第7話 ユリアヌス副皇帝就任
帝都中央街区、元老院前広場
「……以上の顛末により、北方辺境護民官ハル・アキルシウスは北方辺境はイネオン河畔において蛮族ハレミア人40万の大軍を殲滅し、その部族王バガンを討ち取り、北方辺境に安寧と平和をもたらし西方帝国の威信を大いに高めた。マグヌス帝はこの功績を激賞し、北方辺境護民官に新たに報奨金と共に……」
告示官吏が自慢の大声を轟かせる広場には、いつぞやの時と同じように帝都の市民達が詰めかけていた。
普段は激しく行き交う馬車や荷車、人や馬に帝国軍団兵の行進、更には物売りや訴訟をする者達の怒声とも言える大声に、建設現場の騒音が加わってすさまじい状況であるが、この日はしわぶき一つ聞こえない。
帝都市民が辺境護民官の活躍についての告示内容に固唾を呑んで聞き入っているのだ。
規定通り2回読み上げられた告示文を終い、告示官吏が壇上から降りると、帝都市民達はしばらく動かずにその内容をかみしめる。
そして一緒に聞きに来ていた知り合いや身内、隣に居た見ず知らずの者達とその内容について小さく語り始めた。
その声は何時しか普通の大きさとなり、終には歓声が爆発した。
「またやったぞ!」
「すげえ、すげえよ!」
「英雄だ!西方帝国に英雄が現われたっ!」
「素敵っ!」
「西方帝国万歳!」
元老院前広場で歓喜の声を上げる市民達を見る男達が居る。
その視線は元老院の2階からのもので、決して良い感情を抱いていないのは、その表情を見るまでも無い。
その男達は騒ぎを聞付けて元老院議場から出てきたのであるが、元老院議員である事を示す白く格式張った楕円長衣を身に纏っている。
「庶民共が……たかだか群島嶼から引っ張ってこられた若造の活躍に踊らされおって」
苦々しげに吐き捨てたのは貴族派貴族次席の地位にある、高位貴族のタルニウス卿である。
貴族然とした痩身に短い白髪、白い口髭を蓄えている口元は民衆の歓喜の声を聞いて引きつっている。
年のせいもあるだろうが、こめかみに浮いた血管がぴくぴくと動いてその怒りの深さを示していた。
数人の貴族達が同じように苦々しげに広場で喜び騒ぐ民衆を睨み付けている。
そこにもう1人、にこやかな笑みを浮かべた老齢の元老院議員がやって来た。
「おや、市民の歓声に釣られてきてみれば……皆様方もですか?」
「貴様……市民派貴族が何用だ?失せろ、貴族の面汚しめ!」
口汚く罵るタルニウス卿の取り巻きにも動ぜず、その貴族は見事に禿げ上がった頭をなで上げ顎髭を悠然としごき、目を細めて歓喜に包まれている市民達の様子を見遣る。
「じじい!聞いているのか!!」
その様子にいきり立った貴族派貴族達をちらりと片眼だけで見たその老齢の元老院議員はようやく口を開いた。
「おやおや、市民の模範たる貴族ともあろう者がその様な口の利き方をするとは……帝国の貴族派貴族も地に落ちたものですなあ」
「なに!?貴様」
「年長者を敬うというのは帝国においては貴族に限らずとも最優先されるべき道徳ですがな……それすらも忘れ果てたと見える、さながら北の蛮族のようだ」
「きさまあ……よりによって誇り高き貴族である我等を北の蛮族などと!訂正しろ!」
「……ふむ、議論は平行線か」
いきり立つ貴族派貴族達とは対照的に面白がる様な雰囲気のその元老院議員。
そこへタルニウス卿が辟易した様子で言葉を挟んだ。
「もうその辺にしておいて貰いましょうか……長老、貴方こそわざわざ我々が居るこのバルコニーへ出てきたというのはどういうことですか?それこそ挑発でしょう?」
「ほうほう……では“これは心外な”と言っておこうか」
苦々しげなタルニウス卿とは別に長老と呼ばれた元老院議員は言葉の遣り取りを面白がる様子を崩さずに言う。
ようやくそこでタルニウス卿も笑みを浮かべて言葉を返した。
