第8話 西方帝国軍大敗
南方大陸、南方諸族領域、モースラ樹林
降りしきる大粒の雨。
立ちこめる靄。
濃い緑に彩られた木々が生い茂る熱帯樹林地帯。
そのうっそうたる樹林の中、鎧兜を身に着けた帝国兵が密集して戦列を組んでいた。
しかし、本来鈍色に光り輝く鎧兜はあちこちが錆びてはげが目立ち、帝国兵達の顔も疲労の色が濃い。
明らかに病気にかかっていると分かる程顔色の悪い兵士も戦列に混じっているが、全員が兜から顔へ流れ落ちる水を拭おうともせず、必死の形相で目の前の樹林を見つめていた。
しばらくすると、樹林の一部が激しく揺れる。
「構えろ!直ぐに敵が来るぞ!」
南方派遣軍臨時総司令官のフラウィウス・カトゥルスは降りしきる熱帯特有の粘着くような雨の中声を張り上げ、配下の軍団兵に注意を喚起した。
鳥のような甲高い喊声と共に、浅黒い肌に簡素な蔓や蔦で編んだ鎧を身に着け、石の槍を持ったゴーラ族の戦士団が次々と飛び出してきた。
「迎え撃て!」
カトゥルスの号令で帝国兵が投げ槍を次々と投擲する。
先頭のゴーラ戦士は鎧と同じく蔦で編んだ盾を構えて帝国兵の投げた槍を受け止めた。
重く鋭いはずの投げ槍は、帝国兵の鎧兜同様錆びて鋭利さを欠いており、簡素な盾を貫くことが出来ず、地に落ちる。
中には上手く身体へ当たって大怪我を負わせる物もあるが、大半の槍が役に立たずに地へと落ち、盾で受け止められたのだ。
「くそ、抜剣!」
投げ槍で敵の突入を阻止が出来ず、たちまち混戦に巻き込まれてしまい、帝国兵とゴーラ戦士の総力戦が始まった。
石ではあるが鋭さは何ら鉄の物とかわらない槍で胸を突き倒される帝国兵。
剣を腹に差し込まれ、絶叫するゴーラ戦士。
盾で殴り飛ばしたゴーラ戦士にとどめを刺そうとした帝国兵が別のゴーラ戦士に首を槍で突かれて倒れる。
血みどろの戦いが数刻間繰り広げられたが、次第に押される帝国兵達。
気候のせいか体力の消耗が酷く、南方大陸での長時間の戦いにおいては常に敗北を喫している帝国兵がじりじりと圧され始めたのだ。
しかし、この時はカトゥルスの指揮が冴えた。
「今だ!伏兵かかれっ!!」
帝国兵を押しまくっていたゴーラ戦士の両脇から、突如帝国兵が現れたのである。
鬨の声を上げ、左右から一斉に投げ槍を投擲すると、帝国兵は命中の有無を確かめるより早く帝国風の短い槍を構えてゴーラ戦士に突きかかった。
銀色の兜の上には周辺に生えている草が巻き付けられて鈍色の反射光を隠しており、鎧にはたっぷりと泥が塗りたくられていた。
思わぬ伏兵に慌てふためくまもなく、投げ槍を脇腹や側頭部に受けて次々と倒れるゴーラ戦士達。
生き残った戦士も正面から勢いを取り戻した帝国兵の攻撃と側面からの攻撃に晒されて討ち取られた。
逃げるゴーラ戦士の背中に向けて再度の投げ槍攻撃が行われ、風切り音も鋭くその身体を撃ち抜いてゆく。
最後のゴーラ戦士が帝国兵の剣で頭を切り飛ばされ、戦闘が終わった。
「よし、武器を回収!後退開始!」
カトゥルスの命令で、帝国兵は投げ槍を拾い集めると、潮が引くように一斉に北へと引き上げるのだった。
帝国軍は南方大陸で大敗北を喫した。
それというのも、総司令官であるスキピウスが自己顕示欲に駆られ、軍が揃うのを待ちきれずにしびれを切らし、開戦してしまったからである。
北の戦いで辺境護民官ハル・アキルシウスが40万の未知の蛮族であるハレミア人を打ち破ったのみならず、全滅させたとの戦勝報告が伝送石通信の整備されていない南方大陸に届いたのは数ヶ月前。
帝国は再度の大勝利に湧上がり、辺境護民官の盛名は帝国中に再度轟いた。
これに焦りを覚えたのか、スキピウスは早速作戦会議を実施し、未だ予定の半分程度の兵数しか集まっていないにも関わらず、準備不十分を主張するカトゥルスらを無視し、強引に開戦へと踏み切ってしまったのだ。
