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一章

ねこを探せ!

・一章

 時に、2010年代。

 日本は戦後最大の経済的不況にあえいでいた。

 相次ぐ連鎖式倒産、増加を続ける失業率、目に余る青少年の凶悪犯罪により、まさに世紀末と呼称される言葉のイメージによって翻弄されるにふさわしい、場所と時代になっていた。

 そのどうしようもない現実に、日々頭を抱えもがき苦しむ高校生は、あまりいないように思われる。


 アクビした。

「平和だ。鳥がさえずり、青葉がゆれ、子供たちの笑顔がとびかう。戦争を知らない僕らは、知らないままでいいのかもしれない」

 クマが目立つ男子生徒は部室の窓を開け放つ。元々半眼しか開いていないまぶたをギュッと閉じ、十分に空気を貯めこむ。そして感傷深げに吐き出した。

「ここでMAXコーヒーの甘々なテイストを味わえれば最高なのだけれど。まあ、それは帰宅してからにしよう。そうしようそうしよう」

 ややよれている紺のブレザーに長ズボン。少し伸びた短髪は寝癖でボサボサ。平凡な顔のパーツだが、目の下のクマがよく目立っていて猫背。誰もが指差してこの人は不健康だと確信できる身なりの男だった。

 その血色の悪い男子生徒は、にこやかな笑みを作ってゆったりとした歩みでドアに向かった。左に立つ人体模型の首から通学バッグを取って、ドアをスライドさせると、

「どこへ行こうと言うのだね津島くん」

 目の前に太い眉が現れた。

 その眉の太い女生徒は、津島哲平の173cmより1センチだけ小さい身長から、その気の強そうな顔と眉で笑顔を作っていた。女生徒は白い封筒をひらつかせてみせる。途端に哲平の表情が曇った。

「いま、そういうの募集してないから」

「はいはい」答えなど聴いていないと、女生徒は哲平の両肩を押した。

 ショートカットで左耳にはイヤーカフス。半袖のブラウスでスカートの下にスパッツを履いている。少しだけ日焼けしている健康的な肢体と引き締まっている体が、私は活発ですよとアピールしてくる。

 哲平は強引に押され、部室の中央で向かい合うソファーに腰を下ろした。ドアから見て右のソファーだ。

「という訳で、ここに一通の手紙が届きました」

 小さな丸テーブルを挟んだ向かい側のソファーに、女生徒がボフンと前かがみに腰掛けた。その勢いでこぶりな胸が揺れる代わりに、ホコリが部屋の中を舞った。

 彼らの部室は折角広い部屋なのに物で溢れかえり、一言で言えばはカオスだった。窓側にはテレビ台に乗ったブラウン管テレビが一台。その上にハイウッド俳優やアニメフィギュアが数体乗っている。漫画と雑誌が満載に詰まった本棚や、魔法少女のきゃるるんとしたポスター、ロックスターのポスター。さらに天井から吊るされている地球儀がゆっくりと回転している。まるで世界中のいらないものを一挙に引き受けたような統一感のなさだった。

 ゆらゆらと揺れる白い封筒。哲平は首を反らしてソファーに一層深くもたれかかった。

「やっと仕事が来たんだから、もっと喜んでよ」

「上田さん。仕事って、校内清掃とか七不思議を全部見つけるとか校長の毛ヘルパイルダーオンを激写することですか?」

「小さなことからコツコツと。最初から大きな事ができると思ったら大間違いだよ、津島くん」

 上田風夏がチッチッチッと指を揺らすと、哲平は目を閉じた。

「別にできるなくてもいいです」

「これやんないと部室追ん出されるけど、そんでもいいの?」

 沈黙の後、哲平は天井に向かって嘆息した。そんな哲平に、風夏がたたみかける。

「授業が終わり、部室に直行して買い食い。レコーダーに録画したつまらない午後の映画再放送をかけて、退屈さのあまりに眠りにつく。そんな幸せな生活できなくなっちゃうけどいいのかな? ま、アタシには分かんないけど」

「…………この学校にはMAXコーヒーがないんだよ」

 哲平は大切な何かをなくしたような語り口で話し始めた。

「自販機にも購買部にもない。最近まであったのに!」座り直すと身振り手振りを追加した。「どうしてあんな茶色くて苦い液体と変わってるんだ! 絶対におかしいですよ!」

 声が大きくなり手振りが熱くなってきた。風夏は太腿を揃え涼しい顔で頬杖をつく。手紙をいじくって興味なさげだ。

「アンタみたいなMAXコーヒー中毒者が減るなら賛成かもね。アタシの知る限りアンタしかいないけど」

「だからもう帰らせてくれ! 今日は持ってきた分日中で全部飲んじまったんだ! アレを一発キメないと、もうどにかなっちまいそうだよ!」

「じゃあ手紙開けるわよー」

「まあまて」

 哲平は身を乗り出して手で静止した。ウソのように冷静になっている。

「なに?」

「本当にやるのか」

「だって、アタシらの活動なんだから仕方ないでしょ。今月はまだ何もしてないから、生徒会に提出する年間行事予定表に不備がでるのよ」

「あんなの形だけだろう? 気付きゃしない。動物愛好会なんて部室にウマ飼ってんのにどうにかなってんだ。たぶん、ゾウを連れ込んでも気付かないさ」

「そんなの誰かが流した噂でしょ? でっち上げよ。そもそもそんなこと鬼灯さんが許さないっての。それに、アタシはこういうのちゃんとやらないと気が済まないの」

 ビリッと景気のいい音を立てて封筒が開く。封筒を振ると、ヒラリと一枚の便箋が落ちた。風夏はそれを取るとハスキーな声で音読しはじめた。


『こんにちは。この手紙を読んでいるということは、依頼を受けてくださるのですね。ありがとうございます』


「回りくどいわね」

「行儀のよろしい人だこと」

 哲平はソファーの背もたれにぐったりと体を預けた。


『早速ですが、私の飼っているペットを探して欲しいのです。まだら模様で両耳と左目が茶色いのが特徴。犬まっしぐらが好物。

 ねこ です。捜索のほど、よろしくお願い致します』


 哲平は勘弁してくれとため息をついた。

「……こんどは猫さがしかい」

「差出人は、白鳥響さん」

 封筒の裏を見せながら風夏が言う。端っこに綺麗で細々とした文字で『白鳥響』と書いてあった。

「字ぃ綺麗ね。書きなおした後も見当たらないからボールペン一発描きかな。几帳面で……アタシのカンでは女の子ね。うん」

「え? 直接あったんじゃないの?」

「直接合ったら直接聞くわよ。手紙はアタシの下駄箱に挟まってたの」

「妖怪ポストかよ……まあ下駄箱に入ってたってことは、学校の人間だろうな」

 呆れて言う哲平。風夏はアゴに手を当てて唸った。

「ペットの名前が書いてないわ。探してくれという割には手紙ですまして、やけに簡素な文章……普通だったら愛ネコの名前ぐらい書くわ。うん、これは、とても匂うわね」

 便箋の内容を目で追いつつ足を組む。スパッツをはいたふとももが柔らかそうに歪んだ。

 風夏はすでに興味津々。だが、哲平はそんなことはなかった。

「なーんの匂いもしないぞ。どうせ書き忘れただけだ」

「アンタ、問題を簡単にしようとしてるでしょ」

「……ふふふ」哲平は急に顔を伏せて、怪しく笑いだした。

「な、なに? まさか……覚醒したの? 頭のおかしさが」

 風夏は気味悪そうに、身を引いて様子を伺った。

 バッと顔を上げると、

「バレちゃあしょうがあんめえ」

 哲平のおでこにリモコンが直撃した。

「真面目にやりなさいよハゲ!」

 素晴らしいコントロールを見せた後、風夏はボスンとソファーに着陸する。半分しか開いていないまぶたが更にさがり、哲平は機嫌悪く眉間にしわを寄せた。

「そろそろお暇してもいいですかね?」

「うーん。情報少ないし、本人にもう少し聞きたいかな。どういう人かもわかんないし」

 なおも勝手に進む話に、さらに目が細くなった。

「今日はもう帰ってるだろ」

「今からでも校内の生徒に聞き込みして……」

「あのね」哲平は言葉を遮った。少しだけ声を荒げている。「オレの目当てはこの子。部活じゃないの。わかってんだろ」

 そういって哲平が指さしたのは、テレビ台に入っているレコーダーだった。ホコリは付いていないし、ボディもキレイ。小窓には、17:00と表示されている。この部屋で一番綺麗な物と言っても過言ではなかった。

