第14話 春のシレンティウム 1
シレンティウム市郊外・南城門付近
待望の春がやって来た。
農民達は家族総出で畑を耕しては小麦の播種を盛んに行い、水を撒く。
水路整備と圃場整備が既に冬の間に終了している為、農民達に残された仕事は農耕だけ。
オランやクリフォナムの故郷では土地を貰えず、自由戦士になるか、職人、工人となって帝国や他の場所へ働きに出る以外道が無かった者達も、シレンティウムで土地を与えられて慣れ親しんだ農作業に精を出していた。
当初は3年の約束でそれまで日雇いのようにして働いていた者達も、農場整備がほぼ完了したことから前倒しで農地を与えられており、シレンティウムの農民数は一気に脹れ上がっている。
厳しい労働にも拘わらず、農業に従事する者達は一様に輝かんばかりの笑顔で満ち満ちていた。
西南に広がっていた湿地もほぼ整備が終わり、今はどんどん入植者を入れている状態であるが、噂は噂を呼びシレンティウムの人口は更に脹れ上がって今やシレンティウムの人口は戸籍登録が済んでいる者だけで7万人に達している。
これはシッティウスがドレシネスに命じて戸籍を元に人口調査をした結果である。
自由戦士達が北方軍団兵となり安定した給金を与えられるようになった為、結婚したり故郷から家族を呼び寄せたりしたことや、帝国の退役兵が家族連れで大挙してシレンティウムへやって来たことも大きい。
ただ南西の元湿地帯を中心にまだまだ農地には余裕があることから、シレンティウムは引き続き入植者を受け入れていく旨を内外に宣言している。
ハルはシレンティウム郊外にあるフィクトルのミツバチを見に行った帰り、奇妙な集団と行き合った。
背丈は低いがガッシリとした体付き、特徴的な貫頭衣を身に付けており、その風貌や装束から集団は西にある大陸に住む、西方諸国人である事が直ぐに分かる。
移住希望者だろうか、頑丈そうな馬車を10台ほど連ね、その中には子供も居ることからどうやら家族連れであるらしい。
その先頭に居る布で頭を覆った30歳半ばの女性はハルを見つけると御者台を別の男と代わり、身軽に馬車から飛び降りた。
美人では無いが愛嬌のある顔に人なつこい笑みを浮かべてハルに話しかけてくる。
「ちょっと良いかね?ものを尋ねたいのだけど……」
「何でしょうか?」
ハルが素直に応じると、その女性は更に笑みを深くして言う。
「おや、帝国人にしては素直な良い態度だ……何、今のは気にしないで良いよ、こっちのことさ。尋ねたいというのは他でも無い、シレンティウム市の行政府に居るシッティウスといういけ好かない男さ、どこに行けば会えるのか知っているかい?」
「シッティウスさんですか?自分も同じ方向ですから案内しますよ」
口を挟む間もなく一気に言うのでハルは一瞬戸惑ったが、とにかく道案内が欲しいという事は理解できた。
ハルが理解出来た部分について返事をすると、女性は目を丸くする。
「おやおや……どこまで人が良いんだか。帝国人にしておくには実に勿体ないね!ま、でも、好意には甘えるとしようかね」
女性は笑顔のままそう言うと率いている馬車に合図を出し、ハルの後に続いた。
シレンティウム南城門付近
「これはまた……なかなかに壮麗な城門だね」
女性やその連れ達はシレンティウムの南城門の威容に圧倒された。
帝国内でも五本の指に入る美しさと威風である。
子供達は目を丸くして自分達がくぐり抜ける城門を見上げ、大人達は見えてきた街の中の喧噪と繁栄に目を奪われた。
街路樹は黄緑色の若芽が一斉に吹き出ており、シレンティウムの建物に使用されている純白の大理石にその影を落としている。
水は清浄な流水音を少し暖かみのあるものに変えており、水道橋から滝のように落ちることでしぶきを周囲に撒き、ひんやりとした心地よさで女性達を包む。
そんな瑞々しい都市のたたずまいに、それまでどちらかというと言葉少なく暗い顔でいた者達に笑顔が見え始めた。
しばらくすると長い距離を旅してきたこの一団の、その全員が顔をほころばせながら口々の都市の美しさを褒めそやし、希望満ちる青空市場が開かれている街路を指さしてはその商品を物珍しそうに眺めて批評する。
