第10話 皇帝崩御
2週間後、海沿いの小都市
リーメシア州に所属していたその都市は帝国風の大理石造りの小さいながらも美しい港町であったが、コロニア・リーメシア攻囲戦の最中シルーハ軍の別働隊によって陥落し、焼き討たれてしまった。
街は3日3晩燃え続け、その煙の筋ははるか遠く、コロニア・リーメシアの城壁からも見る事が出来たほどである。
そうして戦争の犠牲になった街であるが、現在は無人となったその小都市に4万弱のシルーハ軍が集まっていた。
そしてその小都市の外側をシレンティウム軍が包囲している。
港にほど近い本陣を構えた建物でアスファリフは少し憔悴した顔を部屋に入って来た斥候頭へと向けた。
「お、来たか?」
「はい、間もなくです」
「ははは、まさかこんな展開になるとはなあ……まあ、仕方ねえっちゃ仕方ねえ」
アスファリフが港を見下ろせる窓へ近づくと、水平線に近い場所、遙か遠くに白い帆が見えた。
シルーハが用意した脱出用の船舶である。
シルーハの商船団に、アスファリフが繋ぎを作っていたセトリア内海の海賊達も含まれているその船団は続々と現れ、どんどんと近づいてきた。
そしてすべるような速度で港に近づくと、停泊を始める。
岸壁にはシルーハ騎兵と南方歩兵が並んで乗船を待っていた。
シルーハの正規軍の乗船と撤退が終われば、今度は傭兵達が乗船する事になっているが、これからの身の振り方を考えてアスファリフは暗澹たる気持ちになる。
「あ~あ、金払いの良かった将軍職はクビになっちまったしなあ、まあ敗戦の生け贄にされるよかましだがね」
「……しかし契約金を返せとは、シルーハは今後傭兵を雇いにくくなるでしょうな」
壁により掛かって撤退の様子を眺め、そう愚痴ったアスファリフに斥候頭が答えた。
作戦失敗の責任を問い、シルーハはアスファリフに違約金の支払いを求めてきたのである。
戦争に勝てるかどうかは多分に運を含んでおり、いかな傭兵と雖もそこまでは面倒を見切れない。
傭兵に払うお金は兵を雇う事に対しての契約金であり、支払いである。
戦争に勝つ事までは本来契約に含まれていないのだ。
その常識を破れば今後シルーハの呼びかけに応じる傭兵は減るだろう。
「……まあ、もう戦争する気無いんじゃナイのかね?……尤も金を返す気は無いぜ、死んだ傭兵達もたくさんいる、家族に金をやらなきゃならんからな」
アスファリフの言葉に頷く斥候頭。
「まあいずれにしても戦いには負けてしまったさ、あの西方帝国相手にして良くやった方だとは思うが、まあ、負けっちまえば何にもならねえ。一旦出直しだな」
「それは仕方ありません。我々は評判第1ですから」
「違いない!その評判がどうなるかはしばらくたってみないと分からんが」
斥候頭の言葉に破顔するアスファリフに、別の部将が声を掛けた。
「将軍はどうされるのですか?」
「あん?どうもしないがシルーハにゃ戻れねえからな、西方諸国にでも行くか」
今回雇った兵士達も大半が西方諸国の傭兵達である。
死んだ傭兵達の家族に弔慰金の名目で契約金を渡してやらなければならない。
そして目標も出来た。
「再戦出来るようにどこかへ渡りを付けておくか…それとも1個国を手に入れちまうかな……西方諸国あたりなら何とかなりそうだが」
「そうですか、では自分達を是非お連れ下さい」
アスファリフがつぶやいているとその言葉を漏れ聞いた斥候頭が声をかける。
その言葉を聞いたアスファリフは周囲に居並ぶ部将達を見て不敵に笑った。
「わははは、そうか、イイね!じゃあ行くか!」
包囲しているシレンティウム軍は攻めてこない。
恐らく撤退を察知しているはずだが、西方帝国領内からいなくなれば良いと考えているのだろう、対戦前の顔合わせでハルがそう言っていたのを思い出すアスファリフ。
撤退は順調に進み、シルーハの正規兵達は商船に乗り込み終え、次いで傭兵達が海賊船乗り込み始めていた。
