カームの魔術師再び
あたしは宿が見えるところまで走った。すれ違う村人が何事かと振り向いたけれど、気にしてはいられない。
ようやく立ち止まった頃にはすっかり息があがっていて、あたしは濡れた服を抱えたままぜえはあと息を整える。宿の部屋に駆け込み、いまだ寝ている男から布団をひっぺがし、己の身に巻きつけて座り込んだ。のんきに寝ている男の顔を眺めて、必死に激しい鼓動を落ち着かせる。そこで数分。
……そして大きな息を吐いた。
「…………怖かった……」
じわりと涙がにじんだ。何あれ。怖すぎる。あんなの占いじゃない、意味深なことばっかり言って。いや、意味深なことを言うのが占いだろうけど。
あなたがするべきことは、何もないわ。ただあの方に従って、戦い続けなさい。
「……なんなのよ」
怖さが薄れると、今度は怒りが生じてきた。
「何なのよ、あの女!インチキ占いに銅貨10枚も払わせやがって!さてはあのおばはんもグルね!」
あり得る話だ。おせっかいおばさんと、無駄に怖がらせる占い師。強引に連れてこられ、ただただ逃げたいがために、ぼったくられていることにも気づかず料金を支払ってしまうのだ。
「もー、いい!もう寝るもん」
男からはぎ取った布団はやはり上質の肌触りで、あたしはいつのまにか再び眠りについていた。
「起きた?」
聞かれて目が覚めた。男があたしの顔を覗き込んでいる。
「……あれ、あんたこそ、起きたんだ」
「そりゃ布団取られりゃ目が覚めるよ」
クラウドは苦笑したが、はぎ取られてから少なくとも数分の間は寝てただろ、お前。
「今何時?」
「日が結構傾いてきたところ。どうする?もう一泊はしないでしょ」
あたしは何時間寝てたんだ。いろいろ衝撃的だったからつい寝てしまったけれど、確かに時間が時間だからといって安易に連泊できるほど安い宿ではないのだ。こんな時間まで宿にいるから、店主にまた泊まるのかと聞かれたんだろうか。
「……しょうがないわね。出るわよ」
「晩ご飯くらい食べていこうね」
まあ、異論はない。
朝食をとった食堂が美味しかったから、早めの夕食もそこでとった。山が近いこともあって、基本は肉と野菜だ。ちょっと魚が恋しい。いや、贅沢は言ってられないけど。この馬肉美味しいし。……あの馬のことをちょっと思い出してしまった。
「ここらはパンだよね。もう少し東の方に行けば、麺類が主食のところもあるって聞いたよ」
「へえ」
そうそう、ここのパンもなかなかおいしいのよ。固めだけど、雑味が少なくて、ほのかな塩味がきいている。いい小麦使ってんのかしら。
「あんたが寝てるうちにちょっと聞いてきたけど、やっぱり馬車泥棒は噂になってるみたい」
「うーん、こんな小さい村にも来てるのか」
クラウドは渋い顔をした。
「ジェーンとマリーは今どこにいるのか知らないけど、犯人像はあたしたちだけみたいだから、どうにかして逃げたみたい」
「良かったね」
「は?」
あたしが愕然とクラウドを見ると、彼はきょとんとしてあたしを見た。
「え、どうかした?」
「…………なんで『良かったね』になるのよ」
「え、別に深い意味はないけど。捕まらなくて良かったなって」
「何であいつらの肩持つのよ!」
信じられない。あいつらは確かに間抜けで脅威にもならないけど、それでもあたしの首を狙っているのだ。紛れもなくあたしの敵である。
「……あー、じゃあ、捕まれば良かったのにね」
「遅い!!」
別にこいつにあたしの味方しろとは言わないけど、あたしの敵の味方をするならちょっとこれからの態度を考えねばならない。
「いやまあ適当に言っただけで、ほんとにそんな良かったとは思ってないっていうか」
「ふーん」
あたしはフォークでじゃがいもを突き刺した。いささか乱暴な手つきになってしまったことは否めない。
「そういや、この村にも魔術師がいるって、知ってる?」
その手がぎくりと強張った。こいつ、今日はことごとく地雷を踏んでくるな。
