第16話 立ち上がるシレンティウム
敗戦から2月が経ち、シレンティウムは少しずつではあるがその力と活気を取り戻しつつあった。
シレンティウムに関わった人々は、周囲の情勢を見て思う。
この場所が無くなってしまえばまた元の場所へ戻る他無いが、結局シレンティウム以外に住み良い場所など存在しないのだと。
かれらは全員がこのシレンティウムで解放された。
農民として、兵士として、差別の無い社会で暮す民として、真の自由を得た市民として解放されたのである。
それが失われればどうなるか。
彼らの元の姿はそれ程良いものでは無い。
族民達は、穀潰しと呼ばれてこき使われる無産農民や宛の無い自由戦士。
西方帝国にいた族民達は、差別と偏見の社会の底辺に住み暮す蛮人。
帝国人は貴族の重圧が常にのし掛り、自由が有るようで無い西方帝国市民。
結局逃げ出した所で何も変わらない、変わる為にはこの場所、シレンティウムを守る他無く、それを守るには逃げるのでは無く、シレンティウムに対する尽力と郷土愛をもってもり立てていかなければならないのだ。
それに気付いた市民達は避難と非難を止めて与えられた家や土地へと戻り、働き、生活を再開することを選択したのである。
しかしそれは苦難の道でもあった。
薬事院、診察室
「……うむ、視界が随分と狭まるな」
「片眼がないのじゃ、仕方ないわい」
診察を受けながら当たり前のことを改めて口にするアダマンティウスに、アエノバルブスは呆れたように言葉を返す。
その言葉が面白かったのか、アダマンティウスは朗らかに言った。
「ははは、如何にも」
「……年も年じゃ、余り無理はしない事だの」
「心得た……が、まあ余命尽きるまで無理はするつもりなので、よろしく頼む」
包帯を結び終えたアエノバルブスが少し渋い声で言うと、アダマンティウスも神妙に、しかし少し反抗的に言葉を返すのだった。
アスファリフとの戦いで善戦空しく敗北し、手ずから鍛え込み、苦楽を共にしてきた多数の兵士と右目を失ったアダマンティウスは早くも職場復帰を果たそうとしている。
復活したアルトリウスから見舞いを貰った際には、しばらく養生するように仰せつかったが、そうも言っていられない。
自分の不甲斐ない指揮で敗れ、武運拙く命を散らした兵士達が多数居る中で、のうのうと自分だけが怪我の養生をするという事態にアダマンティウスは耐えられなかったのだ。
年齢的な事情もあり、本来であればもうしばらくは安静にしていなければならないアダマンティウス。
しかし彼の自責の念と責任感がそれを自分に許さなかったのである。
「……まずは亡くなった兵士達の弔問状か」
ため息を吐き、悄然と背中を丸めて歩くアダマンティウス。
そこにかつて西方帝国随一の戦略家にして人格者と謳われた名将の姿はなく、ただ部下の喪失と敗戦に打ちのめされた老将の姿だけがあった。
行政庁舎、軍団執務室
軍関係者の為に用意された執務室で、アダマンティウスが黙々と弔問状を書いていると、ひょっこり楓が現れた。
「あ、いた。アダマンティウスさんっ」
「ん?おおカエデ殿か、何かご用か?」
とことこと自分に近づいてくる楓を、まるで孫を見るような目つきで迎えるアダマンティウス。
楓が嬉しそうにニコニコと笑顔でいるので、今までの暗い雰囲気が嘘のようにアダマンティウスの心が晴れやかな物になる。
その楓はアダマンティウスの執務机の前にまでやって来ると、少し神妙な面持ちで言った。
「目、だいじょぶ?」
「ううむ、流石になくなってしまったので大丈夫とは言えんが、まあ大事はない」
「そう……これ、良かったらどうかな?」
「これは?」
言いつつ楓が差し出したのは、群島嶼の刀や太刀に使われる黒金製の鍔であった。
筆を走らせていた手を止め、楓とその手にある鍔を見比べながら戸惑った声を出すアダマンティウスに、楓が言葉を継ぐ。