帝国製の銅貨や銀貨が盛んに遣り取りされ、帝国人、東照人、オラン人、クリフォナム人の商人や物売り達に混じって、遠くはハレミア人やシルーハ人と思しき者達も見受けられる。
通りを時折通る兵士達は皆大柄で金髪碧眼の紛う方なきクリフォナム人であるが、その装備は完全に帝国製で、きっちり隊列を組んで歩く様は北方の蛮族と呼ばれているとは思えないほど堂に入ったものであった。
「何とも奇妙な街だね……まるで夢を見ているようだよ。すごいね」
感嘆する他ないといった風情で言葉を漏らす女性に、前を歩いていたハルが振り返って笑顔で言う。
「もうすぐ皆さんも仲間入りでは無いんですか?」
「ふふふ、そうだね……そうなればきっと楽しいだろうね!」
一瞬きょとんとした女性だったが、すぐに屈託ない笑顔で心底愉しそうに答えた。
シレンティウム行政府前
「ちょっとここで待っていて下さい、シッティウスさんを呼んできます」
「おっと待った待った……そう急ぐものじゃあない。折角なのにここでお別れとはつれないじゃあ無いか、名前ぐらい教えてくれないか?私はペトラ・スィデラ、帝国で言う所の西方諸国人さ、しがない採鉱団の団長をやっているんだ」
女性、ペトラはすいっと行政府へ入ろうとしたハルを慌てて呼び止めた。
ハルはその声に振り返ると納得したという顔で頷く。
「採鉱師?ああ、あなたが精霊付きの採鉱師さんでしたか」
「君……何者だい?」
あっさり正体を言い当てられて身構えるペトラと採鉱師の一団であったが、ハルは人の良さそうな笑顔でその疑問に答えた。
「申し遅れました。私はハル・アキルシウス、帝国北方担当辺境護民官です。シッティウスさんにお願いして皆さんを招聘した張本人ですよ
「何ともきつい冗談だ、まさか君がねえ……」
ペトラはハルの回答に呆れた声を出し、天を仰ぐのだった。
ハルの案内で行政府へそのまま入ったペトラ達は、町中に負けず劣らずきっちり整備された行政府の建物に目を丸くする。
剥き出しの大理石は奇麗に磨かれている事は当然であるが、うっすらと、それこそ直接撫でてみなければ分からないような精巧な浮き彫りが随所に施されているのだ。
「ほう……大したものだね、ここまで凝った装飾をしている行政府なんて他に無い。よほど金があるのだね?」
「あははは……実はそれ、練習なんですよ」
「ん?練習?」
笑って言うハルに怪訝そうな表情を向けるペトラ。
「はい、実は技術を学びに来る人が多くなってしまって、もう装飾を彫る事の出来る建物が無いんですよ。それでまだ装飾をしていない建物を探している内にこの行政府の庁舎が発見されてしまったという訳です。まあ……こちらとしても建物が奇麗になるのは構わないので、万が一失敗した時は親方が直すという約束で自由にやって貰っています」
「全く……弟子育成に協力して行政庁舎へ彫り物をさせるなんてね、他じゃ考えられないね、本当に変った所だ」
「おかしいですか?」
ハルの答えに呆れかえってペトラは言ったが、ハルがその事について尋ねるとにっこりと笑って答えた。
「ああ、極め付きだね……でも、気に入ったよ!ハル君、あんたも含めてね」
「それはどうも」
その言葉にハルは笑いながら言うと、ペトラを執務室へと案内した。
執務室には既にシッティウスがいつも通り分厚い資料を片手に待っていた。
「おや、スィデラ女史……お久しぶりですな。お早いお着きでしたが、道中健やかでしたかな?」
「ああ、お陰様でね。そっちも残念ながらとても元気そうだね……まあ思ったより早く着けて良かったよ。で、あんたが我々に採鉱を許してくれるというのかい?」
ハルと話している時より少し固い声でペトラがシッティウスの言葉に応じると、シッティウスは資料を繰ろうとした手を一旦止めて応じる。
「いえ、それは違います。採鉱を依頼するのは私では無く、辺境護民官であり、このシレンティウムの最高行政官たるアキルシウス殿ですな」
「……そう改めて言われてしまうと面はゆいですね……ですがシッティウスさんの言うとおり、あなた方をお呼びしたのは私です」
