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4章

決着!

・四章

 ホナルチ部と書かれた紙が貼られているドアの前。風夏は取っ手に手をかけて、ドアをスライドさせた。

 一週間たっても変わっていない雑多な部屋。西日で部屋の全部がオレンジ色になっている。ポスターがあり、地球儀があり、ソファーがあり、ブラウン管テレビがあり、レコーダーがあった。

 そしてソファーに横たわりテレビをぼーっと眺める部員がいる。風夏は向かい側のソファーに座って無言でその横顔を覗きこんだ。

「……なんだよ」

「別になんでもないけど」

 素っ気なく答えてブラウン管テレビに没頭する哲平。風夏は揃えた膝の上で頬杖をついてまじまじと見つめた。

「……何か用かよ。依頼なら手伝わないからな」

「別に頼んでないわよ。アンタが勝手についてくるんじゃない」

「そ、そうだったか?」

「そうよ」

 黙った。

「いつまでゴロゴロしてんのよ」

「え? はい。いや、俺の勝手だろ。ふう……お前だけの部室じゃない。ぼっ、ボレだって使う権利がある」

「なにいってんの? アンタ部活やめたじゃない。もう二度来ないからレコーダーいらないって」

「え? そうな……そ、そんなの関係ねえ。ここにレコーダーがある限り俺の部屋といっても過言ではないんだよ! えー……えり? 繪里子がいるかぎり!」

「ま、ウソなんだけど」

 まじまじと大きな瞳で見つめる風夏。哲平は口をパクパクさせて汗を垂らした。

「……僕もウソだよ」

 やっとひねり出したのはそんな苦しい台詞だった。風夏はうーん、と唸ってから、大きくノビをした。

「あーやめやめ、もういいや」

「なにか間違ってましたか?」

 深くソファーに背を預けため息をつく風夏に、哲平は機嫌を伺うように弱々しく顔を上げた。起き上がって、ソロリと正しくソファーに座り直した。

「間違ってないけど。心の底から嫌そうな感じがしなかったから」機嫌悪そうに言う風夏。

「そんな、無理ですよ。女の子に対して、そんな……嫌だなんて」

 哲平はオロオロとして、両人差し指をあわせている。

「なんで照れてんのよキンモー」

「す、すみません」

「というか敬語」

「いやでも、そんな、無理ですよ。まだ日が浅いんですよ」

「だから何度も言うけど、アンタと知り合ってもう6年目なの。6年。久々にあった小学校時代の友達じゃないんだから、人見知りするような仲じゃないのよ」

「良かったんですーよね? 僕たち。仲」

 哲平の含みなしの純粋な問いかけに、風夏はほんのり赤くなった。

「ハズッ。良くそんなことスラっと言えるわね、キモッ」

「すみません……」

「また謝った」

「す……面目次第もありません」

「あーもうー。勝手にしなさい」

 哲平は申し訳なさそうにしゅんと項垂れた。風夏は鼻でため息をつくと、前かがみに座り直した。

「顔色いいわよねアンタ。クマもないし」

「そうですね。体の調子はすこぶる良いです。たんぽぽの種のように体が軽くて、世界の全てが鮮やかに映っていてまるで生まれ変わったような心持ちなんです」

 嬉しそうな哲平の笑顔は、まぶたが半分下がっていないし、顔色も悪くない。目の下にくっきりと刻まれていたクマの名残もない。ピンク味がかった肌色の顔は健康そのもの。好青年と言ってもいいほどの顔立ちになっていた。

「確かに生まれ変わったわよね。綺麗サッパリ今までのことぜーんぶ忘れてさ」

「そんな、怒らないでくださいよ」

「コレのどこが怒ってるっていうのよ。感情がどういうものかも忘れたの?」

 眉間にシワを寄せた風夏に、哲平はさらに縮こまった。

「う、うーん。で、でもどうしたら良いかなんて分からないじゃないですか」

「階段落ちればいいじゃない。アタシが蒲田行進曲歌えば、打ちどころが良くなる確立が上がるわよ」

 さらっと言われて、哲平はじっとりとした視線で抗議した。

「打ちどころが良かったから生きてるんですよ……僕だって好きでこんなになった訳じゃない……」

「じゃあどうすんのよ」

 風夏が問いかける。わずかに苛立ちが声に含まれていた。哲平は言いづらいのか、人差し指で人差し指の周りをくるくると回しだした。

「お医者さんには、頭を強く打ったから、あの、まだ絶対安静だって、つまり、言われましたし……」

 つっかえつっかえぼそぼそとした声は、ネコちゃんが立てる寝息より小さく聞き取りづらい。ガタガタと小刻みにテーブルが揺れだした。それは哲平のはっきりしない声のせいではなく、風夏の貧乏揺すりのせいだ。太い眉が車のワイパーのように徐々に上がり始めた。

「もしかしたら一時的なだけで、えっと、何かの拍子に、戻るかもしれないから、その、悲観することはない、から……別に、つまり、そのぉ、しない、ですけど。だ、だから、あの、つまりそのぉ……」

「んもーーーー!! ウジウジウジウジ、ウジウジか!」

 イラ立ちがマックスになった風夏は怒りを噴火させた。ぐしゃぐしゃ頭をかき、テーブルを強く叩いて雄々しく仁王立ちした。

「何なのよアンタは、もっとハッキリ言いなさいよ! 別にアンタが何言っても何の脈絡もなく突然死ぬわけじゃないんだから! そんな今後のことなんてもっとチャッキリ決めなさいよ! 愚鈍! 愚図! 健康体!」

 怒りを司る魔神の如く剣幕に、哲平は雑魚キャラのような悲鳴を上げた。

「さっさと言ってすっきりしちゃいなさいよ! オラ! アンタは何がどうしたいのよ!」

「いやだから、何も、しない、を、します」

 哲平はしかられた子供のように文節ごとに首をさげていく。少しの間があいてばふんというこもった音がすると、きちんとビクつく。

「ちょっと熱くなりすぎたわ……そういや病み上がりだもんね」

 ちらっと盗み見ると、風夏はウソのようにしおらしくなって、ソファーへ腰掛けていた。

「一応風夏さんもなんですけど……」

「アタシは大丈夫よ。アンタを下敷きにしたおかげで何でもないし」

「で、でも、安静にしておかないと」

「人の心配してる暇があるほど、アンタは正常なの」

 ピシャリといわれ、哲平はまた俯いた。

「……ありがと」

「え? なにがです?」

「そーんなことより! はいこれドーン!」

 風夏は声を張り上げガオーと立ち上がった。茶色い封筒をスカートのポケットから取り出す。表面にはホナルチ部へ依頼のお願い、と読みにくい文字。どうやら新しい依頼がきていたようだ。既に開けてあった封筒から手紙を取り出し広げてみせる。

「前にMAXコーヒー同士の会、が、あったのよ! 色々あってその会は解散して、全員綺麗サッパリ足を洗ったんだけど、やめればいいのにまだ極小数のメンバーが再起しようとしてるんだってさ」

「へー」

「早い話アタシ達にそいつらを見つけて欲しいんだってよ」

「……」

 気の抜けた相槌を打っていた哲平はそれを訊くと、風夏の力強い眼力から逃れるように、身体を捻って目を反らし床を凝視した。

「何見てんの?」

「いや……その……なんて言うか……僕も行かなきゃいけないんですか?」

 身を低くして覗きこんでくる太眉。哲平はおどおどと視線を彷徨わせた。

「いけなくはないわね」

「じゃ、じゃあ……いかないーー」

「じっとしててどうにかなると思ってるわけ?」

 強い言葉を使っているが、声には怒気も冷たさもはらんでいない。ただ疑問を投げかけているだけだ。

 だが、哲平は一層と身体を縮こませうつむいた。風夏はふーっと嘆息した。

「ふーん、まあいいわ。仕方がない、やむを得ない、諦めます」

 封筒に手紙を戻してポケットへ戻す。ソファーを離れて人体模型からバッグを取るとドアをスライドさせた。

 哲平はソファーに埋まる勢いで小さくなっている。背中を見ようともしなかった。

「……明日は」

 廊下に出る間際に、風夏が声を張り上げた。哲平の黒目だけが風夏を向く。

「同じ時間に部室棟三階の第九で情報もらわなきゃなぁ。探すのはそれからか」

 がたん、とドアが閉まると、TVから流れる台詞だけが雑多な部屋に響いた。哲平はリモコンでテレビを消すと、微かに唇を動かした。

 じっとしててどうにかるのか。

 人が座っていた名残がある、やわらかく凹んでいるソファーを見つめた。



 翌日。

 ドアが風夏に蹴破られた。

「ココは来るところでしょうがぁーー!?」

 哲平はソファーでネコちゃんを膝に乗せたまま目を丸くしていた。バッグを降ろさずに風夏は、

「ちゃんとさり際に意味深な台詞吐いてアンタが来やすくなる演出したじゃないの! なんで1時間たっても来ないのよ! アホチンか!」

 両手を突き上げて怯える哲平に詰め寄った。視界いっぱいに広がった太い眉に、哲平の身体が自然とのけぞった。

「で、でも、来なくていいって」

「覚えてないわよ!」

「そそんな、ま、まさか記憶喪失ですか?」

 そう戸惑う前に、風夏の右手がすでに哲平の腕を掴んでいた。強引に引っ張られて、引きずられて立たされた。

「ちょ、ちょっと僕は絶対安静に……」

「物事を好転させるためには行動するしかないのよ! 何もしないでどうにかなるなら、人っ子一人歩いてないわよ!」

「そ、それって病気的なものには当てはまらないような……」

「おだまんなさいよ! 大体合ってればいいのよ!」

 風夏は自分の足で立とうとしない哲平を引きずり廊下に連れだす。迷わずに階段を下る。ねこちゃんは散歩にでも行くのかと勘違いしているのか、二人の後ろからチョコチョコついて来た。