「……行ったの?」
「うん」
あっさりと男は頷いた。あの恐怖を体験してもけろりとしているなんて、なんて奴。しかし、クラウドは言を続けた。
「なんか今にも死にそうなばあさんが占いやってた。女難の相が出てるってさ」
「……………………はあ?」
あたしの顔はそんなにひどいものになっていたのか、クラウドはちょっと顔を引きつらせて、ついでに身も引いた。
「……ちょっと、あとでそこ行くわよ」
「……いいけど?」
クラウドに連れられてきた魔術師の店は、あたしが午前中に訪れたところと同じだった。ただそのカウンターの向こうは暗くはなく、老婆が安楽椅子に座ってうたたねしているだけだ。
「……どうなってんの?」
「何が?」
能天気なこの男が恨めしい。
結局荷物をまとめて宿を出たころには、空は赤くなっていた。
地図を確認すると、この村はカームとサンドラの中間あたりだ。もう一つ二つ村を経由しても、サンドラまでは一週間程度で到着できるだろう。
「何もなけりゃ……だけどね」
「そういうこと言うと、なんか起きそうだからやめようよ」
手に入れたばかりの背嚢を少し揺すってクラウドがいやそうな顔で突っ込んだ。この男であってもこのごろのどたばた騒ぎには嫌気がさしているようだ。
「そもそも、なんでこんなに面倒ごとに巻き込まれるのかな」
「知らないわよ。あたしのせいじゃないわ」
まあ本当のことを言えば、ジェーンとマリーは師匠と接触するためで、その師匠であるあの魔術師は天使と接触するためで、そしてあたしと天使に関わりがあるのは間違いないから、あたしのせい……と言えなくもない、かもしれない。でも天使と関わっているのもあたしの意志じゃないし、やっぱりあたしのせいではない。
「いやなら、ついてこなきゃいいじゃない」
あたしは何度目かの台詞を吐いた。途端クラウドが嘆息する。
「またそんなこと言う。俺、礼緋チャンにこんなに尽くしてるのになー」
「あたしは望んでませんー」
「うーん、この報われない思い」
「なんだい、キミは彼女が好きなのかい?」
はっとクラウドが身構えた。あたしは聞き覚えのある気持ちの悪い声に戦慄する。
「あ、あんたは……」
目の前に黒い影。
「キモい魔術師!」
「きもい、ってなんだい、ひどいなあ」
その笑みが気持ち悪いのだ。クラウドもすでに引いている。
「名乗っていなかったよね。ボクの名前はナッシーア。稀代の大魔術師だよ」
「へー」
自分で稀代の、とか言っちゃってる。ナッシーアってのも変な名前。家名だろうか?
「礼緋チャン、こいつ?」
「カームの奴よ」
魔術師から視線をそらさずクラウドは確認してくる。あたしも同様に返した。その声に反応して、ナッシーアはクラウドに注目した。
「おやおや、キミ」
クラウドはいつの間にかナイフを握って構えている。
「大変だったねえ」
なんのことだ?クラウドにも覚えがないらしく(いや、大変なことはいろいろあったが、目の前の魔術師に指摘される覚えはないのだ)、わずかに眉をひそめた。しかし答えはしない。
ナッシーアは相変わらず気持ち悪く笑いながら、ゆらゆらと手を揺らした。
「ちょっとおいでよ」
「いやだ」
珍しくあからさまに敵意を表すクラウド。しかしナッシーアは構わずすたすたと彼に近づき、耳に何かを貼り付けた。
「!?」
びくりと身体を震わすクラウド。だって、魔術師は普通に近寄って、普通に彼に手を差し伸べたのに、彼は何の反応もできなかった。ナッシーアが一歩離れてから、ようやくばっと耳に手を当てた。
「ああ、はがさない方がいいよ」
魔術師の声に従う義理もないのに、やはり手を止めてしまう。あたしたちは訳が分からない。クラウドは歯噛みした。
「耳、傷めたんだろう?悪化しそうになっていたよ」
「なんで知ってる」
「だって、キミたちにあの虫を差し向けたのはボクだからねえ」
「…………は?」
こいつか!!