「うちの備品だけど?」

「お前がゴロゴロしててもいいつったんじゃん」

「あれぇそうだっけ? うっかりうっかり、またうっかり」

 てへっと頭を叩くと☆がとんだ。

「言ってました! ウチの部ならレコーダーで番組録画できるしグータラできるからって! 入るだけでいいからっていってました!」

 哲平はギッと睨みを効かせる。まったく覇気がない。

「何時何分何十秒? 地球で何回生と死によって人々に喜びと悲しみが訪れた時なんだい……?」

「くどい上に重いわ……」

 なぜか暗い顔になる風夏。全く話にならないと、哲平は苛立たしげに身体を起こしてドアに向かった。

「オレは帰る。じゃあな」

「そんなぁ。利用するだけ利用して、飽きたらポイなのね」

 風夏はソファーの上に足をのせ、ハンカチを噛んだ。悪代官に襲われた女中のように、よよよといっている。

「そこの女、似合わないから今すぐやめなさい。つうかいい機会だから言うけど、もう来ないから。レコーダー当たったんだ。今度からは家で見る」

「なんだよ~~、けちんぼ」

 女中はつんと唇を尖らすと、ソファーに座り直して頬杖をついた。哲平はその憎たらしい風夏の顔を見ようともせず、背中越しに訊いた。

「そそもそも何する部だったんだここ。ホナルチ部とか名前も意味不明だしよ。何語だ」

「そんなの…………………………」

 放課後の喧騒が入り込んでくる。

 遠くでヒヒーンと鳴き声がした。

「今考えてますよね上田さん」

 沈黙を破ったツッコミに、風夏の目が泳いだ。哲平は首をふった。

「じゃあな。あんまり楽しくなかったぞ」

「いや、考えてある……」

 そう発音する前に、背中は姿を消していた。

 ホコリと無駄だらけの雑多な部室に取り残された風夏。ほーたーるの、ひーかーり、と曲が何十もハウリングして、街中に流れている。

 ドアを見つめている黒目がちな瞳。うつむいて、ぐっと唇を結んだ。バネのように勢い良く立ち上がると、力の限りドアをスライドさせた。左を向くと、猫背の男が廊下の遠くを歩いていた。風夏は、長身を逸らして思い切り息を吸い込み、

「手伝ってくれても! ……いいじゃない」

 しりすぼみに小さくなっていった声は、猫背には届かなかった。


 ○


 1年A組。

 一番後ろ一番左端の誰もがうらやむ窓際の席。相変わらずのクマを携えている哲平は、教科書に隠れて寝ていた。しかし目をつぶっているだけで眠れない。

「……」

 それは3日間送られ続けている粘りつくような負のオーラに妨害されているからだ。哲平は腹ばいのまま、チラリと隣を盗み見る。

 眉毛がすぐに教科書に隠れた。椅子をめいいっぱい後ろに引いて机にアゴを乗せているから、授業を受けるきなど毛頭ないという体勢だった。

「……なんだよ」板書している先生の背中をみてから、哲平が小さく言う。すると風夏はぶつぶつ教科書を音読しだした。

「今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人の、せんたいむたりすめ」

「センチメンタリズム。それにいまは国語じゃなくて数学ですよ」

 体をビクリと震わせると、黒板をみたまま舌打ちした。

「うるさい裏切り者」

「オレの方見ないでくれる? 気が散るから」

「しゃべんないもん」

 哲平は何か言い返したくなったが、どうにか飲み込んで夢の世界へと戻ろうと試みた。まぶたを閉じて心地良い体制をとる。ベストポジションを取り息をついた所で、異変に気がついた。

 負のオーラが消えている。チラリとみると、風夏は教科書に顔をうずめてヨレヨレのノートに何かを書きなぐっていた。そっと覗きこむと、ページの一番上に「消えた猫殺人事件」と太く大きく書き殴られていた。

 だが、ハートが散りばめられたファンシーな題字が書いてある以外はほとんど真っ白。白鳥響の手紙からわかる情報と、1年生ではなかった、と書かれている程度だった。風夏は生きているのではないかと思わせるほど巧みなペン回しをみせているが、それ以上のことは書きこもうとしていない。

「3日で全然進展していないとか……」

 哲平はつぶやく。そして首を捻って窓の外の校庭に目をやった。

「……時給一000円ぐらいで参加してやっても……」

 風夏はピクンと体を震わせた。水平線から上がってくる日の出のように太眉が教科書の影からせり上がってくる。瞳は細くなっていて、眉間にはシワがよっていた。

 一単語だけ発した。

「童貞」

 哲平は振り返って咄嗟に言い返そうとした瞬間、授業終了のチャイムが鳴り響いた。号令よりも早く音を立てて風夏は席を立つ。あっかんべーして誰よりも先に教室を転がりでていった。


 委員長がデコで夕日を反射しながら帰りの挨拶を響き渡らせる。それと同時に風夏は鋭い眼光で哲平を威嚇しながら教室を飛び出していった。遠ざかっていく敵意にため息をつきながら、哲平は通学バッグをたすきがけた。立ち上がって椅子を戻しながら何の気なしに隣を見ると、ノートが一冊、机からはみ出していた。

 表紙に”事件簿“と書かれている。授業中に事件情報を書きなぐっていたヨレヨレのノートのようだった。机の中は全て持ち帰っていたが、一番必要そうなものを忘れていた。

 哲平はキョロキョロと周りを確認してからそれを手にとる。ページをめくると件の事件のページにいきついた。

 やはりほとんど空白。丸々とした文字を目で追うと、欄外で「白鳥響について聞き込みしる!」とうさぎが喋っていた。その一文は、ただでさえ血色の悪い哲平の顔色を曇らせた。

「聞き込みとか……絶対無理でしょ……」

 うさぎと見つめ合って、頬をさする。

 黒板上の壁時計の秒針が一周した。

「……」

 それをバッグに入れた瞬間、肩を叩かれた。

「よ。上田さんは一緒じゃないのか?」

 哲平が振り返ると、理髪そうな黒縁メガネの男子生徒が仄かな微笑を浮かべていた。哲平とは違って、きちんとしたブレザーを身にまとっている。

「うん。そうだな。今日は」

 バッグを肩にかけながら答える哲平。心なしか声のトーンがやや明るくなった。

「そ。それで、ここで何してるの?」

 言われて風夏の机を見下ろした。端から見れば、帰った女子の机を漁る男子だ。ポツポツといるクラスの生徒がチラチラと盗み見ている。だが哲平はさして慌てる様子をみせなかった。

「ああ、忘れもんがあったからさ」

 と、肩にかかったバッグを揺すってみせた。それだけだったが疑う素振りも見せずにふうんと男子生徒は鼻を鳴らした。

「単体で居るなんて珍しいね。大体放課後は一緒なのに。その内ピッタリとくっつくんじゃないかってもっぱらの噂だよ」

「ホント高校生はそういう話好きだな。あいつはただの腐れ縁さ。もし、くっついてくれれば世界中の子供たちが幸せになると言われてもお断りだね」

 哲平がおどけていうと、男子生徒は大口を開けて笑った。

「ハハハ、本人達にはわからないもんなのかな」

「そういうお前も珍しいじゃん。いつもは部活直行するのに」

「ああ。俺ね。俺は……」

 聞かれたくなかったのか、苦笑いを作った。

「向坂ー! 彼女がよんでるぞー!」と廊下の窓から男子生徒が顔をだす。呼ばれた向坂は、ズイッと哲平に鼻があたるほど顔を寄せた。近距離の笑顔に、哲平はたまらず体を引いた。

「もうすぐ、もうすぐでアレが戻ってくる。これでお前も……みんな幸せになれる」

「は? な、なにが?」

 すると向坂は哲平の手に紙を握りこませた。何かに満足したのか一つ頷き、背中を向けて教室を出ていった。

 哲平は向坂が出て行っても、突っ立ったままだた。どういうわけか、向坂は只ならぬ雰囲気を醸し出してた。放心しつつも、その紙のボールを手のひらで転がした。


「何だったんだ……」

 哲平は外履きに履き替えて昇降口を出た。本校舎を追い越し部室棟へ。小奇麗な自動ドアを通りぬけ、白塗りの階段を登って、二階一番奥のドアに手をかけた。スライドさせようとするが、開かない。