「ふふ、ここで化かし合いをするつもりはありませんよ。いずれにせよ我々とあなた方が犬猿の仲である事は周知の事実、そしてあなた方の勢力が取るに足らないのも事実でしょう?その我々がいる場所へ敢えて出てきたのですから誰が見ようと挑発以外には考えられませんよ」
「ふむ、化かし合いはしないのでは無かったのかね……では言うが、年を取ると遠くへ行くのが億劫になってなあ。一番近いバルコニーへ来てみた所、君たちが居るのは分かったが体力の衰えには敵わない、今更別のバルコニーへ行くのも大変だ。仕方なしに此処へ来たというわけだよ」
のらりくらりと言い訳めいた言葉を口にしつつも、悪びれた様子は一切無い長老の様子に、タルニウス卿が呆れてため息をつく。
その矍鑠たる姿、老齢とは言え衰えとは無縁なのは見るまでも無い事で、それでなくても元老院で長老の演説と来れば、居眠できる者など誰1人としていないほどの迫力と声量であるのだ。
完全にたぶらかされている事に今更ながら気が付いたタルニウス卿は諦めてバルコニーを譲ることにした。
まさか追ってまでは自分達に付きまとっては来るまい。
「……そうですか、では年長者を立てて、私たちが別の場所へ移るとしましょう」
「おお、それは助かる、気の合わない者と何時までも一緒に居るのは疲れるのでな……おお、そうそうこの隣のバルコニーが良い具合に空いておるな」
「……むぐ、くっ、行くぞ!」
一瞬怒声が出掛かったタルニウス卿であったが、どうせここで言い返した所でやり込められるだけだと我慢し、取り巻きを引き連れてバルコニーから立ち去った。
その後ろ姿を愉快そうに眺めていた長老は、その姿が見えなくなった所で再び視線を元老院前の広場へと移す。
「さて、たかだか左遷官吏の辺境護民官がここまでやるとは誰も予想はしておらんかったからのう……上手く良い方向へと結び付けられれば良いが、取り敢えず皇帝執務室へ行くとするか」
間もなく元老院が開催される。
血の流れない、しかし激しい戦いが始まろうとしていた。
帝都中央街区・皇帝宮殿、皇帝執務室
「ここらで少し、反撃を加えておかねばいかんか……」
元老院前広場から聞こえて来る市民達の歓喜の声に耳を傾け、笑みを浮かべたマグヌスはそう1人つぶやく。
その手には、副皇帝に任じたユリアヌスからの手紙がある。
「後事を託したとは言え丸投げではこちらも心苦しい……次期皇帝陛下の負担を少しでも軽減してやらねばならぬわい」
マグヌスは静かに、しかしそれでいて確かな覚悟を決め、ゆっくりとその手紙を閉じて顔を上げる。
「貴族派貴族とは今日ようやく決別するか。ふふふ、上手くやらねばな……」
「今まで日和見が得意技の皇帝が、何を血迷ったのかと思ったが……そうか、未来に希望を見つけたのだな?」
遠い目をしてつぶやくマグヌスを揶揄するような声が響く。
その声の先には、先程タルニウス卿とやり合った禿頭の貴族が皮肉げに口を歪めて立っていた。
マグヌスは少し驚いたが、自分が当人を呼びつけていたことを思い出し、苦笑しつつ椅子へと手招き、口を開く。
「まあ、そのようなものだ……で、協力はしてくれるのか?」
「……いいだろう、軍部首脳陣が遠征で欠席、中央官吏派と貴族派貴族が交渉決裂とあれば我等にも取れる手段がある」
その禿頭の貴族、元老院議長でもある長老が椅子に座りながらマグヌスの提案を受け入れる旨の発言をすると、マグヌスはほうと安堵のため息をついた。
中央官吏派と貴族派貴族の政策調整が失敗に終わり、物別れに終わったことはマグヌスが使者を通じて知らせたものだ。
近衛兵が持ち込んだこの情報を、決裁書類を持ってきたカッシウスにそれとなく下問し、その反応から情報の正確さに確証を得たマグヌスは、直ぐさま子飼いの部下を通じてユリアヌスにこの情勢を知らせると同時に、貴族派貴族とは少し距離をいている長老派の貴族達に渡をつけた。
「では……?」
「ユリアヌス殿下の副皇帝指名については協力しよう」
「……宜しく頼む」