「あれ? 三階に行くんじゃ……」

「1時間あったらハワイにだって行けるわよ…………ほらついた!」

 瞬く間にたどり着いたのは夕暮れの近場公園だった。相変わらず人や緑が作り出す穏やかさが漂っている憩いの場だ。芝生へ走っていくプリティなお尻を見送り、風夏は入り口から一番近いベンチに座った。

「まずはここ。ココに一人目がいるのよ」

 通学バッグから取り出したレジ袋を膝に乗せる。隣にゾンビのように腐敗したと思わせるほど灰色に変色した哲平が這い上がってきた。

「ヒュー……ヒュー……」と、哲平の喉が空気を必死で取り込む音がする。

「水」

 風夏はレジ袋から取り出したペットボトルを哲平に差し出した。哲平はそれを奪い取ると、頭から浴びた。

「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」

「ちょやめてわかったから」

 通りかかる人々の怪訝な視線が集まってくる。風夏は頭の先からビシャビシャに濡れながら恭しくひざまずいてお祈りのポーズを取っている男を止めた。

「もっと静かにしてなさいよ。目立っちゃいけないんだから」

「す、すみ……すみすおにあん」

 びしょ濡れの哲平が隣に座ると、風夏もペットボトルを取り出して一息ついた。

「……この間は散々だったわ」

「はい?」

「ほら、コレでさ」

 風夏はおもむろにスカートのポケットから銀色の笛を取り出して見せた。

「吹いてみてよ」

 哲平は首をかしげる。言われるがままに笛を摘むと、吹き口に唇をつける。ピーッ! と、甲高い笛の音が夕空に吸い込まれて消えた。

 犬の鳴き声が返ってくる。哲平はその方向に向くと、全力ではしてくるねこちゃんが。瞬く間に哲平の足元まで来て、膝に前足をおいて愛らしい顔をのぞかせた。哲平が抱き上げると、ネコちゃんは笑顔をぺろぺろと舐め回した。

「……どう?」

 問いかけに隣に目を向ける。風夏は何かを期待するように哲平の顔をのぞき込んでいた。

「え? ああ、すごいですね。頭がいいんですねネコさん。練習させたんですか?」

 顔を舐めたくられながら風夏にも笑顔を送る。すると風夏は、そうよね、とどこか寂しそうに笑った。

「め、面目次第もありません。何か悪いこと言いましたか?」

 あせあせとす哲平に風夏は首を振った。

「なにも悪くないわよ。むしろ、アタシを助けてくれたんだから……」

 語尾がかすれていることに風夏は自分で気がついたようだ。ブンブンと首を振り、声を張った。

「アンタがそこら辺の露店で買ったよくわかんない笛使って、犬さんたちを呼んだのよ。犬臭くなるわ委員長がヨダレで解けた蝋人形みたいになるわ。散々だったのよ。本当にあの時は参ったわね」

「あはは……そんなことが……」

 楽しそうに話す風夏に、哲平は申し訳なさそうに笑った。

「んー! よし。次行こ次」

 ほっと長い足で勢いをつけて立ち上がり背伸びをする。風夏は近くのゴミ箱に空のボトルを捨てると、公園の入り口へ歩いて行った。その後を追って哲平はネコちゃんを抱え追う。が、思案顔でその背中を呼び止めた。

「あれ、あの上田さん?」

「……アンタに敬語で名前呼ばれるとツッコまれてると勘違いするのよね」

 風夏はじっとりとした目で腕組みをし半身で振り返る。

「す、すみません。でもなんて呼べばゴニョゴニョ」

「いいからあによ」

「えーと」

 屈んでネコちゃんを下ろしながら哲平は不思議そうに言った。

「誰かを待っていたのではないのですか?」

 風夏は石像のように固まった。眉間にシワを寄せると、口の動きだけでつぶやく。

「え、えーとね。その――」

「あ。哲平くーん」

 口を開く前に、風に乗って女の声が微かにした。それは公園の入口から近づいてくる。

 声の方に風夏は首を動かす。小柄なで透き通るような白い肌。肩まである長い黒髪。風夏と同じ制服を身にまとってはいるが、スカートは長く、きちんと制服を着こんでいた。清楚で、それでいて地味な女子高生だ。

 途端に哲平はネコちゃんを跳ね除けて立ち上がった。

「え? あ、佐藤さん?」

 手を振って顔をほころばせた。佐藤は控えめな笑顔を送りつつ、短い足幅でトコトコと歩いてくる。

「は? 知り合い?」

 風夏が哲平に振り返ると、ふんわりと良い香りが通り過ぎた。その小さな背は取り立てて特徴のない声で哲平に挨拶した。

「こんにちは」

「わあ、どうしたのこんなとこに。家こっちの方なの?」

「全然、電車通学だから別の方向なんです」

「じゃなんで? もしかして……僕に会いに来たとか?」

「ふふふ」

「なによコレ」

 思わず風夏の心の声が口をついてえでた。軽快なトークを哲平と交わす佐藤は、夕暮れに髪をきらきら反射させて振り向いた。

「こんにちは。上田さん」

 道端に咲く花のような可憐さを持ち合わせた微笑を風夏に送る。アスファルトを突き破ってしぶとく生える雑草のような風夏は、ぼけっとしている。

「来ました」

 風夏の頭に、確かにはてなが浮かんだ。

「来ましたよ」

「え? え?」

 更にはてなが増えて森を作ると、瞳の中にもはてなが映り込む。そんな風夏をよそに、佐藤は哲平の方に向き直ると、嬉しそうに言った。

「今回、ホナルチ部の活動を手伝わせてもらうことになりました、佐藤です。よろしく、哲平くん」

 ネコちゃんが尻尾を立てて風夏の足元へ駆け寄ってくる。風夏ははてなになっていた。


 

 吉井亭の門は閉まっていた。引き戸の前には休業中ではなく、「話し合います」と張り紙。向かいの店で酒盛りをしている三人組の爺さんに、いつもの10倍小さい声の風夏が話を訊くと、練習していたのかと思わせるほど息ぴったりに顔を伏せた。「手癖はなかなか治らないもんさ」と後ろの哲平に親指をたてたが、風夏にも哲平にも分からなかった。

 

 二人を追いてズンズン進む風夏。相川書店にはゆるゆるとした相川の笑顔があった。都市伝説の話をストレートに訊くと、そんなものはないと。

「そういえば、哲平くんはどうなの~~?」

「いや、別に。何も変わらないです……」

 空笑いをする風夏に、相川は眉をハの字にしてそうと頷く。

「い、いやーそんな深刻でもないですから! ほら、見てください」

 重くなりかけた空気を押し返すように声を張って外を指差す。

 哲平と佐藤が仲良く肩を並べた背中がある。アイスを食べているようだ。すると哲平が苦悶の表情で頭を抑え始めた。あたふたとする佐藤。だがその次の瞬間に哲平は笑顔に戻っていた。佐藤が繰り出すぽかぽかと力のこもっていないパンチを、哲平はだらけた笑顔で受け止めていた。

「もはや記憶喪失をネタにしてますから」と、呆れて言う風夏。「あの佐藤って子、わざわざ第九に金はらって追ってきたらしいですし……イイ感じの女の子が擦り寄ってきてて、前より青春を謳歌してますよ……」

「そっかー。ま、元気が一番だよね~~。にこにこ」

「なんです?」

 口にだした擬音通りににこにこの相川。風夏は首をかしげた。

「いや~~気になっちゃうんだな~~と思ってさー」

「え? ……へ? ええ?! 違う違う!」

 その言葉の意味がわかったのか、頬を赤らめ全力で否定した。

「そんなんじゃないですって! ぶ、部員の素行を気にするのは、部長の勤めっていうかなんていうか……す、すすすす少しは、そりゃ気になるけどッ、ケド! そういうアレがアレしてアレなアレじゃ!」

「そうだーーあのね~~私も悩みがあるんだけどさ~~」

「いや、アタシは別に悩んでるわけじゃ! つうか無視しないでくださいよ!」

 のんびりと無視してしゃべりだす相川。風夏は横目で背中を盗み見ながら身を乗り出していた。

 相川の人差し指が背を指さす。風夏は慌てて目をそらすが、それは引き戸の張り紙を指していた。入れてほしそうに前足で戸をカリカリしているネコちゃんを尻目に、納得いってない様子のまま毛筆で書いてある文字を読んだ。

「……飲食持ち込み禁止?」

「そうなの~~、なんか~~よくピンクの食べかすとか~~食べ物剥がしたビニール、ソーセージかなんかを包んでるようなのが落ちてるのよ~~」

「本屋で食べ物たべたり飲んだりしないのって普通じゃ?」

 そうなんだけどね~~、と困り顔。悩みの表情までもがほがらかなので、あまり困っていないように見えてしまう。

「なんかね~~食べ物持ち込み禁止にしたら、お客さんがごっそり減っちゃったの。なんでか~~なぁ~~?」

 風夏が曖昧に首をかしげると、引き戸越しの哲平の背がケツを抑えた。


 佐次田トンネルの前の道を通って天旧てんきゅう神社へ。入るなりいたるところに藁人形が括りつけられていた。藁人形を括りつけると縁結びの神様が恋愛常識を成就させてくれるらしい。そういう感じの昔話が、最近立てたような真新しいピッカピカの傷一つないSince201X年の看板に書いてあった。


 街中の電話ボックスがある場所へ行くが影も形もない。変わりに喫煙所が設置されていて、タバコを吸っていた婦警が、ネコちゃんを見るなり悲鳴を上げて逃げていった。


「うふふふ」「あははは」

 後ろからポカポカが押し寄せてくる。それを感じるたびに風夏の眉間に深い溝が刻まれていった。かけ声と共に校門から出てきた野球部軍団が、ドス黒い負のオーラに引き返していく。うさぎたちを小屋の隅で怯えさせ、鉢合わせた生徒の腰を抜かせつつ、本校舎へ迫った。