「どこ行ってんだ」哲平は頬をさすりながら来た道を戻る。

 登ってきた階段を下りて一階に着くと、何やら外が騒がしくなってた。

「アンタ黙って教えなさい!」

 哲平は、猫背をさらに曲げてため息をついた。その聞き覚えのある、腐れ縁のガサツな言葉が強引に耳に入り込んできたからだ。

「だだだだから知らないって! おおお俺も1年だから誰か知らないよ! いいいいい加減にしてよぉ!」

「じゃあ先輩に聞いてきなさい。財布預けてよ。ここでまってるから帰ってきたら返してあげる。あとカレーパン」

 ゆらゆら体を揺らして自動ドアをくぐると、玄関前に長身の女生徒と男子生徒が。部室棟へ入っていく生徒は僕らじゃ何もできないと、男子生徒の怯えきった視線を避けていく。どうみても恐喝の現場だ。

 哲平は頭を抱えた。財布を取り出した男子生徒の前に割って入った。

「なによあんた!」風夏はドスの効いた声ですごんだが「あっ」と顔を背けた。

 哲平は腹を立てている男子生徒を謝って帰すと風夏に向き直る。が、すでに持ち前の長い足を大股にして、ズンズンと本校舎へ向かっていた。

 哲平は小走りで隣につくと事件簿ノートを取り出した。風夏はツンとして顔を合わせようとしない。だが、チラチラと盗み見てはいた。

「忘れてんぞ」

 と言った途端に、風夏はすぐさまノートを奪い取った。

「…………覗き魔」風夏は背負っている通学バッグを下ろして仕舞う。

「あんなこれ見よがしに忘れてたらな。見てくれと呼ばれているようで、パラパラっと」

 太い眉がぴくりと動いた。

「あ、あんたに見つけてもらうためじゃ……ないし」

「? 何の話?」

「へ?」

 哲平の疑問の声に、風夏は一変してぽかんとした。それも一瞬で、あ、と首を振って仏頂面を作った。

「あそ。じゃあね」短く言葉を切り、背を向けてさっさと昇降口へ入っていった。

 スニーカーを押し込め、下駄箱から上履きをとると乱暴に緑色のカーペットに放った。ムスリと靴下のまま上履きへ歩み寄る。その横をスルリと通り越して行った。

「ややこしくなるから絶対しゃべんなよ」

 哲平はヒラヒラと手を振って風夏を追い越した。何も言わずに二階教室へと続く階段を登っていく。取り残された風夏は上履きを履きながら胸に手を当てた。

「ふー……気づくときは気づくのね。鈍感人の血族なのに」

 上履きに足を突っ込み、右ふともものスパッツを指でピチンと鳴らした。

「アイツ、自分が死んでも気づかない可能性も考えられる……」

「なーにつったってんの。早く録画チェックしたいんだけどー」

 顔をあげると、上に続く階段の手すりから眠たそうな顔が覗いていた。

「…………今行くはハゲメガネ!」

 風夏は自分が笑っていることに気がついていなかった。

 

 日直の仕事、おしゃべり、読書、ゲームなど二年生は思い思いの時間を満喫していた。下校時間はとっくに過ぎているため、二年生教室に残っている人数はまばらだった。風夏は終始うつむいていた。長身は哲平のように猫背になって、先輩たちの視線にビクビク。

 そんな子鹿のような風夏の前を行くのは、特にいつもと変わらない哲平だ。スルッと教室へ入っていき、少しお時間よろしいですか、という定型文をスルッと出してスルッと聞き込み、スルスルスルッと何の抵抗もなく情報を集めていった。

 

・2年A組 やさしそうな恰幅のいい先輩 男

「白鳥響? ああ知ってるよ。2年C組だよ。知らない人はいないんじゃないかな? 君たちと同じぐらい有名人さ。あれ、もしかして気になってるの? でも……君じゃあ無理だと思うよ。悪いことは言わないからやめておいたほうが身のためだよ……うん」


・2年B組 カードゲームをしてる先輩 女

「1枚引く! 手札から無限の名言を発動! 手札を全部捨ててデッキから”魔法使いジェニー”を召喚! 燃料カードを一枚つけてターン終わり! ああ! 知ってるともさ! 金持ちだって! いいなあ! 僕が金持ちだったらボックス買いまくるのに! ああ! 罠カード発動! マスタープラン! このカードは……」


・2年C組 委員長っぽいメガネの先輩 女

「ええ、知ってます。確かにこのクラスの子です。最初はかわった子だと思っていたのですが、今は共に生徒会を手伝っています。みんなに慕われる尊敬するにたる良い人だと私は思います。でも最近、ねこちゃんがいなくなったとかで落ち込んでいて……。今日も早くに帰宅…………というか、どうしてこんなことあなたに話さなければならないのですか? 私、あなた達のこと嫌いだから早く帰ってくれません? もういいでしょう? というかどうしてあなた達みたいな無法者の無法部活がこの高校を闊歩しているんですか今までさんざん会議にかけてつぶそ(省略)」


・2年D組 スルメ食ってるチャラくて金髪の先輩 男

「あー。マジアイツマジでかわいいよな。響ちゃん。でもなあ……あ、君マジ可愛いね。マジメアド交換してくんねえマジでいててててて!(C組委員長メガネ先輩の指導により中断)」


・2年E組 グリグリメガネに白衣を着ている小さい、先輩? 女

「よーく知ってるぞぉ。良い人だからのう。でも響ちゃんねこなんて飼ってたかのう? というかワシ君等のファンなんじゃ。サインくれ」


 三階の階段前の教室。その壁に背中を預けて哲平は座り込んでいた。

「なんとなく三年生だと思ってたんだけど、一個上か。しっかし、響さん結構な有名人なのねー。お金持ちだけど嫌味がなくみんなに慕われ、その上ペットのために落ち込む優しい心を持ちあわせている高嶺の花。自分カンペキだゾってか。意味なくムカツイてくるわ」

 自分の手柄のように情報を語ったのは、前から事件簿ノートを覗きこむ風夏。眉間にシワを寄せながら、フムフムと平たい胸の前で腕を組む。

「C組にいるのもわかったし、今日はもうズラカリましょう。明日の休み時間にでもまた来て……」

 キュッキュッと、上履きの靴底がこすれる音がする。その足音は哲平の前で止まり、哲平が見ている白い廊下に二つの上履きが現れた。

「二年の教室で何をしているか聞こう」

 上履きは威厳たっぷりの低い声でしゃべった。哲平が顔を上げると、射殺さんばかりの切れ長の瞳が腕組みしていた。汚れ一つもないブレザーにスカートの模範的な服装。長く伸びるポニーテールに、押し上げられた豊満な胸。三年の生徒会長その人だった。

「今度は何をやらかしてくれるのかね津島哲平」

 腰をかがめて超至近距離で無表情に見下ろしてくる。その鋭い両目から、哲平は目を逸らさなかった。

「主にやらかしてるのは僕じゃないんですけども」

「いつもいつも私の仕事を増やしてくれてありがたいよ津島哲平」

「だったらもうちょっと嬉しそうにしたらどうですか鬼灯様」

 哲平はできるだけ”様”を強く発音した。

 鬼灯は頬をヒクつかせて、口角の両側を人差し指で釣り上げた。笑顔を作っているつもりなのだろうが、切れ味の鋭い眼光は哲平を捉えたままだった。

「……彼女は?」

 エセ笑いをほどいて身体をあげる鬼灯。ほっとして哲平が周りを見渡すと、左の教室の扉から様子を伺っていた風夏が飛び上がった。

 天敵に見つかった小動物のように一目散に逃げ出す風夏。しかし、鬼灯が風のような速さで前に回り込んだ。風夏は悲鳴をあげて、哲平の方にターンしようとしたが、後ろから襟首を掴まれた。

 もがく暇もなく引き寄せられると、くるんと回って向かいあった。風夏は恐れと諦めと驚きで、目尻に涙が溜まっていた。

「風夏」

「ひゃ、ひゃい」

 がっちりと肩を掴まれる。

 引き寄せてがっちりと抱きしめた。

「ほげぇえええ!!」

「風夏、風夏、風夏、風夏、風夏、風夏、風夏」

 鬼灯は暴れまくる風夏に、全身くまなく頬ずりしそうな勢いで頬をこすりだした。キリッとした顔のパーツは変わらず、少しだけ頬が赤く染まっている。スンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。耳たぶを、髪を、首筋を甘噛み。数秒前の威厳とクールさをかなぐり捨てて、主人に全力でじゃれつく大型犬のようになっていた。

 遠巻きにその様子を見ている生徒たちは、キャーキャー盛り上がっていたり、またやってるよと呆れていたり、もっとやれと煽ってみたり、撮影に躍起になっていたりと、風夏が侵されていく光景をエンターテイメントとして楽しんでいた。