自分の促しの言葉に応じる長老へマグヌスは率直に礼を言う。
その礼を聞き、長老が呆れたように漏らした。
「……あと40年、その言葉が早ければ変えられたものもあったろうにな」
再びの揶揄の言葉。
40年前のあの時、貴族を力で抑え込もうと奔走したマグヌスは結果として多くのものを失った。
今は長老と敬意を込めて呼ばれ、その見識や人格の高さを謳われてはいるが、その当時元老院随一のプレイボーイとして鳴らしたこの男も当時は野心に燃え、貴族の頂点たらんとしてマグヌスへの協力を申し出たのだった。
マグヌスは貴族を抑え込むことしか念頭に無かった事からこの申し出を拒絶してしまい、結果としてより多くの貴族を敵に回し、元老院が機能不全寸前となった。
これ以後マグヌスは自らの政策を封じ、やむなく派閥均衡政治を行うこととなったのだ。
そして年月が過ぎるに従ってその結果生じた垢や澱、しがらみはマグヌスをがんじがらめに縛る事となる。
「後悔は最早し尽くした、とは言っても未だし足りないのだが……それは言っても仕方の無いことだと思うぐらいの分別はついた。時は移ろい、我々に残された時間は少ない。だが、あの時の選択が無ければ今この好機も無かったと、思いたい……まあ捨て石の感は有るのだがな……」
「捨て石とて役目を果たせれば良いが、果たせず朽ちるものや無駄に死んだ者も大勢いるのだぞ?」
すかさず反論する長老に、マグヌスは声を一段低く落として応じた。
「……ああ、友の死がそれを教えてくれたとも」
沈黙が皇帝執務室を包み、その沈黙はやがて暗さと重さを帯びてマグヌスの周囲に漂う。
しかしマグヌスはそのまな静かに立ち上がり、長老を促した。
「ではそろそろ議場へ向かおう」
「……良かろう、日和見皇帝最後の覚悟、しかと見届けてやろう」
そう言いながら長老はしっかりとした足取りでマグヌスの後に続いて元老院議場へ向かうのだった。
帝都中央街区・元老院議場
白亜の大理石で作られた優雅な議場は、今や全くその優雅さに似付かわしくない激しい論争の場と化していた。
しかし、元々は議論を行う場として作られたのであるから、本来元老院議場というものはこうあるべきかもしれない。
聞いている元老院議員がそう思ってしまうほど、議場は白熱していたのだ。
口角から泡を飛ばしてがなり立てているのは、先程までバルコニーで物静かな様子を見せていたタルニウス卿である。
「……という理由から断固反対である!!次期皇帝陛下にはグラティウス大公殿下こそ相応しい!」
「まあ、そう激しく言いたてるものではない、恐れ多くも皇帝陛下の推された人事であるからな、それにまだ次期皇帝と言うことではなく、副皇帝に、と言うお話であろう?」
「副皇帝ともなれば次期皇帝と目されるのは当然ではないか!」
窘める議長でもある長老の言葉に耳を傾ける様子もなく、タルニウス卿は叫ぶ。
「口が過ぎるぞ、あくまで副皇帝にユリアヌス殿下を就任させるか否かという話だ」
「何を言うか!事はそれだけに留まらないではないか!」
長老が禿げ上がった頭を光らせ、いささか怒気を含んで言うが怯まないタルニウス卿、遂に長老が発言を遮った。
「……取り敢えずタルニウス卿、貴殿の発言時間は終わったので着席せよ、他に意見のある者」
「議長」
渋々座るタルニウス卿を尻目に、手を上げた執政官カッシウス。
それを見た長老は、頷いて発言を許可した。
「私はユリアヌス殿下の副皇帝就任に賛成致します」
「貴様!」
「ふざけるな!たかだか官吏の分際で!」
カッシウスが立ち上がって意見を一言述べると、貴族派貴族から次々とヤジが飛ぶ。
しかしカッシウスは動揺すること無く静かに言葉を継いだ。
「現在東方では山賊や盗賊が横行し、民心が動揺しております。またセトリア内海で海賊が活動を活発化させており、帝都への物資が滞る事態にもなっています、ここは軍事権と専断権のある副皇帝陛下にユリアヌス殿下を任じ、事態の沈静化を図って頂くのが適当と思われます」
