読み手と書き手・書き手と読み手
仕事と私生活。創作活動。どれも中途半端は良くないってことですね。
先日の精神科受診の時、「どうしたら病気、良くなりますかねぇ?」って主治医に聞いてみた。
主治医の言葉は一言だけ。
「心掛け一つですね」
全般的不安症候群、うつ病。これが私の病の病名。
その言葉を聞いて、私はどう自分の心を変えれば良いのかわからなかった。
先日レンタルショップで借りたあるDVD。その中に私の心を掴んで離さない言葉があった。
「読者や編集者はね、作品を書いている人の心がわかるんですよ。あなたは、自分が書きたい話を書いてますか? それとも、読者うけする物や編集部が好みそうな物を書いてますか?」
DVDの主人公は漫画家だった。売れない漫画家。小さく連載していた漫画も打ち切りにされ途方に暮れていた。
そんな中であったその一言。
それを聞いて、私もふと思った。
『自分の書きたい話を書いているだろうか』と。
(このキャラクターには、こう話させよう)とか、(こうゆう話の方が読者層が広がるかな?)とか。
思ってなんかいない。そう言ったら嘘になる。
自分流。簡単な言葉だけど難しい。どうしても感想とかポイント、アクセス数を気にしてしまう。我流で己の道を行く。とても困難な事だ。
それは私の私生活にも当て嵌まる。
私は、いったい何がしたいんだ。私はいったい、どうなりたいんだ。
仕事は長期休暇、長期入院により退職扱いとなった。現在無職。
仕事、したくないのか。傷病手当で生活することに、満足しているのか。
答えは否だ。けれども、仕事を考えれば胸が痛み、吐き気が止まらない。病は気から。それならば、私のこの現状は何だ? 仕事を欲するのに、仕事から逃避するようなこの現状。
「心掛け一つ」
その言葉の答えを見付けなければならない。
そしてそれは、創作意欲にも繋がる。
今、私は何が書きたいんだ。書きたい事が見付からない。
連載をストップしている作品にすら手を出せない。詩を書こうにも、テーマが定まらない。いつでも生と死に準ずる、似たような内容が頭を駆け巡るだけ。
『締め切りがあるわけじゃないから、焦らずいこう』
『プロじゃないんだから、焦る必要はない』
そんな思いを持ちつつも、『何かを書かなければ』と強迫観念に囚われる。
(読者や編集者は、作者が書きたいものを書いているか否かわかる)
そう、私は何かに焦らされて、自分の書きたい物語を描けていない。
誰に煽られている訳でもない。誰に急かされている訳でもない。勝手に自分で焦ってもがいてるんだ。
結局のところ、私は今、何も見えていないんだ。仕事の事も、そう。私生活の事も、そう。小説や詩の創作についても、そう。何も見えていない。だから、どうすればいいのかわからない。
仕事をしない期間が長引けば、次に就職する時に不利になる。これは自分の事しか考えていない。
傷病手当で生活していくのも一つの手段。甘えであり、完全な現実逃避。これも、結局は自分の事しか考えていない。
書きたい創作物がわからないのに、焦って創作をしようとする。これも自分の事しか考えていない。
何も見えていない状態で、何をどうもがいたって、何も答えは見出だせない。
少し落ち着こう。腰を据えていこう。
(死にたい)ばかりじゃ生きていけないし、家族に迷惑がかかる。(書きたい)ばかりじゃ面白みなんて生まれてこないし、読者にとっても迷惑な話だ。
今日、綺麗な朝焼けを見た。
久しぶりに、ベランダから景色を見れば、世界は綺麗だった。
そうなんだ。自分勝手、自己完結、自分の事しか考えていないのは良くないんだ。
そう。
そう思わないと、私はまた、何か知らないものに心を押し潰されるのだから。
書き手あってこその読み手であり、読み手あってこその書き手である。
私はやはり、まだまだ若輩者だということです。
また、ふりだしに戻る。私のすごろくは、ふりだしに戻るがとても多いです。