「……ボクの故郷にね、やっぱり戦に敗れて片眼を失った大氏がいたんだけど、その大氏は敗戦の理由を忘れないように、そして失った剣士や兵士の志を忘れないように、敢えて余り肌や傷にあまり良くない鉄の鍔を使って眼帯を作ったんだって」
「ほう……」
「戦場を忘れないって意味もあったらしいけど……最後は自分の目を奪った敵を倒して復仇を果たしたんだ」
その言葉でアダマンティウスは残った左目を軽く見開いた。
これは激励か、若しくは験担ぎであろう。
群島嶼にも自分と同じように、一度は敗北と屈辱にまみれた将がいたらしい。
しかし最後は見事仇を討ち、名誉を回復した。
アダマンティウスは歴史とは何とも数奇な物だなと感心して言葉を発する。
「ううむ、良き話ですな、流石武勇の誉れを大事にする群島嶼の名大氏らしい逸話……」
「鉄の冷たさが自分を律したって、言ったらしいよ?だからアダマンティウスさんも」
そう言いつつ楓は群島嶼製の紺色に染められた組紐を併せた鍔をアダマンティウスへと差し出した。
流石辺境護民官殿の妹御を自認するお方だけ有る。
優しさの中にも巧みに厳しさを織り交ぜてくるものだなと感心し、またこの様な年若い女性に自らを律することを求められたと少し憂鬱になってしまったアダマンティウスだったが、差し出された鍔を敬意を持って押し頂く。
そしてその手触りに左の片眉を上げた。
「うむ?これ……は布が裏打ちされている?」
「だって!本当に傷に響いたらダメじゃん!」
恥ずかしそうに言う楓を呆気に取られて見るアダマンティウス。
訂正しよう。
アダマンティウスは照れくさそうにそっぽを向く楓を見て思った。
彼女には優しさと気遣いだけがあったのだ、と。
居酒屋「北方辺境」
一時に比べれば客は減ったが、それと言うのも別にシレンティウム市内から人が減ってしまったわけでは無く、酒を飲んでいる場合では無いとシレンティウム市民が珍しく深刻に考えているからであるためだ。
この非常事態に酒を出す店というのは辛いものがある。
生活の為には店を開かなければならず、店を開いたからには客に来て貰いたいのだが、このご時世では余り派手に呼び込みや勧誘をするのも憚られるし、酔客に暴れられても困る。
それでも他の店に比べれば客は入っている方だろう。
親父はそう思ってしばらくは我慢しなきゃなと諦めていた。
しかし、今日は様相が違う。
何故か客の入りが一気に増えたのだ。
「親父さん、すまねえが麦酒を3つ頼む」
「はいよ!突出しは茹で豆で良いかい?」
「ああ、頼むよ」
「おう、こっちには葡萄酒のお代りを頼むぜ!」
「はいよ!」
「親父さん、この美味しい猪肉の揚げ物もう一つ下さい」
「分かりました、ちょっと時間くれるかい?」
「は~い」
「なんだってんだ今日は?」
「さあ……」
一旦厨房へ戻ったオヤジが首を傾げてクリフォナム人の美人妻に尋ねるが、妻の方も訳が分からないままてんやわんやの忙しさで、要領を得ない。
「はいよ、麦酒3つ」
「おう、ありがとよっ」
「お客さん、ちょいと悪いが今日はどうしてまた呑みに来たんだい?」
親父は常連客の所へ注文された酒を持っていくついでに聞いてみることにした。
「あん……ああ、みんなそろそろ吹っ切れたみたいだぜ?」
クリフォナムやオランの族民は、基本的に過去のことを余り気にしない質である。
それが今回は良い方向に働いたのだろう。
「ああ、くよくよ悩んでても負けた事実が変わるわけじゃねえしよ」
「そうそう、それならシレンティウムと辺境護民官様を応援して、おれっちが普段の仕事を頑張って、貢献すれば良いのよ」
「大変なのは承知の上さ、俺は前の籠城戦も経験してるし、まあそうなったらそうなったで頑張るだけさ」
親父の問いに次々と答える常連客達。
要は敗戦気分で何時までも沈んでいられないと言うことであろう。
確かにシレンティウムは負けたが、滅びたわけでは無いのだ。
親父がうんうんと頷いていると、常連客達は調子に乗って色々と話し始める。