発言を終えたカッシウスは直ぐさま自席へと座る。
次いで発言許可を求めたのは、ルシーリウス卿であった。
「南方大陸での作戦を中止することは出来ないのですかな?」
「……現状では不可能ですな、既に軍はこの作戦に向けて大分動き出していますし、何よりスキピウス総司令官に中止の意思はありません」
総司令官の代理として参加している第1軍団軍団長のロングスが答えると、カッシウスもそれを補足した。
「護衛艦隊の編制も終了し、消耗品や武具、食糧や飼料の準備も終わっております。後は搬送するだけですが……」
「そうですか……南方大陸での作戦を中止すれば、帝国本土の混乱に対処する兵力が捻出できると思ったのですが……軍部や帝国行政府はそうは考えていないのですかね?」
「………」
「………」
何を今更と言う思いを持ったロングスとカッシウスであったが、特に反論はしない。
2人の沈黙でその意を知り、満足そうに微笑むルシーリウス卿は言葉を発した。
「私は南方作戦中止と、軍の呼び戻しによる対処を提案致します」
確かに南方作戦を中止すれば海賊や盗賊には対処出来るだろうが、ロングスが言ったとおり軍権を掌握しているスキピウスにその意思はなく、一度動き出した計画を取りやめるのは手続きや実状の面で容易ではないし、たとえそれがなったとしても時間が掛かりすぎる。
中止がほぼ不可能であり、また実効性に乏しいことはルシーリウスも十分承知しているが、これを敢えて口にするのは嫌がらせともう一つの目的がある。
「……それはつまり、ユリアヌス殿下の副皇帝就任には反対すると言うことで良いのか」
「そうは申しておりませんが……盗賊や海賊への対処という意味に置いて副皇帝を任じる必要があるというのであれば、そうです。軍による対処が可能であれば敢えて権力の強い副皇帝を任命することはありますまい」
表だって皇帝の意に反する事は、他派に乗ぜられる恐れがあり得策では無いと判断したルシーリウス卿は、長老の問い掛けにおいてだけ、回りくどくそう答える。
しばらく論争が続くものの、議論は出尽くした感が有り、長老が徐に立ち上がって口を開いた。
「では、採決をとる」
ルシーリウス卿の目論見では、ユリアヌス副皇帝就任案に貴族と軍部は反対に回る。
軍部は自分達の指揮権を保護するため、強い軍事権を持つ副皇帝は出来れば空位にしておきたいと常に願い、今までもそうあるよう工作を繰り返し行ってきた。
自分達の専決事項である軍事について掣肘されることを嫌っているのだ。
順当に行けばユリアヌスの副皇帝就任は阻止される。
今更このタイミングで何故皇帝がこのような無茶な動議を行ったのかは解せないが、取り敢えず今の皇帝は脅威となり得ない。
元老院にはっきりとした“皇帝派”の者がいないからである。
今回の件について中央官吏派の者達と折り合いはつかなかったが、それでも彼らだけで過半数には達しない。
ルシーリウスは席に着いたタルニウスと目配せを交わし、含み笑うと長老の採決を採る声を悠然と聞くことにした。
「ユリアヌス殿下の副皇帝就任に賛成の者は立ち上がるが良い」
ざざっ
「な、なにっ!?」
思いの外多い衣擦れの音に後ろを見たルシーリウス卿の目が驚愕で見開かれる。
中央官吏派、軍部、そして貴族の一部が賛成に回っていた。
見れば立っている貴族は長老に近しい穏健派や市民派の者達。
今までは勢力が小さく、政策面や人間関係から対立こそしていたものの、表だって貴族派貴族に逆らってくることは殆ど無かったが、ここに来てまさかの造反である。
これでは過半数に達し、皇帝の人事が通ってユリアヌスが副皇帝に任じられてしまう。
「軍部は本当に……!」
「スキピウス総司令官とヒルティウス副司令官から南方作戦の助けになる事については賛意を表明するよう言われております。また妨げになる事については反対するよう言われております」