「何なのよアイツはどういう趣味してんのよ」

 下駄箱で乱暴に靴を履き替え階段を登る。二階の新聞部のドアを倍速で小刻みに叩いた。哲平と佐藤が追いついても、取り付かれたようにビートを刻んでいた。

「ちょちょっと、そんなにしたら逆にでてきませんよ」

「益子くんは一秒間に十六連射しないと出てこないのよ」

「そ、そんな名人級の呼び出しが必要なんですか?」

「なんでアタシとしゃべるとどもんのよ」

 イライラと風夏は振り返る。トゲのある声は哲平へ向いているが、視線は隣の佐藤に向いていた。自分に訊かれているのかと勘違いしたのか佐藤が俯きがちに答えた。

「え、私に、聞かれても……」

「驚いたわね。アンタアタシの事見えてたの。ずっとソコの唐変木と乳繰り合ってたから、アタシのこと認識できてないのかと思ってたわ」

 抑揚が無く冷静だが、瞳にはビキビキと聴こえてきそうな威圧がこもっていた。すっかり怯えた佐藤は、小動物のように哲平の後ろに隠れた。それは風夏の顔を引くつかせてデコに血管が浮き上がらせた。

「こ、このファッキンアバズ――」

「だれです」

 迷惑そうに益子がひょろりとでてきた。目の前に佇む金剛力士像の片割れにドアを閉めた。 ドアが倒れてきた。

「聞きたいことがあるんだけど」

「ぜ、全身打撲したので無理です。たった、い、ま」

 風夏は蹴破ったドアに載ったまま、下敷きにしている益子に問い詰める。

「MAXコーヒーの会を再結成させようとしてるのは誰? メンバーは? まさかアンタも入ってるんじゃないでしょうね! あん時はすごいビビったんだからね!」

「う、上田さん」

 及び腰な哲平の呼びかけがするが、全く耳に入っていないようだ。何度も何度もドアを踏みつける。ベコンベコンと戸が足の形に凹んでいく。

「黙ってないでさっさとはきなさいよオラオラ! アンタも金取るとか言い出さないわよねオラオラ! 全く! 何なのよ! なんなのよなんなのよなんなのよ――」

「上田さん!」

 二度目の悲痛な呼びかけに、足が止まった。

「益子くんは……もう……」

 悲しみをまとった哲平の声。風夏は正気に戻っていた。そして自分が踏みつけているドアを真正面から捉える。恐る恐るその下を覗きこんだ。眼鏡レンズの向こう側で真っ白な白目が涙で光っていた。

「……」

 哲平がうでを離すと風夏は振り返った。引きつった笑いを浮かべようと口角を釣り上げた。でも上手く行かなかった。

 風夏の目に映ったのは哲平。そしてその後ろ、佐藤が怯えた様子で隠れていた。

 それはお似合いのカップルといっても良い図だった。

「……チッ」

 不機嫌に顔を歪めて、風夏は哲平を押しのけて走り去った。

「どうしたんですか、上田さーん! 上田さーーん!……いっちゃった。どうしたんだろう

「…………あ、あの哲平くん」

 裾を引っ張られて、哲平はかしげていた首を佐藤にむけた。

「なんです?」

「あの……このあと時間あるかな?」

「あるけど? なんで?」

「あの……ここじゃ……」

 そこまで聞いて、哲平はハッとした。佐藤の顔がわかりやすく赤くなっていたのだ。

 ゴクリと喉をならした。そのまま棒立ちになった哲平は、ぼうっとしたまま佐藤に引っ張られていった。

「……おーい……僕も連れっててよー保健室ー」

 夕焼けの廊下に、忘れられたうめき声が響いた。



 翌日の放課後。風夏が部室のドアを開けると、いつものように哲平がソファーに座っていた。しかし様子がおかしい。横になっていないしテレビはついていない。風夏が入ってきたことにも気がついていない様子で、ぼーっと口を開けて背もたれに寄りかかっていた。肉体から精神が抜けだしたような呆けた顔で、体は枯れ草のようにへなへなだった。

「オーイ」

 風夏は怪訝に話しかけたが反応がない。

「哲平? ……こんにちは津島さん。私、いちご、結構すきです!」

 結構なクオリティの白鳥のマネにも反応がない。

「……てっぺいきゅん!」

「ハヒィ!!」

 哲平が30センチぐらい座ったまま飛び上がったのは、偏見で塗り固めたぶりぶりっ子の佐藤のマネだった。

「何よそれ」

 哲平は風夏の突き刺す声にハッとする。乱れた服を直して髪を撫で付けつつ目が回るほど視線を彷徨わせた。

「は、ははは、いつからいたんですか」

 慌てる哲平を無視して、風夏はソファーへ寄りかかった。

「なんかあったのね」

「え?! ど、どどどど」

「やっぱあったのね」

 カマをかけられていたことに気がついたのか、うっと声を漏らす。するとキュッと顔が引き締まり、何かを決心したように頷いた。

「……あの、う、上田さんって、お付き合いしてる人いますよね」

「ハゲほっとけ!」

「えっ?」

「んっ?」

 顔を見合わせた。

 哲平はどうみても、違うんですか? と純粋な疑問を投げかけていた。風夏はほんのり顔を赤らめた。

「い、いるわけないでしょ……なんでそうなるの」

「そうなんですか? で、でも、あの、ビ、ビビビビ美人で、ややや、やさしいです、し」

「そ、ビジ、とか恥ずかしいことッ……ま、まあ、当然? みたいな?」

 足を組んだり直したりせわしなくなる。半笑いの表情は嬉し恥ずかしの心境がにじみ出ていた。

「な、なんでそんなこと訊くのよ」

「あの、ええと、その、つまり」

 言った本人も恥ずかしくなったようで俯いて口ごもっていた。気恥ずかしい空気が部屋に溢れかえっている。風夏は居心地の悪さを振り払うように声を張り上げた。

「ハイハイ、つまりなによ」

「あの、ぼ、僕は」

 尚もしどろもどろで、人差し指をくるくるとやっていた。

「……ぶつぶつ」

 風夏はぶつぶつに体を起こして片耳向けた。何か言っているが聴こえない。哲平は言葉を選んでいるようだった。顔をあげるが、風夏と目が合うと再び赤くなり目を反らした。

「あの、僕は、つまり、佐藤さんに……されて」

「佐藤さん? ああ……どうしたのよ」

「あの、それが…………」

 生唾を飲む音が響いた。二回目の決心の頷きが起こった。その雰囲気になんとなく風夏は飲まれてしまって、じっと次の言葉を待つ。絞りだすように哲平は口を開いた。

「僕佐藤さんに!」

 急に発せられた大声に風夏は目を丸くする。

 今まで見たことがないほどの真剣な顔。

 風夏は汗が滲んでくるほど集中して身構えた。

 ポツリと。

「付き合ってください……って」

「誰によ……」

 徐々に目が見開いていった。そう訊いたが、自分で分かってしまったように。

 哲平はもう一度言った。

「僕、佐藤さんに告白されました!」



「『あのにゃあ』」

「みーのーらーぬーゆーめーがーあー、ゆーめーなんだろー……なんでかな」

「『そこにいられると困るんだけどなあ。帰れないじゃないか』」

 ドア越しに聞こえるのは困ったヘリウム声。風夏が体育座りをしているのは第九のドアの前。窓の外はもう暗くなりつつあり、家路を急ぐ生徒たちがポツポツといた。部活少年少女たちも帰り支度を始めていた。

「いつも金払ってるんだからいいじゃない」

「『それを言ったらこの学校の半分以上がヘイ・ジュード大合唱してるわ』」

「へ、へー」

 風夏は苦笑いをしてネコちゃんを撫でる。ネコちゃんは傍らで気持ちよさそうに腹ばいになっていた。

「『そろそろ何があったか話す気になったかしら?』」

「……どうせ知ってるんでしょ」

 心配そうに見上げるネコちゃん。ドアの越しにヘリウム声はまあね、と答えた。

「『哲平くんが女の子と付き合い始めていじけてる』」

 風夏は少し物憂げな顔を上げた。

「『私はなんでも知ってるぞ。相手は自分よりも小さくてカワイくて女らしい女の子』」

 答えない。

「『ウソの依頼までこしらえて哲平くんが訪れた場所に連れて行った。浅はか過ぎる期待じゃ。結局戻ってないしな。それにこうも思っているはずじゃ。こーんなにやってるのに、なんでどこの馬の骨とも知らない女に――』」

「そうよ……そう……。確かに依頼なんてのはウソよ」ヘリウム声が言い終わる前に、風夏から乾いた笑いが漏れた。「でも、ちょっと違うのよ」

「『ん? 今からウソでもつく気か?』」

 風夏は1点を見つめたままうーんと唸って腕組みした。

「アタシも良く分かんない……アイツとは……そりゃ仲がいいと思ってるわよ。6年一緒にいたし……でも、そういう、ピンク色のアレとは、違うのよ」

「『ほう。では、別の女とにゃんにゃんしてもどうも思わないと』」

 全然、と唇が動いたが、

「……正直いい気はしない。でも、そんなのよりアタシは……アイツが今までのこと全部忘れてるのに、平気な顔してるのが……気に喰わないのよ」

 風夏はドアに寄りかかった。天井を見上げてどこか遠くを見つめていた。

「そのほうがアイツのためにいいと思ったのよアタシは」

「『そうかの。昔の記憶がなくても本人は楽しそうにしとるじゃないか。事実、彼女まで作って鼻の下伸ばしておったぞ。顔色悪くして背中を丸めてるよりかは、大躍進じゃないか。むしろ、よかったとも言える』」