「ちょ、そ、そこは、やめっ、あ、ん、助けろやああ!」

 腰に組み付かれ風夏は涙声で切実に哲平へ叫ぶ。哲平は立ち上がって手を上げた。風夏の顔がパッと明るくなった。

「じゃあ今日は以上。暖かくして寝ろよ」

 哲平はヒラヒラと手を振って、いつの間にかできた人垣の後ろを通り階段をおりていった。

「え、ちょっと、ちょっと待ちなさいよ!」

 すがるように哲平を追おうとするが、体の自由がきくはずもなかった。前に進もうとするどころか、足払いを受けて押し倒されてしまった。

「風夏風夏風夏ーーーーーーーー」

「あん、もう、うら、裏切り者おおおおおおおお!!」

 危ないほどまでにじゃれついてくる上級生に、風夏はなすすべもなく可愛がられた。


 ○


 2人はバッグを持って部室をでた。

「昨日のことで怒るんじゃないよ。いい加減諦めてしまいなさいよ」

 哲平は施錠する風夏の背中に抗議した。頭にできたたんこぶが痛々しい。

「うるせいわ。ひっぺがすのにどれだけ、どれだけ苦労したことか……あんなこと、こんなこと、あったでしょ……ぐすん、もうお嫁にいけない」

 思い出してしまいえぐえぐむせび泣く風夏に、哲平は何度も謝った。

 無神経なこと言ってごめんと歩きながら謝りつつ、部室棟・三階の奥の部室の前で止まる。「第九地球帝国連邦軍」と綺麗なフォントで印刷された文字がドアにテープで貼りつけてある。

 哲平がコンコンコンとドアを三回ノックした。

「あーあ、またここにくんのね」

 その後ろで風夏は腕組みをしてぶーたれている。

「仕方ないだろう。もう三日間も休んでるっていうんだから、何も聞けやしない。このままじゃ拉致があかないんだよ」

「金を稼ぐために金を払うとは、これいかに」

 どんがらがっしゃんと中で物音がした。

「お前のせいか?」

「改心のできだったわよ!」

「合言葉は」

 そして、やけに平坦で無機質な女性の声がドア越しにした。

 その問いかけに、哲平は無言で答えた。

 ――――3分後。

 哲平はもう一度ドアを三回ノックして言う。

「そして3年後」

「ご要件をお聞きしましょう」

「人とペット探しだ」

「少々お待ちを」

 トントン拍子に進む話に、風夏はうんざりとしてため息を付いた。

「毎度毎度思うけどなんなのそれ。面白いとおもってんの?」

「合言葉ってしってます? アイコトバ、何も上田さんをわらかそうとやってるわけじゃないんですよ」

「いやそれにしてもひどいわ。サンシャインのオヤジギャクの方がまだ笑える。まあ、アタシだけ吹き出して死にたくはなったけど……」

「おもしろかったら笑えばいい。我慢ほど悪いものはない」

「ええ? もしかして、ファンの方ですか? うそ……引くわー」

「……あんないい先生バカにするといつか痛い目みるぞ」

「冗談のつもりだったのにまじ……?」

「『それならあたしがファン二号かしら』」

 風夏が顔をしかめるほど引いていると、ドア越しに別の声がした。やけに甲高い、ヘリウムガスを吸ったような違和感だらけの声だった。哲平はその声に要件を簡単に伝えた。

「2年C組白鳥響の猫を探している。ぶちもようで、犬まっしぐらが好きな猫だ。ついでに本人の居場所も知りたい。わかるか?」

「『んーさすがに猫は難しいけど、人間ならすぐわかるわんわん』」

 ヘリウム声は全く動く気配もなく断言した。哲平のまぶたがほんの少し上がった。

「よしじゃあ白鳥響の居場所を――」

「『情報料』」

 言葉を遮るとヘリウム声が短くいった。

 哲平と風夏は向かい合う。すると突然ドアの前から左右に飛び退いた。双方とも右拳を震わせるほど強く握っていた。熱さがほとばしる眼差しで睨み合うと、拳の形を自在に変化させて、一気に振り下ろした。

「「ジャンケンポン!!」」

 肩を落としたのは哲平だった。しぶしぶポケットから財布を取り出し、野口さん二人を取り出した。

 しぶしぶドアの下の隙間に差し込もうとしゃがむ。しかし、別の細い手が先に差し込んだ。

 しゃがんでいた風夏は立ち上がって、平たい胸をはった。

「やっぱ今回はアタシが払ってあげるわ。存分に崇め奉りなさい」

 そんな威張りまくりの風夏に、哲平はすぐさま疑いの眼差しを送った。

「なによその目は……そういう気分なのよ」

 頬をかいて目を逸らす風夏。明日は大雨だな、と哲平は気付かれないようにつぶやいた。

「『そんな仲のよろしいお二人に朗報です。白鳥響は現在遅貝公園いるそうだわん』」

 哲平が立ち上がるのを待っていたかのようにヘリウム声が元気に告げてきた。それを訊いた哲平は頬をさすって、顔色の悪い思案顔を作った。

「遅貝公園か。近いな。一日探して休憩してるとか?」

「おお、そんならアタシ先に行って犬まっしぐら買ってくる! 後はまかした!」

 ポンと柏手を打つと、風夏は鮮やかなフォームで風のように走り去った。呼び止める暇もなかった哲平は、ちらっとだけ見えた背中を見送るだけだ。

「なんであんな急いでんだ?」

「『じゃ、情報料おねがいねーん』」

「は?」

 かしげたままの首をドアに向けた。ヘリウム声のおかしな言葉に、ぽかんと口を開ける。

「いやいや、さっき風夏が払ったじゃん。一律2000円じゃねえの? それとも料金かわった?」

「『かわってにゃーよ』」

 ヘリウムボイスは間髪入れずに答えた。

「じゃあなんで。まさかあんた誕生日だからおねだりしてるとか? だったらいつも世話になってるし、2000円とは言わずにもっと別のもんをプレゼントするけど? 後日」

「『わはは! 君は良い人だねぇ。まあそれも貰うとして……』」

 すると、ドアの下から一枚の紙がにゅにゅっとでてきた。哲平は腰をかがめてそれをとる。印刷されたような綺麗な文字だった。

「なになに。『商品券2000円分。※ただし、人間にだけ有効。詳細は裏にて記載』……」

 たちまち渋い顔になった。そしておおよその外れることのない予想を胸に抱いて、裏返した。

「”有効人物、津島哲平。親族不可”」

「『ついさっき風夏ちゃんにもらったのじゃよ』」

 哲平は猫背をさらに丸くすると、脱力した。風夏はびた一文払っていなかった。商品券まがいのものまで作っているあたり、明らかな計画的犯行であった。

「……他の津島哲平さんにあたってくれませんかね?」

「『ここらで津島哲平さんは二人しかいないのよ。あなたと、津島さん家の哲平くん』」

 それを聞くと、哲平は顔をほころばせた。

「お! じゃあそいつに!」

「『むーん、それは無理かにゃ』」

「どうしてよ」

 はてなを浮かべる哲平にヘリウム声は即答した。

「『彼は、津島さんちのねこだから』」


 残高1000円になった財布をポケットにしまって校門を出る。丁度コンビニ袋をひっさげて戻ってきた風夏と出くわし、哲平はありったけの語彙で罵ったがスルーされた。

 哲平の恨み節をBGMに遅貝公園へ。見渡す限りの緑が生い茂る広い公園で、人々の憩いの場になっていた。遊んでいる子供、楽しそうに語り合う高校生カップル、ランニングする夫婦、走り回る犬、思い思いに黄昏時の時間をゆったりと過ごしていた。

 そんな中ぜえぜえと汗を垂らしてベンチに腰掛けたのは哲平だ。

「走らされて……体力ついてると思ってたのに……ビニール袋ない?……」

「ほい水」

 ポイッとレジ袋を投げる風夏。哲平とは打って変わってケロッとしていた。

 レジ袋が哲平の胸に収まると、中にはペットボトルと、ドッグフードの缶詰が入っていた。それを見た哲平は途切れ途切れに、

「なんで、ドッグフードなん、だよ」

「それは安かったからだよ津島くん」

 紫に近い顔色で空気を貪り吸う哲平に、風夏は平然と答えた。哲平の隣に腰掛けると、ヒューヒュー鳴る哲平の喉の音を聞きながら夕方の風に身を浸す。しばらくそうしてから、唇を手の甲で拭うと、何の気なしにぼんやりつぶやいた。