ルシーリウス卿の言葉を遮ってロングスが言う。
思わず唇をかみしめるルシーリウス。
そして賛成を表明した貴族達を睨み付けるが、彼らはルシーリウス卿とは目を合せようとしなかった。
「では、賛成多数でユリアヌス殿下を副皇帝に任じる」
「ま、待て、議論に参加していない軍首脳に事後承認を受けなければならんはずだ!」
「では……仮承認と言うことで如何」
「へ、陛下……?!」
ルシーリウス卿の叫びに反応したのは、この発議を行った皇帝マグヌス自身であった。
今までの皇帝であれば、軍部不在の際に発議や元老院開催は行わなかった。
偏にそうすることで軍部の反発を招き、三派のバランスが崩れることを恐れたが故にの行動であったはずなのだが、その前提すら破った今回の元老院招集がおかしいと言うことについてもっと早く気が付くべきだった。
これは罠だ。
皇帝が我々の専横に対して反撃しようとしているのだ。
「仮承認であれば問題あるまい」
「……ぐうっ!」
皇帝からのだめ押しの言葉に、それ以上反対する術の無くなったルシーリウス卿は唇をかみしめて下を向く他無かった。
後刻、帝都中央街区・ルシーリウス卿邸宅
思いがけない元老院での誤算。
ルシーリウス卿は領地から徴した最高級の葡萄酒を飲みながら、各地の貴族派貴族と連絡を取るべく手紙をしたため、また各地から寄せられた意見や情報の満載された手紙を読む。
その中には面白くない内容の者も当然含まれては居るが、そうした情報もしっかり把握しておかねばこの難局を乗り切れない。
ましてや今は帝国皇帝が、表だってではないにせよ敵になりそうなのだ。
そうした中に、気になる手紙を見つけた。
その内容は、北のハレミア人を完膚無きまでに討ち破った辺境護民官ハル・アキルシウスの名は北方辺境に並ぶ者が無い程になり、その勢威は北方辺境のみならず帝国やシルーハ、果ては西方諸国や東照にまで轟いているというもの
ルシーリウス卿はシレンティウムに入れている武具商人から届いたシレンティウム軍の戦勝と、経済発展について記された報告書を読み終える。
酷く歪んだ文字で書かれたそれは読みにくく、最後には手が不自由になったことと、その為悪筆となったことを詫びる文章が添えられていた。
ルシーリウス卿は、その他愛ない文章を最後に読み終えると、そのまま報告書をぐしゃりと握りつぶす。
「気に喰わん……武具商売の得意先ではあるが、息子に大恥をかかせたあいつが統治する街の成功報告など面白くも無い、おい」
「……ああ」
ルシーリウス卿がその声と共に振り返った先にはフードを真深く被った1人の人間が跪いていた。
フードでその顔は見えず、性別年齢は一切分からない。
言葉を発すること無く下を向いているその人物に、ルシーリウス卿は焦れたように言葉を継いだ。
「どうなっているんだ?貴様達には高い報酬を支払ってあの都市の発展を阻害せよと命じたはずだ、少しでも実行出来たのか?」
「……それが、あの街に行った間諜や暗殺者は誰1人として戻ってきません……いま私どもの組合では間諜殺しの街として恐れられてしまい、最早行く者がほとんど居りません」
男とも女とも、若いとも老いているとも取れる不思議なしゃがれ声で話す人物の発した言葉の内容に、ルシーリウス卿は苛立ちを抑えよともせずに吐き捨てた。
「なんだと?貴様、それで済むとでも思っているのか?」
「……もちろんですとも。志願者は多くはありませんが居ますので、その者達を向かわせている所です」
「なら良い、いいか、必ずあの街の成長を阻害するんだ、でなければここで動乱を起こしても足を引っ張られる恐れがあるからな!あくまで無傷で帝国は手に入れねば意味が無い、内乱など金と時間が掛かるばかりで何の旨味も無い」
苛立たしげに言うルシーリウス卿にその人物は言葉少なく答えた。
「……承知しております、それから行方不明であったユリアヌス殿下ですが……」