「でも、今までの事全部忘れて過ごすなんて――」

「『それは哲平くんが決めることじゃ』」

 即答するヘリウム声。おちゃらけたような声質なのに、真剣な表情が透けてみえるようだった。

「『辞めるんだな。もう今の哲平くんは、風夏のよく知る津島哲平では無いのじゃからな』」

 はっと小さな悲鳴が上がった。風夏は瞼を下ろした。

「そう……よね。そうね」

 ドアに背を向けたまま立ち上がった。見上げるネコちゃんから心配の色は消えていなかった。

「こんなよく分かんない部活、居ないほうが青少年には健全よ健全。ボーイズビーアンビシャス。イイ青春おくれよ」

 そのまま一歩踏み出した。だが、それだけだった。

 立ち尽くす風夏の頬からしずくが流れ落ちていた。止まらなくなった涙に嗚咽がまじり、腕で拭うが次々と溢れだしていった。

「寂しい」

 涙に押し出されたぐしゃぐしゃになった言葉。立ちすくんだまま風夏は泣いていた。

「今までのことが全部なくなっちゃうなんて……あんなに一緒にいたのに! アイツがアタシを見る目は初対面の人間よ……寂しい。寂しいのよ!」

 ドアに振り返って、擦り切れる叫びを上げた。その震える足にネコちゃんが寄り添ってくる。風夏は屈んでネコちゃんの小さな体を抱きしめた。

「哲平は良くても……どうすればいいのよ……アタシのこの……気持ちは」

「『自己満足だぞ。そうは思わんか』」

 どこまでも冷静な指摘だ。でも、風夏は口を震わせてかすれた声をひねり出した。

「……でも、アタシは……取り戻して、欲しいのよ……だってその方がアイツのために……だからアタシ、は…………違う。違う。違う違う違う」

 風夏は言ったそばから自分の言葉を激しく否定した。そして首を振り乱して――――。

「アタシは哲平が……………………………………………………………………」

「『マイマイマスター』」

 ドアの向こうから別の声が増えた。

「『なんじゃ、いまわしが喋っておるじゃろうが。マイマイマスターの言うこと聞かないなぁコノ子は。風夏くんちょっとだけ待っていてくれ』」

「『そのことなんですが、風夏さんはもういないと思われますです。ネコさんはおられるようです』」

「『そんなはずは無い。オーイ風夏くん? 上田風夏くん? そろそろ涙は収まったかな? 心がはちきれんばかりに泣かないでーー?』」

「『はちきれる前に、風夏さんはどっか行きましたです。この通りです』」

 ウィン、という小さな機械が駆動するような音がした。ドアの前でねこちゃんはくーんと鼻を鳴らした。

「『……腰ぬけた』」

「『さっきからいませんです』」

「『そういうことはさっさと……というか、さっき、なんてあやふやに済ませないで、折角ガイノイドなのじゃから数字で伝えてくれ。一体どこを間違えたのか……しかし、そうなると伝えあぐねてることが合ったんじゃが困るの』」

「『彼女のことです? もうさっさと面と向かって伝えたらどうです』」

「『いやじゃ。金をたかられたくないし、異常に頼られるのは目に見えておるからの』」

「『お訊きしておいてなんですが、知ってましたです』」

「『うーむ、佐藤のことじゃったのだが……まどうとでもなるじゃろ。どうせまたあうじゃろうし』」

「『それならばメンテナンスの続きをお願いしてもらってもヨロシイでしょうか』」

「『ああそうじゃったな、じゃあ頭脱いでとりあえず横に――』」

 ネコちゃんがあくびをした。



 翌日。ホナルチ部室。

 哲平は立ったまま口ごもっていた。肩にかけているバッグのファスナーの引き手をいじくっていた。

「記憶は……別に……今のままでも、十分やっていけてますし……前の自分は、その、なんて言うか……活気が無いというか……協力的じゃないし……風夏さんにも迷惑かけてた、みたいだと訊きましたし……」

 目線を下げて申し訳なさそうに言った。風夏は曇らせていた顔を一変して、何を言っているんだという表情になった。

「なにそれ? 誰からきいたのよ。アタシそんなこと言った?」

「いや……あの、そんな感じのことを言ってただけで……あの……」

「何よ」

「今日、風夏さん、風邪を引いてるようですし、帰りませんか? 朝から目元真っ赤ですし……」

 風夏が顔をそむけると、カラカラカラとゆるやかにドアが開いた。

「哲平くーん」

 そんな可愛らしい甘い声が入り込んでくる。部屋の空気を感じ取り伺いを立てる佐藤。半開きのドアからのぞく姿は、小動物を思わせるか弱さがあった。

「……何かよう?」

「あ、哲平くんと一緒に帰ろうと思って」

 風夏が目をこすってから腕組みすると、さらにドアに隠れた。黒目がちな瞳しか覗いていない。

「あー。そうだったわね。彼氏彼女だもんね」

「あの……そういうことなんで」

 そう言うと哲平はビクつきながらも佐藤の前の元へ。タコが絡みつくように佐藤の腕が哲平の腕に絡みついた。

 風夏の眉がぴくりと震える。哲平に寄り添って佐藤は愛らしく笑った。

「さようなら」

 風夏を残してカタンとドアが閉まった。部室を背に歩き出すと、哲平は振り絞るように言った。

「き、今日はどこか寄っていく?」

「あの、行きたいところがあるんだけど、いいかな?」

 瞬きの多い健康な顔。覗きこむ佐藤は小さくて可愛らしい。

「う、うん。いいよ」

「アタシもアタシも。行きたいところあるんだけど」

「そんな二人に言われるとって、あれ?」

 哲平と佐藤が左隣を同時に向く。元気よく手を上げた風夏がいた。

「あの。何か?」

「ええ。思い出したんだけど。まだ依頼が終わってないのよ」

 仲良く首を傾げる哲平と佐藤。胸を張ってふふんと風夏は言った。

「ということで、今日は一人で帰ってくださいではでは~~」

 と、哲平の腕をつかみぐいぐい大股であるきだした。しかし、もう一つの力により哲平の体が引っ張られた。

「な、なにをいってるんですか? 勝手にきめないでください。哲平くんはいまから私とデ、デートするんですから」

「デートなんていつでもできるじゃない? 依頼ってのは責任があって、今じゃないとできないのですことよ?」

 風夏も佐藤も張り付かせたような笑顔。両手を引っ張られている哲平の目の前ではバチバチと火花が散っていた。やけどしそうな顔を捻って呻いていた。

「そんなの哲平くんは望んでないじゃないですか」

「望んでなくても部員なんだから切磋琢磨しなければいけないのよ?」

 けっして声を荒げない二人。哲平はギチギチと体のどこからか音を立てていた。

「哲平くんは私と一緒に帰るんです。ねえ哲平くん」

「哲平、アタシと来なさい」

「哲平くん!」

「哲平!」

「アタシと来るのよね!?」「私と来るんだよね!?」

 血管が浮き出ている二つの笑顔。彼女たちは口々に哲平に同意を促した。

 しかし全く答える気配がない。その代わりにギチギチという形容しがたい音だけがしていた。

 たまりかねた風夏は、こびりつかせた笑顔のまま哲平を覗きこんだ。

「いい加減に答えて……哲平?」

「キャッ!」

 突然勢い良く尻餅をつく佐藤。その上に哲平が糸の切れた人形のようにガックンと倒れこんだ。もがく佐藤を尻目に、風夏は再度確認するように哲平を覗きこんだ。

 泡を吹いていた。



 一時的なショックでしゅうから、しゅこし休めば大丈夫でしゅよ。干し芋のようにしおしおの保健医がそれだけ言って保健室を出て行った。風夏はそれを見送ると5つあるベッドに向き直る。哲平が寝ている奥の窓際にあるベッドのカーテンに手をかけた。

「もう哲平くんを巻き込まないでください」

 中からした跳ね除けるような声に二の足を踏む。冷静を装っているが、静かな怒りがこもっていた。

「もしも大事になったらどうすつもりだったんですか」

「いや、アンタも離さなかったからじゃない。アタシたちのせいよ」

「上田さんて、哲平くんとどういう関係なんですか」

 カーテン越しに及び腰で言い返すと、ピシャリとした声が返ってきた。

「どういうって……腐れ縁よ」

「質問を間違えました」

 椅子を立つ音がして足音が響くとカーテンが開いた。現れた佐藤は真剣そのもので風夏を見上げてくる。風夏は顔をそらして視線から逃れると、ベッドの上に哲平の安らかな寝顔が見えた。

「哲平くんのことが好きなんですか」

「ちゅっ、ちゅき!?」

 ぼんっ、と風夏は赤くなった。佐藤を見下ろすと大きな瞳が睨みを効かせていた。

「ハッキリしてください」

「だ、だから、腐れ縁だって……」

「それなら私がハッキリします。私は哲平くんのことが好きです。愛してます」

 淡々としていた。一瞬の迷いもない告白。風夏は理解できていないのかぽつりと歌った。

「……愛と言うなのハンバーガー?」

「そうやってふざけてればいいじゃないですか。でも、哲平くんと私がいない所でやってください。もう哲平くんに会わないでください」

「そ、それこそアイツが望んでることじゃ――」

「会わないでください!」

 決して圧倒する程の大声ではなかったが、精一杯の怒声だった。それに風夏は言い返せず、グッと唇を噛んだ。

「もう、哲平くんをおかしくしないで」

 力を使い果たしたようにか細くなった声は、もうすぐ泣き出しそうな気配をさせていた。風夏はゆるく首を振り、何も言わずにドアへと向かった。

 カーテンが閉まる音と共に、薄暗い廊下へ出た。

「好きとか嫌いとか……わかんないわよ」

 しばらく立ったまま動かなかくなった。廊下には人っ子一人いない。ぽつんと、ただぽつんと、立ちすくむ。

 顔をあげると、目の前の教室のガラスに風夏が映っていた。短めなスカートにスパッツ。女子にしては大きめな身長。ショートカットに右耳にイヤーカフス。気の強そうな顔を太い眉が一層と強調している。活発で、元気が取り柄の、がさつで、そして可愛げのない女子高生が写り込んでいた。