ハルがシッティウスの言葉を受けて言うと、ペトラが少し安堵したような顔で応じる。
「そうだったね……ま、シッティウスと違ってあんたとなら上手くやっていけそうな気はするがね」
「心外ですな?」
「……心外だったら疑問形で言うんじゃ無いよ!」
何とか冷静に話していたペトラがとうとう切れた。
しばらく睨み合っていたペトラとシッティウス。
尤もシッティウスはただペトラを見つめていただけであったが、その遣り取りにペトラの方が嫌気が差したらしく、視線を黙って見守っていたハルに向けて口を開く。
「……こっちの訳の分かっていないオヤジはほっとくとしてだね……早速で悪いが、どこの何を採掘すれば良いのかね?」
「あ、はい……では、こちらの図面をどうぞ」
「有り難うございます……ペトラさんもこちらへどうぞ」
ペトラの言葉を聞いたシッティウスは頷きながら資料より1枚の地図を取り出し、ハルへと示した。
ハルはその地図を受け取りながらシッティウスへ礼を述べると、それを机の上に広げてペトラを呼ぶ。
そしてペトラが近づいて来ると、その地図の銅と鉄と記された点を示しながら口を開く。
「こことここ、この南にある北辺山脈の銅鉱と鉄鉱の採掘をお願いしたいのです」
ハルから試掘が既に終わっていること、街道がシレンティウムから直接に繋がっていること、住居や都市設備は既に建設が始まっていることの説明を受け、ペトラは鉱山街を開くことに同意した。
水は北辺山脈からかつての湿地へ流れ込んでいた小川のものを堰き止めて利用し、加えてこの水で水車を回して鉱山街の動力源とするのである。
街の名前はコロニア・フェッルム。
市長はもちろんペトラである。
但し市とは言っても当分はペトラの率いる採鉱師達だけである為、代表権は与えられない。
ペトラの身分も市長と言うよりヘリオネルやレイシンクと同じような街区代表といった位置付けになる。
一通りに話が終わった所でペトラが徐に切り出した。
「私たちの取り分はどうなるのかな?」
すかさずシッティウスが応じた。
「その件については私が……今回の採掘に関してあなた方の自由に出来る取り分は原則ありません」
「……どういうことだね?」
シッティウスの言葉に、眉を顰めるペトラ。
しかしそれに怯むことなく、シッティウスは言葉を継いだ。
「言葉通りです。あなた方の採鉱し、精錬した金属は全て我々が買い取ります」
「買い取りかね……買い取りはまさか固定価格では無いだろうね?」
「もちろん、その都度市場調査をした上で適正価格で取引きさせて頂きますが、当然場所や居住区、設備は我々で持ちますから、その分は割り引いて貰います」
シッティウスの言葉に反駁するペトラの声は固いが、対するシッティウスは極めて平板で、眉筋一つ動かすことなく答える。
「少し暴利じゃ無いかね?」
ペトラの言葉に始めてシッティウスは表情を変え、おやっというような顔で言った。
「ではお引き取り頂いても構いません。他にもここで採掘したいという方々は沢山おりますのでな」
「……組合が黙っていないのでは無いかね?」
今度はペトラがすかさず言うが、再び無表情に戻ったシッティウスは動じない。
「その組合に話を通してあなた方を招聘したのですよ?条件が折り合わなければまた紹介をお願いするだけです……どうしますか?」
シッティウスとペトラがしばらく睨み合う。
横で静かに成り行きを見守っていたハルの顔をふと見たペトラが、ゆっくり笑みを浮かべた。
「どうかしました?」
「いや、何、なんでもないよハル君」
ハルが笑顔で尋ねるとペトラは首を左右に振って言った。
ハルの帝国人高官らしからぬ視野の広さと気さくさ、差別意識の無さは、この都市の居心地の良さの最大の理由であることに間違いない。
いけ好かないシッティウスを含めてという事になってしまうが、都市の頭に立つものの雰囲気をよく生かし、働ける有能な部下ばかりなのだろう。
どの街へ行っても鉱毒を撒く者達として忌み嫌われ、長く留まれないのは職業柄仕方ないと諦めていたが、そんな自分達をわざわざ招聘したのみならず居住区や精錬施設まで用意してくれた。