「白鳥響ってどんな子だろう……」

 そのつぶやきに、息の整ってきた哲平が反応した。紫色だった顔はほのかに人間のそれに近づいてきている。

「男子にも女子にも人気のある、うら若き高嶺の花」

「聞く限りは、でしょ?」

 風夏の言葉が空に舞う。二人は、あ、と同時に声を上げた。顔を見合わせると、哲平がおそるおそる言った。

「そういや、どういう顔してっか知らない」

 自分の言葉に哲平は頭を抱えた。

「オレのバカバカ! これじゃあ貸し出しカードの男に思いを寄せる女と何も変わらないよ!」

 隣で眉を立てふむうと考える仕草をみせる風夏。表情が一瞬にして明るくなると、人差し指を立てて立ち上がった。

「数秒で確実に相手をこちらに気が付かせて、さらに引き寄せる方法が一つあるわ!」

 風夏はうなだれる哲平に一方的に耳打ちした。哲平は、肌色に戻りつつある灰色を真赤にさせた。

「正気ですか?! つうかそんなことしなくても、何か探してる人をみつければ――」

「これは君にしかできないことだ。さあほら、今直ぐ早くしないとどっか行っちゃうぞ」

 哲平は必死に抵抗した。だが、どこかに行く、という脅しにより無理やり奮い立たせられた。

 真っ赤になりながら重々しく立ち上がる。公園を見渡して、本当にやんのと瞳で風夏に訊くが、はやくしろと急かすばかり。覚悟を決めたのか、哲平はぐっと口を結ぶ。息を大きく吸い込んで、力の限り目をつぶった。

「白鳥響さぁあん! 僕は君が大好きだぁあ! この地上で最も愛してる! 一目見た時から君のことしか考えられないんだぁあ! 君のためならこの街を燃やし尽くすことだってできる! あなたこそが彷徨う僕の終着点なんだ! だから今すぐ僕をここから連れだしてくれえぇえスライダゥエー!」

 公園に突如響き渡ったのは、どうしようもないほど恥ずかしい愛の告白だった。

 最初は声に迷いがあった。しかし後半になるにつれ吹っ切れたのか、それとも大声を出してテンションが上ったのか、想いの他ノリノリになって叫んでいた。

 ベンチに片足を乗っけて周りの住宅街に反響するほど高らかに甘ったるい言葉を全力で紡ぎ続ける。発案者はその近くで笑い転げていた。熱いねー! おめでとー! といつの間にか公園の人々がはやし立て、そういうコンテスト会場のようになっていた。

 拍手の間をかき分け、愛の告白を全力でする厄介な見知らぬ男の元へ走ってくる人物がいた。

 顔を真っ赤にした、白鳥響その人だった。



 街中のファミレスに入ると二人は白鳥響と向かい合った。

 ショートカットにパーカー、ジーンズでスニーカー。ボーイッシュな格好だ。それでいて美しいと形容するのにふさわしい整った顔の優しい微笑。人気があるのも頷ける納得の美しさだった。

「ごめんなさい。私にはそういう趣味はないので、お断りさせて頂きます」

 白鳥は申し訳なさそうに、やけに背筋の良い座り方から頭を下げた。

「いえ、こちらこそすみません。本当に。全てはこいつのせいなので」

 哲平が左隣を顎でしゃくると、風夏が無心でいちごパフェを口に運んでいた。笑いかける白鳥に、俯いて目を合わせようともしない。

「手紙での無粋な依頼でしたのに本当に引き受けてくれたなんて……。肝心な部分も抜けていたようで……すみません」

「ああ、いやいや会えたので。それより、もう少しお宅のネコちゃんについて教えてもらえませんか? 例えば品種とか」

 哲平がそう訊くと、白鳥は「んー」とコップの中のアイスコーヒーを見つめる。

「私、品種とかよくわからないので……。でも手紙に書いたのが大体の特徴です。あとはそうですね……とても……」

「とても?」

 聞き返すと、白鳥響は美しく顔をほころばせた。

「とってもかわいいです」

「はぁ」哲平が素っ頓狂な声を上げたが、白鳥は遠い目をして続ける。

「私が帰ってくると小さな身体でちょこちょこちょこーってきてぺろぺろぺろぺろしてくるんですけどそのもさもさで包まれているともうはあんって幸せに……」

「貴方の愛はよくわかりましたから、僕らにわかる言葉でしゃべってもらえませんか。日本語ってやつを使ってもらうととても助かるんですが」

「あ、すみません……」

 白鳥は頬をほんのり赤らめて俯く。瞳の中を星にしてトリップしかけていた。コレには縮こまっていた風夏も驚いて、スプーンを咥えたまま目を丸くしていた。

 二人のぽっかり開いた口に、白鳥はアイスコーヒーを飲んで咳払いをした。改めてゆっくり話し始めた。

「えと、足が短くて、身体が長くて、あと舌も長いです。それとあの子少し噛み癖がひどくて。こないだも公園でお散歩していたら、別のわんちゃんに噛み付いて喧嘩をしてしまって。噛んだ子を差し置いてびっくりしたのか、どこかに走っていってしまって……でもその後ろ姿がとても可愛くてあの時カメラを持っていたら焼き増しして部屋に貼って一日中見てまわる……」

「ああわかりました。もういいです、よーくわかりました。よーく」

 ほわーんとまたどこかへ飛んでいく前に哲平は引き止めた。その星の言語を学ばなければ聞き出せないと判断したのか話題を変える。哲平達にしてみればこっちの方が重要だった。

「それで、報酬なんですが」

「あ、はい。いくらほど包めば……」

 言われて哲平はこれでと、指を一本立てる。白鳥はじっと人差し指を見つめて手を打った。

「100万ですね」

「「ええええ!!??」」

 哲平と風夏はたまげてのけぞった。すると、白鳥は首をかしげ、

「え? 違うんですか? また勘違いして……」

「いやいやいやいや! そう! そうです! 合ってるあってる!」

 風夏が初めて言葉を発した。おそらく何を買うかのリストアップが頭の中で始まっているだろう。

「そうですか? やっぱりお高いのですね……。お金はどうにか工面します。肝臓売れば一発ですから!」

「のはずなんですが! 発足十周年なのでなんと特別特価の1000円! だから肝臓はお納めくださって結構です!」哲平は風夏をソファーに押し込めつつ必死に叫んだ。

「え? やった! ラッキーですね!」

 白鳥は両手を組んだ祈るようなポーズで、パッとおちゃめな笑顔になった。哲平は安心してぐったりとソファーに背中を預けた。

「あ、ありがとうございました。それでは引き続き捜索に当たります。なので、全て僕らに任せて白鳥さんは学校に行ってください」

「いえ、私も探します。こう見えても体力には自信がありますから」

 嬉しいのかつやつやとした顔で言う白鳥。しかし哲平は首を横に振った。

「あなたのこと先輩方から聞きました。あなたは皆さんに必要とされています。だから休むなんてことはしちゃいけませんよ。皆さんのためにも、あなたのためにも、ですよ」

 半眼で相変わらずの顔色の悪さだが、トーンは真剣そのものだった。白鳥は少し間を開けてから、コクリと頷いた。

「…………わかりました。ねこちゃんはあなた方にお任せします」

 見とれるような笑顔がはじけた。おもむろにピッと立ち上がり、見本のようなたおやかな礼をした。

「もう遅いですが今から学校に行こうと思います。奏ちゃんのお仕事手伝わなくちゃ、ふられちゃいますから」

 白鳥は絆創膏で一杯の手を差し出す。

「でも、もう無理なさらないでください。ちゃんとした生活をしないと、後々ツケが回ってくるそうですから」

 釣られて立ち上がった哲平と握手をすると、フードを翻して店を後にした。

「もう無理するなって、どういうこと?」

 哲平の頭上にはてなが浮かんだ。腰を下ろしながら隣の風夏に尋ねると、風夏はパフェのグラスを持って器用に身体を畳んだ。スパッツに包まれ丸々としたお尻を揺らしながらテーブルの下をくぐる。哲平の正面に座ると、