「……自分でもわかってるっつの」

 目を反らすと、靄が晴れるように周りが音をたてはじめた。遠くから放課後の喧騒がする。運動部の声もあまりしない。ぽつぽつと生徒の足音。シャッとカーテンが開く音。床を鳴らし何かが着地ような音。シャッとカーテンが開く音。もう一度カーテンが開く。カツンと床が鳴る。

 一連の物音は風夏の背後でした。不審に思い風夏はドアに耳を押し付ける。ほんの少しドアを揺らしてしまった。

「キャーーーーー!」

 勢い良くドアを開ける。奥のベッドの前にオレンジ色の覆面がいた。男子の制服を着て、左手には金属バットが握られていた。

 風夏と目があって固まっている。一番奥とその手前のカーテンが開いていて、哲平のベッドの横で佐藤が酷く怯えて尻餅をついていた。悲鳴によって目を覚ましたのか、哲平が体を起こして目を丸くしている。

「な、何やってんだオマエ!!」

 風夏は足がすくみそうになりながらも、それを吹き飛ばすためか大声をだした。男はバットを手首で少しだけ持ち上げながら、佐藤と風夏を交互に何度も見る。目に見えてうろたえている。

「ど、どどどどどどうすれば」くぐもった男の声。哲平が伸びているベッドの方を見やってから、奥の窓に慌てて近寄り開け放った。

「つ、捕まえてください!」

 佐藤が悲鳴のような叫びを上げた。風夏は一瞬の考える間の後、男に向かって走った。

 情けない悲鳴を上げて、男は窓枠を乗り越える。着地すると、もつれて学校の出口の方向へ走り出す。

 風夏はヒラリと窓枠を飛び越えその方向を向くが、すでに姿がなかった。それでも走っていくと、昇降口の玄関に脱ぎ捨てられたオレンジ色の覆面を見つけた。

 校内に入りあたりを見回す。静かなだけあって足音がよく響く。上の階からする逃げる足音を聞き分けるのには簡単だった。

 階段を滑るように駆け上がっていく。二階に駆け上がると、男子生徒とぶつかってしまった。反動で吹っ飛んだのは新聞部の益子だった。

「ぼ、ぼくに恨みでもあるの……?」

 益子は右目のレンズがない眼鏡をかけ直して弱々しく言う。風夏はそれを無視して耳を澄ました。足音がしない。急いで益子の肩を掴んで揺さぶった。

「ここ誰か通らなかった!?」

「え? 今部室から出てきたからわからないよ」

「ばかもん! ハゲメガネ!」

「突然の悪口? あ、そうだちょっとまって佐藤のことで――」

 益子が呼び止めるが、風夏は聞く耳持たずに廊下を走っていく。一番奥のA組のドアが開いていた。中に入るとベランダへ続くドアが開いていた。出ると、鉄パイプが落ちている。すぐに手すりから身を乗り出し世話しなく見回すが見当たらない。他の教室の窓見る。どこも開いていないし、割られていない。

「くそッ! まかれた! ……まさか」

 何か考えついたのかハッとする。すぐさま階段を下り、瞬く間に保健室へ駆け込んだ。

「二人共ダイジョ! ……ブ」

 二人共無事だった。だが、風夏は笑顔になりかけに半端な顔のまま固まってしまった。

 それは、胸に顔を押し付けて泣いている彼女と、情けない表情だが、それをなだめる彼氏の姿だった。

 ほんの少しだけする息切れを静かに正しながらカップルの姿を呆然と見つめていた。

 哲平は突っ立っている風夏に気が付くと、困ったような笑みを浮かべた。

「だ、誰かいるんですか」

 佐藤は怯えながら顔をあげる。涙でぬらしている愛しい表情に哲平は首をふった。

「い、いや誰もいないよ」

「そうですか……」

 ズズッと鼻をすすり安全を確認するようにドアに振り向く。ポッカリと開いたドアがあるだけだった。

「……えーと。コレは、どうなった……の?」

 哲平は状況が分かっていないのか、見上げる佐藤に訊いた。佐藤は小さく震えながら、

「急に後ろのカーテンがあいて、覆面の男が出てきたんです。そしたら、急に、バッドを振り上げて……」

「も、もういいよ、思い出さなくていいから。ごめん変なこときいて」

 涙が滲んでいる佐藤を慌てて止めた。それでも佐藤はやめない。

「あの人、絶対私のことを狙っていました。私、何もしてないのに……どうして、あんな……」

「もういい、もういいよ」

 哲平は俯く佐藤の頭を撫でようとした。胸の中でブルブルと震えて頬を赤くしている。こっそり深呼吸して小さく頷き、緊張で震える手を徐々に下ろしだした。だから、佐藤がその行動を見ていることに気がついていなかった。

 動いているか分からない速度で迫る手をみあげる佐藤。その精一杯の勇気を振り絞る顔に、プッと吹き出すのをどうにか飲み込んだ。そして柔らかな笑みを浮かべる。

 だがそれを振り払うように首をふって、頭をその手に押し付けた。

 哲平は目をあけた。佐藤が中腰になって頭を押し付けている。

「あ、あの、いいですか?」

「は、はひぃ」

 混乱して赤くなっている哲平はどうにかそう言うと、ゆるゆると頭を撫で始めた。佐藤も上目遣いで恥ずかしげに頬を染めると、椅子に座り直した。

「ぼ、ぼくは、だ、だだだれにも、佐藤、さんを傷つけさへたり、しーましぇん!」

 哲平はゆっくりとその頭を引き寄せて、自分の貧弱な胸板に押し当てた。上ずり、震え、カミカミでほとんど聞き取れなかった。それでも佐藤は俯いて、頷いた。

「……はい」

 声はとても嬉しそうで可愛らしかった。なのに、表情はどこか悲しげだった。



「なるほどねぇ……なんで狙われたんだろ」

 風夏は腕を組んで唸った。昼休みの屋上には風夏たち以外に二、三人程度の生徒しかおらず、ほとんど貸切だった。

「同士の会に何か恨みを買ってるとか?」

 屋上を囲む高い金網に背中を預ける。そっぽを向いたままお茶の入った紙パックのストローをすすった。

「見に覚えがありません」「本人もそう言っています」

 同時に答えたのは向かいに仲良く並んで座る佐藤と哲平。二人の間にはキツく結ばれた手があった。おまけに哲平の前に置かれた通学バッグの上には弁当、ピンク色のそぼろで作られた恥ずかしくなるほど大きなハートマークが描かれていた。

「たまたまってことはないの。隣のベッドに来たヤツを無差別に襲うつもりだったとかさ」

 風夏が苛立たしげに言う。

「それはないと思います。僕の意識がないのと、風夏さんが出てったのを見計らって出て来たそうです」

「そうです、って……ああ、アンタ悲鳴聞いてから目覚したんだっけ?」

「ハイ、佐藤さんが言っているんで」

 チラッと横目で佐藤をみる。風夏と目が合うと佐藤は慌てて俯いた。どことなく気まずい空気が流れたが、気が付かずに哲平は続けた。

「あの、実は今日も、おかしいことがあって」

「おかしい?」

「佐藤さんと一緒に登校してきたんですが……えと、今朝横断歩道で信号待ちしていたのですが、自転車が前から走ってきたんです」

「自転車?」

「突っ込んできたんです。僕らに、いえ多分、佐藤さんめがけて……そのまま逃げられてしまって……」

 風夏はバッと体を起こして佐藤に目をやる。まじまじと自分が見られていることに気づいたのか、佐藤は首をふった。安心したように息を吐くと、そのまま胡座をかく。

「それってたまたまじゃないの? ああいう事があったから、こう、被害妄想? が働いて、神経がそうさせるのよ」

「そうと信じたかったんですが……どうもそういうわけじゃ無さそうなんです」

 風夏は首をかしげた。神妙な様子で哲平は弁当をどけると、バッグから花がらの花瓶の欠片を取り出した。

「丁度、校舎の下を通ったときに、この花瓶が落ちてきたんです」

 風夏がまた佐藤を見ると、俯いたままコクリと頷く。

「外れたので怪我はなかったんです。直ぐにどこから落ちたのか上を見たんですが……ベランダからだと思っていたのですが、駆け寄ってきた先生が、屋上から落ちてきたと」

 マジで? と息を呑んでいると、哲平がさらにバッグを漁りだす。破ったノートの一ページを取り出した。

「あの、これ佐藤さんの下駄箱に入ってたって……」

 風夏は渡されたそれを見る。すると、薄ら寒いものを感じたのか顔色が悪くなった。

 様々な雑誌の切り取りを使ったのか、バラバラのフォントの文字が貼り付けてあった。目眩がしそうな色の羅列は、オマエを殺すと言っていた。まるで、というか、殺人予告そのものだった。

「警察行こう」真剣に言う風夏。

「たぶん……ただの悪戯だってあしらわれて終わりです」

「じゃあ鬼灯さんに」

「生徒会長は……ちょっと……大事にすると……危ないような」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが。言っておいてソンはないわ」

「ふ、風夏さんだって嫌そうじゃないですか……」

 哲平が顔につっこむ。風夏は複雑な表情で続けた。

「ま、まあ、鬼灯さんに頼んだらアタシの……じゃなくてホナルチ部の手柄にならないしね。でも、誰かボディーガードは必要かも」

 うーん、と唸る風夏。一息つこうと哲平は紙パックのコーヒーに手をつけた。

 ストローを咥えたまま哲平は目を見開いて固まった。佐藤と風夏が何事かと覗きこむ。

「ど、どうしたのですか?」

 おそるおそる佐藤が訊くと、哲平は頬をふくらませたまま口を離す。瞼を全開に開けた女子高生たちを交互に見た。そして、一気に吐き出した。

「ちょ! 大丈夫!?」「哲平くん!」

 ゴホゴホと苦しそうにむせる哲平に二人は慌てて近寄る。

「コレでゆすいで!」と紙パックのお茶を差し出すと、哲平はストローに吸い付く。パックが凹んで哲平の頬が膨らんだ。ぐじゅぐじゅ音をたて口をゆすいで、灰色のコンクリートに吐き出した。

