氷室の神様
冷たい氷が好きだった。
噛みしめるとあっさり崩れる音も、
儚い舌触りも、
身体を蝕む冷たさも、
手の上で転がる美しい結晶も、
そのくせ手放せば溶けてしまう悲しさも、全て全て。
それは、すべて氷室の心に適ったものだった。
「だからといって、そうやって毎日食べられると、神社の備蓄がなくなってしまうんですけどね」
しゃく、と氷を口に含むと同時に、ため息交じりの声に邪魔され、氷室の眉が寄る。
石造りの鳥居によじ登り、寝転がり、手元には籠いっぱいの冷たい氷。一口大に刻んだ氷を山盛りにしてあるのだ。
ひとつ摘まんでかざせば、太陽の光を浴びて美しい。まるでそこだけ冬の雪原だ。がぶりとかぶりつけば、歯がきん。と鳴って心地いい。
……ご機嫌に食べ始めた瞬間に、そんな事を言われては腹も立つ。
「禰宜、煩いで。お前、俺が何もんか分かってんやろ。俺は氷の神やぞ、ここの主やろ。氷でも食べな熱うて溶けてまうわ」
氷室は鳥居にまたがったまま、手をひらひらと振ってみせる。
まるで宝石のように、氷がきらきら光る。夏の日差しは、本当に暑い。しかし、それに反射して輝く氷は美しい。
「じゃあそこから降りてきなさいよ。自ら一番暑いところに上って何を言ってるです」
「神が鳥居にあって何が悪い」
「そこは神の使いが立つところ。神の居場所は拝殿の奥でしょ。わざわざ御禁足地を作って護っておりますよ。御禁足地は山の風が吹いて涼しいのだから、そっちに行ってください」
紫色の袴を身につけた若い男が、鳥居の下でぷりぷりと怒っているので、氷室は氷をひとつ摘まんで投げつける。
「煩い。あそこは薄暗ろうて、すかん」
「つめたっ! ちょ、やめてくださいよ。氷室の氷は、献上とかあれとかこれとか……とにかく、実は色々使う用事があるんですから。それ、あんたのご飯ってわけじゃないんですよ」
「ええやないか。元を辿れば、氷室の氷は俺の為に用意されたんやもん。俺の食料庫やもん」
「違います。氷室を護るためにあなたが祀られたんです。考えが逆。あなたは氷室のただの門番みたいなものです」
「うっざ」
鳥居に立って、遙か遠くを見つめる。青い空、雲、遠くにかすむ山。小さな屋根がみちみち詰まった、山麓。
山の端々から、悲痛なほど鳴き響く蝉の声。
ここは山頂である。この山には清き水が流れる。いつからだろうか、この清水に積もった雪は延命に効果があると囁かれた。
氷室が作られ、朝廷に献上するための倉庫となった。その時、小さな玉が掘り出された。ああこれぞ延命の神であろうと囁かれた。
そのうち、氷を護るために神社が作られた。氷の神だ氷室の神だと、清水で清められたご神体が山の禁足地に埋められた。夏でも冷たいその大地の底。
……氷室が目覚めたのは、そんな場所であった。
気が狂いそうであった。冷たい大地の中、冷たい身体。捧げられる祈りの声。必死に土を掻き出した。なぜ自分がこのような土の中にいるのか、想像もできなかった。
土底からもがいてもがいて顔を出せば、そこは誰もいない禁足地の中。山頂より降り付ける、冷たい雪に包まれている。
音もない。ただ、一人だった。
禁足地の、その真ん中で、氷室はただ一人であった。
雪に触れても雪は手の中で溶けなかった。氷室の手の温度が、それよりも冷たかったのである。
あれから千年が経った……恐らく。
氷室に時の感覚は無い。ただ神社を護る禰宜はもう何十人と変わった。氷室の姿を見て怯えるものもいたし、拝むものもいたし、捕らえようとするものもいたし、色々だ。
ただ、数年前から勤めはじめたこの若い禰宜は、不思議と氷室を見ても、驚かなかった。
合理的なのだ。と彼は自己分析していた。
「僕が思うにね。これまでの先輩方は、あなたを少し甘やかしたのだと思うんですよ。いくら神様だといってもね。氷はばりばり食べる、ご神託はしない。そのくせ文句ばかりいう。煩い。鳥居や拝殿を土足で歩く。僕の通ってた学校では、そんな神様に真面目に仕えろなんて教えて貰ってませんから」