アスファリフは自分達も乗船するべく本陣として使っていた部屋を後にし、岸壁へ向う途中、ふと何者かの気配に気付いて背後を振り返った。
さっきまで居なかった黒い神官服を身に着けた男に、驚いて剣を抜こうとした護衛の傭兵達を手で制し、アスファリフは皮肉げな笑顔で口を開く。
「おう、あんたか。わりぃが俺は負けちまった」
「……ふん」
「あんたはどうする?一矢報いるってんなら帝都の闇組織と話しを付けてやるぜ」
「あの英雄の残滓は始末せねばならん、やって貰おうか……」
アスファリフの言葉に下を向いたまま応じるシルーハの闇神官。
その言葉を聞いてアスファリフは笑みを嬉しそうな物に変えて言葉を継ぐ。
「お?分かった。俺としても最後に毒を放つってのは趣味に合ってて良いんだなこれが~よしよし、頭目には話しを通しておいてやる」
「ふん……」
闇神官はいやらしく歯を剥いて笑うと、その場からかき消えるようにして姿を消した。
完全に気配が消えたのを察してから斥候頭が恐る恐るアスファリフへ声をかける。
「……何者ですか?」
「シルーハの十人衆に仕える闇神官だ。滅多に表には現れねえんだが、まあ……なあ」
「はあ?」
「今回の戦争は十人衆も期待してたってトコか」
つぶやくように言うと、アスファリフは踵を返す。
その後方には斥候頭を始めとした歴戦の傭兵部将達が続いていた。
「まあ、腐ってもシルーハの暗部だ、凌いでみろや。それが上手くいきゃ再戦だ。次は負けないぜ辺境護民官!」
船に乗り込んだアスファリフは、遠くで陣を張っているシレンティウム軍に向かって拳を衝き上げるのだった。
セトリア内海沿いの小都市郊外、シレンティウム軍本陣
『去ったか』
「ええ、滞りなく撤退していったようです」
アスファリフ率いるシルーハ軍を破ったシレンティウム軍は戦場掃除を終えると直ちに追撃へと移った。
しかし、余力を十分残しているシルーハ軍に無闇にかかっていくような事はせず、慎重に後を追い、そしてシルーハ軍が落ちた小都市へ入るのを見計らって包囲したのである。
アスファリフが見抜いたとおり、ハルは撤退すれば都市を攻める事も無いと考え今まで待っていたのだ。
『うむ、これで取り敢えず帝都のあほ貴族共に対抗出来るようになったのであるな』
「ええ、シルーハとの正式な講和はまだですが……最早盛り返すほどの力は無いでしょう、恐らくアスファリフ将軍も罷免されるでしょうし」
最後の船が桟橋から離れるのを見送り、ハルは肩のアルトリウスに答える。
最後の船の船縁にアスファリフだろう、拳を衝き上げているのが見える。
『ふん、負け惜しみか……はたまた再戦の申し込みか?』
「出来ればもうやりたくありませんね」
ハルがしみじみと言った。
今回の戦いでは第23軍団を中心に多数の死傷者を出したシレンティウム軍。
特に第23軍団は大損害を受けており、ベリウス指揮の下他の軍団の負傷兵と共に一旦シレンティウムへ送り返す事が決まっていた。
アルトリウスはしばらく無言で桟橋から離れていく船を見送っていたが、その姿がぼつぼつと水平線に消え始めると徐に口を開く。
『あ奴とは当分戦わずに済むであろうが、今度はあほ貴族共である』
「帝都に立て籠もられては厄介ですが…」
『それは心配なかろう、敵は有象無象とは言え10万の大軍である。恐らく我等を侮って野戦に打って出てくるのである』
アルトリウスの言葉に大きく頷きハルが言葉を発した。
「そうであればアダマンティウスさんの応援も間もなくですから、取り敢えずは何とかなりそうですが」
アダマンティウスはコロニア・メリディエトでの戦勝を受け、帝国軍の残軍と共に既にハルと合流すべく移動しているとの報告が届いていた。
それによるとシレンティウム軍の第22軍団と重兵器軍団5千の合計1万2千、それに帝国軍3個軍団の残軍1万2千余りが南下してきているのだ。
『後は帝都の様子とユリアヌスとやらが何処で何をしているのかで有るな』
「一応、連絡を取って貰ってはいますが……」
