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辺境護民官ハル・アキルシウス(改訂版)  作者: あかつき
第3章 北方辺境動乱
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第5話 フレーディア都市改良と東西の使者

 フレーディア市


 フレーディアは既に冬が過ぎ、街路に植えられた植栽の木々からは若葉が芽吹き始めていた。 

 タルペイウスの計画は順調に進み、第22軍団とアダマンティウスの協力もあって予定より早く都市整備が進んでいる。

 かつて汚泥に満ちていた街路は大理石の路面にセメントで固められた側溝、目には入らないが、道路の下に穿たれた下水道によってすっかり見違えっており、子供達は頑丈な革の靴やサンダルに足を包んで平坦な石の街路を駆け回っていた。

 イネオン川上流から水車動力のポンプで汲み上げられた水は、水道橋を伝ってフレーディアの市街へと導入されている。

 まだ少し冬の匂いを残している清水が軽やかな音を立てて石造りの水道を流れ下り、フレーディアの各家庭を潤していた。


 今やフレーディアの水は自由に幾らでも呑むことが出来るのだ。

 水汲みの必要がなくなり女子供は重労働から解放され、汚染された井戸水を使わなくなったことで衛生状態も随分と改善されていた。

 洗濯や調理、洗髪に洗顔などを毎日自由に行えるようになり、日常生活も随分と文明的になっている。

 導入された水は、フレーディア市の北にタルペイウスの肝いりで建設された公衆浴場へも導入されており、豊富に採掘され始めた石炭を処理して造られたコークスを使用して沸かされた湯はフレーディア市民の心を蕩かした。


 石炭鉱山にはペトラの紹介で石炭鉱山専門の精霊付き採鉱師が入り、石炭の処理を行っているので、そのまま燃やせば有害な煙を発生させてしまう石炭を処理し、使用し易く火力の強いコークスにへと転換させることが可能となったのだ。

 タルペイウスは下水にも工夫を凝らし、エレール川へ直接排水するのでは無く、フレーディア郊外に汚水貯水槽を建設し、汚物の沈殿と布や砕石、砂を使用した濾過を繰り返し行い、ある程度汚水を浄化してから排水する設備を整えた。


 沈殿した汚物の回収や濾過に使用した物品の手入れと交換、定期的な清掃が必要とされたが、それでも処理しない下水が下流域に与える悪影響を考えれば、効果的で効率的な処分方法であろう。

 またそうして処理が為された水は農地へと導入され、最終処分されるのである。

 シレンティウムと同様に採鉱師の精霊を利用して汚物処理をする方法も検討されたが、採鉱師達の拒絶にあい、またタルペイウスが都市技術の粋を試したいと主張してこの汚水処理方式が採用されたのであった。


 加えて、タルペイウスはスイリウスやコロニア・フェッルム市長のペトラと協力して軌道馬車を考案し、鉱物等の重量物資の陸上輸送に利用しようとしていた。

 固い岩石で造った街道脇の別道路へ車輪の復員に合わせた溝を切って軌道を造り、その上を多頭曳きの連結馬車を走らせるのである。

 当初はスイリウスにより水車動力による牽引方式や拗り発条による動力式が考案されたが、水車動力による牽引や拗り発条では力が弱く、また綱等の材質の強度や長さに無理があり断念した。

 代わって既存の動力源と言うことで馬に落ち着いたのである。

 いずれは人を運ぶことも考慮はされているが、今のところ安全性を鑑み、少々乱暴な取り扱いをしても差し支えない鉱物や穀物などの物資輸送に限って使用することが決まっていた。