緒戦、近隣の小部族連合軍に帝国軍は正面からぶつかり、大勝した。
しかしその1月後の2戦目。
乾燥地帯を過ぎ、熱帯樹林地帯へ入って直ぐのモースラ樹林でゴーラ族を主力とする南方諸族連合軍の主力と衝突した帝国軍は壊滅的な敗北を喫したのである。
熱帯の高温多湿気候に帝国兵は適さず、体力を消耗し、病気にかかった。
また装備品も同じく気候に適さなかったようで、鉄やその他の金属で出来た剣や槍は直ぐに錆び付き、重兵器は故障したのである。
食糧はたちまち腐敗し、水は煮沸してようやく飲める程悪く、ただでさえ消耗している帝国兵の体力と士気を更に削った。
気候に適した装備を身に付け、身軽に攻め寄せる南方諸族に兵を削り落とされ、帝国軍はどんどん少なくなっていく。
最後には部族戦士の尻を駆使した挑発に怒り狂ったスキピウスはヒルティウスやカトゥルスの制止を振り切って森の奥深くへと入り込んだ。
そして突出してしまったスキピウスは、追跡態勢でまともな戦列も組めないまま、自軍の倍以上の南方諸族の戦士達に完全包囲され、情け容赦なく殲滅されたのである。
この結果、総司令官のスキピウスと第19軍団軍団長ウルソーに国境守備隊南方管区司令官マロー、第2軍団軍団長マキシムスは戦死し、第16軍団軍団長カルトーも混戦の中で行方が分からなくなった。
そして実に4万もの帝国軍団兵が討たれたのである。
残った将官は必死の防戦に努め、何とか体勢を立て直すことに成功したが、この戦闘で第17軍団軍団長ラベリウスと新設第102軍団軍団長ティティウスは大怪我をして後送されてしまった。
最後に残った高位将官は
副総司令官ヒルティウス
第18軍団軍団長シアグリウス
新設第101軍団軍団長カトゥルス
新設第103軍団軍団長スラ
の4名のみで兵力は約2万。
しかしヒルティウスはスキピウスに従って南方戦線を主導したにも関わらずこの戦いに対してあっさり失敗と見切りを付け、援軍を募るためと称して南方大陸をいち早く脱出してしまった。
最前線でゴーラ族の猛攻を兵士達と一緒になって防ぎ止めていた3人の軍団長が気付いた時には直轄の兵士2000を率いて西方へと脱出してしまった後で、3人は副総司令官の職務放棄に激怒し、そして兵士達は絶望したのだった。
カトゥルスは兵士を何とか鼓舞し、帰還の望みを持たせる事で士気を盛り上げると、嵩に掛かって攻めてきたゴーラ族の戦士団を2度討ち破って退ける。
その後血みどろの退却戦を開始したのだ。
残された3人の軍団長達の内、シアグリウスは防衛戦に長けた将官であり、翻ってスラは攻撃に優れた将官。
そしてカトゥルスは攻守バランスの取れた将官である。
ヒルティウス逃亡の後高位将官としての最先任はシアグリウスであったが、彼は自分達の能力や得意分野を勘案してカトゥルスを臨時の南方派遣軍総司令官に推し、スラもこれを承認したのでカトゥルスが敗残兵となった帝国軍団兵2万を率いる事になった。
カトゥルスは占領地を放棄することとし、残った兵士を再編して4個の臨時軍団にまとめると北への絶望的な退却戦を開始したのである。
「くそ、あの馬鹿総司令官がっ!ヒルティウスめっ!何が副総司令官だ臆病者が!」
止む気配の無い大粒の雨の中、吐き捨てるようにつぶやくカトゥルスは、忌々しくもこの事態に陥る全てが始まった時の事を思い出した。
3か月前、帝国領南方、ウティカ市
「なあっ!?何だとっ!辺境護民官が40万の蛮族を殲滅しただとうっっ!!」
都市参事会議場に木霊するのはスキピウスの怒声。
わんわんと何重にも響くその声を聞いた軍団長達は一様に耳の痛みを感じて顔をしかめる。