ハルの言うとおり、ユリアヌスに対してはシレンティウム側からも越境許可の関係があって何度か連絡を取ろうと試みていたが未だ果たせていない。
遠いセトリア内海西岸にて作戦行動中であった事は知れているが、その後の連絡が取れないのだ。
『いずれにせよ、あほ貴族共を討ち破らねばならん、一旦コロニア・リーメシアで休息を取り、策を練らねばならぬのである』
「分かりました。では、転進!」
ハルの号令でシレンティウム軍は攻囲を解き、反転してコロニア・リーメシアへと向かった。
シルーハ王国、ティオン沖合
南方歩兵1万5千、シルーハ騎兵5千の軍兵を満載し、すべるように航海を続けるシルーハの商船団は、もう間もなくティオンの軍港に到着しようとしていた。
港から出迎えだろうか、艦隊が向かってきている。
シルーハ商船団の船団長はティオンへ軍兵を下ろした後、根拠地である南のサルスへ向かう予定であった。
ジードからやって来た海賊艦隊とサルス沖で合流し、一路北のポゥトルス・リーメスへと向かったが、途中アスファリフ将軍からの伝令船によって入港場所を変更したのである。
ティオン市にも戦艦は配置されているが数はそれ程でも無い。
それに軍兵を大量に運べる商船は、東照との交易が途絶えがちになってしまったために、ティオンにはそれ程多く停泊していなかったのである。
かく言う船団長ももともとはティオンで船舶交易に携わっていた。
しかし群島嶼が帝国の一部となって交易を禁じられ、更には東照物品がシレンティウム経由で遣り取りされるようになると交易量や輸送量が激減し、ティオン市での船舶運用に支障を来すようになったのである。
そのため船団長は南のサルス市へ拠点を移し、南方大陸との交易や西方諸国との交易に移行したのであった。
残念ながら戦争には負けてしまったようだ。
アスファリフ将軍がユリアルスを落とし、帝国の東部諸州を制圧するのを聞いて、これでまた故郷であるティオンへ戻れるかと期待した船団長であったが、そうは上手くいかなかった。
北の護民官が動き、シルーハ領を横断してシルーハ軍の背後を取るという恐るべき大戦略でアスファリフ将軍をも討ち破ってしまったのである。
シルーハは敗れたことにより更に勢力を削られるだろう。
領土の割譲か、賠償金の支払いか、はたまた交易路の譲渡か……
西方帝国の要求がどのようなものになるのか知らないが、いずれにしても今まで以上にシルーハの商売がやり難くなってしまう事は確実だろう。
そんな事を考えながらため息をついた船団長が向かってくる戦艦を見て首を捻る。
どことなく違和感を感じたのだが、間もなく合流するので、その違和感の正体もすぐ明らかになる、そう思い回頭の合図を出そうとした船団長の顔が凍り付いた。
「……!?せ、戦闘準備!!!!」
絶叫する船団長を気が触れたのかと驚きつつ振り返る船員や船長達の目に、巨大な矢が轟音と共に帆柱へ突き立った。
絶句する船員達を余所に、甲高い笛を吹くような音と共に次々と降り注ぐ巨大な矢。
そしてその矢は容赦なくシルーハの軍兵を貫いた。
最初は何が起こっているのか全く把握出来ず、目の前で串刺しになって甲板に縫い止められた同僚兵士達をぼんやり眺めていたシルーハの兵士達であったが、次いで自分の腕が矢に吹飛ばされるに至ってようやく絶叫をあげる。
甲板へ載せていた馬が胴を撃ち抜かれてすさまじいいななきを発し、船体に炸裂した巨大な矢が漕ぎ手達を櫂と共に物言わぬ肉片へと変えた。
甲板を掠めて飛ぶ巨大矢は何名ものシルーハ兵を撃ち抜いて反対の海へ飛び込み、別の矢は慌てて盾を構えたシルーハ兵を、その盾ごと甲板へ縫い止める。
帆を引き裂き、船体を撃ち抜いて浸水を誘い、櫂や舷側を撃ち抜いて兵士達を貫通する巨大な矢に、シルーハの船団は為す術べなくたちまち混乱の坩堝へと放り込まれた。
やがて陸に近い船が軍兵を満載したまま沈没を始め、更にその後方に居た船が攻撃を受け始めると、混乱は最高潮に達する。