「アンタの顔みれば誰だって疲れてると思うわよ」

「……ああ。そんなに疲れているように見えるのか」哲平は目の下を指でなぞりだした。

「ええ、実質二時間しか寝てないぐらい」

「……つうかお前パフェ頼んでいいのか、ダイエット……遅かったか」

 風夏は頬杖をついて窓ガラスの外を見ている。スプーンを回してグラスをカラカラと鳴らしていた。とっくにパフェを食べ終えていた。

「あの子のこと、どう思った?」

 脈絡のない問いかけに、哲平は目を揉みながら、

「どうって。間は抜けてるけどしっかりしてそうな人なんじゃない? なんとなく人気だってのも頷けると思うけど」

 違うの? と手をどけて目で訊く。赤くなっている。クマに充血した目が加わった。

「可愛かった?」

「どうしてそんなこと訊くんだよ」

 哲平はグラスを掴んであまった氷を回しだした。カラカラカラカラカラと、グラスの中の氷を何度か回すと、ぼそっと、

「ああ、可愛かったよ」

 それを聞いた途端に風夏は深くため息をついて、ソファーにもたれかかった。

「いいご趣味をお持ちのこって」

「訊いといてなんだよそれ。言いたいことあるならいえよ」不満気に言う哲平。

「べっつにー。アタシもそう思うよ。ええ、そりゃあびっくりするほどね」

 今度はにやっと意地悪そうな笑みを浮かべて、前屈みに座り直した。

「んなことより、あそこまで特徴教えてもらったんだから、ほとんど見つけたも同然じゃん。ちょろいもんよ」

 自分で始めた話題を自分でぶった切った風夏はうれしそうに言う。一方の哲平は手放しでよろこばなかった。

「……なーんか引っ掛かるんだよな」

「ええん? 魚の骨でもひっかかってんじゃない。あ」

 と、店員がホイップクリームの一杯のったコーヒーを置いた。哲平はそれを視界の端に捉えながら腕を組んで、頬を撫でている。

「考えてもみろよ。短足はまだしも胴長で舌が長いねこなんて見たことないぞ」

「ねこまたなんじゃない? あの人ならやさーしく長年かってるにきまってるわ。それこそ100万年ぐらい」

 口調が適当だった。風夏はもうすっかり考えることをしていない様子だ。足をぶらぶらさせて、世話しなく厨房の方をみている。そのそわそわ加減は、考え込む体勢の哲平には気にも止められない。

 哲平は一つ唸ると、鉛筆と紙ナプキンを風夏の前に置いた。

「ちょっとさっきの特徴から描いてみて」

「え~?」と嫌そうにしているが、眉が笑っている。鉛筆をとって、広げた事件簿ノートの情報を見ながら線を描いていく。ロックな鼻歌がもれだし楽しそうだ。

 数分後、どやっと鼻をならして即席のキャンパスを見せつけた。

「うおぉおう!」

 見せつけられた哲平は情けなく悲鳴を上げてソファーにしがみついた。そのリアクションに風夏も体をビクつかせた。

「おぉッなによ、リアクションでかくない?」

「いやごめん。うまい。うまいよ。確かに上手い……けどさ」

 皮肉ではなく、風夏が描いた絵はまるでそこに居るかのようなリアルさを醸し出していた。かなり上手い。影の付け方が上手いのか、ほとんど写真といっても過言ではなかった。

 ナプキンに現れた白と黒のぶちネコには特徴がある。舌が蛇のそれと同じで、細長く先端が二股。かまぼこのように長い胴に短い四肢。散々白鳥から強調されたかわいさは、左目を覆う模様の形をハートにすることで表現したらしい。おまけになぜか後ろ足で立ち上がって、見るものすべてを威嚇してくる勢いがあった。

 なまじ上手いためそれはそれは恐ろしい。風夏の中で処理された特徴が、猫を妖怪にさせていた。

「江戸時代とかの巻物でみたことあるぞ」

「聞いたとおりに描いたんだけどなぁ。新種とか? ……んなわけないか」

 妖怪変化の絵を事件簿ノートに挟み込んで言う風夏。息を整えてから哲平は、

「ふう……もしかしてオレたち、幻の生き物でも追わされてんのか?」

「おちょくられてるってこと? ワザワザ手紙送よこして学校まで休んで、さらにアタシらにウソ生物がいかに可愛いかをあんな嬉しそうに説いたってわけ? そんなことないと思うけどなぁ」

「つってもこんな特徴持ってる猫……さっきから何そわそわしてんだ?」

 厨房の方をチラチラ気にしてる風夏につっこむ哲平。風夏はさらっと答える。

「ん? いやあ、ウインナーコーヒーってやつ頼んだんだけど」

「ああ、そうだね」

 手付かずに置かれているウィンナーコーヒーに哲平の目が行く。何の変哲もない、あえて言うならとても美味しそうウィンナーコーヒー。風夏は眉を立ててムッとすると、恥ずかしげもなく言った。

「肝心のメインがこないのよ。小腹が空いたから頼んだのに。店員さんに言ったほうがいいかな……アンタ言ってよ」

 哲平は、唸った。

「その、メイン? 何のことをおっしゃってるんでしょうかね」

「は? ウインナーに決まってるっしょ。コーヒーにウインナー入ってるのかと思ってたんだけど、別々にくるのね。ウインナーを食べ終えた後にコーヒーをすするって仕組みのセットなんだろうけど――」

「残念ながら上田さん。ウインナーはきません」

 不満気に続ける風夏に、哲平はバッサリと言う。が、

「何言ってんのよ。ちゃんとメニューにウインナーって書いて合ったわよ。ほらほら、カタカナで」

 メニューを見せつけてくる風夏に、哲平は不憫な視線を送った。

「それがお目当てのウインナーコーヒーですよ、ウィンナー。お前が言ってるのはウインナー」

「うーそおっしゃい! ウインナーコーヒーってんだから、なにかしらのウインナー要素があるに決まってるでしょうが! そんなこと言ってアタシに恥かかせようとしてるんでしょ! そんなのお天道様が恥かいても、アタシは恥かかないわよ!」

「みんなも言ってるぞ」

 中腰になって騒ぎ立てた風夏は哲平の小声に辺りを見回す。くすくすと笑ってるお客達。同じ高校の生徒もみてとれ、嬉々とした視線が風夏の困惑した顔に突き刺さってきた。

「……先に言ってよ」

 風夏は真っ赤になって腰を下ろし、できるだけ身体を小さく折りたたんだ。哲平はクスリともせずに、同情するように何度も頷いた。

「想像しやすい名前だから間違うのも仕方ない。オレも最初は、中二ぐらいまでは間違えてた。取り乱しはしなかったけどな」

「ややこしい名前つけて……。恨むわウィンナー氏」

 顔を伏せている風夏はさらなる勘違いをしているようだが、哲平は取り立てて指摘することなく、うんうんと頷いていた。端からみたら説得されてすすり泣く犯人と警察官のようだ。

 哲平はもう一度頷いた瞬間に、眉間にシワを寄せた。

「ややこしい名前……ね」

 頬に手をあててボソリとつぶやく。半分閉まっている瞼のシャッターを全開にして瞳を見開いた。勢い良くバッグを肩にかけると立ち上がった。

「ちょっと、まだ美少女が飲んでるでしょうが。どこいくのよ」

 スプーンでホイップクリームをすくい上げながら声で止める風夏。だが哲平は見向きもしない。

「ねこを探しにな。あんだけ可愛がられているなら、ご主人様に会えなくなるほど遠くへは行っていないはずだ。ペットってのは、愛情には敏感なもんさ」

 そして脇芽も触れずに出口へと歩いて行った。何度呼び止めても哲平は止まらない。突然のことで混乱する風夏はウィンナーコーヒーを飲みながら後を追った。

 レジへ向かう途中で哲平はもう店の外に。レジの前でぐいっと飲みきると、カウンターに勢い良くカップを置いた。男性店員がひっと怯える。

「ウインナーコーヒーの方です!」

 素早く小銭を取り出して叩きつけ自動ドアをくぐる。

「あ、のぉ。足りてません……です」

 とても控えめな店員の声が風夏の身体を止めさせる。風夏は振り返って驚きの声を上げた。

「ちゃんと払ったじゃない?!」

「ひっ! あ、あの、お連れのお代が……まだ……」

 それを聞くと風夏は舌打ちし、大人しくレジへと向かった。

「あいつ……図ったな…」


 ややオレンジ色が混じりだし、道を行く車と疲れた人々が街に溢れだしていた。その間をすり抜け、コンクリートの上を長い肢体を駆使して軽やかに走り抜ける風夏。公園の入り口でブレーキをかけると、園内をキョロキョロ見回した。自転車を追い越すほどの速さで走ってきたにもかかわらず、疲れている様子はない。