「保健室よ保健室! それか救急車! 救急車? 救急車がいいわ! 早く!」

 おろおろとしている佐藤に必死の剣幕で風夏が叫ぶ。屋上の住人たちもざわめていた。佐藤は頷くと、スマートフォンを取り出して電話をかけようとした。

「ゲホゲホ、だ、大丈夫だから」

 哲平はそれを止めた。口を抑えて苦しそうにむせている。だが風夏は丸まった背中に回りこむと、羽交い絞めをして立たせる。

「大丈夫なわけ無いでしょ! 早くしないと毒が回っちゃうわ!」」

「え? ど、毒?」慌てていう哲平。

「そうよ! ね!」と、なぜか佐藤に同意を促す風夏。首をかしげられた。風夏もかしげた。

「違うんですよ。僕ブラックコーヒー買ったんですが、中身が違ってて驚いただけです」

 そう言う哲平はもう笑顔になっていて、なだめるように風夏の腕から抜けた。

「だから苦しくなったんでしょ!?」

 風夏は腕をつかもうとするが、哲平は両手で壁を作っていやいやと逃れた。

「凄く甘かったんですよ」

「は?」

「コーヒーなのに甘かったんですよ。中身が間違ってたようです。取り乱してすみません。ははは」哲平は恥ずかしそうに笑った。「大丈夫大丈夫、本当に毒とか青酸カリとかじゃないから、はは。でも甘いのあんまり好きじゃないから、辛いかな」

「……あのそれって」

 佐藤が言いづらそうに口を開いた。風夏と哲平の視線が集まった。

「私が買ってきたんですよ。ここに来る前に、哲平くんがトイレに行くって言うから……その間にって……」

 哲平の笑顔が目に見えて変化していった。

 風夏はハッとして、唇を撫ぜた。

 転がっている紙パックから、茶色い液体が流れ出していた。

 甘いコーヒー。

 MAXコーヒー。



 時計の短針が二周した。授業が終わると、風夏は佐藤と哲平を教室にまたせて、まっさきに百々目鬼の教室に行く。ボディーガードに適任な人物は、人物とはいえない異型のロボットだと考えたのだ。百々目鬼二人ににカクカクシカジカと今までのことを話した。

「メンテナンスミスって、首が繋がらなくなったのじゃ。テヘペロ!」

 百々目鬼シスターズは同時にペロッとポーズをとった。


 肩を落として教室に戻ると、イチャイチャと笑いあう二人に、立ち止まりそうになる。それでもどうにか平静を装いカップルへ声をかける。

「ダメだった。なんでこう肝心な時にウチの部員は役に立たないのよ」

「百々目鬼先輩は部員というより、面白がって集まってきてるだけのような……」

「アタシは考えたの……」

 唐突に風夏は腕組みして穏やかに言った。

「このまま何日も何日もビクビクしてても仕方ないわ。釣りをしましょう」

 

 夕方の学校。オレンジ色の家路を急ぐ生徒の間を1人、長い髪をなびかせて佐藤が歩いていた。その後ろから草葉から草葉にうつって後をつける影があった。

「今までの犯行は全て学校の中だったわ。こうしてエサを垂らしておけば、必ず犯人は食いついてくるって寸法よ。アタシって頭いい!」

「……」

「もしも見失っても、このそこら辺の露店で買った追跡くんΣがあれば万事解決よ」

 不敵に笑う風夏。手の中には小さい画面が付いたポケベルのようなものが握られていた。

 木の影に隠れると、風夏の後ろに隠れる哲平がボソリといった。

「最低です」

「なんとでも言いなさいよ。ウジウジやっててもしょうがないでしょ。コレ以上酷くなったらどうするのよ」

「そりゃそうですけど……」

 体育館の周辺を歩く佐藤の後ろを付ける。

「……うまくやってんの」

「え? ああ……」

 ポツリと風夏が呟く。哲平は頬を赤らめた。

「まあ、はい」

「全然どうでもいいけど」

「なんですかそれ……」

 部室棟の中を歩く佐藤の後ろを付ける。

「アンタとこういうことすんの久々ね」

「初めてじゃないですか」

「アンタとはでしょ?」

「? 意味がわからないんですが」

 校舎の中を歩く佐藤の後ろを付ける。

「わからなくていいわよ。アンタには関係ないから」

「……風夏さんって自分勝手すぎますよ」

「アンタに言われたくないわよ!」

「それはどっちに言ってるんですか」

「アンタよアンタ!」

「……風夏さんに日本語の勉強をすることをおすすめします」

 後ろを振り返った。聞き慣れた声。聞き慣れた敬語だった。でも――哲平は健康そのものだった。

 風夏の瞳は哲平を見ていた。

 でもそれはどこか遠くを、哲平の奥の奥の奥を見つめていた。

「アンタのこと好きよ」

「ええ!?」

 唐突な告白に哲平は声を上げてオロオロ。風夏はそんな哲平に微笑を浮かべた。

「多分、アタシがあの時、な、いた……泣いたのは、本当にアンタがどっか行っちゃうと思ったからだと、思う。タブンそう」

 哲平は顔を真赤にしたままで意識を飛ばしている様子で、聴こえているのか疑わしかった。それでもしおらしく、風夏は続けた。思い出すように。一言一言を愛するように。

「素っ気ないのに、なんだかんだアタシのこと気にかけてくれてさ」

『なーにつったってんの……』

「空気読めないけど。他人の悩みばっか解決して」

『巻き込まないほうがいいかなーって……』

「アタシはアンタのことが……」


『風夏』


「好きだったのよ」

 その言葉に、哲平は意識が引き戻された。ああ、と。

 風夏が目元を拭うと、弱々しい笑みを作った。

「そう、だったのよ」

 哲平は、辛いような悲しいような申し訳ないような、そんな感情がまぜこぜになった表情で俯いた。

「……ご、ごめんなさい。僕、風夏さんの事何も知らないで……今のままがいいなんて……」

「あ、あやまん無くていいのよ。アンタはもう違う人間で、それが今のアンタの気持ちで……カノジョさんもいるしね」

 風夏も恥ずかしくなってきたのか。それを吹き飛ばすように胸をはった。

「ま、こんな美少女に告られても、勘違いすんじゃないわよ。アンタは、ただの! ……ただの……」

 ブルブルブルブル、と震えた。風夏はハッとする。掌の中だ。

「あ、まずった!」

 追跡くんΣの小さな画面に目を落とすと焦りだした。すぐ廊下に踊り出る。既に佐藤の姿がなくなっていた。

「えーとえーと、あれ? どこだここ? どこにいるのよ!」

 風夏は慌てふためき画面を覗きこんでいる。哲平がぐいっと顔を近づけて、画面を覗きこんできた。

「これは……屋上だ!」

 真剣な、彼女の安否に声を荒げる哲平。その横顔はまるで――。

 哲平が横を通り過ぎていく。風夏は一歩おくれてスタートを切った。

「あ! 上田さん! まってまって!!」

 でがかりを止められて、前につんのめった。振り返ると、益子がひょろっと立っていた。肩で息をしていて顔が青い。走ってきたようだ。

「うっさい! 後にしてよ」

「誰が首謀者かわかったんだよ!」

「あんなんアタシが作った嘘っぱちよ!」

「佐藤さんを狙ってるヤツとも関係があるんだ!」

 振り返ると、益子が頷いた。



「え?」



 哲平は階段を駆け上がった。開いている屋上へのドアをくぐると、そこには沈みかけている夕日をバッグに、二人の男女が抱き合っていた。最初、哲平はそう視認したが、すぐに間違いだと分かる。

「佐藤さん!」

「き、きたな裏切り者!」

 金網の前、丸く大きな夕日が燃えている。それを背にして覆面の男が佐藤を捕らえていた。喉元には橙に輝く、手に収まるほどの果物ナイフが押し付けられていた。

「うう動くなよ」

 一歩踏み出すと、覆面の男に脅された。

「よし。そのままだぞ……」

 肌が少し凹むほどナイフを白い首に押し当てる。

「そ、そんなことしてどうなるんだ!」

「おおオマエには関係ない。おおオレはこうしなきゃいけないんだ、こうしなきゃこうしなきゃこうしなきゃ……」

 ブツブツと男が言葉を繰り返す。どういうわけかブルブルと震えていた。

「な、何が目的なんだ……?」

「も、目的?」

 無意識の哲平の言葉。男はそれにピクッと反応した。

「そそそう! 目的目的! 目的があるんだ聞いてくれ今直ぐ!」

 佐藤からナイフを離して、指差し棒のように哲平を指した。どことなく嬉しそうだった。そして何かを思い出すような仕草をする。

「そう……そうなんだ……オレは裏切り者を成敗しにきたんだ! 津島哲平! お前のせいであの聖戦に負けたんだ!」

「う、裏切り者? 聖戦?」

 哲平は何を言われているのか分かっていない様子。そんなの関係なしに男は声高に続ける。

「そうだ! お前はそう、綺麗さっぱり忘れたんだよな。それでもお前がやったことは事実だ現実だ。生徒会と通じて我々の計画を全部そのまま筒抜けにさせて……そうだ、そうだそうだそうなんだ」

 再びぶつぶつ言って男は立ち上がる。震えながら果物ナイフを構えた。

「お前さえ、お前さえいなければぁ!」

 哲平をまっすぐに見据えると、血走しらせた白目が走ってくる。佐藤の悲痛な叫びがする。哲平は後退しようとするが、足を縺れさせて尻餅をついた。

 すっかり腰が抜けて動けなくなった。5メートル、3メートルと瞬く間に死の足音が距離をつめてくる。覆面の顔がハッキリと見えてくる。哲平はぐっと目を瞑って、痛みに耐えよう身構えた。

 ――タッタッタッタッタ、タッ!