色白のにょろにょろ背ばかり高い男であるが、若いくせに禰宜を任されているのだから神徳は高いのだ。と、以前の禰宜は氷室にこんこんと諭したものである。
以前の禰宜は年のせいで、引退を余儀なくされた。口の悪い爺であったが嘘は吐かない。
そして今回のこの禰宜も、口ばかり悪い。
神社本庁がそういう人間ばかり選んで送りつけているのだと、そう思う。
「禰宜が神に仕えんで何に仕えるのん」
「ご存じですか? この神社は珍しく宮司がおかれていない。なぜなら、あなたがいるからです。あなたは神であり、同時に宮司です。詳しくは知りませんが、遠い昔に決められたみたいです。で、禰宜とは神に仕えるものではありますが、一番の仕事は宮司のサポート」
禰宜は手にした箒で地面を殴り付ける。
「禰宜にはね、さぼる宮司を口うるさく叱りつける権利があるというわけです」
氷室は鳥居に寝転がったまま、氷を一口、くわえる。
心地のよい。あまりにも心地のよい冷たさだ。土の中から目覚めてからというもの、氷室は氷を食うか寝るか、鳥居の上で一日過ごすか、それくらいしかしていない。
「あなたを最初に見つけたという禰宜は、まあそれは優しい人であったと聞いてます。泥だらけのあなたを助けて、それからすっかり甘やかした」
「……せやな」
「どうでもいいから鳥居から降りなさい。それ、一応、重要文化財に指定されてるんですから」
古くさいこの鳥居は、気がつけばそこにあった。神社ができたときに作られたという。目覚めた氷室を、この鳥居に連れて上ったのは最初の禰宜である。
確かそのとき、世の中はもっと広かった。大きな建物など、なにもなかった。ただただ、空がどこまでも続いていた。
「……禰宜、今年の夏はあっついな」
「ええ。暑い上に雨が降らない。山麓の村はすっかり干上がって、で病気まで流行ってますよ」
「えらいこっちゃ」
氷室は他人事のように呟いて、氷を覗き込む。
どこまでも透明な氷に、うっすらと自分の姿が映っている。長く白い髪。白い肌。目だけが妙に黒い。禰宜が与えた着物が白いので、目の黒さだけが際立った。顔立ちは、禰宜よりも若く見える。
これでも元々は、ただの丸い白の石だったのだ。清水に清められ、丸くなった。人がそれを見つけて、これが神だと言った。そのせいで、冷たい土の中に押し込められ、挙げ句こんな姿になった。
目覚めて以来、鳥居の上から見える風景が氷室にとっての全てであった。どこまでも青い空と山道。季節ごとに移り変わる雲。千年経っても、見える風景は変わらない。これから一千年経っても変わらないだろう。
ただ最近は、夕立も降らない。酷い夏であった。
これでは人も死ぬだろうな、と氷室は思う。だからといって、別段何とも思わない。自分がどうこうできる問題では無いと思っている。
ただ自分にできるのは、こうして鳥居に寝転がって氷を食べるばかり。指で氷を摘まんで光にかざすと、結晶が灼熱の太陽に輝いた。
「ああ、もう」
禰宜は不作法に、鳥居を蹴り上げる。それを見て、氷室は悲鳴を上げる。
不思議なことに、鳥居や建物を傷つけられると身体に痛みが走るのだ。それを発見したのも、今の禰宜である。そもそもこれまでの禰宜は、もう少し氷室のことを畏れて崇拝していた。
「おまえ、この鳥居が、じゅ……じゅうよう、なんや、何かじゅうよう、なんちゃらって自分から言うておきながら」
慌てて飛び降りると、禰宜は細い目をさらに細めてふふんと笑った。
そして素早く、氷室の持つ氷の入った籠を奪う。
「おま、かえせ!」
「貴方は水を氷に替えられるでしょう。自分で作って自分で食べてください。つまり自給自足」
はい、お水。と彼は大きな桶にいっぱい詰めた水を差し出す。どぷん、と揺れるそれは夏の日差しをさんざん浴びて温い。氷室は眉を寄せて、それの表面をつん、と突く。