確かに、人を乗っ取る虫なんて聞いたことがない。かといって実際にクラウドはそいつに襲われたわけだし、それ以上あたしたちが会話に上らせることはなかったのだが……。魔術によって生み出された生物だというのなら納得である。
「魔術がなんでもできると思われても困るけど、まあ今回はそうだったってことだねえ」
「何の目的で」
「わかってるんだろう?」
あたしは黙り込む。クラウドは何も言わないが、きっとあたしに関連していることは察しているだろう。あたしたちの沈黙をどう受け取ってか、ナッシーアはにたにたと笑った。
「本当にキミは面白い。あれとのことがなくても、ずっと観察していたいくらいだ。……いや、だからこそあれは、キミに執着するのかな」
天使。こいつはどうやってその存在を知ったのだろう。
「『あれ』?」
もちろん事情を知らずに怪訝な顔をするクラウドに、再度魔術師は顔を向けた。
「キミのそれ、しばらく付けておいた方がいい。そうだねえ、痛みが消えれば取ってもいいだろう」
「……どうして、襲っておいて助ける」
「助けるなんて、面白いねえ。キミには正直興味はないよ」
気持ち悪い笑みが、凄惨さをプラスしてさらにすごいことになっている。ちょ、ちょっと、その顔をあたしに向けるな、頼むから。
「彼女に興味がある。今回のちょっかいは意味がなかったから、元に戻す。それだけさ」
意味がなかった、つまり、天使は釣れなかったということか。クラウドの治療を行うのも、「ちょっと悪戯して壊れたものを直す」くらいのつもりなのかもしれない。
「いやはや、でもキミが礼緋のことを好きなら、ちょっとくらい協力してあげてもいいよ」
こいつの世迷いごとを本気にすんな。ていうか呼び捨てにすんな!
「まあまあ、キミたちにはお見知りおきをお願いしたいって、ただそれだけさあ。ああ、面白い……」
そういって、魔術師……ナッシーアは姿を消した。忽然と、消えてしまったのだ。
呆然と見送ったあたしたちだったが、はっと思い至ってあたしはクラウドを睨みつけた。
「あんたのせいであたしが面倒ごとに巻き込まれたなんてことになったら、承知しないからね」
「そもそも礼緋チャンがらみの面倒ごとでしょ?」
クラウドのうんざり顔はかなり珍しいが、見れたところで嬉しくもなんともない。
クラウドの耳に貼られたものは、何かの文字が書かれた札のようだった。羊皮紙でできていて、男の両耳でひらひらしているのがちょっと滑稽ではある。
「治癒の魔術でもかかってんのかしらねえ」
「もー、なんなのあいつ、意味分かんないし、きもいし」
全面的に同意。
「……で、本当は痛かったわけ」
そんな素振りを見せなかったけれど、実はまだ尾を引いていたのか。先日全力でひっぱたいてしまった彼の両耳だったけれど、聞こえなくなっている様子はなかったし、もう大丈夫だと思っていたのだが。
「…………まあね」
あまり知られたくなかったらしい。クラウドは渋い顔で頷き、次いでそれを隠すように大きく伸びをした。
「ただで治してくれるってんなら、まあ治されてやるかなあ。なんか得体が知れないけど」
そして振り向き、やっといつもの調子でへらりと笑った。
「じゃあ、行きますか」
そうね。……なんであんたが仕切るのかはちょっとわかんないけど。
何はともあれ再出発!