ましてや採鉱師の団長に過ぎない自分を市長にすると言う。
ペトラの見立てでは、この北辺山脈の北側山麓には相当の鉄と銅がそれこそ半永久的に採鉱できるぐらいの量が眠っている。
上手くすれば自分達のような採鉱師を何組か招き、その他の住民募集と併せて自分達採鉱師の街を作る事が可能なぐらいには、である。
街作りは基礎的な部分は既に終了しており、採鉱師の招聘や今後の開発については届け出さえすれば何をしても良いとまでこの若く魅力的な辺境護民官は言った。
おそらく生きている内にこれ以上の好待遇はないだろうとの結論に達したペトラは、確かめるように話し始めた。
「その、採掘物全量買い上げの条件が外せないというのは……出来た金属の出所を帝国内の者達に知られたくないということだろうね?」
「はい、そのとおりです」
シッティウスが僅かに顔をゆがめるが、それを意に介さずペトラの問いにはっきりと答えるハル。
こういった態度も好感を持てる。
そんな信頼には応えなければならないだろう。
「何より採掘が軌道に乗るまでの当面の間、行政府が雇用してくれるというのが有りがたいね……普通なら採算が合うまで文無し収入無しだからね。それに今回は既に試掘まで終わった手つかずの鉱山だ、採算は直ぐに合うだろう……それにこんな居心地の良い土地はそうはない、我々もそろそろ腰を落ち着けたいと思っていたからね。ま、そのくらいの制約には同意しようか……」
「では?」
ハルの問いに、ペトラはにっこりとひとなっつこい笑みを浮かべた
「うん、いいだろう。シレンティウムのお抱え採鉱師は今から私たちだね。ま、任せておきたまえ、後悔はさせないよ!」
シレンティウム行政庁舎・執務室
ハルの前に、シレンティウムの主立った者達が集まっていた。
執務室の中央に置かれた机には、ハルを頭に
行政長官シッティウス
アルマール族長のアルキアンド
街区代表のレイシンクにヘリオネル
コロニア・メリディエト市長アダマンティウス
コロニア・フェッルム市長ペトラ・スィデラ
フレーディア城代ベルガン
治安長官ルキウス
戸籍長官ドレシネス
都市守備隊長クイントゥス
太陽神殿大神官エルレイシア
が着席している。
顧問官のアルトリウスはハルの少し後ろでぼんやりと浮かんでいるが、今や誰も驚かない。
ここに集まった者達が今のシレンティウムと北方辺境を動かしていると言っても過言では無い。
全員が着席した所で司会役のシッティウスが立ち上がり、徐に口を開いた。
「では、シレンティウムの施政方針についての会議をこれより行います……まずは、アキルシウス最高行政官殿の結婚についてですな。これについて……」
「ちょっと待った!」
「なんですかな?」
ハルが慌ててそう制止をかけると、シッティウスが空とぼけた声で応じる。
「そ、それはこの場で話し合う事では無いと思いますが……?」
「そんなことはありませんな、これは我がシレンティウムにとって一大事ですからな」
「そ、そうなんですか?」
「そうです」
シッティウスにきっぱりと言われてしまい、助けを求めるように周囲を見回すハルであったが、その席に着いているもの全員がこの件についてはハルの敵である事が直ぐに分かった。
平静を装ってはいるが口元がにやついている者、あからさまに笑みを浮かべてこちらを見ている者、興味深そうな顔でこちらを眺めている者、うんうんと何故か同情的に頷いている者など……
唯一エルレイシアだけが本当の笑顔でハルを見つめている。
「よろしいですかな?」
「ど、どうぞ」
シッティウスがハルの様子を見計らって絶妙の間合いで声をかけると、ハルは諦めてそう言った。
シッティウスはハルの承諾を得ると満足そうに頷き言葉を継ぐ。
「では続けます。先程アキルシウス殿の結婚が一大事と申しましたのは決して誇張ではありません。今後予想される交渉相手や西方帝国の有力者、果ては諸外国からの婚姻策を防ぐという意味でかなり重要です。幸いなことに西方帝国に一夫多妻の制度はありませんから、ここでエルレイシア殿と結婚すれば、少なくとも西方帝国内の諸勢力からの婚姻による取込みは防げるでしょう」
「しかし……諸外国はどうか?」
