第5話 西方帝国震撼
シレンティウム行政区・行政庁舎、大会議室
シレンティウムに相次いで入ってきた至急の知らせを一瞥し、ハルはアルトリウスを呼び、直ちに行政府の主立った者達を集める。
ハルが手にしたのは、東照城市大使の介大成経由で東照の黎盛行から寄越されたシルーハの動向に関する物である。
戦争が近い。
シッティウス以下行政府の面々に続いて、クイントゥスら軍の指揮官達も集まってくる。
それに加えて今回は都市参事会の会長を務める事になったアルキアンドと情報収集をしている楓とプリミアも会議に加わった。
シレンティウムの街区代表を元に、都市参事会は以前より準備されていたが、ようやく人口が20万に達した事を機に正式発足したのである。
ハルはいつも通り集まった面々に報せの内容を簡単に伝えた後、その手紙そのものを回覧させた。
「これは、まずい事になるでしょうな……シルーハの狙いは、状況から見るに西方帝国領東方の占拠ですかな?」
『まずいどころでは無い、恐らくその意図でシルーハは西方帝国に戦をしかける。我々の身の振り方をしっかり考えておかねば徒に巻き込まれ、背負わなくとも良い物まで背負う羽目になろう。シルーハの狙いは交易路である。あの商人国家の成り立ちを考えれば至極簡単である、おそらくシレンティウム経由の交易路を支配下に置きたいのであろう』
手紙を全員が読み終えると、早速シッティウスとアルトリウスが意見を述べた。
それについてルキウスが質問する。
「でも何で攻めるのはここじゃ無くて帝国なんだ?シレンティウム経由の交易路が欲しいんだろ?」
『うむ、それはシレンティウムはあくまで経由地であるからである。シレンティウムを経由しようがシルーハを経由しようが、最終的に西方帝国と東照の間で流れる物品が一番価値がある上に、量も多いのだ、故にシレンティウムと帝国の出入り口をシルーハで塞いでしまえばシルーハが交易を独占出来る。シレンティウムを通して商人達が交易している一番の理由は関税が無い事とシルーハの強欲商人共に中間利益を搾取されないことであるが、シルーハが間に入ればその旨味も消せるのである。さすればわざわざ陸路を取らずとも、シルーハ経由の海路に交易路が戻ると言うわけである』
「なるほど……」
『それに、今帝国は弱体化しておる上に屋台骨にガタがきているのである。ガッチリ固まってこれから飛躍しようとしておる我らに攻めかかって滅ぼすより、西方帝国の一部をかすめ取った方が効率が良かろう……それに、いかな衰えたりとは言え西方帝国は大国、何か良い攻め口が見つかったか、あるいは手引きしている者が居るやもしれんのである。未だ西方帝国の半分にも満たない我等を攻めるより、西方帝国自身を相手取った方が効率が良いし成功の見込みもあると踏んだ理由があるのであろう』
「さては貴族共ですかな?ありがちなことですが愚かなことですな。自己の利益に固執する余り物事の本質を見誤るとは……それ故に我々がここに居るわけですが」
シッティウスの言葉に会議に出ている全員が苦笑を漏らす。
ハルがクイントゥスに向かって質問した。
「クイントゥス、今訓練が終わっているのはどのくらいの兵数になる?」
「シレンティウム駐在の軍であれば、第21軍団、第23軍団、第24軍団、第25軍団、第26軍団の3万5千に、第1騎兵団5000です。それ以外に現在1個軍団が訓練中です。また、コロニア・メリディエトの第22軍団、フレーディアの第27軍団がそれぞれ7000ずつの1万4千」
「よし、シレンティウム駐在軍をすぐに動かせるように準備させてくれ。訓練中の軍はそのままで良い」
すらすらと答えるクイントゥスに頷き、ハルは指示を出すと次いでルルスらに向き直る。