何とか攻撃を回避しようと右往左往するシルーハの船団であったが、最初に船団長の船が撃沈されてしまった事で指揮を執る者が居らず、左右へと向かった隣同士の船が衝突したり、櫂が絡み合ったりして更に混乱に拍車を掛けるばかりであった。
そうして行き足が止まったシルーハ船団の横っ腹へ、陸側からやって来た戦艦が次々に突撃し始める。
すさまじい轟音が辺り一帯に鳴り渡り、船首の衝角に貫かれたシルーハ船が木の裂けるもの凄い音や軍兵の悲鳴と共に海水の渦に飲み込まれていった。
左右へと展開した戦艦は、シルーハ船団が逃げる隙や暇を与えず次々と衝角を激突させ、あるいは巨大な矢を船腹の吃水に集中させて大穴を穿ち、撃沈してゆく。
容赦の無い攻撃は数刻続き、やがて全てのシルーハ船が撃沈された後に残るのは夥しいシルーハの兵士や船員、それに漕ぎ手と馬の溺死死体のみであった。
「副皇帝陛下!敵船団を撃滅しました!」
報告を受けるまでも無い事だが、艦長からの戦勝報告を受け、ユリアヌスは鷹揚に頷き口を開く。
「よし、では進路を北へ取れ!目標はポゥトルス・リーメス!」
「了解しました!」
帝国海軍遊撃艦隊は、ユリアヌスが座乗する旗艦から手旗信号を受け、一斉に北へと進路を変え始める。
「輸送船団へ合図を出せ」
「はっ!」
更にユリアヌスの命令で旗艦から黙々と狼煙が焚かれると、ティオン市から武装の無い船団が現われた。
船団の甲板には帝国兵が多数乗船しており、きらきらと海の陽射しにその鎧兜が反射しているのが見て取れる。
「副皇帝陛下、輸送船団も事故無く全兵士収容完了との信号です」
手旗信号担当の兵士が、輸送船団の先頭船から振られた手旗信号を読み取ってユリアヌスへ報告した。
「そうか、分かった」
言葉少なく答えるユリアヌスに、甲板指揮を終えて船橋へ上がってきた遊撃艦隊司令官のアウルス・デルフィウス提督が力強く言う。
「しかしジード市、ティオン市と立て続けではありましたが、兵士達はよく働いてくれました」
「そうだな、これで後は帝都の馬鹿共を一掃するだけだ」
いかにも海の男らしい日焼けしたデルフィウス提督が白い歯をきらりと輝かせて笑顔を見せると、ユリアヌスも笑顔を見せて答えた。
ユリアヌスは異変に気付くとアルテア市ですぐに退役兵を中心とする募兵を行って1個軍団5千名の帝国兵を集め、更に弓兵や槍兵、騎兵については西方諸国の傭兵を7千ほどかき集め、6千名の軍団を2個編制した。
そして西艦隊の半分を抽出し、遊撃艦隊へ編入するとその兵士達を積載してまずはジード自由市を急襲したのである。
シルーハの影響と庇護の下、海賊の拠点となっていたジード自由市であるが、軍備の備えはそもそもそれ程無い。
拠点としていた海賊もユリアヌスが本腰をあげて掃討し始めた事によって大きく勢力を減じており、出撃はしたもののユリアヌスの海軍に一蹴されてしまった。
更に陸路からのユリアヌス軍団1万2千と、海上からユリアヌス率いる帝国海軍の攻撃を受けてあっさり陥落し、その市域を帝国領へと編入されたのであった。
そして帝国新領南方州となったジード市で軍備を改めて整え、一旦リブリア市に入ったところでユリアヌスはハルの戦勝を聞いたのである。
越境許可の件については気になっていたが、アダマンティウスと連絡が取れ、クィンキナトゥス一族が動いている事を知ったユリアヌスは、改めてアダマンティウスに対して辺境護民官の越境を認める事を通知した後出撃したのであった。
そしてシルーハが船舶を使って撤退を行う他無い状態にある事から、兵のほとんどいないティオン市を攻め取り、撤退してくるシルーハ軍を壊滅させようと考えたのである。
「残念ながら傭兵とアスファリフは乗船していないようです。アスファリフは罷免され、その上に違約金の支払いを求められて海賊船に乗り西方諸国へ逃亡したと、拾い上げたシルーハの船長が申しております」