「問題はそこです」
アダマンティウスの言葉にシッティウスはいつもの物より少し薄い資料を手に取り、それを繰りながら答える。
「シルーハ王国と東照帝国においては社会的地位の高い者は妻を多数持つ事が許されている場合があります。またクリフォナムやオランの民も、貴族や王は妾を複数持つ事が多いようですな」
「ああ、そうだな。既にクリフォナムの南部諸族において辺境護民官殿へ娘や一門の女を嫁がせようとする動きがあるが……族長達はあれだけ発破をかけたにも関わらず辺境護民官殿に動きが無い事に業を煮やしているだけだ、エルレイシア殿との婚姻を発表すればおさまるだろう」
アルキアンドの発言にレイシンクとヘリオネルが苦笑しながら頷くと、シッティウスが言葉を継いだ。
「結婚をしていれば諸外国に対しても辺境護民官殿の出身母体である西方帝国の風習に合わないと突っぱねる事が十分可能です。ですから非常に重要なのです。それで式次第と日取りなのですが……」
「ち、ちょっと待った!」
「なんですかな?」
ハルはさっきと全く同じ言葉の遣り取りで話の流れを中断させると、恐る恐るといった風情で疑問を投げかけた。
「今ふと気が付いたんですが……どうしてみんな、その……自分エルレイシアに結婚を申し込んだ事を知っているんですか?」
「顧問官殿から聞きましたが、ご相談などされなかったのですかな?」
「え……誰にもそんな話はしなかったはず……ですよ」
さも当然だという口調で答えるシッティウスにハルが考え込みながらつぶやくが、はたと思い当たって勢い良く振り返ると、既に明後日の方向を向いているアルトリウスが居た。
『うむ、覗きの誹りは敢えて受けよう!』
明後日の方向を向いたまま腕組みをしたアルトリウスが大威張りで答える。
ハルはここ数日間の市民や官吏達の生暖かい声援や視線の理由、あるいは言われなき?怨嗟の声に合点がいった。
「先任っ!」
『うほん』
ハルの非難めいた呼びかけにも応じずアルトリウスは咳払いだけを入れ、無言で明後日の方向を見ている。
「よろしいですかな?」
「は、はい」
シッティウスの言葉にハルは追求を諦めて席に向き直った。
皆の自分を見る視線が痛い。
下手をすればエルレイシアに言った言葉まであちこちで吹聴されているかも知れない。
照れからにこにこと満面の笑みを浮かべているエルレイシアの顔を見る事も出来ず、ハルはシッティウスの配り始めた日程表と式次第が記された紙に目を落とした。
全員にその紙を配り終えると、シッティウスは徐に言葉を発する。
「さて……皆さんのお手元にお配りしました表は、今回のシレンティウム同盟締結式と併せて執り行いますアキルシウス殿の結婚式を含めたものです。同盟締結式を済ませた後はそのまま結婚式へと自動的に移ります。参列者の顔ぶれは変りませんが……1人難物が来賓として来るかも知れませんな」
「難物、ですか?」
ハルが顔を上げると、シッティウスが頷いた。
「はい、実を申しますと私の州総督時代の部下で今帝都に勤めている者がおりまして、その者からの情報なのですが……まだ正式決定では無いものの皇族が1人監察官としてこのシレンティウムへ来るそうなのです。その候補に上がっているのが“あの”ユリアヌス殿下です」
「ほう……ユリアヌス殿下、奇人殿下か」
アダマンティウスがぽつりと漏らした奇人殿下ことユリアヌスは20代後半で、マグヌス帝の養子。
父親はマグヌス帝の甥であるユリウス殿下で、兄妹は姉が1人に弟と妹が1人ずついる。
ユリアヌスは皇族らしからぬ振る舞いで皇族や貴族からは鼻つまみ者扱いを受けている一方、帝都の市民や兵士、下級官吏からは非常に人気がある。
一兵卒に混じって軍事訓練を受けたのみならずそのまま海賊討伐に出てしまったり、市井の商人に身分を隠して弟子入りし、数ヶ月間勤めた事もあったという。
帝都の居酒屋に数名でふらりと現れて飲み食いし、酔っ払った挙げ句に道行く貴族の馬車に行き当たって喧嘩になったというのは最近の出来事であるが、過去の同じような出来事は数え切れないほどだ。