 フレーディア市、テルマエ・フレディエ



 公衆浴場であるテルマエ・フレディエは今日も満員であるが、万事大きめに造られた浴場は広大でまだまだ余裕がある。

 帝国やシレンティウムの総大理石造りとは、また趣が異なるテルマエ・フレディエ。

 フレーディア周辺で採れる少し青みがかった石が透明な湯に映え、温かい湯に浸かっているにも関わらず、川や海の水に浸かっているような不思議な感覚をもたらすのだ。

 しかし、アダマンティウスやベルガンと一緒にやって来たハルはその趣ある光景とは相反する浴場内の様子に目を丸くした。


「う~ん、無秩序……?」

「……どうも我々は水場を見ると遊び心に火が付くようでして。どうしてもこうなってしまうのです」

「うむ、これはゆっくり疲れを癒やすと言うよりも、どちらかと言えば遊びに来ておるのだな」


 ベルガンが少し申し訳なさそうに言い、アダマンティウスが少し困ったような顔で言葉を発した。

 ハル達がテルマエ・フレディエで目にした光景は、およそ帝国やシレンティウムの公衆浴場では考えられないものであったのだ。


 大声で騒ぎ、駆け回るクリフォナムの子供達。

 浴槽でよりによって競泳に興じている者達。

 洗い場で木桶を太鼓代わりにして歌を歌い、大騒ぎしている様子。

 浴槽の縁を使って服を洗濯している者。

 身体を洗わず、浴槽へ飛び込んでいる者。

 服や装飾品を身に付けたまま浴槽に浸かっている者。 


浴場において、あってはならないありとあらゆる悪徳がそこでは行われていたのだ。


「……改善する必要がありますね」


 第22軍団の兵士達だろうか、申し訳なさそうに浴場の隅で静かに湯へ漬かっている帝国兵達を見て、いたたまれないような顔で言うハル。

 行儀良く浴槽に漬かり、洗い場で身体を洗っている者達も居るが、見ればいずれも帝国兵であったり北方軍団兵であったりするばかりで、ついにハル達は“行儀良く”公衆浴場を使用している市民を見つけることが出来なかったのである。


「公衆浴場の使用方法について周知していたはずなのですが…申し訳ありません」

「ううむ、これは酷い、何とかせねば…」


 再びベルガンの謝罪とアダマンティウスのうなり声が耳へと入ったハルは、ふと嫌な気配を感じて後ろを振り返った。

 そこでは史上最悪の事態が進行中であった。


「あっ、こらっ」


 突然の怒声に驚いて振り返ったアダマンティウスとベルガンを置いて、ハルは素っ裸のままその史上最悪の悪事を働いている数名がいる場所へと駆けつける。

 そして額に青筋を浮かべ、手にした木桶をクリフォナム人のでかい尻へと次々に叩き付けた。


 すぱぱぱああん


「うー!?」


 うめき声と同時に止まる水音。

 いきなり尻を思い切り叩かれ、側溝へ立ち小便をかましていたクリフォナムの若者達が目を白黒させている。

 年齢は15歳から18歳くらいといったところだろうか。

 それでも背丈はハルを優に越している。

 若者達は驚き振り返るが、そこに木桶を構えて立っているハルを見て直ぐにその表情が侮りと怒りへと変わった。


「な、何すんだこのちびっ!」

「止まっちまっただろ!」


 4人の若者達は、あんまりない凄みをめい一杯利かせてハルを囲むが、ハルは動じることなく若者達へ説教を始める。


「公衆浴場は便所じゃあないんだぞ」

「うるせえ!」

「どこでしようがかってだろ!」

「したくなったんだからしょうがないじゃないかっ」

「うせろちび!」


 ハルの注意に耳を貸すことなく即座に言い返す若者達。

 周囲のクリフォナム人達も騒ぎを聞付け、興味津々とばかりに覗き見ている。

 やっぱり他人の喧嘩は面白い。

 それまでの喧噪はどこへやら、たちまち浴場内の目がハルと4人の若者達へと向かった。

 一方アダマンティウスは腕組みをしてニヤニヤと笑みを浮かべ、事の成り行きを見守る姿勢であり、ベルガンは額に手を当ててため息をついてはいるが、仲裁へ入る様子はない。




「浴場ではまず身体を洗い、その後静かに湯へ漬かって疲れを癒やすんだ!ここは遊技場でもなければ遊泳場でもない、ましてや便所ではないっ!」


 青筋を浮かべたハルの言葉にクリフォナムの族民達は呆気に取られ、口をぽかんと開いた。

 なぜ、この帝国人は怒り狂っているのだろうか?

