが理解できないのだ。俺もグイグイと知識を吸収し続けるので、エミー姉さんよりも先にこの世界の魔法陣というものを学ばされたが、前知識がなければ確実に戸惑っていたことだろう。
即ち、魔法を行使するのに切っても切り離せない魔法陣。しかし、それが何故切っても切り離せないのか。何故、複雑な図形を描き魔法を行使する魔法陣が、口頭で発現させる魔法と相関関係にあるのか。その他細かい疑問点は尽きないであろうが、姉さんの疑問の本質はそこにあるのだろう。そしてそれをダリアは教えることが出来ず、姉さんは詰んでしまった、と。
やれやれ、とこの流れならばダリアに呆れるところであろうが、それは違う。ダリアが無能なのではなく、この世界の学問が追いついていないのだ。この六年間、転生毎に毎回恒例の情報収集は怠らなかった。家族や使用人達の目を盗み、俺は書斎などへ足を運んでは書物を読み尽くしたり、母やダリア、その他使用人や時折帰ってくる父の話を可能な限り耳に入れた。そうしてわかった情報の一つとして、この世界には魔素の概念が存在しないことが判明した。
一見してあり得ないことのように思ったが、考え直した。なんせ、魔素が当たり前のように存在する世界だ。疑問に思うこと自体が難しい。魔法という技術が進んだ世界というのは、科学技術が発達しにくい傾向にある。
元来、科学技術というのは学術的意欲によって推し進められるものだ。そしてそれは例え魔法であっても、欠かすことのできない点であろう。それが欠けているから、魔素の存在に気付けない。何故、魔法はこんな図形を描けば、こんな音を口にすれば発現するのか。そんな疑問を、学術的好奇心を抱かなかったということが、魔素の存在を見抜けなかった原因だ。あるいは軍の魔導総裁に君臨する父や、その他一握りの人間は気付いていそうなものだが、それがこの世界における常識だろう。
さて、魔素の存在に気付いていない人間が、同じく存在に気付いていない人間に魔法を教える方法だが、それは単純な話というものだ。先人の描いた図形を手順に則りなぞることと、試行錯誤して考案された音を文字に置き換えたものを口にすればいいのである。あとは経験してみなければ理解できない、繊細なコツのようなものがあるが、それさえ行えば魔法は発現するのである。
いやはや、それこそやれやれ、である。魔素が自然に満ちる世界に転生するのはこれで確か三度目だが、こうも魔法技術でさえも発展途上にある世界は初めてだ。色々と動きやすくはあるが、ここまでくれば呆れが先に出てくる。俺にエミー姉さんへ魔法陣を教えさせるというのも、先人の考案した図形を描けば、何も考えずとも魔法は発現する。そういう凝り固まった固定概念を、子供同士ならば容易にそういうものか、と植え付けられるであろうと考えてのことに違いないだろう。
別段母のその選択は悪くはない。いつまで経ってもそれを理解せずにその場で足踏みしていれば魔法は使えないし、学校では浮くことになりかねない。そしてそれは、思春期真っ盛りの年齢での集団生活においては、悲劇しか生まない。お嬢様学校ともあれば、さぞ陰湿な目に遭うことになるであろうことは想像に難くない。それを回避しようと母も必死なのだ。責めるべき点は見当たらない。
しかし。しかし、俺は別のアプローチでそれを回避させてみようと思った。
母は俺の問いに、ばつが悪そうに肯定した。
・ ・ ・
「エミー姉さん。あとはここを繋げば魔法が発現するわけだけど……どう組み込めばいいのか、実はわかってるよね?」
図形と図形の間隙を指し、真っ直ぐにエミー姉さんを見据える。隠しても無駄だぞ、と直球にそう問うことにしたのだ。
エミー姉さんは暫し逡巡して目を泳がせていたが、俺の追求から逃げられないと悟ったのか、首を縦に振った。肯定である。
「へへへ、バレちゃったか。……うん、そうだよ。まだちゃんとやったことないけど、多分こうすれば魔法が出るんだろうなーって感じには描けると思う」
弟に咎められたことからくる照れくささと、件の魔法陣と魔法との関係性の難関さからくる釈然としない感覚。その二つに彩られたエミー姉さんの顔は、苦笑という表現が最も適していると言えた。心なしか後頭部で結われた二房の尻尾も、主の心情を表すかの如くしゅんとしている……ように見えなくもない。
「でもね、わからないんだよ。納得できないんだ。ダリアに聞いてもお母様に聞いてもね、こうすれば魔法が出るからこうしなさい、そういうものだと思って先に進まないといけない、って」
エミー姉さんはそう言って困ったように首を傾げた。それは当然の疑問なのかも知れない。前世でも、学ぶ対象が身の丈に合ったものでなければ詳しくは学ばせず、それを高等教育の際にと丸投げして別の課題へと取り組ませる――そういった教育方針を掲げた世界はいくつもあった。しかし、どんな世界にも必ず、エミー姉さんのように疑問を持ってはそれを理解せずに次の課題へ移らせられることを躊躇してしまう人間は一定数存在する。
「……」