「奇人がどうかしたか、どこに居た?」
ルシーリウス卿が口にしかけた酒杯を止め、眉を上げる。
「それまでの所在は相変らず掴めませんでしたが、帝都の軍港に向かいました」
「ほう?海軍を掌握する腹か」
その知らせにユリアヌスの意図を見抜いたルシーリウス卿は含み笑いと共に酒杯を傾けた。
その人物がルシーリウス卿に言う。
「おそらくは。しかし無駄でしょう。今の帝国海軍はルシーリウス様の手で骨抜きにされておりますので……」
ルシーリウス卿の高笑いが部屋に響く。
ルシーリウス卿は海軍総司令官を賄賂で抱き込み、作戦海域や戦法についての情報を得た上で、その情報を密貿易船や海賊に流しているのである。
また、提督に依頼して艦隊を分散させた上で弱体化を図り、海軍戦力を減退させることにも成功していたルシーリウス卿。
分散された海軍艦隊は下手をすれば密貿易船団や海賊達よりも少数の艦艇で対処せねばならない圧倒的不利な立場に置かれており、海軍兵達の戦意や士気は地に落ちている。
そしてそんな兵士達の素行不良が問題ともなっていた。
海軍兵士達はあちこちの軍港配置都市で喧嘩や問題、不祥事を起こしており、いまや帝国海軍はかつての誇りを失った、帝国内でも鼻つまみ者の無頼集団なのである。
そんな不真面目な者達であるのでまともな取り締まりを行う訳も無く、ますます海上交易路の治安は悪化し、今やセトリア内海は無秩序状態。
それでも今までは陸上の帝国軍がしっかりしていたので陸上の都市や西方帝国そのものに対する襲撃や略奪にまでは至っていなかったのである。
ところがそれも南方大陸侵攻で崩れた。
軍団が引き抜きを受けて弱体化したり、防衛体制に穴が空いてしまったことによって、海賊による略奪や都市の襲撃が次第に増加しているのだ。
その様な状況を敢えて作り出し、濡れ手に粟の状態で儲けを出すルシーリウス卿の一派は所領から上がる税収などより遙かに巨大な利益を海上で上げるようになっており、今や帝国に並ぶ者の無い財産を裏の手段で得たのである。
もちろん、ルシーリウス卿自身も密貿易に手を深く染めているが、それ以外にも密貿易に関わる者達や海賊から情報提供料としてその売り上げや略奪品の数割を徴収しており、さらに莫大な財を懐に入れていた。
当然被害に遭うのは善良な海運業者やその海運業者から物品を購入している商人達で、また食料品や生活用品の高騰が庶民生活を直撃してもいた。
そこへルシーリウス卿は密貿易で運び込んだ物品を高値で売りさばき、暴利を2重3重に貪っているのである。
その財はルシーリウス卿の邸宅に蓄えられ、専ら西方帝国の正統政権転覆の企てについて使用されている。
「くくっ、いかなユリアヌスとて海軍提督がこちらの味方とは思うまい。情報が筒抜けではまともに海賊や密貿易を取り締まれはしないからな……しかし海軍に目を付けるとは侮れん、監視は引き続き続けろ」
「仰せの通りに……」
「副皇帝就任はごり押しで通されてしまったからな……くそっ、忌々しい市民派の連中め!」
皇族であっても何の役職にも就いていないユリアヌスなど本来ルシーリウス卿が恐れる理由など無い。
権限も持たないただの奇人殿下であったはずなのだが、先程の元老院で皇帝が発議し、ユリアヌスの副皇帝就任が承認されてしまった。
帝国軍の首脳が居ないので仮承認という形に何とか落とし込んだが、中央官吏派と貴族でも市民派と呼ばれる長老派の連中がユリアヌスの副皇帝就任支持に回り、軍首脳がごっそり居ないことでバランスの崩れた元老院で貴族派貴族は思いがけなく少数派になり、結果承認されてしまったという経緯があった。
今まで三派の合意の下で無難な治政を行ってきた皇帝らしからぬ手法に慌てたルシーリウス卿達だったが決定は覆らず、ユリアヌス不在のまま元老院は副皇帝の仮就任を承認してしまう。