 突然、小さい物体が男にぶつかりギャフンと首がのけぞった。果物ナイフが男の手から離れて哲平の側に落ちた。

「ザ・ショックオブ・ザァ、キイイイック・ザ・チィイイイック」

 人間大の弾丸。人影が哲平に影を落として上空を通過した。

 鈍い音と共に男がぶったおれたる。その側に大破した追跡くんΣと、女子にしては長身の風夏が着陸した。悶絶している男に馬乗りになって胸ぐらを掴み上げる。

「よっしゃージャストフィット! おら正体を……」覆面を掴むと一気に引き抜く。目を丸くした。「………………アンタ会員だったのね」

 覆面を脱ぎ去った男。それは、風夏と一度接触のあった男だ。一度風夏に部室棟の前で恐喝まがいのことをされた男だった。体をぐったりとさせていた。

 よだれを垂らして横たわる男。風夏に巻かれて、男の手首で伸びきったMAXコーヒー柄の覆面。そして、自分に殺意を向けてきた怪しく光るナイフ。一難去ってもまだオレンジ色の空気は張り詰めているようだった。

「哲平くん!」

 佐藤が呆然としてる哲平に駆け寄った。腰を抜かして脱力している体をキュッと抱きしめる。

「よかった、よかった、ホントに……」

「ぼ、ぼく、え? え?」

 涙を流して喜びの声をあげる佐藤。少しだけ締め付けられる彼女の温もりに包まれるながら、哲平は混乱していた。

 風夏はスッと立ち上がった。二人の背中を真剣な顔つきで見据えたままポツリとつぶやく。

「……アンタは知らないのよね。津島哲平は幹部の一人だったのよ。さらに生徒会のスパイ。アンタのおかげでMAXコーヒー同士の会が潰れたと言ってもいいわ」

 それを聴いても、哲平から困惑の色は消えない。佐藤の心地良い束縛に身を委ねて、その意味をどうにか飲み込もうとしているようだった。突き放すように風夏が言った。

「アンタは人から恨まれてんのよ」

 哲平が理解するより先に肺を黄昏時の冷たい空気を吸い込んだ。そして、腹の底から全て吐き出した。

「益子ォ!」

 木霊する風夏の声…………一分後、益子がよろよろとドアからでてきた。

 刃物がコンクリートを擦り鋭い音を発する。果物ナイフを手に取ると首元につきつけた。

「何やってたのよ! 何脅されてんのよバカタレ! バッとでてきなさいよ!」

「ソンナこと言ったって……ぜえぜえ……いま来たばっかだし……乳酸が……駆け巡ってる……」

 風夏は一歩も動かなかった益子に罵声を浴びせた。地面を蹴り上げる準備動作に入ると、冷たい声に咎められた。

「近づかないで。殺します」

 鋭い眼光。風夏は舌打ちをする。雄々しく釣り上がる太い眉が冷静ではないと言っている。

 それと同時に理解の追いつかない情報が哲平を襲ってきていた。驚きでもなく呆けでもなく恐怖でもなく。今の津島哲平が覚えているのか、それとも根本的に覚えていたのかは分からない。ありとあらゆる感情と過ごしてきた日々の記憶がフラッシュバックしていく。哲平は考えるという行為すらできずに、抜け殻のように温もりの中にただただ横たわった。

「アンタのお仲間はコイツしかいないんでしょ。今さらあがいても無駄よ」

 風夏の声が飛ぶ。哲平の首元にナイフを押し付ける、能面のような何の感情も感じさせない表情で、佐藤は言った。

「でも私の目的は、このナイフをもう一0cmほど押し込むだけで果たされます」

 物騒な言葉とは裏腹に、その瞳は常人そのものだった。哲平の首すじにナイフをさらに押し当てる。日常生活を送っているのと同じ。それこそ、果物ナイフをリンゴの表面に突き立てようとしているだけの行為。脅威を感じさせないことが脅威だった。

「情報屋が教えてくれたって益子くんからきいたわ。アンタがこの一件の犯人ね。同士の会元幹部、佐藤凪さん」

「元、幹部……」

 言い合う二人の間で、哲平はぼんやりとおうむ返しする。

「そう元幹部。アンタが潰した会の統率者の一人よ」

 風夏は事も無げにいった。だらんと垂れる拳の指が蠢いている。

「今までの嫌がらせはその女とコイツの自演。保健室でコイツが襲ったのは、アンタじゃなくて哲平よね」死体なのかと思わせるほど動かない男を指さす。「元々保健室へ行ったあの日、本当は哲平をどっかに連れてって襲うつもりだったんでしょ。電話とか、トランシーバーとか? まあなんだっていいけど、それでコイツと連絡を撮り合ってね」

 佐藤の黒目がちな瞳がわずかに細くなった。

「他の幹部たちは矯正されて復讐する気にはなっていないようだけど、その女は、忘れられなくて、憎くて憎くてしょうがなかった。と、まあ、ほとんど推測だけどね。アンタが犯人って事以外は」

 鼻を鳴らす風夏。佐藤はズリズリと死に体の哲平を引きずって移動を開始した。

「道を開けてください」瞳だけで威圧すると、益子が引きつった笑みで両手をあげドアの前からどいた。

 たん、と上履きが鳴る。一歩踏み出した風夏に佐藤の鋭い声が飛ぶ。

「動かないでください」

「あのさぁ。どうしてさっさと殺さないのよ」風夏はポツリと言った。「そのためにワザワザこんなへなちょろびんと恋人ごっこまでしたんだから、いくらでも殺す機会あったじゃない」

「ごっ……こ」

 佐藤よりも早く反応したのは哲平だった。上にある佐藤の顔に目を向けた。佐藤は見向きもせずに、一瞬だけ眉間にしわをよせる。

 沈黙に哲平が割り込んだ。

「う、うそだよね? 同士の会とか、幹部とか、そういうの僕、わ、わからないけど……ウソでしょ? ドッキリ? ドッキリだよね? ね?」

 痛々しい笑みを浮かべる哲平。風夏は見ていられないと唇をかんで視線を外した。

「佐藤さんは言ってくれたじゃないか。僕のことがす、好きだって。僕の、や、優しいトコロとか、が好きだって……」

 哲平が呼びかけるが、佐藤は目も合わせてくれない。風夏を見据えたまま動いていないなかった。そして眉一つ動かさずに言う。

「アナタを殺すことが目的です」

 冷徹に響いた声は、哲平の息をつまらせた。風夏はチラチラと視線を外しながら、

「恋人になれば簡単に二人きりになれるからね。 ……マンガの知識だけど」

 風夏が話を続ける間にも、佐藤はジリジリドアと距離を縮めていく。まるで子供が大きなぬいぐるみを引きずっているようだ。

「嘘だったのよ。出会いも、仲良くなったのも……好きなことも。全部嘘っぱちよ。本当のことは一つ。コイツはアンタのことを殺したくてたまんないってことだけ」

「う、ウソ、だ!」

 哲平は切実に否定した。佐藤に首にナイフを押し付けられたまま。

「何言ってんのよ、アンタの首に当てられてるソレが何よりの証拠よ!」

「ねえ、う、嘘だよね」

 風夏に言い捨てられても、それをやめない。すがるように佐藤を見上げた。

「嘘だって言ってよ佐藤さん――ッ!」

「哲平くん、私は人の話を聞かない人が嫌いです」

 佐藤の声は芯まで冷え切っていた。哲平の首から一筋の赤い線が伸びる。それはオレンジ色だった果物ナイフに血で赤いラインを描いていく。

 駆け寄ろうとした風夏に、佐藤は目で威嚇する。

「ここで殺すのは本意ではないので、動かないでくれると助かります」

 苦悶の表情を浮かべる風夏。佐藤はついにドアの前まで哲平を引きずって来た。

「ついて来ないでください。そうすれば哲平くんの安全は保証します」

「逃げてもすぐ捕まるのが落ちよ」

 数秒、視線が佐藤から外れる。チラッと益子に目配せした。まっすぐに風夏を見返す佐藤。

「アンタ一人で何ができるっていうのよ。不幸の手紙か藁人形で、本当にかかってるかわからないノロイをかけ続けて何かの事故で死ぬのを期待することがせいぜいよ」

 さらにチラッと、落ちている追跡装置の破片の位置を盗み見る。佐藤は後退して丁度踊り場と屋上の境界にまたがった。

「佐藤さん……」

 ぽつりと、哲平が言う。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。誰だかわからないほどに崩れていた。魂の深淵まで雨に打たれて凍えている、捨てられた犬のようだ。

 その同情をさそう表情は、穴が空くほど佐藤を見つめていた――――佐藤は止まった。

「………………哲平く――」

 瞬間だった。上履きが踏ん張る音がする。佐藤は外していた視線を戻した。風夏が壊れた追跡くんΣへ向かって、水泳の飛び込みのようにジャンプしていた。破片を掴むと、くるりを受け身を取って、