そのたびに行方不明となった皇族を秘密裏に探す為、皇帝宮殿からかなりの人員が動員される羽目になることから、皇帝宮殿に住まう者達からの評判はかなり芳しくない。
皇位継承順位は高いものの、本人に余りその気がないのか奇矯な振る舞いからか、そう言った争いとは無縁であると見なされている皇族の1人である。
「政治的には中立と言って良さそうですな。マグヌス帝の施策には若干反抗的で、考え方はどちらかと言えば中央官吏派ですが思想が一致すると言うだけで派閥に担がれているという事はありません。むしろ今の執政官であるカッシウス殿とは距離を置いています。監察官に任命されたとすれば、皇帝による明らかな厄介払いですな」
ぺらぺらと資料を繰りながら、シッティウスがそう断じた。
幼少期は利発と評判であった為、息子のいないマグヌス帝が甥であるユリウスに頼み養子に貰い受けたが、長ずるにつれて奇矯な振る舞いが増え、今はマグヌス帝もその扱いに苦慮しているという噂である。
シッティウスの言葉は皇族に向けるものとは思えない程辛辣だが、まさにそれ以外に表現しようのない人選であるためハルも思わずこぼした。
「来てしまうのであれば仕方ないですね……」
「おそらく、近々に帝都から通知が来ると思います。その日程の事を含めて今日は今一度このシレンティウムの方針と申しましょうか……今後についてアキルシウス殿の存念を聞かせて頂きたいのです。それ次第では今後の施策や帝国への対応、諸外国への対応が変ってきますので」
シッティウスがそう言うと、出席者全員が改めてハルを注視した。
ハルは全員の視線を受けながら一呼吸置き、エルレイシアを見てから徐に口を開く。
「そうですね、私の迷いも……なくなりましたし、お話ししないといけませんか」
「では?」
「はい、自分は最終的にこの地に“北方連合国”を立ち上げるつもりです」
「北方連合?」
聞き慣れない言葉にアルキアンドが尋ねる。
「はい、今のシレンティウム同盟を発展させ、シレンティウムを首府にした北方辺境の新たな国です。当分の間は部族社会と都市社会が混在する国になると思いますが、西方帝国の制度を取り入れつつも、西方帝国の悪弊を廃した形を目指したいんです」
「それは……西方帝国との交流はどうするんだい?」
ペトラが続いて質問するとハルはペトラを見つつ一つ頷いて答えた。
「さっきも言ったとおり西方帝国の制度や良い所、優れた技術はこれからもどんどん取り入れていくつもりですから、敵対するつもりは全くありませんし、当然交易もします。それにこの北方辺境は西方帝国の正式な領土ではありません」
「まあ、それは間違いない」
ハルの言葉にアルキアンドが合いの手を入れ、ハル無再び頷いてから言葉を継ぐ。
「ですから西方帝国の領土を切り取って自立する訳ではないので、上手くいけば帝国にとっては元手なしで属国の一つが増えたとでも思ってくれるでしょう。元々、自分は左遷された上に帝国からは何も与えられていませんからね」
『わはは、左遷官吏であった頃が懐かしいであるな!』
ハルの言葉にいつの間にか元の位置に戻っていたアルトリウスが笑いながら言うと、ハルも笑顔を浮かべていたずらっぽく言葉を継いだ。
「尤もアダマンティウスさんや帝国の兵士は5000人ばかり貰いましたが、こんなのは北方辺境の国境警備を肩代わりするお駄賃みたいなものです。貰った内に入りませんよ」
「うむ、何なら全員一旦辞職してシレンティウムに雇い直して貰っても良い」
うんうんと頷くアダマンティウスが言うと、シッティウスが何時ものしかめっ面で資料に書き込みをしながら発言した。
「なるほど……よく分かりました、いずれは自立を、という事ですな」
「ええ、近隣諸国や諸族とはなるべく友好的な関係を築いていきたいと考えています」
「東照帝国は良いとして、シルーハ王国は帝国と敵対的だぞ?」
ハルは自分の言葉に質問するルキウスへ向き直り、答えを口にする。
「問題ないよ、むしろ双方の仲介の労をとって、西方帝国とシルーハ王国の両方へ恩を売る事も出来るだろ」
「ああ……そうかあ、そうだよな。確かにシレンティウムと帝国は別の国だもんな!」