きん、と音を立てて表面が凍った。が、中はまだ温い。やがて水の持つ温度で表面の氷は割れて消える。この桶いっぱい凍らせるには、少しの努力が必要である。
「氷さえ作ってくれたら一口サイズに切ってあげますし、雪にしたければ大根下ろしですり下ろしてあげますから、とりあえず氷作って下さい。それ食べててください」
「全然、神聖な氷やあらへん」
「一応これ清水の水ですよ。それにあなたが神聖な氷にしたらいいじゃないですか。神様なんだから」
氷室は神だ。しかし何の力もない。ただ身体が雪より冷たいこと。それと水気に触れるだけで水を凍らせることができる、というだけだ。
触れるだけで人の命を救うだとか、願いを叶えるだとか、そんなたいそうな事はできない。
できるのかもしれないが、教えられていない。そもそも他の神にあったことがない。
ただ無駄に長い命を、この神社の中で氷を食べて消費するだけである。
他の神社には多く参拝者が来ると聞くが、ここは特に御利益もないのか人も滅多に寄りつかない。
だから、氷室はただただ毎日氷を食べている。
「自分で生んだ氷を食べても何もうまない。お前は自分で作る飯と人の作る飯どちらがうまい。人を使役させて作った飯はうまいやろ」
「僕は自分で作ったご飯が一番美味しいですよ。僕は料理が上手ですので」
「くされ神主が」
足を踏みならすと、その足を禰宜が踏む。そして彼は立てた人差し指を口に押しつけた。
「しっ……それより、ほら。また来てます」
痛む脚を押さえてぴょんぴょん飛ぶ氷室は、遠方に一人の少女を見る。それは、古いワンピースを着た貧相な少女である。真っ黒い髪は無造作に結ばれて、ゆらゆら揺れている。
彼女は固く閉じられた目をますます固く閉じ、拝殿の前にじっとひざまずいている。
日差しを遮るもののない、暑い暑い日向である。しかしそんなことにも気付かないように、俯いた首元に汗の玉を浮かべて。
「雪を降らせてくれとは言いません。ただ雨でもいいの」
まだほんの10歳くらい。ぼろぼろのスカートから見える脚は哀れなほどに細い。それなのに、しっかりと熱い大地を踏んでいる。
太い命を持っている。と氷室は感じた。長生きをする身体だ。それくらいは、見て分かる。
「雨でこの熱い太陽を、少しでも遮って。畑が駄目になる、病人も出る」
ぶつぶつと、祈る言葉は悲痛だ。
禰宜は手にした氷を一粒、掴む。
そしてその神聖な冷たい氷を、少女の額にそっと押し当てた。
「火傷しちゃいますよ」
「きゃ」
驚いたように身をそらす少女だが、やはり目は開かない。
……そもそも、彼女の目が開くことはない。
幼い頃に病にあったとかで、この子は視力を失ったのだと噂に聞いた。
「こんにちは。神主様」
「熱心にお祈りですね」
「ここは氷の神様だから、毎日祈っておいでって、村のみんながそういうの。祈ればいつか雨が降るからって」
「村からここまで遠いのに、えらいね。山道で、ろくな道もないのに」
「神様がみていらっしゃるから、大丈夫なの」
彼女は真摯に、にこりと笑う。
「前ね、せっかく御氷室の氷を分けてくださったのに、村に着く頃にはとけてしまって……」
「この暑さじゃ仕方が無いね。そうだなあ」
少女の乱れている髪を禰宜が優しくなでつける。髪がかき上げられると、首元に酷い跡をみた。それは、絞められたような、酷い跡である。
見れば足にも腕にも、痣がある。しかしそれを見ても氷室は何とも思わない。ただ、禰宜の持つ氷を早く奪い返したい、そればかり考えている。
「とけない氷を上げようか」
ふと禰宜が呟いた。そして、その顔が氷室を見る。鳥居の根元であぐらをかいて、すっかり他人事の顔をしている氷室を見る。
「氷室、様」
禰宜が氷室に様を付けるとき。それはろくでもないときだ。
彼は爽やかな優しい笑みを浮かべる。そして奪っていた氷の籠を、氷室の手に戻した。
