第一話 ある貴族の朝食風景
「は? 俺が教えるんですか?」
とある日の早朝。トーストを食べ終え、六歳の分際にして無糖のコーヒーで一息ついている時だった。
「……ラインヴェルト。作法の勉強は出来ていますが、作法というものは常日頃から意識を心掛けることで――」
「はい。理解しています、母上。公の場でのマナーは、いち貴族として何より心掛けておくべきものでしょう。しかし、信頼関係というものはその常日頃から積み上げていくもので、形式を重視したばかりにそれが疎かになる、といったことはそう珍しい話ではないそうですよ?」
俺の崩した口調に、母が礼儀作法を説いてくる。これは半ばこの頃の定番と化したやり取りであった。俺自身、貴族のお固い礼儀作法とやらは、というより貴族という肩書そのものが面倒でしかないが、それはそれ、これはこれというものだろう。貴族として生まれたからには、やらねばならない時はやる。それは、いかなる転生先でも余程不快な要素がある場合を除いてその環境を受け入れる、といった己のスタンスからきていた。その為、敢えて言葉遣いを崩しては、自分にはこの程度の作法はすぐに切り替えられるほどの余裕がある、という意思表示を繰り返すことで、間接的に私的な場での作法の強要を薄めてしまおう、というのが俺の狙いだった。中々に良い妥協点であると自負している。
「……もういいわ。全く、一体どこでそんな知識を取り入れてくるのやら……」
最近の反応としては、こんな感じだ。最初こそ困惑していた様子ではあったが、今ではこのように呆れが顔に滲んでいる。……いや、失望の色がない時点でそれは成功であるので、誰がどう見ても順調であると言えるだろう。……多分。
「私、知ってます! リーンのような子をテンサイジと言うのですよね!」
「にーさま、てんさいじ、なの?」
三者三様、それぞれの反応が返ってくる。我が姉エミーリアは、覚えたてなのか自信満々に天才児という言葉を微妙なイントネーションで口にする。俺の愛称がころころ変わることを除けば、歳相応に無邪気で素直な子、という認識で差し支えないだろう。感性が普通とは違うのか、少々変なところもあるが、それこそ天才気質と言える……のかも知れない。呼び名はらべるに始まり、ラヴェル、ラーヴェ、べるとちゃん、ライくん、と色々アレなネーミングを経たが、今のところは父がそう呼ぶということで、リーンに行き着いた。現状その点においては安心してもいいだろう。何を以って安心と定義するのかは知らないが。余談だが、母も真面目な話や公の場以外では、父同様にリーンを採用している。正直どうでもいい話ではあるが、公式の愛称がべるとちゃんでないのは泣いて喜ぶべきところなのかも知れない。
「まさか。俺程度を天才児なんて呼んだら、本当の天才に失礼というものだよ?」
拙い喋り方ながらこちらへ問い掛けてくる我が妹ソフィにも、出来る限り丁寧な対応をする。自我を完璧に形成出来ていないこのくらいの歳の子へは、出来得る限り丁寧な返しが必要だ。内容を完全に理解出来ていなくとも、根気よく対応を続けることが将来的なこの子の人格形成に良い影響を与える筈だからだ。母は普段ソフィが疑問に思うことがあってもその場にいない場合が多いし、エミーリア姉さんは色々と暴走気味なのでそれどころではない。従って育児を担当するダリアが普段は適宜対応をすることになっているが、彼女は現在業務に就いている。故に、そんな時は俺がソフィの話し相手になる、ということが既に習慣として出来上がっていた。
「? てんさいじ、とてんさいってなにがちがうの?」
そこからか、とは言わない。子供の教育で、この段階で躓く人間が多いことを俺は知っているからだ。そこに耐え切れず人格の曲がった人間に育ててしまったり、育児に疲れて最悪な結末を迎えさせてしまう人間は多い。こういった細かな疑問を潰していってやることこそ、その子の可能性を大きく引き上げることに繋がるのだ。だからこそ、俺は肉親として今世に生まれた以上、この子の人格の基盤が仕上がるまでは尽力しようと考えている。
「じ、が片方に付くでしょソフィ?」
「うん!」
「そのじ、は天才の後ろに付ける場合は、子供、っていう意味になるんだよ。だから子供の天才ということだね」
「そうなんだぁ……。…………、あ。にーさま、てんさいってどういういみだっけ?」
何だか椅子からこけ落ちなければならない使命を感じたが、そこは堪える。取り敢えず、ホットミルクを飲んで口元に白い泡の髭を湛えていたので、懐からハンカチを取り出し拭ってやる。ソフィはそのくりくりした両目を瞬かせていたが、その旨を伝えると、満面の笑みでこちらへ感謝する。
「……あー。えぇと、リーン?」
「何でしょう、母様?」
「私がこんなことを言うのもどうかとは思うけど……たまにはお母さんやお姉ちゃんに甘えても良いのよ?」
「はい……?」
俺とソフィのやりとりを見て、微笑ましげながらどこか苦笑した母は、そんなことを言ってくる。その顔はどこか心配げにこちらを窺うような類のものだ。何を心配しているのかはよくわからないが。……いや、そうだ。まぁ、六歳児としては少々常識から外れ過ぎていたようにも思う。その辺を見て、母はそういった言葉を投げかけてきたのだ。正直、俺にとって転生がどうのとかはバレてもどうでもいいことで、"動きやすい"方向に環境を持っていくことを第一に考えて行動する。しかし、それと同時に、あくまでラインヴェルトという存在は、この人達にとって唯一無二の家族なのだ。どうやら俺は、その認識が少々甘かったのかも知れない。そう理解したとして俺の行動の優先順位は変わることはないが、その点を頭に留意しておいた方がいいかも知れない。
「はぁ……まぁ、考えておきます」
茶を濁すように、そう一言だけ告げる。飲んでいるのはコーヒーだけど。……。
「……はあ。ソフィ、良いお兄ちゃんを持って良かったわね?」
「ん? えへへへへ、そうでしょー? そふぃね、にーさまだいすきなんだよ!」
うーん、うーんと唸っていたソフィは、母の言葉に顔を上げると、そんな嬉しいことを言ってくれる。仲が険悪であるよりも、家族に慕われていたり懐かれていた方が嬉しいものだ。それは俺も例外ではない。
「ソフィが羨ましい……。お母様、実は隠し子とかいませんか?」
その様子を見ていたエミーリアは、どこで覚えたのか、そんな爆弾発言を投下する。
「いるわけないでしょう、そんなもの………………、もしいたら、エミーは一年早い帝都デビューね」
何を思ったのか、母はニコッと黒い笑みを浮かべた。帝都で働いている父は、今頃悪寒でも背筋に奔っていることと思う。深い意味はない。追求したら、俺にも飛び火しそうでこわい。因みに母の実家は帝都にあるそうだ。これも深い意味は無い。
「……というかエミーも、一体どこでそんな言葉を覚えてくるのかしら……。我が家の教育はどうなっているの、ダリア……」
今はここにいないダリアへ向けて、虚空へそう、母は嘆いた。
畏まる→かしこまる のように、一般に用いないものであったり読んでいく中で読書ペースが乱れそうな漢字は極力使わないことにしています。"分かる"なんかも使い分けが本来は多岐に渡ると思うので、極力控えていたりします。