「サックス農業長官、備蓄食糧で軍へ回せる分量は?」
「はい、およそ5万ほどですから……補給体制を確立出来れば1年は大丈夫かと」
「スイリウス工芸長官、矢や投げ槍なんかの消耗品の生産は?」
「……体制は確立している、原料もすぐ手に入る……いつでも大丈夫……」
「ではすぐに生産に入って下さい」
「……分かった」
「カウデクス財務長官、資金は?」
「埋蔵金も随分使っておりますが……交易資金と寄付金更には徴税分で賄えますわ。存分に戦って下さって結構ですわ」
「オルキウス長官、商人を通じて戦時物資と食糧、馬糧の購入をお願いします」
「承知しました。早速買い集めましょう」
「ルキウス、シレンティウムの治安と間諜対策は頼んだぞ」
「ああ、任せとけ……この前みたいな無様な真似はもうしねえ」
戦いの下準備を各部署長官に命じるとハルは正面に向き直った。
「では……残念ではありますがシレンティウム同盟は只今より戦時体制に入ります。各部族に戦争の概要を通知し、協力内容の確認を行って下さい」
「承知しました」
シッティウスが分厚い資料をへ何事かを書き付けながら応じる。
その時、大会議室の隅から遠慮がちな声が上がった。
「あの……宜しいですか?」
「プリミア?どうぞ」
発言を求めたプリミアにハルが承諾を与えると、プリミアは席から丁寧に立ち上がり、ぺこりとお辞儀をしてから話し始めた。
「すいません、多分関係があるんじゃ無いかと思って。実はシルーハの商人さん達が慌ててコロニア・メリディエト経由で帰っています。その他にも……ヘオン経由で入ってくるシルーハの人達が途絶えたみたいです」
『なるほど、それは臭いであるな。恐らく本軍では無いだろうが、我等を牽制せんとして前と同じように南から軍が入り込んでこよう。大きな西方帝国を攻めるのに我等にまで手を出す余裕は本来無いはずであるからな』
プリミアの言葉にアルトリウスがすかさず反応した。
「……またダンフォード王子の手引きですか?あそこにいるんですよね」
『分からんが、いずれにせよ敵の規模や作戦意図がはっきりつかめぬ事には対処も限定的になってしまう。ただ我等への攻め口は分かった。これは大きい』
「楓、至急陰者をシルーハとの境へ派遣してくれ」
「うん、分かった」
『……ハルヨシよ、お主は如何するつもりか?』
「そうですね、コロニア・メリディエトからアダマンティウスさんの第22軍団と合流して東部諸州へ展開するのが早いと思います。ただ、これですと誰かの要請が無いと……」
『うむ、副皇帝陛下は何処で何をしているのか知らんが、近々にはおらぬようであるしな……戦端が開かれてからでは遅いであるか』
「困りました」
『実は一つ手があるのであるが、聞くか?』
「お願いします」
にんまりと笑うアルトリウスに、全員が興味津々でその策について聞き入るのだった。
帝都中央街区
先程東部国境がシルーハの大軍に破られ、ユリアルス城が既に落ちているという凶報を第3軍団の敗残兵達から受けたコロニア・リーメシア市長の報告で知ったマグヌスは直ちに元老院を召集した。
先年の南方作戦失敗に続いての凶報に元老院は紛糾する。
普通であればユリアルス城から早馬や伝送石通信で為される緊急通信が遅れ、後手に回った西方帝国。
すぐにマグヌスの命令でリーメシア州にて作戦行動中の第4軍団と帝都警備の第1軍団に加えて南方派遣予定で帝都に駐屯中の第10軍団併せて2万1千が派遣されたが、遅きに失した感は否めない。
それでも打てる手は打たなくてはならなかったマグヌスが、その事後承認のために開いた元老院であったが、事態は急変する。