 公衆浴場での立ち居振る舞いに問題があると文句を言っていることは分かった。

 確かに使用において守るべき事柄を教示されたが、しかし湯で遊ぼうが何をしようが、それこそ我々の勝手だろう。


まあ……小便はやり過ぎかもしれないが……


 お互い顔を見合わせ、怪訝そうな表情を浮かべるクリフォナムの族民達に対し、浴槽で静かに湯へ漬かっていた帝国兵や北方軍団兵達だけが、ハルの怒声にうんうんと頷きながら拳を小さく握りしめている。


「2度同じ事は言わない、行儀よく利用しろ!」

「う、うるせえっ」


 ハルにずいっと迫られ、思いがけない威圧感に後ずさりながらも虚勢を張る若者達は、それだけを何とか言い返す。

 周囲の目もあり、退くに退けなくなった事もあるだろう。


「……行儀良くするか?」


 更に迫るハル。

 側溝を越えた壁際まで追い詰められた若者達。

 遂にその中の1人が緊張の限界を超えてしまった。


「う、うわあっ!」


 ハルへ思い切り殴りかかるが、こぶしをかわされてひょいと軽く背負われ、大理石の床面へと投げつけられた。

 泥を石壁に叩き付けた時のような音と共に背中から床に叩き付けられて息が詰まって動けなくなる若者。

 うんうん呻いているとハルに足でごろりと俯せにされ、その上に次いで殴りかかった2人目の若者が同じようにハルに投げられ、重ねられる。

更に躍りかかった3人目も足を掬われて尻餅をつき、涙目で唇をかみしめ、ハルの首を絞めようと掴み掛かった4人目の若者は手首の関節を極められて引き摺り倒された。

 そして……


ぱあん うっ

ぱあん あっ

ぱあん はっ

ぱあん ぎっ


 高らかに鳴り響く平手打ちの音とくぐもったうめき声。

 ハルの素晴らしく手首の利いた平手打ちが若者達の左尻へと炸裂したのだ。

 周囲にいたクリフォナムの族民達も、痛そうな顔でその光景を眺めていた。


「言うことを聞かない悪い子供にはお仕置きだ」


 冷たく言い放つハル。

 その言葉に風呂で暴れていたクリフォナムの族民達は慌てて浴槽から上がり、服を脱ぎ、洗濯を止め、一生懸命身体を洗うのであった。




 真っ赤に残る平手の跡を尻に付けたそのままに、若者達は這々の体で浴場から逃げだそうとしたが、敢え無くハルに捕まってしまう。


「な、なんだよっ、もういいだろっ!?」


 驚く若者達にハルは笑みを浮かべると自分も身体を洗い始めた。

  




 水滴の垂れる音だけが響くテルマエ・フレディエ。

 先程までの無秩序状態が嘘のように静謐な空間がそこには広がっていた。

 ハルとアダマンティウス、ベルガンが湯に漬かっている側には、先程の若者達が神妙な様子で湯に浸かっている。


「どうだ?」


 目をつぶったハルが問い掛けると、とろけた声が返ってきた。


「はひ……」

「すごい……」

「良い気持ちです」

「はあ~」


 尻をさすりつつもすっかりくつろぐ若者達。


「これからはこういう使い方をするんだぞ」

「「「「~分かりました~」」」」


 ハルの言葉にとろけた答えが返ってきた。

 フレーディアに風呂が根付くのも時間の問題である。








 極北地域、ハレミア人の大集落



イネオン河畔で完膚無きまでに叩きのめされ、僅か数人だけが逃げられたバガンの一族が、更に奥地にある別の集落までたどり着いた。


 火炎放射で焼けただれた背を庇いつつ、仲間と一緒に逃げのびたもの。

 北方軍団兵の手投げ矢で片眼を潰された者。

 鋭い斬撃を受けて大怪我を負った者。

 手足を焼き溶かされた者。


 全くもって酷い有様の集団がよろよろと覚束ない足取りで現われたのを、集落の者達は悪鬼を見るような恐怖を持って迎えた。

 恐怖は逃げ帰ったバガンの一族の悲惨な姿形自体に対するものから、元はと言えば自分と同じ人であった者達をその怖ろしげな姿へと変えてしまった、辺境護民官とシレンティウムという新たな勢力へと向けられる。

 彼のアルフォード王の後継者を名乗ったそのアキルシウスという黒目黒髪の小さな者は、竜を操り火を吐かせ、クリフォナムの戦士達を鋼で覆い岩のような硬さと為し、南の小柄で決して挫けない戦士を引き連れ、火炎の塊を降らせ、烏の魂を込めて遙か遠くまで狙い過たず矢を射こむ。