「そうか……本命は西だったか」
デルフィウス提督の報告に残念そうな顔のユリアヌス。
作戦は大成功を収めたが、肝心のアスファリフは進路を別に取ったようで、壊滅したのはシルーハの船団と正規軍のみ、傭兵将軍とその配下、そして足となった海賊は西へと逃げてしまった。
シルーハ正規軍よりアスファリフの方が厄介だと思っていたユリアヌスであったが、まさかそれ程優秀な傭兵をシルーハがあっさり手放すとは思わなかったのである。
しかしこれでシルーハ王国は国軍のほぼ全てを失い全くの丸裸となった。
今であれば帝国悲願のセトリア内海沿岸統一も夢ではないが、帝都の情勢を鑑みればシルーハに拘っている時間は無い。
「では、進路はこのままで?」
「ああ、頼む。辺境護民官と一回会わなきゃならんからな、作戦の摺り合わせもしたい」
「了解しました……しかし辺境護民官軍がまさかここまで強いとは思いませんでした。いや、正直脱帽です。まさかあのシルーハ軍を破って撤退させてしまうとは!」
感嘆の声と共に北を見るデルフィウス提督に、ユリアヌスは笑みを返す。
ユリアルス城を落とし、帝国軍2万を討ち破って東部諸州を一時なりとも制圧下に置いたシルーハ軍とアスファリフを退け、撤退に追いやったのである。
これでおそらく辺境護民官は今後帝国内の政治に絶大な影響を及ぼす事になるだろう。
今後帝国内の勢力は、北の重要国として辺境護民官の動向や影響力をあらゆる意味で無視出来なくなるのだ。
シルーハや東照にとっても新たな強国の出現は無視出来ないだろうが、その影響を一番強く受け、また一番強く影響を及ぼせるのもまた西方帝国なのである。
「まあ、本人はそんな事望まないだろうが……尤も、それを望まれても困るがなあ」
ユリアヌスの独り言は海風に散らされ、誰の耳に届く事も無かった。
帝都中央街区、元老院議場
「……以上の顛末により辺境護民官軍は敵国シルーハの傭兵将軍アスファリフを討ち破り、西方帝国に平和と安寧をもたらしました!」
誇らしげに報告する帝国兵。
しかしその誇らしげな表情とは相反する空気が議場に流れる。
「ご苦労だった……君は帰隊しなさい」
「はっ!」
コロニア・リーメシアから駆け通しでやって来た元第3軍団の兵士は、ルシーリウス卿がこめかみをぴくつかせている事に全く気付かず、嬉しそうに一礼すると議場を退出した。
兵士が議場から去ると空気が更に重くなる。
しかし大半の議員達は、敵を打ち破ったという報告にも関わらず、何故このような雰囲気になっているのかが分からないまま戸惑っていた。
その事情を知っているのは、貴族派貴族の中でも高位の者達だけ。
シルーハとの裏取引があったなどとは明かせるはずもなく、ルシーリウス卿は爆発させたい怒りと不満を何とか抑えるのに精一杯であった。
しかしこのまま辺境護民官を捨て置くのはまずい。
ユリアヌスと繋がっている事はほぼ間違いないだろうし、精強な北方軍団兵をもって帝都に繰り込まれては、今後の政権運営にも影響が出る。
ましてやかつてかの者を辺境護民官にして左遷させるべく動いたのは自分であるのだ。
恨まれていたとしても不思議では無い。
ただ、ヤツは失敗を犯した。
誰の許可を得る事無く国境を侵したのである、これは辺境護民官権限を逸脱する行為であるばかりで無く、何の権限も無い者が軍を率いていれば元老院の議決で明確に反乱であると指定が出来る。
たとえそれが敵国を排除するためであったとしても、法は法である、破って良い道理が無いのだから、辺境護民官は国家反逆罪で逮捕して極刑に処すことにすれば良いのだ。
そこで辺境護民官が逆らったとしても今は10万の軍が自分の息子の手元にある。
いくら精強と雖もたかだか5万程度の軍であれば、簡単に粉砕出来るだろう。
ルシーリウス卿はそこまで考えると、徐に立ち上がり、議場の中央へと進み出た。
「仇敵シルーハを討ち破った辺境護民官にまずは拍手をお願いしたい!」