「以上の通り手を打った……事後ではあるが承認を求める」
マグヌスが矢継ぎ早に出した指示について説明し、その施策が動き出そうとした正にその時、横合いから声が飛んだ。
「お待ち頂きたい、いったいその指示は誰の権限で為されておりますのか?我等元老院を蔑ろにするのはやめて頂きたいっ!」
議場の動きが止まる。
見れば声を飛ばしたのは貴族派貴族のプルトゥス卿であったが、その背後にはルシーリウス卿が不敵な笑みを浮かべて控えている。
マグヌスの白いこめかみに血管が浮き上がり、骨張った拳が強く握りしめられた。
「この非常時に貴殿らと言葉遊びをしている暇は無い!皇帝の権限で事を為したのだ、何か不都合があるのか」
怒鳴りつけたい気持ちを抑え極めて平板な口調で告げるマグヌスに、今度はタルニウス卿が立ち上がる。
その顔にはいやらしいとしか表現のしようが無い笑みが浮かんでいた。
「陛下……陛下は勘違いしておられる!!陛下の権限は元老院あってのものではありませんか?元老院から負託された権限を行使するのが皇帝のはず、今の言葉はその根源たる元老院を軽視していると言わざるを得ませんぞ」
その言葉を待っていたかのように、一斉に貴族派貴族から罵声やヤジが飛んだ。
「元老院軽視は許されぬ!」
「そうだ横暴だ!」
「皇帝陛下は元老院に謝罪せよっ」
「元老院あってこその帝国と皇帝であろう!」
騒然となる議場に呆気に取られ、起草文書を用意していたカッシウスは動くことが出来なくなってしまった。
呆然とその様子を眺めるマグヌス。
惨憺たる有様の議場を満足そうに眺め、ルシーリウス卿がゆっくりと立ち上がり、徐に口を開いた。
「陛下、残念ながら陛下におかれましては先年の南方作戦敗戦に続きまして、此度の国家防衛を疎かにした事についても責任を取って頂かなくてはなりません……無謀な南方大陸作戦を承認して挙げ句の果てに軍の弱体化を招いて帝国に危機を呼び込みましたる事、これは陛下の責任で御座います。我等は反対致しましたモノを……当時これを主導した軍総司令官は既に戦死致しましたので特に問責することは致しませんが、残軍を率いている司令官を後日呼び出し詰問いたしましょう。そしてそこにおる執政官もこの件については同罪、戦争準備を為したものの、その不手際で敗戦を招いたのでしょう。まず私は現執政官カッシウス殿の解任と、タルニウス卿の執政官就任を発議致します」
「ま、待て……!」
焦って制止しようとするマグヌスを冷たく見下ろし、ルシーリウス卿が言う。
「……待つ必要を感じません、ああ、それから官吏共は退席しろ」
「なっ?何を言うかっ」
「それこそ横暴ではないか!」
続いた言葉に色めき立つ中央官吏派の元老院議員達。
彼らは官吏であると同時に元老院議員でもあるため退席する必要性は一切無い。
当然根拠の無いルシーリウス卿の命令口調に対して一斉に反発した官吏達だったが、次の瞬間身を凍らせた。
議場へ入ってきたのは、帝都で最近勢力を伸ばしている闇の組合の構成員達、本来このような場所に居てはいけない者達である。
「ルシーリウスっ、貴様このような真似をして……」
「ふふふ長老、実力を持たない者は悲しいですな……武力行使とは素晴らしいものだ」
元老院議長である長老がその禿頭を真っ赤に染め上げて怒るが、ルシーリウスは含み笑い、全く意に介さない。
その言葉に思い当たった長老が更に激しく激高した。
「貴様っ!!シルーハを呼び込んだなっ!!」
「何を根拠に言っているのかな?全く持って耄碌爺は困りますなあ……いい加減にしないと侮辱罪で告訴するぞ!」
「おお、やってみよ!おのれよくも……シルーハを呼び込み帝都から軍を遠ざけたなっ!これが狙いか!」