俺にもそんな時期があったかな、と瞼を閉じ、思い思いにこれまでのセカイを、この新たな体の脳裏に焼き付ける。それは、ある種の"摺り合わせ"だった。やらなくても朧気ながら思い返せるが、これをやると鮮明にその記憶が新しい体、その意識に根付く。
「……? リーン?」
どれ程そうしていただろうか。ふと気付けば、頬が弛緩して自然と笑みを形作っていた。
「……そんなものはくだらない」
そう、そんなものはくだらないのだ。
そう薄く呟くように口にしてから、机の対面に座するエミー姉さんを見据えた。
「エミー姉さん。何で世間一般にダリアや母さんの言ったように、"そういうもの"だと理解しなければならないのか……わかる?」
それに対するエミー姉さんの解答は、否だ。
「教育施設というものは、そこに通う者に一定以上の学を持たせることを目的として、効率的にそれを実践しているんだ」
「こうりつ……?」
「あー、そうだね。無駄を限りなく少なくした、という意味だね」
いくら貴族の生まれとはいえ、九歳児には少々難しい言葉を使ってしまったかと反省し、要所を噛み砕いて続ける。
要点を纏めると、入学後にそのペースに付いていけるよう先を急がして、少しでも他の生徒よりも進ませるべくダリアと母さんは動いているのだ、と。
「ここまではわかる?」
「うん。それにしてもリーンは凄いね! お母様やダリアに聞いたってわけでもないんでしょ?」
そうエミー姉さんから向けられるのは、キラキラとした期待の眼差し。又の名を、ブラコン光線と呼ばれる類の不可視の光線である。
それを向けられ苦笑するも、俺は続ける。
「――で。これは俺が書斎やらで調べて纏めたことなんだけど、さっきの疑問のもう一つの解答とでも言うべきものなんだ」
「もう一つ……?」
そう復唱するエミー姉さんは、難しげな顔をして考えるも、思い当たることがないようだった。
これから伝えることは、子供が周囲の大人が絶対であるということを、ある種その概念を真っ向から破壊することへと繋がる。しかし、誰しもがいつかはそれを悟るのだ。それを知って、あるいは痛感して、子供は大人へと成長していく。それが遅いか早いかだけなのだ。そしてエミー姉さんにはそれを受け入れられるだけの器がある。躊躇う必要はなかった。
「ダリアや母さんもね、知らないんだ。魔法陣がどうして魔法との繋がりがあるのか、その仕組みがどういうものなのか。そしてそれは世間一般にも知られていない」
・ ・ ・
「じゃあ始めるよ」
そう言って、机の中心に図形を組み合わせたものを描いた紙片を配置する。
俺は、エミー姉さんに魔素の概念を説明した。半信半疑ながらも、前知識がないためかその説明は抵抗なく受け入れられた。弟としての実績の勝利とも言える。
今は、エミー姉さんもソフィも作業を中断して、魔素の存在を証明する俺の実験を見ることに専念していた。ソフィは話の内容を理解できているとは言い難いが、ソフィはソフィでまた別の機会ということで問題ないだろう。それでも、一応一回目は普通に魔法を発動するので、何らかの刺激は得られる筈だ。
「こことここを結べば、設定した三秒後に水がちょろちょろと出続ける。はい――出た」
図形と図形との接点から、水が少しずつ染み出してくる。それが次々と量を増やしていくと、予め机の下に複数用意しておいた桶に貯められていく。
「すごいにーさま! とーさまみたい!」
「本当に……魔法っていつ見ても凄いなぁ」
二人は、それぞれ感嘆の言葉を口にする。厳密には料理や洗濯にと魔法は常日頃から普段の生活において絶え間なく使われているのだが、それは魔法陣の組み込まれた道具――魔導具の役目だ。従って、このように図形を、魔法陣を描いただけに過ぎない、ただの紙切れから魔法が発現するということに、どこか二人は非現実的なものを見るようで驚きを禁じ得ないようだった。
それこそ稀に帰ってくる父さんが、曲芸染みた家族サービスに魔法を行使する時を除いて二人が魔法という魔法を目にする機会はないので、その驚きは当然のものなのかも知れない。
「じゃあ次。この机の上一帯の魔素を無くして、水が出なくなるのを確認しよう」
それにエミー姉さんは頷き、ソフィも理解しているのかどうかはともかく頷いた。
二人の様子を確認すると、机の四方それぞれの角の辺りに、この世界には存在しないであろう組み合わせの図形を描いた紙片を配置していく。
一つ、二つ、三つ、と置いていくと、例外なくそれぞれの紙片は水に浸され濡れたが、四つ目を配置するとそれは起こった。
同じく水に浸され濡れるが、それを配置し終えると、徐々にだが中心から出続ける水の量が減っていき……やがて、止まった。
「これは……」
「にーさま、おみずとまっちゃったよ?」
エミー姉さんは驚きと納得のいったような清々しい顔。ソフィはくりくりとした目を瞬かせてどこか残念そうに、そう言った。
俺は四方の紙片を手に取って水が再び流れることを見せたあと、二人に「内緒だよ?」とだけ告げ、中心の紙片を同じく手に取ってゴミ箱に放り込むと、桶を抱えてその場を後にするのだった。
少々ルビを多用し過ぎた気もしますね。以後気をつけます。