「心配はいらんと思うが……まあよい、今回はしてやられたが余命を知ってのことだろうよ。幾らあがこうとも耄碌皇帝も最早これまで、我等の悲願はもう間もなく達成されるだろう」
かつては帝国を共に創設した貴族と皇帝。
何時しかその身分的格差は広がり、今や皇族と貴族には大きな越えられない身分上の壁が出来てしまった。
しかし本来貴族と皇帝のあり方とはそうでは無い。
かつては貴族の中から選ばれし者が執政官となり、王となり、果ては皇帝となったのだ。
貴族の手にもこの国の最高権力を手に出来る、その機会を得られる古い時代の復活、それこそがルシーリウス家が目指す帝国のあるべき姿である。
その為には海賊だろうが、外国だろうが、蛮族だろうが悪魔だろうが自分の利になるのであれば手を結ぼう。
「シルーハの協力者、それから北の馬鹿王子殿下とよく連絡を取っておけよ」
「承知しております……」
執事が深く頭を垂れると、ルシーリウス卿は満足そうに笑みを浮かべる。
「シルーハとはよく話し合って時期を早めねばならんか……」
ルシーリウス卿はそうつぶやくと葡萄酒を口に運び、一気に飲み干すのだった。
帝都軍港、海軍総督執務室
「わははは、いきなり何を言い出すかと思えば……ワシを首にするですと?」
「そうだ」
「うははははっ、いかな副皇帝と雖もいきなり理由も無しにそれは無理ですな!手順というものがある」
ユリアヌスの言葉に、ウィオレンス海軍上級提督は膨らんだ腹を揺すって大笑いする。
しかしユリアヌスは腹を立てるでも無く余裕の表情で言葉を継いだ。
「と、言うほど無理でも無い、副皇帝には上位の軍指揮権があるからなあ」
「……ふん、それがどうした?理由も無く本気でワシを辞めさせるのか?」
自分の言葉に大笑いを止め、ぴくりと眉を上げるウィオレンス提督に、ユリアヌスは首を左右に振った。
「お前、それだけで済むとでも思ってるのか?随分手広く賄賂を貰っているらしいじゃ無いか」
「な、何を根拠に……」
言い募ろうとするウィオレンスを遮るように、ユリアヌスはその目の前の机に紙束をばさりと落とした。
はっとしてその内の1枚を両手で取り内容を読み進めるウィオレンスの身体が小刻みに震え出す。
「これだけ調べても残念ながらお前と貴族派貴族の繋がりは出て来なかったが、お前と海賊や密貿易船との関係は立証出来た、お前は処刑だ」
冷徹な声が降ってくる方向に目を向けると、そこにはユリアヌスの厳しい表情があった。
最早これまでと観念したかと思いきや、ウィオレンスは手にした紙を破り捨て、机の上の紙束を腕で払い落とす。
「くっ……衛兵!」
そして腰の短剣を抜き放ちながら衛兵を呼び寄せる。
「おやおや、副皇帝に剣を向けるのか……明確な反逆罪だぞ?」
「うるさい!副皇帝ユリアヌスという者はここには来なかったのだ、途中で盗賊に襲われて落命したのだろう」
「そう言う筋書きでいくわけか……まあそれ以外に無いだろうが、あまりにも稚拙だぞ」
揶揄するような声を出しながらも落ち着いた様子で両手を広げるユリアヌスに対し、顔を紅潮させて怒鳴るウィオレンスからは完全に余裕が抜け落ちていた。
「うるさい!!衛兵!この男を殺せえっ!!」
「衛兵、そこの無能を逮捕しろ」
自分を怒鳴りつけたウィオレンスの声に顔をしかめながらも、静かに命令を下すユリアヌス。
「「了解しました」」
「なっ?」
ユリアヌスの命令で即座に衛兵達が動きウィオレンスからあっさり短剣を取り上げるとその身体を拘束した。
「残念ながら、お前の味方は既に居ない。誇り高き海軍兵士を馬鹿にしすぎた報いだな」
「く、貴様らワシから受けた恩を忘れたのかっ!どうした?散々イイ思いをさせてやっただろう!!」
哀れむようなユリアヌスの言葉にウィオレンスが最後のあがきを繰り返し、そして自分を拘束している海軍兵士の衛兵達に呼びかけるが、反応がないどころか手酷く顔を殴りつけられてしまう。
「あひゃ?な、何をする……ぐふっ?おげっ」