恫喝するルシーリウス卿にいささかも怯まず、長老が怒声を張り上げる。
正に長老の言うその通りの意図であったことから、ルシーリウス卿はこれを無視することに決めて組合の者達に指示を出した。
「……貴族以外は連れ出せ、抵抗するようなら痛め付けても構わんぞ」
「貴様あっ!」
「五月蠅いっ、黙れ議長!お前も出て行け!!……恐れながら皇帝陛下には話がある、それ以外の者は全て排除しろ」
元老院議員が貴族派貴族と少数の市民派貴族だけになった。
軍閥出身の議員はその全てが戦場に向かったために居ない。
官吏達は、ルシーリウスの手の者によって採決の場である議場から追い出され、控え室へと押し込まれた。
その議場の様子を見て、ルシーリウス卿が会心の笑みを漏らし両手大きく広げて言う。
「これがあるべき元老院、貴族による正しい政治を行う元老院の姿だ!」
その言葉に貴族派貴族の議員達が一斉に立ち上がり盛大な拍手で讃えた。
しばらく拍手を浴びた後、ルシーリウス卿は手を広げたまま徐に拍手も起立もしなかった市民派貴族に向き直る。
「で……諸兄らは私の意見に賛同出来んかね?」
「……賛同致しかねる」
1人の議員がゆっくり立ち上がって言った。
「おぅやあ?クィンキナトゥス卿……父親の議長共々退出したいのかな?」
「退出かね?それぐらいならしても構わんよ、ルシーリウス卿。このような意味の無い空虚なおしゃべりを延々聞かされるのなら、採決の際に議場に居ないという議員として考えられない不名誉も敢えて受けよう」
堂々と言い放ったクィンキナトゥス卿に、ルシーリウス卿は芝居がかった様子で答える。
「残念だ……君たちは市民派貴族とは言え歴とした帝国貴族。話し合えばきっと分かって貰えると思ったのだが……実に残念だよ」
市民派貴族とは帝国建国時に存在した帝国市民発祥の貴族で、家系的には貴族派貴族より古い家も存在する、由緒正しき帝国市民である。
元は確固たる勢力を持った貴族の一派であったが、次第に貴族派貴族に押されて勢力を失い、今は少数派として細々生き延びている派閥である。
最近は貴族派貴族に迎合し、何とか生き延びている形であったが、クィンキナトゥス卿が旗頭となった50年ほど前からは一時活発に活動していた。
しかしマグヌス帝即位以降は鳴りを潜め、父親であるクィンキナトゥス卿が長年議長を務めた他はこれと言った事績も残せてはいない。
それがここへ来て貴族派貴族に反抗したのである。
ルシーリウス卿としては貴族達の代表という形をどうしても取りたい為、説得しようと敢えて議場に残したのであるが、彼らはその厚意も踏みにじり、市民派貴族は元老院議員最大の不名誉である議場退場も辞さないと言い切ったのだ。
「では、失礼しようか諸君。皇帝陛下、申し訳ありませんが……」
「よい、気にするな……私も退出したいほどだが最後の矜持がそれを邪魔する、すまぬが後は頼んだ」
自分へ丁寧な挨拶をするクィンキナトゥス卿に、マグヌスは微笑を向ける。
「そう言えば子息殿はどうした?姿が見えぬな」
「あ奴は不名誉をおかし、故あって遠くへ行っております」
「ふん?そうか、遠くへな……分かった、くれぐれも後は頼む」
市民派貴族が自主的に議場から退出する姿を苦々しげに見送っていたルシーリウス卿は、ふっと鼻で笑うとマグヌスへと再度向き直った。
「くっ、まあ良い、少数派の市民派などの協力が無くとも影響は無い……皇帝陛下!」
「まだ私を皇帝と呼ぶのか?」
皮肉げに、そして力なく言うマグヌスを見て口角を上げると、ルシーリウス卿は言葉を継ぐ。
「ええ、まだ呼びますとも。では早速だが譲位して頂きたい。無論南方作戦失敗の責任を取ってという形ですが……そうですな、取り敢えずは先程の議会でタルニウス卿が提案したグラティウス大公へ皇帝位を譲って頂きましょうか」