「詳しくっ話せっっ!!」
スキピウスが発した再度の怒声に、副官であるヒルティウスは報告文を読み上げるような口調で戦闘の顛末を説明した。
「……ハレミア人という極北の蛮族の一部40万余りが周辺部族を圧して南下したそうです。これを察知した辺境護民官ハル・アキルシウスが自身で結成したシレンティウム同盟の同盟部族軍と協力し、兵約5万で迎え撃ち、イネオン河畔の戦いでこの蛮族を完膚無きまでに叩きのめし、殲滅。その死体をエレール川へ流したそうです。死体は2週間掛けて海へ到達しましたが、死体の列は戦場であるイネオン川からオラニア海までずっと連なっていた程であったそうです」
「うぬぬぬぬぬっ…!!」
怒りと嫉妬で顔を真っ赤に染めたスキピウスは、がたりと椅子から立ち上がる。
「何故だっ!!何故奴が英雄になるのだっ!!しかも2度!!2度もだっ!!英雄は俺だっ!!俺のはずだあっ!!!」
軍団長達が呆れかえっているのも目に入らないのか、スキピウスは真っ赤な顔のまま両手拳を血が出るまで握りしめ、こめかみに血管を浮き立たせつつ、天を仰いで吼え猛った。
それで無くとも軍団の集結が遅れ、苛立っていた最中の知らせである。
激しく焦れていた所へ、北の地において本来それほど武力を持たないはずの辺境護民官が寡兵でもって次々と軍事的な成功を収め、その名望が爆発的に高まるのを妬み始めていたスキピウス。
最初の頃の好意はどこへやら、遂にその不満と嫉妬心を爆発させたのだ。
「戦闘準備をしろおっ!!開戦だああああああっ!!!!」
血走った目を見開き、尋常では無い形相で叫ぶスキピウスに圧倒され、ヒルティウスは絶句し、軍団長達は思わず顔を背ける。
ここでスキピウスの意向に背けば命に関わる。
そう思わせる程の異常さを発揮しているスキピウスに、誰もが諫言を躊躇したのだ。
しかし、それでも言わねばならない時がある。
カトゥルスはすっくと立ち上がると驚きで目を見開いている軍団長達を尻目にゆっくり進み出ると口を開いた。
「おそれながら、我が軍の準備は未だ不十分です。開戦は時期尚早です」
「き、き、き、き、貴様ああああああっ!!」
剣を手にすさまじい勢いで迫るスキピウスを物ともせず、真っ正面からその姿を見据えたカトゥルスは言葉を続けた。
「予定した軍に達しない現状では最終的な作戦目的を達成出来ません!物資の集積も未だ十分とはほど遠く、ここで開戦しては我々は自滅するだけです。考え直して下さい!」
「うるさあああいっ!もう決めたのだ!開戦だあっ!」
剣の柄で思い切りカトゥルスの顔を殴りつけたスキピウスは踵を返して議場から足音も荒々しく退出してしまう。
ヒルティウスが慌ててその後を追いつつ命令を下した。
「各軍団は戦闘準備、本日只今より南方大陸攻略戦を開始する」
「……正気ですか副司令官?」
口角から血を流したカトゥルスが身体を起こしながらくぐもった声で問うと、ヒルティウスは痛ましい物を見るような目でカトゥルスを見た。
「総司令官の命令だ」
「明らかに間違っている命令と上官を正さずして何の部下ですか?早まってはいけません。このままでは敗北どころでは無い。我々は全滅してしまう」
諫言するカトゥルスから目をそらし、ヒルティウスが言い難そうに口を開く。
「……帝都の情勢が不穏だ、このままでは治安回復を名目に南方大陸作戦そのものが中止になる恐れもある。総司令官はその事を念頭に置いておられるのだろう」
「それはそれで構わないのではありませんか?帝国を守るのが本来の我々の役目のはずでずです。それに念頭に置くものが間違っている、総司令官個人の面子では無く、我々は如何に勝利すべきかを念頭に置くべきです」
カトゥルスの正論に、ヒルティウスは一旦ぐっと詰まるが、最後に短く言い放った。