 シレンティウムの噂は40万を誇るハレミアでも有数の勢力を誇ったバガンの一族が全滅した事実と合わせて、瞬く間に極北地域に広まっていった。

 アルフォードも怖ろしかったが、あくまでそれは人としての恐ろしさ。

 抗う術はあるし、逃げることも可能だった。

 それに、異民族とは言え人である以上、慈悲というものもある。

 アルフォードは執拗に毎年ハレミア人を攻撃したが、それでも全滅させるようなことはなく、逃げる者は追わなかったのだ。


 しかし、その後継者の残酷さは想像を絶している。

 射殺され、焼き殺され、斬り殺され、突き殺され、最後は溺れ死にさせられて一族は壊滅したのである。

 そこに慈悲の心はなく、戦争の手段と相まってハレミア人はハルの示したハレミア人に対する姿勢に戦慄した。

戦慄は伝染し、クリフォナムに近い土地から更に北へと逃げる者や部族が現れ始め、避難した先に住む同じハレミア人との間で抗争が勃発する。

 それは一所に限らず、極北地域のあちこちで多発する事態に発展し、生来の乱暴さと身勝手さがその事態に輪を掛けて混乱を招き、たちまち極北地域は乱れに乱れた。


 にわかに戦国時代へと突入してしまったハレミア人達。


 本来の目的や理由を忘れて戦いに明け暮れることとなり、その力を落としていったのである。







 シレンティウム北城門前



街路や山々に生える木々の若葉も出そろい、水路を流れる清浄な水の冷たさも消える季節。

 シレンティウム郊外の農地は更に広がり、冬小麦の元気で真っ直ぐな葉が天を突き、牧草は可憐な花々を咲かせている。

 そんな季節のまっただ中、シレンティウムの北城門一体は笑顔の市民で埋め尽くされていた。

 今日は北方遠征を終えたハルが帰還する日。

 3個軍団と部族戦士団を率いてハレミア人を破り、クリフォナムの北部諸族を平定した英雄の帰還する日である。


 事前に伝送石通信と早馬で伝えられた通り、今日、待ちに待った軍団と辺境護民官が帰ってくるのだ。

城門前にはシッティウスを筆頭とする主要官吏に、アルマール族長のアルキアンドら街区代表達、それに随分とお腹が目立つようになったエルレイシアとアルスハレアが居る。

 その横には、満足そうな笑みを浮かべるアルトリウスもいた。


『うむ、流石は我の見込んだ者である!見事フリードの地を統べるとは、残すところあと僅かである!』

「……負担は増えてしまいましたが、これで良かったのかもしれません」


 シッティウスがいささか渋い顔で言うが、エルレイシアが笑顔で付け足す。


「ええ、これで北の動乱や混乱は収まることでしょう。今までと違って、人の交流がどんどん盛んになっていますから、シッティウスさんが心配する程負担にはならないのではないですか?」

「そうで有れば良いのですが……いずれにせよ今は大勝利を喜ぶべきなのでしょうな」


 シッティウスは渋い表情をいささか緩めて応じた。


「お、来たぞ!」


 ルキウスが指さす方向を見ると、ハルとアダマンティウス、ベリウスにクイントゥス、それからルーダを先頭にしてシレンティウムの軍団が現われる。

 そして、足音も高らかに北の台地の裾を回り込んで現われた軍団へ、市民の歓声が爆発した。

 