「断れば如何するのか?」
マグヌスが面白がるような様子で言うと、ルシーリウス卿は顔を引きつらせた。
「この期に及んで何を……断るですと?その様なことは出来ないはずです。良いですか、あなたは皇帝位を譲るんだ……拒否は絶対に許しませんぞ」
元老院、控え室
議場からそれ程離れていない、元老院議員の控え室に押し込まれた中央官吏派の議員と元老院議長が、扉の開く音に振り返ると、そこには市民派貴族の面々が立っていた。
入り口に見張りとして付いている闇の組合員も、自ら部屋へ入ろうとする市民派貴族達に若干の戸惑いを持ったようで、扉をぎこちなく開けている。
「おお、大事なかったか。皇帝陛下は如何された?」
「……最後の矜持を守られました」
控え室にやって来たクィンキナトゥス卿を迎えた元老院議長ことクィンキナトゥス老は、息子の言葉を聞いて大きなため息をついた。
「そうか、仕方ないか……」
ため息の後下を向きなにやら考えている風の父を見たクィンキナトゥス卿は、しばらくしてから父である議長へ徐に声を掛ける。
「それで、どうしますか父上?」
その言葉を聞いて、議長はようやく顔を上げると、息子へゆっくり語りかけた。
「おう、それよ。カッシウス殿とも相談して考えたのだが、ここでもう一つの元老院を立ち上げようと思うのだ」
「もう一つの元老院?なんですかそれは」
クィンキナトゥス卿が見るとカッシウスも頷いている。
そしてはっきりと言葉を発するカッシウス。
「貴族派貴族のものとは異なる元老院です。この場所で新たな元老院を立ち上げるのです……幸いにして議員はここにたくさんおります。これだけの人数が居れば何ら問題ありませんでしょう。元老院とは私たちなのですから」
「わははは、違いない!元老院議場は議場であって元老院では無い、元老院とはすなわち我等議員そのものの集合のことだからな。正に言い得て妙だ」
カッシウスの言葉を豪快に笑いつつ補足し、議長は息子をどうだと言わんばかりの顔で見返す。
その顔を見たクィンキナトゥス卿の顔にも自然と笑みが上った。
そうだ、何も議場に拘る必要は無いのである。
元老院議員が集まれば、そこが元老院なのだ。
「いや、なるほど……それは面白そうですね。では……?」
息子の言葉に笑みを深くした議長。
まるで悪戯を思いつき、そしてその悪戯が必ず成功すると確信している悪戯小僧のような笑みである。
「おうよ、まずは辺境護民官殿に越境権限を付与しようぞ。幸いにも元老院議員でもある我が孫が彼の者の近くにおる、我等元老院の承認のを得たという証明としてこれ以上の者は居るまい。如何かな?」
「無理矢理行かせたくせによく言います。尤もあ奴もまんざらでは無かったのでしょうが」
心底愉しそうな父親の声に、苦笑しつつ言うクィンキナトゥス卿に、カッシウスが問い掛けた。
「孫というのは小クィンキナトゥス卿の事ですか?」
「そうです、我が親父が北を見てこいと自分の孫を……元老院議員でもあるグナエウスをシレンティウムへ送り込んだのです。まあ、本人は喜んでいるようでもありましたが、今はシレンティウムで土地を給付されて農業をやっていると便りが来ました」
「何と、シレンティウムに?」
カッシウスが驚きの声を上げる。
元来市民派貴族は貴族派貴族のように領地を持っていない。
市井にて生業を持っている者がほとんどで、農業を始めとする労働を厭わないのだ。
身分は貴族であっても市民と同じ生活をする者達こそが、市民派貴族であり、発祥を忘れないために領地授与を辞退したという名誉ある歴史を誇っているのである。