「それによ、ここから逃げたって他に行く所なんてねえよ」
「おれっちなんか、農家の五男だぜ?村にいても土地だって貰えねえし、シレンティウムへ来てようやく土地持ち農民になれたんだ」
「帝国へ行っても手酷く扱われるしなあ、こんな良い所は他に無いんだよ」
最後の若者はしみじみと語りながら、麦酒の入った木杯を呷る。
「みんなここから離れられなくなっちまったって事か?まあ俺もそうだが……」
「そりゃそうだろ?ないヨ他にこんな良い所」
「せっかく手に入れた真っ当な暮らしを、棄てられないぜ」
「恩を仇で返すような真似もしたくないしな~」
親父のしみじみと発した言葉に、常連客もしみじみ頷くのだった。
シレンティウム行政庁舎前
「失った信頼は回復しなきゃならん」
『全くであるな』
「被った汚名は返上しなきゃならん」
『是非返上するが良いのである』
「再び名誉ある治安官吏たるには、治安回復を果たす他に手段はねえ」
『如何にもその通りである』
いつになく真面目に言うルキウスの横で腕組みをして頷きながら言うアルトリウス。
革鎧に鉄兜を被り、棒杖を手に完全武装で居並んだ治安官吏達は、その光景に戸惑い、あるいは可笑しさを堪えて妙な顔付きではあったが一応神妙にしている。
「……顧問官殿、茶茶を入れないでくれませんかねえ?」
とうとうその雰囲気に堪りかねてルキウスが横を向いて言うと、アルトリウスは片眉を上げて言いった。
『茶茶とは失礼であるな、我はその通りであると思うからこそ発言しているのである』
「それを茶茶と言うんですが……」
間諜や無頼共があちこちから入り込み、悪化してしまったシレンティウムの治安。
その源を一掃し、平和で安心な都市シレンティウムを復活させるべく、アルトリウスの助力を得て治安庁はこれから一斉摘発に乗り出すのである。
その事前の訓示と指示、この最中に早くも乱入してきたアルトリウスは、いつになく真面目な顔で訓示を垂れているルキウスを鼻で笑った後に言い放った。
『ああ~ん、聞こえんなあ?治安維持に失敗した治安長官など道ばたの石ころ程にも価値が無い者の言葉は聞こえんであるなあ?』
「ぬぐっ!」
言葉に詰まってたじろぐルキウスを壇上から手を振ってどかし、アルトリウスは治安官吏達に大声を叩き付けた。
『今は行動あるのみである!行動とその結果だけが信頼を回復させうるのである!行け!シレンティウムに巣喰う無頼共を叩き出せい!!』
うおう!!
アルトリウスの檄に触発された治安官吏達が一斉に応じ、素早く身を翻した。
唖然とするルキウスを振り返り、アルトリウスは意地悪い笑みを浮かべて口を開く。
『これから出動と言う時にぐだぐだ講釈を垂れているのでは無いわ、士気が下がる』
「……ああ~そう言えば何時も所長の訓示ってうざかったよなあ」
その言葉に思い当たる節があったのか、ルキウスが顔を顰めて答えると、アルトリウスは頷いた。
『そういう事である。分かっておるではないか、次は気を付けよ?』
「分かりましたよ……」
アルトリウスの忠告に、渋々応じるルキウスだった。
按察庁執務室
書類が山のように置かれた按察長官執務机で、タルペイウスは一心不乱にフレーディアの図面を描いていた。
タルペイウスの耳は今だ包帯で覆われており、その耳殻は失われている。
少し聞き取り辛くなったが、支障は無いと言いきって公務に復帰しているのだが、その姿には鬼気迫るものがあった。
「うっし!これで良い!」
描き上げた図面を満足げに眺め、タルペイウスはペンを置く。
「長官……お疲れ様でした」
按察官吏がお茶を持って声を掛けるが、聞こえないようでタルペイウスはどっかりと椅子に腰を落ち着けると、つぶやくように言った。
「……これでベルガンとの約束を果たせるってもんだ……おお?」
つぶやき終わった所で、傍らに立つ按察官吏を発見して驚くタルペイウス。
「長官、お疲れ様でした」
「おお、すまねえな」