蕩けかけていた氷が、氷室に触れた瞬間に白い煙を吐いた。
「これ、この子と一緒に村まで持っていってあげてください。これだけお祈りしてくれたんだから、そろそろ御利益を」
「なんで、俺がそないなこと」
「いってらっしゃい」
「なん」
「いって、らっしゃい」
背を殴られるように押されて、氷室はたたらを踏む。神が人を使役するのか、人が神を使役するのか。
どちらにせよ、こうなれば禰宜はひとつも譲らない。
振り返ると息苦しいほどの眩しい太陽光の下、禰宜が笑顔で手を振っていた。
「神様が氷室持って山降りるとか、聞いた事ないわ。ほんましょーもない」
神社を出るのは、数ヶ月ぶりだ。時たま、暇を持てあまして外に出ることはある。とはいえ、面倒なのでせいぜい山道を行き来する程度だが。
この山の麓には、小さな村がある。一千年前にはなかったように思うので、ここ百年前後に出来た村だろう。
山の上ではろくなものも揃わないので、禰宜は時折何かを買い出しに出る。氷室からすればその程度の認識しかない。年寄りばかり揃う、小さな村。
そこから、この娘は来た。
石と木の根っこがはびこる道をゆるゆる歩きながら、氷室はふて腐れていた。
後ろに少女が戸惑うように付いて歩いてくる。目は見えないが光を感じるのだろう。小さな杖を器用に操って、慣れた様子で歩くのだ。
しかし、むっと暑いこの空気の中、村からここまでの往復を思うと少しばかり哀れでもある。
「目ぇ見えんのに、器用やね」
「うん。もうずっと、この道行き来してるから」
「暑いか。ほれ」
立ち止まり、少女の頬に手を当ててやる。ひや、と冷たいその手の感触に彼女は一瞬悲鳴を上げそうになる。が、それを耐えたようである。
「ああ。びっくりしたん? 俺の手、ひやこいから気持ちええかとおもって」
「……! ごめんなさい……あの、あの」
「ああ、名前か……ん……ま、兄ちゃんってよんどき」
「お兄ちゃん?」
「俺な、歩くん早いから、しんどいやろ。つべたいけど、俺の着物つかんどき、せやせや、転けたらあかんで」
着物の裾に捕まらせて、氷室は再び歩き始める。時折氷を摘まんで口に放り投げながら。
「はよ、済まそ。兄ちゃん、はよお家かえりたいわ」
貴重で神聖なこの氷が村に着くまでに溶けてしまえばいいのに。そう思うが、氷室が握り混んでいる以上溶けるはずもない。ああ。なんと損な体質だ。と氷室はぎりりと氷を噛みしめた。
「おい、氷持ってきてやったで。感謝しい。庶民どもが」
村はすっかり日差しに覆われている。
真っ赤な日差しの中、小さな家が密集している。そこから年寄りが何人も、こちらを見ている。目の見えない少女に対する冷たい目線だ。
遠慮の無い、敵を見る様な目だ。ねちねちと、太陽光のように蒸し暑い目線だ。
ああ、気分の悪い話だ。暑苦しい。と、氷室は思う。
早く氷でもなんでも渡して神社に帰ろう。そう考えて、氷の入った籠を少女に渡す。
「氷、わけたるから、あいつらに配っといで」
「泥棒か」
しかし、かえってきたのは意外な言葉である。
「神社の氷を、盗んできたのか、その籠は神社の証が入っている」
彼らは氷室ではない。氷室の裾を掴む少女を見て、吐き捨てたのだ。
「おいおい、なんや。泥棒とか、そないな」
言いかけて、手を伸ばしかけて、氷室は止まる。氷室の手は、男の身体をすり抜けたのだ。
(……ああ)
氷室の姿は、雪の結晶と同じだ……と、かつて氷室を最初に見つけた禰宜はそういった。
氷に結晶があると知っている人でも、その目では見れない。目をこらして、あると信じて、見つめるしかない。そうすれば、見えてくることがある。いわんや、結晶なぞないと言っている人間は、見られるはずがない。
(見えはらへんわ。見えるわけがないわ……俺の姿、こんな奴らに)