実際、クィンキナトゥス家は農業が生業であった。
領地経営とは異なり実際に作物を植え、育て、収穫する農業そのものを行って糧を得ており、人を雇って大規模農園の経営を行っているものの自らも鍬や鎌を持つクィンキナトゥスの男達。
それが市民派貴族の生き方でもある。
最近は失われて久しいが、元来市民派貴族は平時は市井に、戦時は軍に、余裕があれば政務に励めというのが信条。
最近は貴族派貴族の横暴に嫌気が差して、議員として出仕している者も今ここに居るだけと政治的には非常に勢力を落としてはいるが、帝都には未だたくさんの市民派貴族達が居住している。
「退役兵とは別に市民派貴族達にも私たちが呼びかけましょう。“戦時は軍に”今こそ果たすべき時です」
息子の言葉を満足そうな笑顔で聞きながら、議長が口を開いた。
「では、辺境護民官殿に一時的な越境権限を与える案、賛成の者」
「賛成致します」
「私も」
「もちろん賛成です」
次々に賛意を示す議員達。
全員が賛意を示したことを確認すると、議長であるクィンキナトゥス老が決を取る。
「賛成多数で可決じゃ!では、グナエウスめに至急知らせを……といってもどうするか?伝送石が置いてあるのはこの部屋では無い」
首を捻る議長にカッシウスが口を開いた。
「この控え室には伝声管が厨房まで繋がっていますし、料理人達は信用出来ます」
「ほう、しかし厨房か、なるほどそこなら制圧もされてはおるまいが、万が一ということもある」
元老院議場では控え室で元老院議員や皇族、貴族に食事や飲み物を提供する事がある。
腕前もさることながら、どの派閥の者にも属さない皇帝に忠実な者が一応雇われている。
しかし、間者が紛れ込んでいないとは限らないし、制圧されてしまっていたり見張られていては元も子もない。
「ではこうしましょう。古典的ではありますが……」
クィンキナトゥス卿の提案に全員が唸った。
「今考えられる最善はそれしかありませんか。幸い部屋の中に入って監視している組合員は居ない」
「では?」
「うむ、良いだろう」
「どうも、元老院厨房です~」
「なっ何だ貴様ら?」
突如現れた調理人達に面食らう組合員達であったが、すぐに気を取り直して誰何の声を上げる。
「何だ、何の用件だ!」
「はあ、元老院厨房です。元老院議員の皆様の依頼でパンを持って参りました」
調理人頭の若い女が小首を傾げながら答えると、組合員の顔が険しくなる。
「どうやって注文したんだ?」
「え、元老院にはどこでも伝声管がありますが…」
さも当然と言った風情で答える調理人頭に、組合員の顔が一層険しくなった。
「……ふん、なるほど、伝声管ねえ。おいお前、そこのお前だ。ちょっと行って工具を取ってこい、伝声管を取り外すんだ」
「はい」
組合員は部下の1人を走らせてから、調理人頭に向き直った。
怯む調理人頭を余所に憎々しげにつぶやく組合員。
「しかし……人質の分際で生意気な奴らだ。元老院議員ともなればさすが図太いな、まあ、いいだろう、中を見せろ」
「はいどうぞ」
調理人頭達が差し出したパンの入った籠を検める組合員達はその良い香りに鼻をくすぐられて表情が緩む。
「ふん……普通のパンか」
「はい~」
組合員はそう言いつつ籠を眺め回し、それぞれの籠から数個ずつパンを取り上げた。
「あっ?」
「文句は無いだろう」
「は、はい」
悲鳴を上げた調理人頭を恫喝し、組合員は更に怯んだ彼女を見ていやらしい笑みを浮かべた。
「いいぞ、入れ」
恐る恐る部屋へと入った元老院厨房の面々は、顔なじみである元老院議長の顔を見てようやくほっと一息ついた。
「待っとったぞ、ではこちらへ来るのだ」