「食い逃げしたクセにまだ着いてないのね」

 肩を怒らせながら数時間前に座った入り口近くのベンチに向かった。傍らに白っぽい動物の死体が落ちている。風夏は一瞬だけびくついたが、

「なんだレジ袋か脅かさないでよ……ってこれ」

 持ち上げてみると缶詰が2つ入っている。紛れもなく風夏が数時間前に持ってきたレジ袋だった。忘れたまま公園を離れていたようだ。

「風夏?」

 背後から呼ばれて振り返る。少し驚いている哲平が立ち尽くしていた。

「公園で逃げたってあの人言ってたし、とりあえず真っ先に来ると思ってさ」

「ふーん、あっそ」

 銀色の細い小指ほどの筒を胸の前でもて遊びながら、興味無さげに言う。風夏はすかさずレシートを眼前に叩きつけた。

「はいレシート。立て替えておきました」

 だが哲平はその横を通りぬけ、荷物を下ろしてベンチに座った。さも当然のように言った。

「これ買ったから財布の中すっからかんだ。つけといて」

「そうやってあんたまた踏み倒す気でしょ。まだ三万円返してもらってないんだからね覚えてんでしょ」

「ついでだからお前も手伝え。今から呼ぶから」

 目くじらを立てている風夏を哲平は無視。そして弄んでいた銀色の筒を口に咥えた。

「ついに自首する気になったのね。詐欺罪とかそういうのでしょっぴいてもらいなさい」

 ギャーギャー騒ぐ風夏を気にもとめずに、空気を軽く口に含むと筒に空気を送る。何度も何度も吹くような動作をしていると、みるみる顔がゆでダコのように鮮やかな赤に変化した。突然始まったその演奏に、風夏は釘付けにされていた。

 その音色は例えるなら、カラッと晴れた朝の陽気の中、少し開いた窓から入り込んでくる鳥のさえずり、を邪魔するすきま風のか細い音。一日中全力投球でカラオケを歌い、終えた後のスースーと空気の抜けるような必死な声。つまりは空気が通り抜ける音は聞こえど、全くもって音が出ていなかった。

 風夏は心配そうにゆでダコの顔を覗き込む。

「……もしかしてアンタ、耳聞こえてない?」

「どうしてそうなるんだ。これはちゃんと音出てるんだよ」口から筒を離す哲平。

「なるほど、幻聴……か」

「どうにかしてオレを病人にしたいらしいな。だけど残念。旋律に引き寄せられたお客さんがほらすぐそこまで」

 ついに脳みそがイカれてしまのかと心配の色を強くした。その顔色は手に持っているレジ袋を突然引っ張られてることで、驚きへと変化した。

「な、なに?!」

 引っ張られた方向、下へと目を向けると、つぶらな瞳が可愛らしい小型犬がしっぽを振って飛び跳ねていた。咄嗟にレジ袋を左手に持ち替えて噛み付かれないように回避した。再び重さを感じてバランスを崩しそうになる。高く持ち上げると、別の犬が釣れた。柴犬を掴んで引剥し、勢い余って後ろに後退すると、キャン!と悲痛な鳴き声が飛んだ。ふと後ろを向くと、驚愕した。

 絨毯でも敷いてあるのかと錯覚するほどに、犬たちがひしめき合っていた。緑色の芝生のほとんどを毛並みで覆い隠していた。

「うわ! 何事よ!」

 風夏はレジ袋を頭の上に掲げて慌てた。哲平も足元を囲まれているが驚く素振りも見せずに、銀色の筒をためつすがめつしていた。

「こんなに集まってくるとは、さすがそこら辺の露店で買った犬笛。必要以上の効果だ」

「本当に必要以上よ! やめて! くすぐったい! やめて!」数匹の犬たちに足をなめられて、風夏は笑いながら怒っていた。「犬集めてどういうつもりなのよ! あははは! アタシらが捕まえるのは猫でしょうが! どうにかしなさいよ!」

「いて! ……犬だ」

 ビョンと一跳ねして、哲平は自分の後ろに首だけで振り向く。そして難しい顔で風夏を見据えた。

「ねこ、って名前のな」

「……あんたには辟易としたわ」

 風夏は犬達に股を擦り付けられるのも忘れて、げんなりと立ち尽くした。哲平は饒舌に続ける。

「特徴的なぶち模様。舌が長くてしかも胴長短足。そんな猫、存在すると思うか?」

「まあ、探せばいるかもしんないけど……」

「それにもう一つ理由がある」

 反論されたのが悔しかったのか即答する。

「手紙、さらには直接話した際にも呼び名は『ねこ』、もしくは『ねこちゃん』。おかしいだろ。あんなに自分のペットを愛しているのに名無しなんて。普通家族でつけた名前で呼ぶはずだ」

「ああ、そういや確かに。ウチもゼロスのことゼロスって呼ぶし。ねこ、とは言わないね……つうか! いい加減にこいつらどうにかしてよ! ちょ、おわ!」

 風夏は思い出したように慌てて足を縺れさせた。後ろに倒れこんでしまうと、待っていましたとばかりに犬たちが一斉に群がる。それを眺めながら哲平はまだ続ける。

「そして彼女は『別のわんちゃんに噛み付いた』と言った。あれは自分のペットが犬だから使った表現だったんだ」

「うわぁ、あっぷ! そういう意味だったの?! てか無視すんな!」

「そしてなによりねこちゃんには噛み癖がある。彼女の絆創膏だらけの指を見てわかった。相当な噛み癖だと、な。いや、見なくても今のオレにはわかっただろう」

「どうしてそんなことわかるのよ! 早くそれ捨てて! 絶対そいつのせいよこの有様は!!」

 何とか犬のざらつくベロの押収を逃れて立ち上がった風夏は、よだれでべたべたの顔で叫んだ。犬笛を奪い取ろうと、どろどろな腕で哲平の腕を掴んだ。

「どうしてかって……?」

 その瞬間、哲平は半分のまぶたをカッと見開いて、ぐるんと背を向けた。

「今オレのケツに噛み付いてるからだよ!!」

 凄みのあるセリフを吐いた哲平、そのお尻にはブランと一匹の犬がぶら下がっていた。

「ちょっ!?」

 風夏は噛み付いている犬を引っ張ると、哲平に悲痛な叫びをあげさせる。ズボンの布とともに引っ張り上げると、胴を持ってその犬と向きあった。

 まだら模様に両耳と左目が茶色。胴長短足で世話しなく息をする口からはベロンと長い舌。巻かれている赤い首輪のドックタグには、『CAT』と刻印されていた。「ネコ」とは、胴長短足の犬、ウエルシュコーギーだった。

「いたぁあああああい!」

 居た、と混ざった叫び声をあげる風夏。腕を噛まれてネコを離してしまった。愛らしいお尻をふりふり、ネコは一目散に逃げ出した。

「ばかやろう! 臆病な犬に大声で叫ぶなよ! びっくりして逃げちまっただろうが!」

 哲平は犬の群れから自分のバッグをひっつかむと、お尻の割れ目丸出して走りだした。

 あっという間に風夏が追いつき並走する。人々を避けて、町中を走るプリティなお尻を二人は追尾した。

「大人しくお縄につきなさい!」

「多、分、この方向は、がっこ、うだ」

「先回りする。アンタはこのまま」

「は、はやぐづがまえでぐれ」

 ものの1分。哲平の顔は見惚れてしまうほど鮮やかな紫色に変異していた。崩れ落ちるように立ち止まろうとしたが、風夏が腕を掴んでそれをさせなかった。

 哲平を引きずりながら、死に体の右掌から犬笛をむしりとる風夏。哲平のバッグの側面ポケットに器用に押し込んだ。

「これでシドニーもアトランタも夢じゃなくなったわよ。頑張れワカゾー!」

 急ぎながらも自分のバッグを哲平の首に引っ掛け、ポンポンと肩をたたいた。腕を離し、右に折れると裏路地に方向転換した。

 支えをなくした哲平はサラリーマンの間をメートル単位で滑走した。KOされたボクサーよろしく大の字に寝そべってうめき声を上げている。数人が立ち止まってどうするべきか逡巡していた。

 人々に見守られながらフラフラと立ち上がった。クッション機能を果たした風夏のバッグを首で持ち上げて、制服の汚れをはらう気力もなく、道端の花壇にバッグを2つ積み上げた。

「ぜーぜー。ゴリラめ……。ゴリラゴリラゴリラめ……」

 ぶつくさ文句をたれながら息を整える。すると、先程まで哲平の近くにいたサラリーマン達が、何やら指さしして騒ぎ出した。哲平は紫色から本来の肌の色に戻りつつある顔を上げた。

 …………ドドドドドド。徐々に定まりつつある焦点に、そんな地響きの擬音が見えそうな光景が入り込んできた。まるで絨毯が移動してきているようだ。公園で集まってきた犬達が群れをなして走ってきていた。