男達は少女を無遠慮に殴った。止めようとするが、その身体はすり抜けるばかり。やがて、ぐったりと地面に崩れた少女を男の一人が乱暴に掴む。引きずるように、古ぼけた家に向かう。
哀れなまでに地面にまき散らされた氷室の氷。太陽を浴びて一瞬で溶けて行く。それを男達に踏み荒らされて、氷室は唇を固く噛みしめた。
「あいつ等、なんなん。ぜったい、神罰や、ゆるさん。今度雨ふったら、全部凍らしたるわこのあたり」
苛々と、声を荒げて氷室は怒鳴る。それは、固い扉である。
少女がまるでゴミのように投げ捨てられたのは、廃屋寸前の小さな家。その奥だ。まるでゴミ溜めのような小さな部屋に放り投げられた。
「ほっとくのも胸くそ悪いから、たすけよ思ったのに。なんや鍵かけよって」
慌てて追いかければ、男達がこの部屋にしっかり鍵をかけたところだ。表から、ご丁寧に南京錠だ。
氷室ならば、すり抜けてでも入ることができる。中に入れば、暗い部屋で少女が泣いている。
「ごめん。ごめんね……私が悪いことしたら、ここに入るの、決まってるの」
「そんな決まりあるか。それに今回は、別に悪いことしとらんやろ」
鍵を開けようとしたが、それは重いばかりでどうにもならない。叩いても、手が痛くなるばかりだ。仕方なく、少女の横に乱暴に腰を落とす。
何も無い狭い部屋。息が詰まりそうになるほど狭い部屋。
少女の細い身体も、折れそうな首も、ぼろぼろの服も、なるほど納得であった。
しくしくと、少女は相変わらず泣いている。
目は硬く閉じられたまま。なのに、その閉じられた目の奥から、ぼろぼろと驚くほどに涙が溢れるのである。
「氷のこと。ちゃんと私が説明すればよかったのに」
「悪いんは禰宜や。あいつが余計な……氷や持っていけいうから。あいつも絶対ゆるさへん。みとけ。寝てる間に神社中凍らせるたるわ」
氷室はあぐらをかいたまま、爪を噛んで唸る。その声に少女の涙声が重なる。
「神主様悪くないの。みんなも、悪くないの」
「なあなあ、泣かんといて。泣かれたら兄ちゃん困ってまう」
「ごめんなさい……」
「おい、おい、ほんま泣くのやめて。ああ。どないしよ、俺はこういうのは苦手や。禰宜のほうが、得意やしこんなん」
少女の白い頬に、氷室は手を伸ばす。柔らかな肌に、指が触れる。頬に流れた涙がかりりと凍った。
「……!」
「俺が触れると涙も凍るなぁ……でもびっくりして泣きやんだやろ。泣きっこはもう終わりやで」
驚いたのか、少女の涙が止まる。頬に付いた小さな氷の固まりに触れ、氷室はふと思い出す。
「あ。隠しといたん、まだあった」
懐をさぐると、その中に懐紙に包まれた小さな固まりがある。それは小さな氷二粒ばかり。禰宜に取りあげられたときのために、いつもいくつか隠し持っているのである。
「な。氷たべよ。いっしょたべよ。兄ちゃんも食べるから半分こや。いうても、そないに数はないからな。1個ずつやで」
懐紙を広げると、ひやりとした空気が部屋に漂う。少女が必死に手を伸ばすので氷室は懐紙をその手に乗せてやる。
「冷たい」
「食べてみ」
「……美味しい」
「ん。うまいか。つべたいやろ?」
「お兄ちゃんも」
「おおきに」
氷室も一粒。摘まんで口に入れる。いつもよりもそれは、貴重で甘い味がした。
少女は大事に大事にそれを飲み込んだのだろう。ようやく彼女の顔に、笑みが浮かぶ。
「これね、雪にして、シロップつけてたべてみたい」
「しろっぷ?」
「カキ氷。いちごとか、メロンとか、色んな味があるの。お祭りでね、売ってるんだよ」
少女は宙に何かを描く。カキ氷、と書いたのだ。聞いた事のない言葉に、氷室は首を傾げる。
「雪みたいなかき氷に、しゅって溶けてね」
「へえ。えらいうまそうや」
「シロップのところは甘くてね、雪のところは冷たくてね。最後は溶けちゃうんだけど、それもしゃくしゃくしててね」
「うん。ええな。美味しそうや。俺もたべてみたい。そんときは、半分こや」
氷室が笑ったのを少女も感じたのだろう。つられて笑う。