言葉を発しようとする度に顔面や腹を殴られてくぐもった悲鳴を上げるウィオレンスに、ユリアヌスが今度は訝しげな表情を向ける。
「ん?……あ、何だ。変なこと言うなと思ったら、そうかお前……身近な部下の顔も覚えていないんだな?残念な事にお前の子飼いの豚ちゃん達は収賄罪、暴行傷害罪、強制猥褻罪、官吏の評判を貶めた罪で一足先にあの世だ。お前も逝くが良い……連れて行け」
ユリアヌスの命令で顔面をぼこぼこに殴られていたウィオレンスが無理矢理立たされて連行されてゆく。
「ひいっ……ぐひ」
そして何か口を開こうとする度に容赦なく背中を蹴られ、腹に拳を撃ち込まれるウィオレンスの姿にユリアヌスが顔を歪めた
「あいつ余程恨まれてたんだなあ…まあ自業自得か」
ユリアヌスはかねてから海軍には目を付けていた。
陸軍とは様相が異なり軍閥が居らず、割合自由な気風にある海軍は、帝国軍の中でも目立たない存在で有り、派閥としての勢力を形成しうるには至っていない。
それでも軍組織としての体裁は帝国の身の丈に合った立派なもので、艦艇数や兵士数から言ってもセトリア内海や周辺海域を制するには十分な力を持ってはいる。
ユリアヌスはまず海軍を掌握すべくかねてから連絡を取っていたのは、かつて自分が海軍に潜り込んで海賊退治をした時の同僚兵士達。
ユリアヌスが排除したウィオレンス子飼いの部下達の後釜に据えたのは、激戦を共にくぐり抜けたその戦友達だったのである。
まず軍港に乗り込む直前に彼らと連絡を付けたユリアヌスは、元老院で副皇帝就任についての承認が得られたという連絡を皇帝から受けるとその深夜、たるみきった海軍の風紀や警備の隙を突いてクーデターに近い形で一気に海軍本部を乗っ取ったのである。
当初は艦隊司令官の1人を後釜に据え、自分は裏から海軍を指揮しようと考えていたユリアヌスであったが、皇帝マグヌスからの言伝がその方針を変えさせた。
仮とは言え副皇帝であれば軍指揮権が発動出来る。
「ふん、じじいもまだやる気はあったんだな……まあ仮だろうが何だろうが副皇帝は副皇帝だからな、海軍を指揮した所で構いやしない、最大限利用させて貰おう」
手紙を燃やしてマグヌスとの関係に関わるその証拠を隠滅したユリアヌスは、何も知らずに女をはべらかして出勤してきたウィオレンスが執務室へ入るのを見届けて事に及んだのであった。
今頃各地の海軍基地で同様のユリアヌス派による正常化が為されているはずである。
しばらくすると、伝送石であちこちの艦隊司令部や海軍基地からの通信が入った。
そこにはただ一言、成功、の文字があるのみ。
全艦隊の掌握が済んだことを確認した時点で、ユリアヌスは椅子から立ち上がった。
ユリアヌスは海軍兵士の更正と浄化を進め、意欲を失っている海軍兵士達のやる気を起こさせるべく大規模な訓練と海賊討伐を計画していた。
早速ウィオレンスの机を漁り、艦隊配置表を見つけて一瞥したユリアヌスは再び顔を歪めた。
「なんじゃこりゃ……こんなめちゃくちゃな配置してたのか?あいつは真性の馬鹿か、もしくは何か意図があったのか?」
配置表に記された艦隊配置はめちゃくちゃで、重要な航路が尽く外されているのみならず数隻単位で分散配置され、またさして重要でも無い漁村に停泊している艦隊も居る。
ある程度把握はしていたが、ここまで酷いとは思わず絶句するユリアヌス。
しばらくして我に返ると徐に命令を下すした。
「至急艦隊を今言う軍港へ呼び集めろ、東部海域担当はリブリア、西部海域担当はペルオン、首都警備担当と遊撃艦隊は帝都軍港だ。伝送石通信で構わないから急げ、特段もれて困る情報じゃ無いからな、任命する提督は追って伝える」
「了解しました」
海軍兵士が出て行ったことを確認し、ユリアヌスはゆっくりと椅子へ腰を落とした。
「まあ、取り敢えず出来ることからやっていくしか無い……取り敢えず第1段階は成功だが、前途は多難だなあ」