 哲平は青くなって、バッグ2つ抱えてまた走りだした。

「そ、そうか。犬笛! くそ、アイツどこに入れたんだ!」

 自分のバッグの中を必死に探りつつ、スタミナが尽きている足を根性で動かす。

 いつの間にかプリティなお尻に追いつく。道行く人の服装がスーツから制服に変わり、高校の外周の道に入ってきていた。校門が遠くに見えてきている。

「あった!」バッグの中を諦め側面ポケットに手を突っ込むと犬笛を探し当てる。嬉しさのあまり小学校のかけっこで一等賞を取ったように、空高く腕を突き上げた。

 その時だった。

 右側に建っている5軒先の民家の塀。その上から、オレンジ色の光を受けて人が舞った。

「私は飛ぶことができます!」

 競泳選手と見まごうばかりの綺麗な飛び込みのフォーム。道を遮るように塀を蹴ったそのなめらかな流線型は、水面ではなくネコを目指して空をかく。ネコが道を走る速度から見て、風夏の飛び込みはこれ以上ないタイミングだった。

 ドチャッとコンクリートに落下した障害物をひょいっと飛び越えるネコ。ネコはこれ以上ないタイミングでブレーキをかけていた。

「……ッ~~! ノヤロー!」

 空をかけた風夏は鼻をさすりながら顔をあげる。捕まえそこねた獲物の尻を視線で捕まえると、目尻に涙をためて、レジ袋から荒々しく缶詰を取り出した。レジ袋と猫まっしぐらを左側に投げ捨て、犬まっしぐらを開封した。

 獲物へ身体をむける。片膝を立て左手をつきだし右手は引く。缶詰の中身をこぼさないように肘を曲げて九十度。遠投のようなポーズをとり、狙いを定めた。

 同時に猫まっしぐらとレジ袋が地面に落ちる。そこへ犬笛を掲げたままの哲平が走りこんできた。見事に缶詰と袋を踏んづけて、ぎゃふん、と前にずっこけた。指から犬笛がすっぽ抜け、柔らかな放物線を描き――。

 サクッ。

「飛んでけーー!!」

 この間実に10秒。右手から放たれた犬まっしぐらは、ぐんと一直線に飛んでいき、帰宅する生徒を飛び越え、ねこちゃんを飛び越え、速度を失う。

 べシャッ、と、校門から出てきた生徒に着地した。

「ねこ!」

 犬に向かってそう呼びかけるのは、そう名付けた飼い主しかいない。

「ワン!」

 うれしそうな鳴き声をあげ、ネコは両手を広げる白鳥の胸に飛び込んだ。その他の犬は、エサを頭に乗せたメガネの女生徒へまっしぐらした。尻もちを付いてしまった彼女は、顔を重点的に蹂躙されている。

 投げた体勢のまま、風夏は再開を果たしたペットと飼い主を呆然と見つめていた。そしてため息をつき、屈伸するように立ち上がった。

「アタシたち必要だった?」

 行き倒れの哀愁を漂わせる哲平。風夏はゆっくり歩み寄り、傍らに落ちているねこまっしぐらを拾い上げた。頭の上から尋ねられ、哲平はバッグに埋もれた顔をあげた。

「自分のやったことを信じろ。ないな」

「どっちよ」

「まあ、でもいい運動はなったさ」

 哲平は仰向けになり、身体をいたわりながら立ち上がった。そして道の先を見ると表情が凍りついた。

「……もう運動大好き。すぐにでも駆け出したい気分よ」

「運動になっても金にはなってないでしょうが。アタシ請求してくる」

 と踵を返そうとする肩を哲平は掴んだ。

「やめとけ。そんなことより大切なことがあるだろう?」

「何臭いこといってんのよ。この世で大切な物っていったら、金以外になにがあるって言うのよ。つうか、臭っ! よだれ臭! ん? アタシか?」

「そうか」

 そう言って哲平があっさり手を離すと、鼻をスンスンやりながら風夏は振り返った。そのまま固まった。

 振り返った風夏の目の前には、委員長風のメガネの女生徒が仁王立ちしてた。キッチリ着込んでいるはずの制服も肩ぐらいある黒髪もよだれで濡れて糸を引き、ダルンダルンになっていた。

「あ、あの、もしかして、C組の……」

「このぉおお、無法者共がぁああ……」

 ぐしょぐしょになったレンズからよだれが糸を引いた。阿修羅のごとく憤怒に満ち満ちたクリチャーがいた。

 風夏はターンして哲平と顔を合わせると、大げさに肩をすくめた。

「お金は、後でもいいか」

「よし。じゃあ……」

 二人はコクリと頷きあった。

「「逃げる!!」」

「カス共がぁああ!!」



「本当に雨だよ」

 濡れた窓ガラスを見つめながら、哲平はリモコンの停止ボタンを押す。かいていたあぐらを解いてソファーに寝そべった。微妙にまわる地球儀をぼーっと眺める。

 向かい側のソファーでは、風夏が二千円札を取り出してひらつかせる。

「要約すると……ありがとうだってさ。結果何もしてないのに報酬まで入れてくれてるとは。世辺りが上手いのね」

 テーブルには白い封筒と長々とした文章の手紙が丁寧に畳んである。その上に二千円札を置くと、揃えたふとももで頬杖をついた。

「ま、これにて一件落着。ハッハッハッ」

「缶詰投げた謎が解決してません」恨みがましく哲平が突っ込んだ。

「だから、こうひゅーんってわんちゃん、いやネコちゃんの前に落ちて、こう餌で釣る作戦だったのよ」身振り手振りで作戦を説明する風夏。

「周りをよく見て行動しろよ! お前のおかげでこのざまだ」

 前屈みでぐったり座り直す哲平。顔には主張の強いくまの他に、頬に湿布が貼られていた。腕には生々しい青たんがよく見て取れた。

「その時にできる最善を尽くしたのよ。おかげであの笛も処分することができたじゃない。食べた犬が群れのリーダーみたいになってたし、一匹のただの犬に生きる力を与えた……。強く、生きるのよ」 

「オレをぶん殴って逃げたのも、最善を尽くした結果だったってわけなんですねそうだなそうに違いない」

「もう一日もたったんだから水に流しなさいよ。そんなねちっこい片栗粉みたいだから童貞なのよ」

 哲平はリモコンを投げつけた。超反応で受け止められ投げ返された。おでこに新たな赤い丘ができて、哲平はグチグチ文句をたれる。

「あーあ。お前が白鳥さんみたく気がきく女の子なら、毎日楽しいのになぁ。不幸だ。最悪だ。金が無い。またこないかな」

 頭を垂れてわざとらしく盛大に息を吐いた。チラッと盗み見ると、風夏は腕組みをして太い眉をハの字にしていた。可哀想な物を見る目だ。

「哲平くんは……惚れたのかな?」

「どーうしてそうなる。でもまあ、あの人みたら、男なら、そうなるじゃないか」

 哲平はソファーに横になって、頬を掻いた。ふんとこめかみに人差し指を当て、風夏はつらつらとしゃべりはじめた。

「聞き込みした時、みんなどんな反応してたか覚えてる? わかりやすいのは男子。それに白鳥響がなんて言ってたか。そういう趣味はない、って言ってたのよ」

「何だ急に。何が言いたいんだ」

 その時、コンコンとドアが鳴った。

「オレは出ない」

「……可哀想な哲平くん」

 風夏は同情するような表情のまま、勢いをつけて立ち上がった。

「たぶん白鳥……」

「……誰だって?」

 哲平が聞き返す前に、ドアがスライドした。開いたドアの外には、白鳥響が美しい笑顔で立っていた。風夏が招き入れると全体像がわかる。

 姿勢の良い立ち姿で、おっとりとした顔には薄く笑顔が浮かんでいる。腕にはネコが。お辞儀をして風夏と親しげに会話をし始めた。

 哲平はそれをみて、呆然としていた。

「あ、あの。白鳥さん。少し聞いてもよろしいですか?」

 声をかけられて小首をかしげる白鳥。

「その格好、はどういう?」

 哲平が指をさししたのは白鳥の制服だった。それは哲平がきている物と同じだった。紺のブレザーに長ズボン。白鳥響は。男子の制服を身にまとっていた。

「どこか、おかしいですか?」

「いや、だって、あなた女子なのにそんな……」

 と、最後まで言い切る前に、風夏にポンポンと肩を叩かれた。目が合うと首を横に振ってきた。

 すると、哲平は何かに気がついたように目を見開いた。

「え、もしかして可哀想って……だからお前は……」

 あたふたと風夏と白鳥の顔を見比べる哲平。その様子を見て、白鳥響は苦笑した。

「ああ。そういうことですか。よく間違えられるんですよ。名前がややこしいせいなのかな?」

 哲平は本当か、と表情で訊いた。風夏は重々しく頷いた。


「私、男です」


 ネコが、わん、と一声鳴いた。


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