「昔ね、お婆ちゃんがまだ生きてた頃ね。お祭りによく連れていってくれてたの」
「お婆ちゃん、おらんなってしもうたん?」
「うん……2年前に」
人は死ぬ。氷室は誰よりもそれを知っている。代々の禰宜も、死んでいった。
呆気ないほどに皆、氷室をおいていく。
「そか。しんでしもうたん」
しん。と部屋に一瞬の静寂が降りる。遠くから、賑やかな音が聞こえる。いや、これは人の生活音か。
がちゃがちゃと煩い、人の声。なにかが鍋を叩く音。風が田んぼを撫でる音。機械の音。
いずれも氷室には不快だった。彼にとっての音は、山から境内に降り落ちる風の音と氷の音と、禰宜の声だけである。
「ねえ。お兄ちゃんは神様なんでしょう」
「ん。そや」
少女が言いにくそうに問いかけた言葉に、氷室は呆気なく応える。
禰宜に叱られるか。と一瞬思ったが、それも忘れた。
別に、叱られても構わない。本当のことである。
「すぐ分かってもうた?」
「うん。山道を降りてるときに分かったよ。すごく、ひんやりしてし、音が、他の人と違うから」
「そか。勘がええんやね」
「……ありがとう」
少女は手を合わせて、氷室の前で深々頭を下げる。まるで、拝殿を拝むように。
「お婆ちゃんがまだ生きてたころに、お前は氷室の神様の子なんだよ、だから有難うって感謝しないとだめなんだよって言われてたの」
「俺は子供なんぞおらへんけどなあ」
真剣に拝む彼女を、氷室は幾度も見てきた。鳥居の上から、彼女を見てきた。
拝殿に向かって拝む彼女を見て、おかしくてしかたなかった。なぜならそこに、神はいないからだ。
拝殿の中で大人しくしているときは、彼女の声を聞く振りをしていた。聞くだけだ。願いを叶えたことなど、一度もない。叶える方法も知らない。
彼女に対してだけではない。ずっと、誰に対してもそうだった。
祈る少女の頭に、氷室はそっと手を置く。
「……俺は、なんもできひんよ」
「神様はそこにいるだけでいいのよ」
「……ん、そか」
それは、遙か昔。氷室が初めて出会った禰宜の言った言葉と同じである。神は、そこにあるだけでいい。人は拝むだけだ。
だから、そこにいるだけでいい。
そう言って笑った男も、もう一千年前に死んだ。人は、脆い。
「……そうですね。ろくでもないけど、神様はいますよ。そこに」
がた。と音が聞こえたのはその時。扉からである。氷室は目を見開いて、扉にすがりつく。
「お。禰宜か。禰宜の声か。どうにかせえ。おい」
「なんだ。元気そうじゃないですか。一応心配しましたが損しました」
「早うし。禰宜。はよう、出し。俺は出られる、でもこの子が」
扉の向こうから聞こえてくるのは禰宜の声である。どうやってここを突き止めたのかは分からない。
叫ぶ氷室に、禰宜は平然と応えた。
「一応、怪我でもされたら僕、上から叱られますから。一応、縦社会ですから」
「一応、一応、なんやうるさい。禰宜、ふざけとらんと」
ぱしゃ、ぱしゃ。と爽やかな水の音が聞こえた。それは、聞き慣れた音だ。
禰宜が毎朝、境内を掃き清める。その時に、水を撒く。
……その音と同じだ。
「人に興味のない神様はね、僕としてもとても困るのでそこにいて、しばし考えて、世間というものを見ては如何」
「おまえ。まさか」
「扉には水をかけておきますから、あとはご自由に」
水は、扉全てにかけられたのだろう。床の隙間から、じわりと漏れて氷室の座るそばまで流れて来る。
「一応、水道水じゃないですよ。境内の水なのでご安心を。仮にも、神様ですから」
では。と禰宜は言った。同時に、気配が消える。本当に去ったのだ。なんと薄情な。と叫んだ氷室に、少女は慌ててすがりつく。
「神主様は良い人なの。私、生まれた時から目が見えなくて、いろいろ虐められたとき、助けてくれたの」
「生まれた時?」
