恋愛における再現性
そもそも科学的ではないのだと思う。
例えば、燃えている蝋燭に一枚のティッシュを近づければ、メラメラと燃え上がるのは自明の理だ。だが、綺麗な人が泣いているところに思春期の少年を近づけたとしても、必ず恋の炎が燃え上がるわけではない。
美人の泣き姿を見ると、思春期の少年は、心拍数が高くなって、女性に性的興奮を覚えるようにできている。多くの個体がそうなるのは、生物学的にも統計学的に見ても明らかだ。凍らせた水が固体になるぐらい、それは必然的な事である――ように多くの人は考える。
だが、それは一〇〇%ではない。
例えば、それが異性愛者ではなくて、同性愛者としての特性を持つ思春期の少年だったら「かわいそうだね」で終わるだろう。
それでも。
この場合、同性愛者は可燃物ではないという指摘があるかもしれない。ならば、百人の異性愛者である思春期の少年を泣いている美女の前に連れ出してみよう。少なくとも七人は、特に何の感慨もなく女性をスルーするはずだ。異性愛者にも趣味ある。小さなコドモしか愛せない者もいれば、熟女しか愛せない人もいる。平面的な異性を好む者もいれば、文字列の女性しか愛せない人もいる。
ならば、全く同じ人間同士を百回出会わせたらどうなるのか。
たぶん、七人は恋に落ちないだろう。
なぜなら、恋はそういうモノだからだ。
蝋燭の火は間違いなくティッシュに燃え移るのに、恋の炎の再現性は、あまりにも低い。つまり、恋は科学的ではない。
オカルトだ。
だから、悪魔が人に恋をする。
そういう事もあるのだろう。
そもそも悪魔とは、人間を堕落させるための霊的存在だ。その主人は魔王であり、その上には全知全能の神がいる。神が人間を苦しめるのは、一体全体どういう了見だと憤りを隠さぬ不心得者もいるかもしれないが、そもそも神は最初に断っている。
『我ハ全知全能ナリ』と。
つまり、全てを知り、あらゆる能力を有している完全なる存在が神だ。
そんな存在が支配する世界において魔王が存在するという事は、つまり、魔王は神に許された存在と言うことである。
そして、魔王が悪魔を顎で使い、人間を苦しめているという事は、それは神に保証された行いという事だ。
悪魔は神の命令により、人間を苦しめ、試している。神を裏切るふらち者か。地獄に落ちても神を信じ続けるか。心正しい者を重点的に苦しめるのが魔王の、ひいては手下である悪魔の役目だ。
たぶん、全知全能なる神は狂っている。
悪魔は、そんな狂った神の末端を担っていた。皆から愛される天使とは異なり、嫌われ蔑まれる嫌な役目だ。
心清き者のところに赴いて、ひたすら苛めて、拷問をして、神が「いいよ」と許すまで、ボロを出さないかチェックするのがお役目だ。
ボロが出たら、全てが神の与えた試練だと明かして、絶望の淵に追いやって、その場で殺す。殺したら、勿論、地獄に落とす。
本当に嫌な役回りだ。
善良な人々を追い詰めて、憎しみに染め上げるのが、悪魔のお仕事。
たまに、それでも心を曲げない信心深い人も居るけれど――それはそれで狂っていると悪魔は思っている。両親を殺され、娘を犯され、業病にかかって死の直前にあっても、ただ神を崇め奉る聖人は――狂人とどこが違うのだろうか。
あるいは、これは狂った神が同族を見つけるためにやっているのだろうか。
そういえば、アレは聖人が見つかった時、莫迦みたいに浮かれているな、と悪魔は暗い顔で吐き捨てた。
そんな風に。
悪魔は、嫌な仕事をずっと続けていた。
福利厚生もなければ労働基準法もない。休まず人々を堕落させ続ける。多くの人々を貶める。すると、人々は悪魔を恐れる。まあ、当たり前の事である。そういう事をやっているんだ。貴様らの敬愛する神の命令でな。そんな愚痴をこぼしながらも、悪魔は神の忠実なしもべをしていた。逆らえる筈もないからだ。
そんなある日、悪魔は少女に出会った。
なぜか、悪魔は恋をしてしまった。
悪魔が恋をした少女は、ごく普通の少女だった。特に秀でた性格もなく、見目麗しいという事もなく、何かの才能があったわけでも無い。恋をした悪魔本人ですら、なんで好きになったのか分からない、ごく普通の少女だった。
ただ一つ、少女に常人と異なる点があるとすれば『彼女は悪魔に好かれている』という一点だけだった。
「あんたさぁ、黒いね」
少女は悪魔を評して、そう言った。
確かに、悪魔は黒かった。
その、頓馬な一言が切っ掛けで惚れたわけではないが(そもそも、悪魔の一目惚れだった。初めて口を利く前から、悪魔は少女に惚れていた)、その一言で、悪魔は少女に、更に夢中になってしまった。