しかし議長はせわしなく調理人頭を手招きすると、調理人頭の差し出したパンの籠には見向きもせず、後について来ていた調理人達に服を脱ぐよう指示を出す。
「あ、あの……パンは?」
「あとだ、先に服を替えろ」
「は、はいっ?えっ?なんですこれ?この事態はもしや……?」
戸惑う調理人達を余所に、元老院議員の内、やって来た調理人達に背格好の似た物達が選び出されて服を交換してゆく。
「奴らと話したのは誰か?」
「わ、私ですが……」
調理人頭が答えると、何時も豪放な議長らしからぬ小声で囁いてきた。
「お主は戻って貰う、後の者は服を交換したな、では行けっ」
「あのひょっとして……?」
「そうだ、脱出を手伝って貰う」
「ええっ!」
「お、お邪魔しました~」
恐る恐る空の籠を持って部屋から出てきた調理人頭に、組合員が無愛想に声を掛けた。
「……おい」
「ひいえっ」
飛び上がる料理人頭の様子に眉を顰めはしたものの、それ以上の反応は示さず組合員が言葉を発する。
「後で俺たちのパンも持ってこい」
「は、はいっ」
ほっと胸をなで下ろした料理人頭に、別の組合員からも声が飛んだ。
「なるべく早めに持ってこい」
「わ、分かりました~」
調理人頭を先頭に元老院議場の廊下を急ぐクィンキナトゥス卿ら元老院の面々は何時もの楕円長衣では無く簡素な料理人用の貫頭衣に白いエプロンを着け、空の籠を手に、調理帽を深く被っている。
途中、伝送石を解体か破壊かする為だろう、工具を持った組合員と行き違ったが、特に誰何されることも無く、一同はほっと小さなため息を吐く。
「伝送石通信室はこの向こう側だが……」
「いや、いきなり行っても見張りに怪しまれる、伝送石は当然抑えてあるだろうからな…ただし西方郵便協会のことだから監視は許しても制圧はされていないはず。伝送石通信室へもパンを持っていこう」
いきなり伝送石通信室へ向かおうとする議員の1人を制止し、クィンキナトゥス卿はそう言うと、調理人頭に再び声を掛けた。
「すまんが頼むぞ」
「またですか~はあ……怖いです~」
一旦厨房へ戻り、新しいパンを籠へ補充した調理人頭とクィンキナトゥス卿らは、伝送石のある西方郵便協会元老院分室へと向かった。
「げ、元老院厨房です~パンをお届けに参りました~」
「おい、何だ貴様ら」
「あ、あの、あの、元老院厨房です~」
「だから何だ?」
組合員から凄まれ、半泣きになる調理人頭は、それでも何とかパンの籠を差し出しつつ説明を試みる。
「ええと、その……西方郵便協会の皆様から依頼を受けまして~」
「………」
「あぁん」
籠を覗き込み、ひょいとパンを持っていく組合員に、調理人頭が悲鳴じみた声を上げるが、ぎろり一睨みされて慌てて下を向いて黙りこむ。
そうして下を向いている調理人頭の頭の上からもぐもぐとパンを食べる音と共に、声が降ってきた。
「……普通のパンか、入っていいぞ」
「は、はい~」
慌ててクィンキナトゥスらを連れて西方郵便協会の管轄している伝送石通信室へと入った調理人頭は空元気を出して声を掛ける。
「元老院厨房です~パンをお届けに参りました~」
軟禁されていたはずが、突如現れた元老院厨房の面々に驚く四方郵便協会元老院分室の協会員達は、がたがたと思わず席から立ち上がって問い掛けた。
「な、何だ何だ?いきなり何言ってるんだ?」
「頼んでないぞ?」
「一体何事だい?」
色々ありすぎて涙目の調理人頭の両肩を持って後ろへと下げると、目深く被っていた帽子を取り、クィンキナトゥス卿がエプロンの下から元老院議長の署名がある公式な書式で書かれた書類を取り出し口を開く。
「話は後だ、この元老院文書をシレンティウムへ送ってくれ」
「クィンキナトゥス卿?」