「うん。あの神社にね棄てられていたんだって。それでね、ずっと前にいた神主様が、私をこの村の、お母さんとお父さんに預けてくれたの。そんな縁があるの」
しかしこの少女を育てたのは、「お父さん」「お母さん」ではない。育ててくれた「お婆ちゃん」、というその女は死んだ。
その後、ただ一人村に残された目の見えない少女がどのような扱いを受けているかなど、考えなくても分かる。
「村の人はちょっと……ひどいことするけど、でも、今の神主様になっても、私のことを色々気遣ってくれるの」
水は、氷室の指に触れるなり、ぱきぱきと音を立てて凍っていく。それは水から水へと伝わって、扉を静かに凍らせていく。氷室は立ち上がってすう。と息を吐く。白い息が扉に触れると、空気が冷えた。
氷室は扉に両手を押しつけながら、軽く押す。触れたところから、扉が凍る。かりかりと、それは酷く重く、冷たく、なっていく。
水が氷室の手に反応して、そこから全てを凍らせていく。
「……なあ、神社に棄てられてたん?」
「うん。10年前」
「神社に、棄てられてたんか。10年前」
氷室の記憶に、薄い思い出がある。雪のひどい10年前の冬のこと。前の禰宜が、小さな赤子を拾ってきた。鳥居の隅に棄てられていたのだ。こんな寒い日に酷いことをする。下手をすれば死んでいる。と前の禰宜は怒っていた。
暖かい毛布にくるまれた赤子を氷室はみた。色の白い、睫毛の愛らしい子であった。
その顔があまりにも愛らしく、氷室はふと顔に触れてみた。悪意はなかった。ただ、愛らしいと思ったのだ。雪のように、あまりにも白いその顔が。
薄い皮膚が、まだ開かない目が、氷室の手に反応した。かりり、と小さな音をたてた。顔が、氷に覆われた。
(……俺が、そうか。俺が)
目の前の扉も、氷に覆われている。かつての、10年前のように。
(俺が、この子ん目、壊したんか)
やがて扉は氷の重さに耐えかねるように、低い音をたてて、崩れた。
扉はまた治せばいい。しかし、目をこわされた少女は、もう二度と治らない。
(そんで、俺が、この子を村にやった)
前の禰宜が、氷室に言ったのだ。この子の行く先を決めろと。面倒になった氷室は、村の夫婦に与えることにした。子供が欲しい、と時折拝みに来る夫婦であった。
賽銭をけちるような厭な夫婦であったが、欲しいものをくれてやればいい。などと浅い考えでそう命じた。
そうか。と氷室はまた呟いた。崩れた扉を踏みしめて一歩、部屋から出る。
少女は突然の音に驚いたのか、固まったまま。
氷室は優しく、その手を取る。そして着物の裾を握らせた。
「なあ。自分、名前なんていうのん」
「雪」
「そか。ええ名前やな。兄ちゃんは氷室いうんよ」
「氷室さま」
「さま、はええよ。だって俺、なんもできひんもん」
外に出ると、闇だった。夜はこれほど暗いのだ。神社には常に火が焚かれているので、夜がこれほど暗いなど、氷室は知らなかった。
扉の壊れた音に驚いたのか、人の気配がする。誰かが雪を見つけたのか、何事か叫んだ。
「……な。雪ちゃん。おもろいことして、遊ぼか」
氷室は雪を抱えて、軽く数歩駆ける。そこに、小さな川がある。連日の猛暑にすっかり水が干上がっているが、まだ少しばかりの水がある。
「ちょっと冷たいけど、兄ちゃんと手つなご。んでな、川に手を付けて」
氷室は雪の小さな手を握って、その水の中へ沈めた。触れたところから、凍っていく。
「つべたいの、我慢やで……でな、思いっきり……思いっきり」
男達が雪が逃げ出したことにきづき、騒いでいる。近づいて来る。壊れた扉を見て、化け物。と叫ぶ男もいる。
それならば化け物と、思わせてやる。氷室はにい。と笑う。
「腕、振り上げるんやで!」
雪の手を握ったまま、大きく腕を振り上げる。薄く凍った水がその動きにつられて大きく円を描く。
夏の夜風に触れて、触れた先から溶けて行く。
薄く凍った、薄く溶けた氷の結晶。それはまるで雪のように、夏の夜空を真っ白に染めた。