白々しくルシーリウス卿が発言すると、議場には爆発的な拍手が湧き起こった。
思わず額に青筋を浮かべ、拍手した議員達を怒鳴りつけそうになるのを辛うじて抑え、ルシーリウス卿は両手を広げて拍手を止めるよう促す。
しかしなかなか収まらない拍手。
辛抱強く拍手が収まるのを待ち、ルシーリウス卿が再び口を開く。
「しかし彼の者は帝国の法を犯した!辺境護民官は国境を越えて権限を行使してはならない、これは帝国の基本法である……また権限の無い者が軍を動かすと言う事は明確な反逆罪である!反乱軍と断じざるを得ない!」
今度は水を打ったようにしんと静まりかえる議場。
誰かが唾を飲む音が議場に響き渡る。
「よって私は彼の者を国家反逆罪に問い、更には一連の軍事行動を帝国に対する反乱として認定をせざるを得ないと考える!このような提案をしなければならないのは非常に心苦しく、また残念だが法は法、法を曲げるわけには行かない!そしてこの提案を他の方にして頂くわけには行かない!帝国を命を賭して救った辺境護民官を罪に問おうというのである、その非難は私が甘んじて受けよう!その汚名は私が負おう!その責任は私が取ろう!」
ルシーリウス卿の演説に、議員達が聴き入る。
「……彼の者を、辺境護民官ハル・アキルシウスを国家の敵として認定する!この提案に賛成の者は起立願いたいっ!!」
拍手と同時に立ち上がる議員達。
ルシーリウス卿はその光景をにんまりとして眺めると、再び顔をを引き締めて口を開いた。
「諸君の意志は私がしっかりと受け止めた!後は全てを私に任せて貰いたい……では、辺境護民官ハル・アキルシウスを国家反逆罪に問い、その軍と権限と官職の一切を解く!そしてその任は我が息子にして軍総司令官のヴァンデウスに任ずる事とする!」
高らかに宣言したルシーリウス卿に対し、満場の拍手が再び送られた。
そしてその拍手は何時までも止む事が無かったのである。
帝都中央街区、元老院、皇帝執務室
「さてもまた下らぬ案が通ったか……」
議場から聞こえる拍手にマグヌスは寝台で顔をしかめた。
この部屋に押し込められてどれくらいの時が経っただろうか、誰とも会えず、外を見る事も出来ない状態で死病に冒されていたマグヌスの身体は弱り切っていた。
食事についてはしっかり取る事が出来るのだが、それも弱ったマグヌスの身体はそれを受け付けなくなってきており、ここ数日はほとんど手を付けていない。
毎日のように譲位を迫るルシーリウスであったが、頑として言う事を聞かないマグヌスに呆れ、愛想を尽かした感じで最近はこの部屋を訪れる者はほぼ無かった。
控え室に閉じ込められたままの貴族派貴族に反した元老院議員達も気になるが、今となっては彼らの健康や動向を知る術も無く、マグヌスは静かに運び込まれた寝台で横になっている他無い。
時折聞こえてくる議場からの熱弁や拍手も、どこか白々しくそして虚ろである。
うるさいぐらいに聞こえていた拍手がふと遠くなったように感じられた。
「ああ、もう、時が来たか……」
ふっと身体の力が抜けたのを感じたマグヌスは、最期が来た事を知った。
「何と、これで終わりか……悔いだらけの一生であったな……」
帝国皇帝マグヌス、享年78歳。
帝国皇帝で唯一誰にも看取られる事無く、静かに崩御した。
その死が発覚したのは翌日であったという。
翌日、帝都中央街区・貴族街、ルシーリウス卿・帝都邸宅
「皇帝が死んだ……当分は隠しておくつもりだが、参った」
ルシーリウス卿の言葉で、部屋にいた貴族達の顔が凍り付く。
「い、何時ですか?」
「恐らく昨日だ、看取った者が誰もいないので分からない……朝に食事係が発見した」
どもりながらも辛うじてそう聞いたプルトゥス卿に、ルシーリウス卿は苦虫をかみ潰したような顔で答えた。
ルシーリウス卿から元老院の閉鎖を命じられ、主立った者は屋敷へ集合するよう早朝に使いが来た事で、不審に思っていた貴族達の顔が強ばる。
これは一大事である。