「アンタってアクマなんだ。へー、それって外資系?」
「……わかりやすく言えば、宗教法人な公務員」
「ああ、ヤスクニってヤツだ。知ってる知ってる」
「靖国神社は、もう国の施設じゃない」
「んじゃ、どこの会社に勤めてんの? アタシとケッコンしたいなら、収入がバッチリじゃないとダメだかんね。フリーターとか夢追い人はダメー アタシとコーサイしたいならちゃんとしたところにシューショクしてくださーい」
「意外と、しっかりしているんだな」
「あったりまえだよ! ショーライの事なんだから、それにコドモに苦労かけさせたくないじゃん?」
人を貶めるのが仕事だった。
誇れる事は何も無かった。
ただ、神の命令に従う事が悪魔の全てだった。
けれど、悪魔には大切な人が出来てしまった。
少女を好きになって三時間後、悪魔に仕事が舞い込んだ。一人の敬虔な聖職者を心折れるまで追い詰めろ。いつも通りの神の命令。悪魔は、どうしようもなく心に重い物を抱えながら、仕事に向かった。
今までに無い感情が、悪魔の内を満たしていた。
後ろめたい。
申し訳ない。
そんな気持ちが生まれていた。
その重い気持ちの源泉は、好きになった少女との、ほんのささやかな邂逅だった。ただの一瞬で落ちた恋。実にありふれた一目惚れ。気が付けば勇気を出して実体化し、話し掛けて、ナンパしていた。
入った店はハンバーガーショップ。
そこでチーズバーガーを二人で頼んで、一時間のお喋りをした。ただ、それだけの経験が、有史以来、人間を苦しめ続けていた悪魔の心に重くのしかかっていた。
今までは、こんな事はなかったのだ。
なぜか、少女に恋をしたせいで、あの真っ直ぐな眼を裏切りたくなくて、悪魔の仕事をしたくないと考えている。
けれど、悪魔に拒絶は許されない。
悪魔は、神に創造され、悪魔としての役割を担っている。それは狂った神の定めた根本原理。抗うことは誰にもできない。
悪魔は、悪魔である事を辞められない。
だから、善良な人間を貶めるため、悪魔は教会へとやって来た。
ターゲットとなる善人は、×××××という牧師だった。元々は、それなりの資産家で、製糸工場を営んでいたが、ある日、全ての事業を息子に譲り、私財を投じて孤児院を作った。そして、孤児院に隣接する教会を作り、そこの牧師をしながら、身寄りの無い子ども達を育てているという。
今時、珍しい聖人だ。
それを悪魔は、堕落させなくてはならない。
悪魔は、教会のドアに立つ。
中から子ども達の声が聞こえてきた。
「よしっ、ガキんちょどもー。ちゃんと手は洗ったかー」
若い女の声がした。
それに続く子ども達の声。
悪魔は、その声を聞いて凍り付く。
それは、間違いなく、ほんの数時間前に会話をしていた愛しき人の声ではないか。
扉を開けると、そこには牧師と女子高生と年端もいかない子ども達。悪魔の本日の獲物が並んでいた。悪魔は、ただひたすらに我が身を呪った。彼女を傷つけ、苛み、陵辱し、牧師から絶望の声を引き出すことこそが、悪魔の仕事であるからだ。
ドアを開く。
教会に入る。
皆が、悪魔に注目した。
「あれ? アンタは……アタシ住所、教えたっけ?」
素っ頓狂に少女は語る。
それを見て、悪魔は何も出来なくなる。
だが、彼女らを拷問しなくては、彼の仕事は成り立たない。悪魔の標的は心正しい牧師で、彼を絶望に駆り立てて、神への侮辱の言葉を引き出さねば、悪魔の仕事は終わらない。
だが、悪魔は――
「ま、いいや。今更、一人増えてたところでかわんねーからね。アンタもメシを食っていきなよ」
少女に恋をしていた。
悪魔である事を拒絶した彼は、即座に神の御前に引き出された。
神は悪魔に尋問をする。
どうしても、我が意を実行出来ぬか。
悪魔は語る。
私は彼女を傷つけられない。
神は言われた。
ならば、消え失せろ。
神の言葉は絶対で、悪魔は、その言葉の通りになった。悪魔は塵一つ遺さず、この世から消滅した。
「……あれ? どこにいった?」
そんな少女の言葉すら、悪魔に届くことはない。彼は造物主の命令に逆らって、なにもかもを消されてしまったからだ。
恋に殉じて、悪魔は滅びた。
「全く、飯くらい食ってけば良いのにさ。…………って、また出てきた。アンタさ。どこ行ってたの?」
代わりに、神は――。
消した悪魔と瓜二つの、しかし少女の記憶と恋心のみを消し去った悪魔を創造された。悪魔は最初の悪魔の完全なる瓜二つでありながら、悪魔は少女に一目惚れしなかった。
そして、悪魔は仕事をした。
このように。
恋に再現性はない。
つまり、恋は科学ではなく、きっとオカルトの領分なのだろう。