「ただいま」
神社に辿り着いたのは、もう深夜を大きく回っている。
山道の向こうに石造りの鳥居がみえたとき、氷室は心底安堵した。そこには、美しく神聖な薪が、目印のように焚かれていたのである。
「禰宜。おい、このどくされ」
境内から社務所に駆け込む。そこが禰宜の部屋だ。いつもは早く寝る禰宜が、今日は珍しく起きていた。小さな灯りの下、祝詞などを呟いていたらしい。珍しいこともあるものだ。と氷室は思う。
禰宜は飛び込んで来た氷室を見て目を見開き、やがてにっこりと笑った。
「お帰りなさい」
「おまえ、神社本庁に訴えたろか」
「ご自由に……おや」
禰宜は目を細め、目をこする。それは、氷室の背に負ぶわれた雪を見たせいだ。
手を繋げばひどく冷える。しかし、着物ごしであればまだましだ。山道の途中でうつらうつら船をこぎ始めた雪を氷室は背負った。何かを背負うなど、はじめてのことである。
暖かい人の温度は、それほど厭なものではない。
「雪ちゃん、連れて帰ってきちゃったんですか」
「返してもろてきた。俺がせっかく、送ったものを無碍にするから」
ゆっくり下ろして恐る恐る覗き込めば、雪は小さな寝息を立てている。泣いたのか、目元が赤い。しかし、生きている。
ほっと漏れたため息は、白い霧となった。
「お疲れ様です」
「おい禰宜。お詫びしたいならシロップこうてこい。いちごやぞ、メロンもいるか。まあ何でもええわ。氷室の氷にかけてたべる」
「太りますよ」
そんな事を言いながら、すでに禰宜は笑っているのだ。ひどくおかしくて仕方ないというように。
「この子はどうします」
「雪ちゃんな。ええやん、元を辿ればこの神社に棄てられてたんやろ、ここの子でええやん。どうせ、ここ。巫女はんおらへんし、巫女さんしたら」
「手続きが面倒くさいなぁ……」
「ぎょうさん部屋余ってんやし。部屋足りなんだら、拝殿の奥潰せば」
「あそこは禁足地……」
言いかけて、禰宜は小さく笑う。
「っていうのも馬鹿らしいですかね」
「俺がここにおんねんから、禁足地もなんもあるか」
「それはそうだ……そうだ、氷室」
そして禰宜は立ち上がると、何やら部屋の奥に行く。戻って来た彼の手に乗っていたのは、小さな小さな氷の塊。
「はい。氷、どうぞ」
それは氷室に収められた、氷の一かけ。光にかざして氷室は驚いた。特別に純度の高い、儀式に使うものだろう。氷室も見た事がないものだ。
口に入れると、どのものよりも甘美であった。
「なんや、気持悪い」
「あなたにしては、まあまあ、まともなことをしたな、と思っただけです」
とりあえず、この子のことは明日考えるとして。と、禰宜は欠伸を噛み殺す。
「僕はもう寝ます。定時はとうに過ぎてますし、明日も早いんで……あなたも、今日は別に鳥居で寝てもいいですよ」
「なん、気持ちわる」
「今夜は珍しく涼しいんで。あなたに境内の中で寝られるとひどく冷えそうですし」
禰宜はいつも一言多い。ぎゃあ。と怒りかけた声をなんとか飲み込んで、氷室は頭をぼりぼりと掻く。
今日は確かに少し涼しいらしい。雪は心地よさそうに眠っている。
「……そか。もう、夏も終わりやしな」
「ですね。また秋が来て氷室の掃除をして、冬がきたら氷室に雪を詰める。夏になればあなたがその氷をぼりぼり食べる、ま。その繰り替えしです」
禰宜の寝惚けるような声を背に聞きながら、氷室は社務所をあとにする。上げた目に見えたのは、石の鳥居とその上にかかる綺麗な満月。響く虫の声は、悲哀が滲んでいる。
それはどこか秋の色を持っていた。
一千年眺めてきた同じ風景だ。しかし……けして、毎年同じではない。今、社務所で眠る少女の姿を思い浮かべて、氷室は大きく伸びをする。
「明日、なんして遊ぼかなあ」
日常の揺らめきだ。新しい投石だ。それは、新雪が降り始める初冬と同じくらい、氷室の胸を高鳴らせた。
夏の終わりの出会いであった。