その顔を見た協会員がちらりと外を見た後、少し考えてから答えた。
クィンキナトゥス卿が差し出した書類は書式こそ整ってはいるが、どう見てもテーブルクロスを切り取った物。
今自分達が理由も告げられず軟禁状態にある事と関わりがあるのだろう。
「なるほど、了解しました。本来であれば政治不介入の我々ですが、手紙の伝送石通信と言うことであればお受け致します。コロニア・メリディエト経由になりますので、時間が掛かることはご承知おき下さい」
「無論承知している」
協会員に書類を手渡しながら、クィンキナトゥス卿は笑顔で答えるのだった。
元老院議場
譲位を迫るルシーリウス卿にマグヌスは徐に口を開いた。
「皇帝位は副皇帝ユリアヌスに譲る」
「なっ!?」
「聞こえぬか?ならばもう一度言おう、皇帝位は副皇帝ユリアヌスに譲る」
「……人の話を聞いておられないのか?私はグラティウス大公へと…」
マグヌスのきっぱりした言葉に、顔を赤く怒らせつつルシーリウス卿がその怒りを押し殺して話しかけるが、マグヌスが再び口にした言葉はその意に反していた。
「帝位はユリアヌスに譲る」
「ぐっ、この……!」
「ユリアヌスに譲る!」
「こ、皇帝陛下は乱心された!故に執務室で保護差し上げよ!」
堪りかねたルシーリウス卿の命令でたちまち恐れを知らない闇の組合員達が皇帝であるマグヌスを乱暴に立たせた。
「次期皇帝はユリアヌスである!」
「うぬっ」
元老院議場からもう一度、マグヌスが念を押すかのように強い口調で言うと、ルシーリウス卿は顔をしかめてうなり声を上げる。
マグヌスが退出してしまった元老院議場で、ルシーリウス卿は腹立たしさを押さえるかのように矢継ぎ早に議案を提出し、茶番劇を繰り返すことにした。
皇帝がいなくとも政務官の役職については元老院で決めることが出来る為だ。
「では、まず今後の帝国の体制を形作ろうと思う。私ことルシーリウスを皇帝補佐に、タルニウス卿を執政官に、プルトゥス卿を財務官に、我が息子ヴァンデウスを総司令官に据えて体制を整える!賛同の者は拍手せよ!」
一斉に湧き起こる拍手による承認。
満足げなルシーリウス卿は、有り難うと礼を言いつつ次いで指示を出す。
「では、シルーハとの講和交渉を始めよう……帝国軍の現状を見るに講和以外に道は無い。領土は奪われても取り戻せるが、今シルーハに対抗出来る術が無いのは明白だ。このままでは帝都が戦火に見舞われてしまう!私たちは帝都を戦火から守らなければいけない!おそらく、シルーハの望みは交易路の確保、ポゥトルス・リーメスとコロニア・リーメシア及びリーメシア州を割譲することになろうかと思うが今は耐える他無い、しかしいずれは取り戻す!!」
シルーハとに事前交渉でリーメシア州の割譲は含まれており、それを知っているが故の白々しい台詞ではあったが、帝都市民や軍閥への言い訳としては一応筋が通る。
そもそも動かそうにも軍が無いのだ。
南方戦線の収拾には今しばらく時間が掛かる上に海上の軍をすぐに呼び戻すことも出来ない。
マグヌスの指示した通り退役兵の招集以外に急遽確保出来る兵は帝国に無く、後は西方諸国や北の蛮族から傭兵を呼ぶ程度。
しかし西方諸国は遠く、北の蛮族は辺境護民官が押さえてしまった。
貴族派貴族の領地に私兵は多数いるが、帝都に近い領土を持つ私兵は既に帝都を押さえるのに招集してしまっており、シルーハにぶつける軍は存在しない。
南方戦線で軍を拘束するよう頼みはしたが、あそこまで完膚無きまでに叩かれるとは想定しておらず、シルーハの動向に一抹の不安もあるものの今は規定方針通りにシルーハと交渉する他無い。
ルシーリウス卿は使節団を派遣すべく人員の選定を行いつつ、今後の展望を考えるのであった。