「益子今だ!」

 佐藤はサッと冷静に益子へナイフを向けた。こうなることは分かっていたような冷静さ。風夏の目配せは筒抜けだったようだ。

 そして益子は……両手を上げたまま汗で一杯の引きつった笑みを浮かべていた。

「レイザービーム!」

 しまった、と風夏へ向き直ったが遅かった。左目にピンポイントで小さい破片が命中した。夕焼け空へ高らかに絶叫が舞い上がった。

「ウェエエエーーーール!!??」

 さすがの佐藤も目をむいて口をポッカリと開けてしまった。左目は赤く充血して絶え間なく涙があふれだしている。イタイイタイと目を抑えて悶える哲平。佐藤は唖然とした。

 太い眉がにやついた。

 ぬっと小さな体の肩越しから腕が伸びてきた。バッと振り返ろうとするが、佐藤は何もできずにその細い両腕を引っ張りあげられた。

 ナイフが落ちて乾いた音を鳴らす。抵抗しようと身じろぎをするが、両手はビクともせず、地面に足がつかない。右足を振り上げて思い切り後ろの人物に振り下ろしたが。

 ゴーン! 鐘をついたような空洞のある音と共に、佐藤は悶絶した。

「やめておけ。お主の貧相な足じゃ傷ひとつつけられないぞ。この超スーパーソニックガイノイド百々目鬼レアラちゃんは、オリハルコンの弾丸にうたれてもピンピンしとるぞ予想ではな」

 それはおばさんみたいな声だった。声を抑えて悶える佐藤は、涙目になりつつも肩越しに後ろを向いた。両手を掴んでいる人物は首がない。不釣り合いに小さくて、小学生ぐらいのメガネをかけた女の子の顔が生えていた。

「まったく、首の接続が上手くいかないからメンテ中じゃったのに呼びだしおってからに」

 百々目鬼の顔が引っ込む。ブシューと派手な音を立ててレアラの背中が開いた。機械音をたてて背中が倒れ、簡易的なスロープができあがると、ぴょんとネコちゃんと共に百々目鬼小さな体が現れる。パタパタと顔をあおいだ。

「ふーこんなこともあろうかとパワードスーツにしておいてよかったゼ」吊るしあげられている佐藤の前にテトテトと回り込み、俯く顔を見上げた。「まさかだったのう」

「尊い命が……救われた……僕の」

 安心したのか益子がへたり込む。風夏も小さく笑うと、寄ってきたネコちゃんに額の汗を拭われた。

 雲が流れている。肌寒いぐらいの穏やかな風が短い前髪を揺らした。黄昏の時間が戻ってきていた。風夏は張り詰めていた緊張の糸がぷっつり途切れていた。

 だから、対応できなかった。佐藤にかけよる男がいた。

「くそッ、外れろ。くそ、クソッ!」

 必死だ。目を閉じてうなだれていた佐藤は、聞き慣れたその声にぐったりと顔を上げた。夕焼けだった空に黒が落ち始め、薄暗くなってきている。それでもよく分かった。佐藤の視界いっぱいに広がるのは、頼りないウインクだった。

「わかってる。僕はずっとずっと一緒にいたんだから、誰よりも佐藤さんのこと知ってるよ」

 頼りない笑顔。つぶっている左目からはだらだらと涙が流れていた。

「誰かに脅されてるんだよね。きっとそうだ。ごめん気が付かなかくて、か、彼氏なのに、はは」

 ビクともしないレアラの手をこじ開けようとする貧相な腕。ウインクしたままどうにか笑顔を作っていたが、無理しているのが見え見えだった。佐藤は少しだけ目を見開き、何も言わずにその無駄なあがきを見守っていた。

 風夏は立ち上がろうと膝立ちになった。その肩に百々目鬼の小さい手がそっと置かれた。ヘラヘラした笑いは消えて真剣な顔つきになっていた。

「ぼ、ぼくは君に救われたんだ。自分が誰なのかわからなくて、怖くて悲しくて……でも、それ以上に皆僕を悲しい目でみるんだ。でも、君は、僕の側で笑って、笑って、笑ってくれて……こんな頭のぼ、僕といても楽しいって言ってくれた……しかも、す、すすすす好きになってくれたんだゃ」

 哲平の頬は夕日に負けないほど赤くなっていた。口をパクパクさせて、ぐっと声を張り上げた。

「だかりゃ! 今度は僕が、さ……な、なナギを助けりゅ。僕が凪を助けるんだ!」

 さほど大きくもない叫び。笑ってしまうほどカミカミでなよなよ。一瞬で太陽に吸い込まれていった。

 しかし、誰も笑わない。学校中が哲平に注目しているような静寂。息をすることさえもはばかられて固唾を呑んでいた。

 必死で、痛々しくて……切ない姿だった。

「アンタって……」「……ホントバカですよ」

 哲平の動きが止まる。佐藤の白い無表情がゆっくりと見上げてきた。長い睫毛の瞳が弓なりになり、薄い唇が理想的な半月を描く。

 夕焼けに輝く、天使のような笑顔。

 哲平はつられて、まるで救われたかのような笑みを浮かべた。

 天使は、言った。

「貴方を騙すのはとても簡単でしたよ。お人好しのノータリンさん」



 屋上の高い金網ごしに沈む夕日を眺めていた。もう夜と言ってもいいほど暗く、街頭がポツポツとつき始めている。もう誰もここにはおらず、黄昏れる哲平だけが取り残されていた。

 ぎぃと音をたて、階段室のドアが開いた。

「いつまでそうやってんのよ。校門しまっちゃうわよ」

 その風夏の声に振り向きもせずに、網膜に焼き付けるように太陽から目を離さない。風夏は眉をひそめて隣に来ると、金網に背中を預けた。スカートのポケットから絆創膏をぺらっと取り出し哲平に差し出す。

「…………佐藤さんは」ポツリと言う哲平。

「生徒会と言うより鬼灯さんとこ。まあ、こんだけの事しておいても大事にはならないハズよ。前みたいに学校外へでないよう工作するわよ。ご厄介になると、学校のの評判がガタ落ちだからね」

 さらっと言った風夏に、哲平はムッとした。

「学校がなんだ。社会がなんだ。世の中がなんだ。男が女がテスト学力電力軍事力。太陽を盗んでオーブンでチンするぐらいの心意気をみせてみろ」

「どこにぶつければいいかわからないからって、やたらめったらそこらに当たり散らすのはやめなさい」

「僕は被害者だと思ってない。アレは、つまり、その、痴話喧嘩」

 哲平は風夏へ体を向けて訴えた。風夏は腕組みしたまま、

「アンタがそう思っても、アタシらから見れば普通じゃないのよ」

「そんなの皆の常識が間違ってるんだよ! エモノで脅されることは生活の一部だ!」

「常識の前にアンタの街の治安を疑いなさいよ! もう、ほら」

 風夏は絆創膏のフィルターをとると、小さい首の傷へビタンと張った。

「……イタイ」

「どこが」

「心が」哲平の声は泣いていた。それに反応したのか、その目頭に涙が溜まりだした。

「ほらもう帰ろ? ここで落ち込んでいても仕方ないでしょ。ホラホラー」

 沈みかけた空気を振り払うように声をあげる風夏。哲平の体を反転させると、背中を押して強引に出口に向かわせる。まともに歩こうとしない哲平は、ゼリーのようにぐにゃぐにゃで人並みに重い。もうすぐ開いたままのドアというところで、哲平は溜息とともに口を開いた。

「ハァ……もうしのう」

「言うな!」

 突然の怒声がこだました。哲平は目を見開く。

「いまそれ言わないで」

 背中の手が小さく震えていた。哲平はごめん、と言いかけるが、ぐっと歯を食いしばった。

「そ、そんなのホントのワケ、ないじゃんか。なんで泣くんだよ、泣きたいのは僕のほうなん! ……だ、から……」

 勢いに任せて振り返ると、哲平の情けない怒りが霧散していった。

 押す背中がなくなった風夏の両手は空を押したまま。俯いていてつむじがよく見える。

 ぽつぽつと、コンクリートへできる二つの点。それを見つめながら哲平は謝った。

「ご、ごめん……なさい……」

「うう……」

 低音が震えている。つむじが呻きだした。

「ううううう~~」

 するとツノをつきだしたウシのように、両手を上げたままつむじが哲平に突進した。哲平は下腹の当りを押されて後退してしまう。踏ん張って止まろうとするが意味を成さない。肩越しに後ろを向くと、下へと続く階段が飛び込んできた。

「ちょちょっと、あぶ、あぶっ」

 ドア枠に必死にしがみつくが、それも数秒で一気に押し切られてしまった。

「あ、やばい、やばい、落ちる落ちる落ちるって!」

 階段のハスで手をバタバタさせて必死に落ちないように粘って粘って粘って粘って粘ったつもりだったが――――。


 体を起こそうとするが重くて上がらない。後頭部の痛みに、目を開けた。

 哲平は息を飲んだ。

 暗がりに浮かぶ太い眉に気の強そうな顔立ち。長めのまつげを携えた大きな瞳。しっとりとした吐息をほのかに感じる。哲平の鼻孔に送り込まれてくる空気からは気持ちのいい甘い香りが混じっていた。

 走り回りドアを蹴飛ばし罵声を浴びせる彼女からかけ離れていた。それは、物憂げな少女の微笑。頬に伸びた二本の涙の線が幻想的に光っていた。

 薄い唇がゆったりと開く。

「アタシのこと呼んで」

 しおらしく落ち着いた風夏の声。低音の艶かしさが漂っていた。哲平は赤くなるのを抑えられないし、目を逸らすこともできなかった。

 辺りは静まり返り、二人の他に誰もいなかった。

 大きく赤みをおびた瞳が、片時も視線を逸らさまいと見つめてくる。哲平は高鳴る鼓動が抑えきれない。風夏は哲平に覆いかぶさったまま、綺麗な瞳を暗がりに光らせた。

「いいから」

 囁きが哲平の耳をくすぐる。いつもの脅しではなく、お願いするような口調だった。

 哲平は気まずさと気恥ずかしさに、どうにかそれをひねり出した。

「上田、さん」

 ふっと重さが消えた。立ち上がっている風夏は輪郭しか見えない。

「…………こうなりゃなきゃ……言えないなんてね……」

 体を起こそうとする哲平を残して、風夏は下り階段に向かった。哲平が小さく呼び止めると、風夏は足を止めた。

「じゃあね。哲平」

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