「お帰りなさい」


 軍団を城門前に止め、事務手続きについて話し合うアダマンティウスやシッティウスを余所に真っ先にエルレイシアの元へと駆け寄ったハル。


「た、ただいま……って、エル、そのお腹……」


 驚きつつも喜びを隠しきれないハルの妙な顔に、エルレイシアとアルスハレアが思わず笑い声を上げた。

 エルレイシアは笑いすぎて目尻に涙すら浮かべている。


「ハルが北へ行く前に、実はどうしようか迷ったのですけれども、気持ちを鈍らせてはいけないと思って……でも、本当に無事で良かった……!」


 そう言ったエルレイシアの涙の質が変わる。


「……心配かけた、ありがとう、もう大丈夫だ」


 お腹を気にしつつゆっくり、そしてしっかりエルレイシアを抱きしめるハル。

 そして抱き合う2人を温かい目で見るアルトリウスとアルスハレア。


「兵士達!辺境護民官殿の奥方がご懐妊!喜べ!讃えよ!」


 アダマンティウスが剣を抜いて叫ぶと、北方軍団兵達も剣を抜き放ち、その剣と盾を一斉に打ち鳴らして歓声を上げた。

 その声に応えるハルとエルレイシアの姿を見たシレンティウムの市民も再び歓声を上げる。

 2度目の歓声が北の城門に轟き、シレンティウムは2重の喜びに沸き上がることとなったのだった。





 シレンティウム市、行政庁舎、執務室



「夫婦水入らずの所を申し訳ありませんが、そちらは夜にでも存分にして頂くとして……早急にカタを付けなければいけない問題が3つばかりありまして、まずは2つ」


 久しぶりに聞くシッティウスの仕事優先を強調した言葉に懐かしさを覚え、苦笑するハルであったが、これもいつものことと軍装のまま促されて執務室へと入る。

 そこには、対照的な2組の使者が既に着席しており、シッティウスが紹介を始めるより先にその使者達が動いた。


「おう、あんたが辺境護民官にしてフリード王の秋留晴義殿か!ますは戦勝お見事!わしは東照帝国西方府都督の黎盛行じゃ、お見知りおき下されい!」

「オランの都、トロニアから参った……オランの民はアレオニー族の族長、クリッスウラウィヌスと申す。この度の大勝利にはオランの民を代表して祝辞を贈ります」


 陽気な声で派手な身振りを交えつつ近寄る黎盛行に対して、物静かな様子で話すのは、オラン人の代表者としてシレンティウムを訪れているクリッスウラウィヌス。

 2人の用件はそれぞれ違うが、シレンティウムの力を当て込んで誼を通じに来たという点では一致している。


ハルは既に東方郵便協会の設置要望について伝送石通信で了承する旨を伝えており、西方郵便協会とは道路を挟んだ反対側への設置が既に済んでいる。

 黎盛行の訪問目的についてもその際報告を受けているハル。

 ハルは2人に着席を促すと自分もシッティウスを横に席へと着く。


「それで、黎都督、東照はシレンティウムに何をもたらし、シレンティウムに何を求めますか?」

「おう余談無しか、まあ、若さ故じゃな、善き哉善き哉…しかしそうじゃな、東照といおうか、わしとしては交易協定と対シルーハへの共同戦線と言ったところかの」


 ハルの直言に、黎盛行は好ましいものを見る目でその目を見つめて口を開いた。


「対シルーハ?東照はシルーハと事を構えるのですか?」

「違う違う、国境紛争は常にあるが、そんなつもりは毛頭無いわい。事を構えたいのはむしろシルーハの方じゃろう」


驚いて問い返すハルに、黎盛行は苦笑しつつ手を目の前でひらひらと振りながらその勘違いを否定した。

 そして、椅子に座り直すと言葉を継ぐ。


「最近東照の物品がシレンティウム経由で帝国に流れ始めたんでな、シルーハの商人連中は利が貪れんでピリピリしとる、交易路を抑えようと考えるやもしれんのでな」

「……それは帝国の東部諸州や我々に対する攻撃があるかもしれないと言うことですか?でもそれでは東照には関係ないのでは?」


 眉を顰めるハルに、黎盛行は大げさに天を仰いで言葉を発した。


「何をゆう!おおありじゃい!帝国に売るわしらの商品は、知っての通り陶器、磁器、絹、茶に高級紙など嗜好品が多い、それ故に平和でないと売れんのじゃ。戦争になったら嗜好品など買う奴は居らんようになってしまう……まあ、その嗜好品の流通を巡っての戦争に原因があるわけじゃが……世の理とはおかしなもんでな、往々にしてそう言うことが起こる。まあ、その辺シルーハの連中も分別あるとは思うが、このままの状態ではあやつらもじり貧じゃ、戦争に勝てば交易路を確保出来てその後の流通を抑えられるから、賭に出ようとする奴は居るかもしれんわ」

「なるほど……しかし、官位は帝国官吏である以上頂くわけには参りません」

「おう、またもやいきなりそこへ来るか。しかし貰うといて損は無いぞ?」

「それでは東照の官吏として働くことになります」


 猫なで声を出して懐柔にかかった黎盛行の言葉をにべもなく拒むハルに、黎盛行は笑みを消し、真面目な声色で語りかける。


「貰ったところで構わんのじゃないか?フリードの王位も兼ねているのじゃ、東照の官位を兼ねた所で問題は無いはずじゃ」

「残念ながらその手には乗りません、王位であれば最上位ですからね、命令する者はいませんが、官位には上級者が必ずいます。もし、私が東照の官位を授与されて、皇帝の命令を出されでもしたら抗えませんし、命令を拒否して不服従を理由に討伐軍を差し向けられても困りますのでね」