按察官吏から改めて言葉をかけられ、照れたように頭を掻きながら茶碗を受け取る。
「これは……フレーディアの都市改良事業計画ですか?」
「おう、半ばで放棄を余儀なくされちまったからな。まあ仕切り直しだ。聞けばダンフォードの馬鹿王子は街を壊しにかかってやがるそうだからなあ……畜生」
悔しそうに言うとタルペイウスはフレーディアのある北の方角を何となく見る。
ベルガンと二人三脚で為した成果を否定されるどころか破壊されてしまっていると聞いて、居ても立っても居られなくなったタルペイウス。
直ぐに再計画を策定し、この図面の作成に取りかかったのだ。
「後は辺境護民官殿にお願いして、一刻も早くフレーディアを奪回してもらわにゃな、まだ技師達も捕まっているんだ……」
「長官……」
タルペイウスは自分の無い耳を触りつつ言う。
一気に飲み干した茶碗を受け取り官吏が痛ましそうにその姿を見るものの、気にした様子もなくタルペイウスは朗らかに言い放った。
「大丈夫だ、みんな元兵士でしぶといヤツばかりだからな!きっと生きてるぜ」
シレンティウム、行政庁舎、ハルの執務室
ハルとシッティウスに呼び出されたベレフェス族のテオシスに、シオネウス族長ヘリオネル、更には戸籍長官のドレシネス老に第23軍団軍団長ベリウス。
いずれもシレンティウムにおけるオラン人の有力者であるこの面々を前にハルが淡々と口を開いた。
「呼び出したのは他でもありません……シレンティウムの勢力減退の補完を近隣のオラン人取込みで為し遂げたいと思いまして、その前に意見を伺いたいんです」
「……それは一部の部族を早めにシレンティウム同盟に組み込むと言うことか?」
すかさず尋ねるヘリオネルに頷くハル。
「こちらの都合で参加を一度拒否していながらこの様な決定は虫が良すぎるかも知れませんが、現状クリフォナム人に対する勢力拡大は南部諸族に留まっています」
「残念ながらエレール川沿いの部族、クリフォナムの北部諸族の内西側はシレンティウムに好意を示してはいるものの、隣接するフリンク族やダンフォード派フリード族に遠慮して同盟参加にまでは到っておりませんな」
シッティウスが説明を補完すると、ベリウスが頷いた。
「……ハレミア人の脅威が一時的なりともシレンティウムの活躍で薄れた今、内輪揉めの時間と力が出来たという訳だ」
またもや頷くハル。
シレンティウム同盟に参加するか否か、またダンフォード派に対する態度を如何にするかでクリフォナム北部諸族の各部族内で内訌が起こっているのだ。
ダンフォード派に敗れて勢力を減じさせたシレンティウムには、各部族の親シレンティウム派を援助する余裕が無く、今の所手を拱いている状態である。
「シレンティウムに近いオランの部族と言いますと……ファズ族、ラクフェス族、ユレール族、エレール河畔ですとノエミ族、ケール族あたりですかのう?」
「パレーイ族は如何ですかな?エレール川の中流流域西岸に拠点がありますが?」
ドレシネスの言葉にシッティウスが尋ねると、テオシスが顔を顰めて答えた。
「パレーイ族は島のオラン人との繋がりが深くオランの族長会議に参加していません。近隣部族からも乱暴者として嫌われているので、余り良い同盟相手では無いと思います」
「……使者は一応送りましょう。その反応を見てから決めても遅くは無いと思います」
ハルが言葉を発すると、その場の全員が頷いた。
「しかし、あらかじめクリッスウラウィヌス殿に話しを通す必要があるでしょうな」
「そうですのう、オラン族長会議には使者を立てるが宜しいでしょうのう」
シッティウスの言葉にドレシネスが賛意を示し、ヘリオネルが肩をすくめて言う。
「部族の者達は大いに喜ぶでしょうがね」
薬事院、入院室
目覚めは唐突だった。
いきなり視界が開け、目映いばかりの光が目に飛び込む。
少しして目が慣れてきたが、未だ首を動かすことすら儘ならず、目の動く範囲で周囲を見回した。