「命令は命令だ……従え」
意思を込めた目で見つめるカトゥルスから目をそらし、ヒルティウスはスキピウスを追って退出する。
それを追って他の軍団長も無表情で参事会議場から相次いで去った。
「くっ……事態を分かっているのか!?」
反応の薄い軍団長達にようやく苛立ちを表すカトゥルス。
「おい、大丈夫か?」
「取り敢えず立とう」
同僚軍団長であるスラとティティウスに起こされながら、カトゥルスは参事会議場の出入り口を睨み付け、拳を握りしめる他なかったのだった。
開戦から3か月後、南方大陸、アルトリウスの砦跡地
「ようやくここまで来たか……」
カトゥルスはかつてアルトリウスがゴーラ族の大戦士団を打ち破った際に築いた砦の跡地にまでやって来た。
アルトリウスが本国への召還状を受け取った地であり、また国境画定のために彼が築いた砦でもある。
残念ながらアルトリウスの後任者はここまでの土地を維持しきれずに早い段階でこの砦は放棄されたので、帝国でも知る者は少ない。
カトゥルスはアダマンティウスからこの砦の所在を聞いたことがあった。
万が一の場合は利用しようと考えていたカトゥルスは、退却する際寄り道にはなってしまったが、この砦を中継することにしたのである。
今はすっかり朽ちて木造の建物部分は無くなっているが、石造りの基礎や壁、城壁や城門、塔は蔦や熱帯特有の繁殖力の強い植物に覆われてはいるもののしっかりと残っている。
雨風をしのぐだけで無く、防御陣地としても十分以上に使用が可能な跡地に、カトゥルスは全軍を収容した。
帝国兵達もなじみのある帝国風の建造物にようやく人心地が付いたようで、あちこちで蔦を切り払い、木や草を刈って石壁の上に屋根を造っている。
城壁や塔はまだしっかりとしているため、カトゥルスは砦の城門を本営に定め、扉の無い城門には付近の朽ち木を蔦で束ね、簡便な扉を造ってはめた。
たっぷりと水を吸っているので火攻めを受ける心配も無い。
包囲される可能性はあるが、砦の内部にはわき水もあり、カトゥルスはしばらくこの砦で休息することにしたのだ。
しかし兵は更に減って1万程。
開戦時の実に約6分の1になってしまった。
「最早作戦遂行など夢物語、今は一刻も早く事態を収拾しなければならない。このままでは帝国領南方を維持することすら難しい」
カトゥルスの言葉にシアグリウスとスラの2人が無言で頷く。
カトゥルスを含め、全員が髭ぼうぼうの無残な顔に、垢まみれの身体。
髪も伸び放題で蛮族もかくやという酷い姿である。
兵士達も多かれ少なかれ同じような姿であるが、今は少し落ち着いた事もあって洗髪をしたり、洗濯をしている者もいる。
その様子をうらやましそうな目で見ながらシアグリウスが口を開いた。
「事ここに至ってはこの有様を通報するのが精一杯、援軍も見込めん。まあ、2日か3日休息を取ってから退却するとしよう」
「一度蛮族の鼻っ柱を叩いておきたいところですが……」
スラが兵士達の様子を見ながら心苦しそうに言う。
安全に退却するにはスラの提案は魅力的であるものの、シアグリウスの言うように兵士には休息が必要だ。
それに武具の手入れや整備も必要である。
ただでさえ錆びやすい湿気の多い気候であるのに、長い作戦行動が続いて兵士達の鎧や剣、投げ槍には相当のガタがきていた。
投げ槍は補給が無いので繰り返し使ったことで曲がり、真っ直ぐ飛ばせない物もある。
それらを修理し、研ぎを掛け、繕う必要があった。
スラもその辺は分かっているのか、攻勢に出るという言葉を出した後は居心地悪そうにしている。
攻勢が得意な将官とは言っても単なる猪武者ではない思慮深さが窺える様子に、先輩であるカトゥルスは笑みを浮かべた。