皇帝が後継者を指名せず、また誰に後事を託すでも無く崩御してしまった。
もちろん、ユリアヌスを指名はしていたのであるが、これは現在のルシーリウスが主導する元老院の承認を得ていないので無効である。
一つ間違えれば帝国は分裂してしまい、血で血を争う戦乱の時代が来てしまうだろう。
しかし、ルシーリウスは落ち着いて口を開いた。
「勅命をこの機会に幾つか出したいと思うのだ」
また余りの言葉に、衝撃から立ち直りかけていた貴族達の顔が再び凍り付く。
「しかしそれは偽勅となります、帝国で最も重い罪の一つですぞ?」
「……いいんじゃねえのか?皇帝が死んだ事を知っているものはいないんだろう?」
タルニウス卿が絞り出すように言うと、軍総司令官に就任したヴァンデウスが面白そうに言った。
「ああ、皇帝の遺体を発見した食事係はすぐに殺した。この事を知っているものは我々以外にはいない」
息子の台詞に気を良くしたのか、ルシーリウス卿は笑みを浮かべて言った。
「いや……それは!いや、しかし他に手立てはないか……」
「出す勅命は他でも無い、ユリアヌスの廃帝と辺境護民官の罷免だ。元老院で出した罷免決議よりも、任命権のある皇帝による罷免の方が打撃が大きいだろう。海軍とシレンティウム同盟という実力を手に入れてしまった奴らに今となっては手遅れの感も有るが、国内外の勢力に対して正統派はこちら側だと広く知らしめる事が出来る」
躊躇するタルニウス卿らに対して、畳み掛けるように言葉を継ぐルシーリウス卿。
そしてぐいっと部屋を睨め回すと、気圧された貴族達を代表してタルニウス卿が言葉を濁しつつ答える。
「うむむ……それはそうですが、如何にもまずいのではありませんか?」
「ま、心配すんなって、ざっとで動かせる兵は10万以上ある。この軍がありゃいくら辺境護民官だって俺たちに勝てやしないだろ。ユリアヌスの海軍なぞ陸戦じゃ役にたたねえしな!」
「うむ、その通りだ……本来であれば策を弄するまでも無い事だが、西方諸国や東照帝国の動向が気になるし、戦後は奴らとも一定の関係を気付かなくてはいかん。故になるべくユリアヌスめに味方が増えぬようにしたい、それに反逆者認定してしまえば市民や傭兵達も支持しにくかろう?」
ルシーリウス父子の説得と説明、恫喝に顔を見合わせていた貴族達がようやく折れる。
「……紙一重ではありますが、効果はあると思います。しかし余りおすすめ出来ない手段ですぞ」
「それは分かっている、こんな事が出来るのもここ一月だけだろう。では早速勅命を出そう。ハル・アキルシウスの罷免とユリアヌスの廃帝だ!」
「……では、勅命書の作成に取りかかります」
タルニウス卿が渋い顔でゆっくりと立ち上がると、ヴァンデウスがそれに続いた。
「ふっ、親父、俺はあの辺境護民官と勝負してくるぜ」
「くれぐれも油断するな」
ルシーリウス卿がはしゃぐような口調で言う息子を窘めるが、ヴァンデウスは意に介した様子もなく言い放つ。
「はん、誰にものを言ってるんだ?俺は軍総司令官のヴァンデウスだぜ!俺より強いヤツは此の世にいないっ!所詮蛮族は蛮族、北の蛮族に帝国の鎧を着せたところで何も変わりゃしねえって」
「まあ良い、万が一にも負ける要素は無いからな……帝都周辺の貴族派貴族からの応援も得られた、存分に戦ってこい」
些か呆れ気味ではあるが、ルシーリウス卿は兵数に格段の差があるためよもや負ける事は無いだろうと考え、ヴァンデウスを送り出す事にした。
それに、貴族派貴族の私兵が続々と帝都へ到着しているため、兵数はかなり脹れ上がっており、このままの調子で増えるのであれば、帝都の抑えと辺境護民官への対処は同時に出来るだろう。
既に帝都の兵数は15万を超えていた。
帝都の押さえとして5万ほど置いておいても、続々増える貴族の私兵達を集めればまだ兵力に余裕はある。
ルシーリウス卿が掛けた言葉に、ヴァンデウスはにたりと笑みを浮かべて答えた。
「任せろ!」