 ハルの言葉に満足そうな笑みを浮かべてシッティウスが頷く。

 ちらりとその様子を見て悔しそうな顔をした黎盛行であったが、直ぐさま元の剽軽さを取り戻して言葉を続けた。


「むう、なかなかよう考えとるな。しかし余り言いたくは無いが、東照にこのような西方にまで遠征してくる力は無いぞ?東照も本国では忙しい」


 黎盛行の言うとおり東照帝国は本国で勃発した反乱に手を焼いており、更には南で興った新興国の攻勢にあってその対応に苦慮している。

 大国である為その体力は帝国やシルーハと比べて桁違いである為、未だ西方府にはその影響が表われてはいないものの、以前のように西方へ自由自在に兵を出すことは少なくなった。

 かつて帝国と大陸の覇を競った東照も、老いた大国となっているのである。

 しかし、老いたとは言え大国は大国、油断は出来ない。

 ハルも顔を引き締めて黎盛行へ言った。


「今は無いかもしれませんが今後は分かりません、それに、東方で革命があった場合は後継国家から残党として狙われることにもなりかねません」

「……全く、交渉相手の国が滅びるなどと、言い難いことをずばずばとよく言う、しかしその懸念は至極尤も、参った参った」

「アキルシウス殿は日々成長しておられますので」


 黎盛行が苦笑いと共に吐いた言葉に対し、シッティウスがうっすらと笑み浮かべて応じる。

 黎盛行はどっかりと椅子に深く腰かけ直すと、両手を広げた。


「むう、敵はシッティウス殿、あんただけと思うておったんだが、これは介大成の見込み違いじゃな。全く目当てが外れたわ」


 あからさまにがっかりした様子でため息を吐く黎盛行の姿を苦笑しつつ見ていたハルが徐に口を開く。


「官位はお断りしますが、その他については交渉の余地があると思います」

「……と言うと?」


 再び身を乗り出す黎盛行に、ハルが静かに言った。


「対シルーハの共同戦線は傾聴に値すると思いますが……如何ですか?」

「ほう……では、軍事協力については交渉の余地有り、と?」

「はい、我々の不満分子がシルーハへ逃げてもいますので、お互いの協力は意味あるものと考えます」


 再び椅子に身を沈め、ハルの言葉を思案していた黎盛行はにかっと笑みを浮かべて自分の膝をぽんと打って言う。


「よっしゃっ!乗ったっ!今帝国と東照は準同盟国じゃから、形は地方機関同士の国外協力協定と致そう、本国へそれぞれ承認を求めることにして承認が得られ次第締結じゃ!……後は交易協定じゃな、これはどうするかの?」

「こちらからは麦、肉類、乳製品、野菜類などの食料品が相当量お売り出来ます」

「むう、畜産品は兎も角として穀物や野菜は是非欲しいのう……こちらはさっき言った絹布、陶器、磁器、茶葉などの嗜好品じゃな……それから街道整備はそちらでやってくれ、ウチよりそっちの方が街道普請の技術は優れておる。代わりにこっちで出来ることは何か無いか?」