ルキウスが感心したように唸った。
「そこで、相談というか……問題なのはその監察官なんです。できればシレンティウムへ来る時期を遅らせて貰いたいんですが、何とか出来ませんか?」
ハルの言葉にシッティウスがぴたりと筆を止めて反応した。
「ふむ……同盟締結式には参加させたくない。そう言われるのですな?」
「そう言うことです。西方帝国の息が掛っていると思われるのはいやですし、そもそも帝国の皇族を入れてしまえば西方帝国と各部族の同盟に意味がすり替わってしまうかも知れません」
『例えその意図が無いにせよ、そう曲解する者は特に西方帝国に多かろう』
ハルの言葉を補完したアルトリウスの言うとおり、西方帝国のシレンティウムに否定的な勢力はおそらくそう曲解し、何らかの仕掛けを施しかねない。
シッティウスは別の資料に書き込みをいくつかすると徐に口を開いた。
「分かりました、では同盟締結式と結婚式を早めてしまいましょう。万が一にも早く来てしまった場合は、アダマンティウス市長の権限でコロニア・メリディエトで足止めをして貰います」
「それくらいは造作もない。何日でも足止めしておこう」
一旦散会となった会議の後、執務室にシッティウスとルキウスが残る。
席に着いたままのシッティウスが徐に尋ねた。
「お話というのは何でしょうか?」
「自立するという方針を立てたのは良いんですが、その事によって市民がどういう反応を示すか、という事について検討しておきたいんです。我々行政府の人間は多分問題ないでしょうが、クリフォナムやオランの人はともかくとして、帝国から移住してきた人たちの心情が心配です」
「たしかになあ、北方連合は実現すりゃ、故郷を捨てる事になっちまうしなあ。でもよ」
ハルの言葉にルキウスがいつもと違って少し深刻な様子で言うが、最後は言葉を濁す。
それまで帝国の一部として稼働してきたシレンティウムが帝国から自立した時、帝国からの移住者達はその故郷をと切り離されてしまう事になる。
ハルは自分が故郷に戻らない決心を付けた時の喪失感と寂寥感を思い出し、同じ気持ちをシレンティウムの市民が味わう事にならないだろうかと心配したのだ。
自立を果たした時、シレンティウムの市民に動揺が広がる事態は避けたい。
帝国との関係が上手くいけば、その気持ちはある程度緩和されるだろうが、万が一にも帝国と干戈を交えるような事態に陥った時、その不安が爆発しかねないだろう。
「退役兵の皆さんはある程度心づもりも出来ているでしょうが、その家族となると話は別ですし、帝国に家族や親戚を残してきている人たちも多いはずです」
「確かに……難しい問題である事は間違いありませんが、これは解決するにはそれぞれの気持ちを切り替えて貰うしかありませんな。まあ、退役兵協会やシレンティウム在住の帝国から来た市民達には代表者を通じて話を通しておきましょう……それでもこのシレンティウムから市民達が離れる事はないと思いますが」
ハルの言葉にシッティウスはそう言いつつルキウスを見る。
ハルが怪訝そうな顔で2人の遣り取りを見ていると、ルキウスは片手を上げてシッティウスの視線に答えてハルに向き直るとつらつら話し始めた。
「さっき言いそびれたんだが……そりゃ、当たり前だろ!こんな居心地が良くて住みやすい街は他にないからだよ。食いもんは新鮮で旨くて水は奇麗で清浄、街は清潔、偉そうな軍人や官吏、貴族はいないし税金は安い。治安は良い上にこれからの発展性もある、まだまだあるぞ?こりゃ俺が巡回してて拾ってきた市民の声だからな、間違えんなよ?それと街に対する悪口は陰でもあんまり聞かないぜ」
「と、言う訳です……アキルシウス殿はもう少し自信を持っても良いと思いますな。このシレンティウムはもう既に他の西方帝国の街とは違う要素で成り立っているのです。少しの動揺はあるでしょうが、私たちの見立てによれば例え明日独立を宣したとしても、然程の混乱は起こりませんでしょう」
ルキウスとシッティウスの説明に、ハルは拍子抜けした思いで椅子に深く腰を沈めた。
「そうですか……」
どうやらハルの心配は杞憂に終わりそうである。