「何、砦を出なくとも攻勢は掛けられるさ。出鼻ぐらいいくらでも挫いてやろう。今は休息を取って兵士の鋭気と体力を回復させることが先決だ」
「分かりました」
カトゥルスの言葉に幾分ほっとした表情で応えるスラ。
シアグリウスがその様子を目を細め眺めている。
「カトゥルス将軍、水をお持ちしました」
兵士の1人が木の板に載せた無骨な青銅製の杯3個へ水を汲んで持ってきた。
カトゥルスは気取った様子でそれを取り、2人の同僚将官へ流麗な仕草で手渡すと、苦笑している2人へ笑みを浮かべて言う。
「優雅な社交界での飲酒とはいきませんが、彼の英雄アルトリウスも飲んだ力水です。有り難く頂きましょう」
ゴーラ族戦士団長の陣営
雨の勢いは留まること知らず、ひとかたまりになっている戦士や兵士を一様に濡らす。
森の中に設けられたゴーラ族の本陣は周囲の木々が雨を受け止めているせいか比較的水たまりも少ない。
所々に雨避けの天幕を設けてあるものの、ゴーラ戦士達は雨に慣れているのか大粒の雨に身体を打たせるがままにしている者が多い。
その中心、一応の雨避け天幕を張った場所にいる指揮官らしき者達が降りしきる雨を鬱陶しそうに眺めながら口を開いた。
「全く西方帝国とはおかしな国だ、総司令官を討ち取った後の方が明らかに手強い」
「……その意見には同意する。今の帝国軍に関わると手痛い反撃を受ける。既に戦士の死は許容範囲を超えたぞ?」
防水用の油をしっかり塗り込んだ革の鎧兜に立派な口髭と顎髭を蓄えた、セトリア内海人らしい将軍が言うと、浅黒い肌に蔦を編んだ鎧を身に着けたゴーラ族の戦士長が同意する。
次々と偵察から戻るゴーラ戦士の情報から、帝国軍が破棄された砦に立て籠もったことが知れたが、その砦は内部に湧水も有り、帝国風の石造りで以外と堅固な造りがそのまま残っている。
また、残った帝国兵達が防御陣を巧みに構築し始めており、容易には破れないことが次第に明らかとなる。
「……潮時か、壊滅させることは出来なかったが、立ち直りに相当な時間を要するほどの損害を与えたことは確かだ。これでどうかな?」
顎に手をやり、シルーハ人の将軍が言うと、ゴーラの戦士長は満足そうな笑みを浮かべた。
「異見は無い、帝国が去れば良い……シルーハの助力感謝する」
ゴーラ族に攻城兵器の備えは無く、シルーハからもそれらに類する兵器を持ち込んではいないために、ここを攻めるとなれば相当の犠牲を覚悟しなければならない。
しかし既に侵攻してきた帝国兵の半数以上が南の大陸の泥と化したのだ。
いかな帝国と言えども直ぐに立ち直ることは出来ないだろう。
「ふむ、では我々も引き上げよう、次の戦場が待っているのでね」
楽しそうに言うシルーハの将軍に、ゴーラ族の戦士長は諦めとも呆れとも取れる表情で言葉を返した。
「……帝国と言いシルーハと言い、どうしてそう覇権に拘るのか…お陰で我々は帝国を討ち破ることが出来はしたが」
「それが人の定めなれば…と言う所か」
「……それだけが人の定めでは有るまいよ」
楽しそうなシルーハの将軍に対して、相変わらずの苦々しい表情で返すゴーラの戦士長であったが、再度口を開いた将軍の言葉には頷かざるを得ない。
「ふふふ、意見の相違だな、まあしかしこれでこの地はしばらく安泰だぞ?帝国の手は伸びては来なくなった、我が狡智ここに役立てり、だな」
「確かにな……」
「また会おう、ゴーラの長よ」
「儂は2度と会いたくないがな、シルーハの傭兵将軍アスファリフよ。そなたの戦場に栄光あれ」
ゴーラの戦士長にそう声を掛けられたシルーハの将軍、アスファリフは皮肉っぽく口を歪めて片手を上げ、配下の兵士達を率いてその地を後にした。
沿岸に待たせている船には既に率いてきた兵士達が乗船し、待機している。