同時に薬草の臭いや消毒用の酒精臭が鼻に届き、見慣れた部屋である事が知れる。
「……ここは……薬事院?私は……助かったのですか?」
つぶやくが返事はない。
更に時が経ち、身体の動作が自分の意識下に戻って来たことを感じつつエルレイシアがふと寝息のする方向を見れば、自分の寝台に突っ伏して眠る、もう2度と会うことが叶わないと思っていた良人の姿があった。
「……ハル」
声を掛けてからはっとして自分の身体を見るが、腹部に手を当て確かな命の脈動を感じて安堵すると同時に一気に両目から熱い涙が溢れ出した。
しばらく涙を流れるままに任せていたエルレイシア。
力が十分入らない腕を振わせながら精一杯伸ばし、その身体に触れると僅かに身じろぎした後ハルが目覚める。
「あ……エル、おはよう」
「ううっ」
普段通りの挨拶に笑顔に再び涙が溢れかえる。
自分の手をしっかり握り返してくるハルのその姿は少し憔悴しているようにも見えたが、自分が望んで止まなかったものがそこにある。
感極まってエルレイシアはハルが身体を起こそうとしている途中にも関わらず、強くその手を引いた。
「うえあ?」
エルレイシアの手を巻き込まないようにと庇った為、背中から転げ落ちて間抜けな声を出すハル。
しばらくうう~と涙目で唸っていたが、ハルはよろよろと立ち上あがると寝台に肘を付けてエルレイシアの顔を覗き込んだ。
「遅くなってごめん、ただいま」
「……お、お帰りなさいハルっううう~~」
そのままハルの首っ玉にかじりつくエルレイシア。
「なんなんじゃい?」
「何事でござりまするかっ!?」
声と大きな物音を聞いてアエノバルブスと鈴春茗を先頭に薬事院の薬師達が慌てて駆け込んでくる。
そしてハルにかじりついているエルレイシアを見て驚き、しばらくして安堵のため息をついた。
ハルは何時までもその背中を優しくなで続けたのであった。
エルレイシアが目を覚ましたと聞き、アルスハレアを筆頭に次々と見舞客が訪れるが、未だ体調は万全出ないという理由でそのほとんどを鈴春茗が追い帰した。
そして一方のエルレイシアであるが……
「エル、そろそろ……」
「いやですっ」
ちょっと切羽詰まった感じのあるハルと押し問答を繰り広げていた。
目が覚めてしばらくして落ち着いたエルレイシアだったが、それでもハルの身体を手離さないのである。
とにかく、手や指、服のどこかを必ず掴んで自分の側から放さないのだ。
「エル、大丈夫だから、何所にも行かないよ」
「いやです~行かないで下さいっ」
「いや、ちょっと……それはむりだって」
「いやあんっ!」
ハルが強引に立ち上がると、エルレイシアが悲鳴を上げた。
「どうしたので御座いまするかあ!?」
慌てて鈴春茗が駆け込んでくるが、寝台から身を起こせないエルレイシアが必死に立ち上がろうとしているハルを捕まえている姿がそこにあった。
「……何をしていらっしゃるのでございますか?」
呆れた鈴春茗が問うと、エルレイシアが涙目で訴える。
「ハルがっ、ハルがどっか行っちゃいますっ」
「ち、違う違う、便所行きたいんだってエル、お願い放してっ!鈴さん助けてっ」
エルレイシアの言葉を慌ててハルが否定し、鈴春茗に助けを求める。
こちらはこちらで結構切実であるようだ。
「私を背負っていって下さいっ」
「む、無理だって~あ~漏れちゃうよっ」
身重で病み上がりのエルレイシア、しかも心細い思いをさせてしまったという負い目があるため、邪険に振り払うことも出来ず逆に今度はハルが悲鳴を上げる。
「……奥方様、失礼致しまする」
「いやあああんん!」
「り、鈴さん有り難う!」
鈴春茗が強引にエルレイシアの指をハルの服から外すと、ハルが脱兎のごとく駆け出して便所へと向うと同時に、再び悲鳴が上がった。
「ハルっ!」
「直ぐに戻られまするよ……」
さすがの鈴春茗も、無理ない事情があるとは言え度を超したエルレイシアの甘えっぷりに唖然とする思いであった。