 黎盛行の提案にしばらく顎に手を当てて思案した後、ハルが答える。


「港湾技術者や川船大工、川船の船乗りを派遣して戴けませんか?」

「ほう……港湾技術者と川船とな?」


不思議そうに尋ねる黎盛行へハルが言葉を継ぐ。


「実は新しく河川航路を開こうと思っているのですが、帝国では河川航路が余り発達していません。しかしそちらは本国で河川航路は盛んですよね?」

「いかにも、我が国では河川航路は非常に発達しておる」


東照本国の情報をハルが知っていたことに驚きつつも黎盛行はこの提案に魅力を感じた。

 東照本国では幾つもの大規模河川が平野を形成し、水稲の栽培が非常に盛んである一方、その豊富な水を湛えた河川や湖沼が陸上輸送を妨げている。

 しかし東方人達はその河川や湖沼を障害物とは考えず、むしろ船舶交通の為の貴重で重要な水路として古来より利用してきた。


 そうして発達してきた東照の河川交通は、運河や河川における港湾整備技術や河川用船舶造船技術、操船術においても帝国より一日の長がある。

 ハルは東照に対して街道整備の見返りとしてその船舶技術の提供を申し入れたのだ。


「よっしゃ分かった、早速手配しよう」

「宜しくお願いします」


 黎盛行は満面の笑みでそう返答して立ち上がると、同じく笑顔で立ち上がったハルとガッチリ帝国風の握手を交わした。







 官位を記した竹簡と官服の入った行李を持って黎盛行が執務室から去ると、のっそりと長身のオラン人が立ち上がってハルの元へとやって来た。


「……あちらの御仁とは話が済んだようだな。では、こちらの話を聞いて貰いたい」


 低い声でそう言うとそのオラン人、クリッスウラウィヌスはハルの正面へと移動して腰掛けた。

 それを待ってハルが質問を発した。


「それで……お話というのは何でしょうか?」

「我等オラン人の総意が決まったので伝えに来た。我らオランの民もシレンティウム同盟に参加したい。ランデルエスから辺境護民官は拒まないと聞いた、本当に我々を受け入れてくれるか?」


 クリッスウラウィヌスの訪問目的は薄々分かってはいたが、改めてそう明言されると重い荷物を背負わされたような感覚を覚えるハルであった。

 しかし以前シッティウスから提供された資料の中身を思い出しながら答える。


「正式な同盟としての参加はまだ無理ですが、参加自体はして貰って構いませんよ」

「そうか……分かった、そちらの事情もあるだろう。では我等の王位を授けるので受けて貰いたい」

「えっ?王位?」


 驚くハルを余所にクリッスウラウィヌスはよどみなく言葉を継いだ。


「そうだ、さっきの官位は断っていたようだがこちらのはオランの王位だ。王より上の者はいない、誰かに命令されることは無い」

「し……しかし」

「聞けばフリードの王位を継承したそうでは無いか。オランの王位はクリフォナムの1部族の王位よりは重いと思うが……是非受けて貰いたい」


 ハルはうなり声を上げて腕を組む。

 幾ら名のみのシレンティウム同盟参加をさせたとしても、王位を受け、オランの王として立つならば、王としてオランの族民達に対する安全保障や生活保護の責任が発生してしまう。

 同時に徴税の権利や戦士招集の権利、非常時における徴発の権利が付与されるとはいえ、今のシレンティウムには背負い切れない負担となる恐れが多分にあった。

 逡巡するハルを見守るシッティウス。

 しかしその顔には何の表情も浮かんではおらず、静かにハルの決断を待っていた。

 その様子を知ってか知らずか、クリッスウラウィヌスは再び口を開いた。


「王位を受けてくれるのであれば、オランの都トロニアの支配権を授与する事になっている、どうか受けて貰いたい」


 トロニアはオラン王に選出された者が支配権を持つオラン屈指の街であり、その大きさは他に追随を許さない程で、人口は約10万人。

 普段は近隣の大族であるアレオニー族が王の不在中街の行政を司っているものの、徴税は王以外に出来ないことになっており、ここ数十年は王不在のオラン人達にとって一種の無税地帯として発展していた。

 その街の支配権を謂わば外国人であるハルに王位と共に託すというのである。

 オラン人の覚悟が痛い程に伝わってくるその申し出に、遂にハルは決断した。


「……分かりました、申し出お受けします。但し今すぐではありません」

「そうか……では何時受けてくれる?」

「この秋過ぎには一度トロニアを訪れます」

「ではその際トロニアで王位継承の儀式を行いたいが、それで良いか?」


 クリッスウラウィヌスの僅かに紅潮した顔しっかりと見返し、ハルはゆっくり口を開いた。


「分かりました……ただ、シレンティウム同盟へオランの全部族が準同盟者という形で参加したと言うことは内外に直ぐ宣言します。これで少なくとも帝国とクリフォナムからの圧力は無くなり、部族間抗争も一旦中止となるはずです」

「有り難い……これでオランの民にも未来が見えた。辺境護民官、英断感謝する」


 ようやくほっとした表情で謝辞を述べるクリッスウラウィヌスへハルは頷くと共に、渋い顔をしたままこちらを見つめるシッティウスに決意の籠った眼差しを向ける。


「シッティウスさん、宣言の文章起草と西方帝国の関係各機関への通知をお願い出来ますか?」

「承知しました、では直ぐに文章を起こしますかな」


 すらりと席から立ち上がったシッティウスは早速自席へと向かい、東照紙へ文書を書き付け始める。

 ハルはその様子を横目に見ながら再び言葉を発した。


「オランの皆さんに宜しくとお伝え下さい」

「承知、オランの民は王のご帰還を心よりお待ち致しますことでしょう」


 


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