ここに率いてきている兵士は少数だ。
あくまでもゴーラ族の戦士達が戦いの主体であり、アスファリフは自分の護衛以上の兵を率いてきていない。
主力は今頃シルーハ王国の首都パルテオンでは子飼いの傭兵達が訓練に明け暮れている事だろう。
「戦場に栄光あれ、か……深いねえ……まあ栄光があるかどうかは分からんが、次の戦場は北か……くくっ、楽しみだぜ」
アスファリフはつぶやくと雨の降りしきる南方大陸の薄暗い空を見上げた。
帝国新領ク州・秋留村、秋瑠源継屋敷
早朝、秋瑠源継が目を覚ました。
とは言っても、普段通りの起床ではなく、夜番の剣士が源継の部屋を訪れたからである。
その前から人の気配を感じ、自然と目を覚ました源継に剣士が驚くべき報告をする。
「分かった……すぐ行く、お前は屋敷の者を全員起こし、それが済んだら村の者達を起こしに行け」
黙って頭を下げる剣士が立ち去ると同時に布団から出た源継は、素早く寝間着から羽織袴の普段着へと着替えると、枕元に置いてあった刀を腰に差し玄関へと向かった。
源継が玄関に到着すると、果たしてそこには多数の傷付いた帝国兵達が屯していた。
「これは……!」
「村長殿か、申し訳ないがしばらく兵士を休息させたい、空けて貰える建物は無いか?」
驚く源継に、将官と思しき者がかすれた声を掛けてきた。
見れば顔の半分に血と泥にまみれた包帯を巻き、片腕を失っている。
しかしその足取りは確かで、青白い顔色とは酷くちぐはぐな印象を受けた。
「しばらく待たれよ」
「すまん、私は帝国軍第17軍団の軍団長を務めていたプリムス・ラベリウスという者だ……船が難破してこの先の海岸へ流れ着いたのだ、面倒を掛ける」
源継は黙って頷くとふらついたラベリウスの肩を支え、屋敷の広間へと案内することにした。
後の兵士達は村の集会場となっている建物へ収容すれば良いだろう。
慌てて起きてきた家人達に水と湯、薬草の用意を命じ、更には風呂を至急沸かすように伝える。
剣士に起こされた村の者達が押っ取り刀でやってくると、一気に屋敷の周囲は騒がしくなった。
力強くラベリウスを運びながら源継が尋ねる。
「軍団長殿、流れ着いた船は一艘だけじゃろうか?」
「いや、分からない……」
「大氏へ報告して人数を出して貰おうと思うのじゃが、構わぬかな?」
「……宜しく頼む」
源継の言葉に力なく答えるラベリウス、恐らく気力が尽きたのだろう、怪我のせいだろうが、熱もある様子である。
そして広間が見えてきたところで、源継は最後の質問をした。
「戦はどうなりましたのじゃ」
「はは、見ての通りだ村長、我々は大敗した。今は残った軍団長3人が踏ん張っているが何時まで持つか……私は見ての通り役立たずになって後送されたのだ」
自嘲の言葉を最後に、ラベリウスの身体はぐったりと力を失った。
怪我は酷いが処置が適切だったのだろう、腕と目はどうにもならないが、それ程後遺障害はなさそうである。
源継は気を失ってしまったラベリウスを大広間へ横たえると、駆けつけた薬師に治療を命じ、自分は大急ぎで離れの執務室へと向かった。
部屋に到着した源継は筆と紙を取り出し、手早く手紙をしたため始める。
そしてその途中でひゅっと指笛を鳴らした。
「お呼びですか、当代」
現われた陰者に僅かな時間で書き上げた書状を手渡し、源継が焦りを含んだ声で用件を告げる。
「急ぎだ、晴義と楓の元へこの手紙を届けよ。取り敢えず伝送石通信にて送った後で構わん、とにかく急げ」
「……承知」
すっと闇の中へ消えた陰者を見送り、源継はため息をついた。
「全く、どうしてこう難題ばかりがやってくるのか……」
そして源継は帝国貴族でもある大氏の秋都家へ、応援を要請する手紙を書き始めるのだった。