第13話 辺境護民官のある一日 2
同日夕方過ぎ、テルマエ・シレンティウメ
ハルとルキウスは一緒にプリミアのいる公衆浴場を訪れた。
すると帳簿を付けていたプリミアが笑顔で応対してくれる。
「あ、ハルさん、ルキウスさん。いらっしゃいませ~」
「外れた時間に悪いね、お邪魔するよ。はい銅貨3枚」
「ほいっと、俺も……はい」
ハルに続いて銅貨を差し出すルキウス。
2人分の料金を受け取り、プリミアはにっこり笑みを浮かべた。
「有り難うございます。男性は左手へどうぞ」
「分かった。じゃあまた」
「では、ごゆっくり」
帝都では入浴時間によって男女を分けていたが、シレンティウムでは男女別の湯船や脱衣場が設けられている為1日中入浴が可能となっている。
日々厳しい労働に明け暮れる移民達にこの温泉は大変に好評で、銅貨3枚という安さもあって通う者達が後を絶たない。
シレンティウムに風呂の習慣が定着しつつあると共に、民族の壁を超えた公共道徳が芽生え始めていた。
テルマエ・シレンティウメの決まりとしては
1 浴槽に入る前には必ず身体を洗うこと
2 浴槽で洗濯をしないこと、また着衣のまま浴槽に入らないこと
3 浴槽での遊泳は禁止する
4 浴槽においては他の者の迷惑となる行為全般を禁止する
などが主なものである。
初日は少し混乱もあったが帝国での公衆浴場利用経験者がいたこともあって、今のところ大事には至っていない。
いつも昼から夕方にかけては盛況で芋洗い状態になってしまったようだが、豊富な源泉を持つ温泉である為に湯は常に奇麗な状態で保たれている。
ハルとルキウスの2人は偶然行政庁舎内で鉢合せて泥だらけの互いを見て笑い合ったが、お互いに公衆浴場へ行く途中である事を知って同道したのであった。
ハルは、兵士の訓練に飛び入り参加してしまったことで遅くなり、ルキウスは帝国から張り込んだ詐欺師達を摘発していた為にこちらも少し遅くなってしまったのだったが、そのおかげでほぼ貸し切り状態の風呂に入ることが出来そうである。
ハル達が話しながら脱衣場へと消えたのを見送ったところで、プリミアはオルトゥスから声をかけられた。
「お姉ちゃん、交代だよ~」
「あ、オルトゥスありがとう、お疲れ様」
「ううん、大丈夫だよ~お姉ちゃんも今のうちにお風呂入っちゃえば?」
オルトゥスの言葉にプリミアは考える。
確かに今日はお客もいつもより少ないし、最初はぎこちなかったクリフォナムやオラン出身の従業員達も接客や仕事に随分慣れてきた。
今のところ仕事上の心配事もなく、大きな予約も入っていない。
たまには早くお風呂を楽しむのも良いだろう。
「そうね……じゃあ、よろしくね」
そう返答した姉に笑顔を向けたオルトゥスは受付をプリミアと代わった。
「うん、任しといて、ごゆっくり~」
テルマエ・シレンティウメ、男湯
手早く身体を洗ったハルとルキウスは、楽しそうに話しながら浴槽へと向かった。
「いやあ~こんな良い風呂には入れるとは思わなかったぜ」
「ああ、本当に……しばらくは身体を拭くぐらいしか出来なかったからなあ~はふう」
こ~ん、と木製の桶を置く音が響き渡り、浴槽から溢れた湯がゆっくりと床を流れる。
ぽちょん……ざああああ
さわさわさわ……
脱力して肩まで湯船にどっぷりつかるハルとルキウスは、感嘆の声が混じった深いため息を同時についた。
すっかり落ちついてしまったハルは周囲を見回して感心する。
総大理石造りの公衆浴場の内部は例によって帝都のものとは趣を異にしており、クリフォナムの神話や動植物の浮き彫りが主体で帝国風の人物像や神像は余りおかれていない。
そして天井に嵌め込まれた採光窓からは奇麗な夕焼け空を見る事ができた。
正に北方辺境ならでの趣向、夜であればきっと満天の星空が楽しめることだろう。
「うあ~溶けそう……」
「んう~イイなあ~」
目をつぶり情けない声を出す2人に、どこからともなく含み笑う声がしたような気がしたが、湯につかってすっかり油断している2人は気付かず、どっぷり風呂につかったままその心地よさを堪能し尽くしていた。
同時刻女湯
ぴちょん……ざああああ
水滴と湯が静かに流れる音が緩やかに満ちる浴場内には2つの人影。
金色の髪を結い上げたエルレイシアと、艶やかな黒髪を同じように結い上げた楓が並んで湯につかっている。
さわさわさわ
湯が大理石の床を流れて排水溝に向かう音に紛れ、隣り合う男湯から間抜けな声がかすかに聞こえてきた。
「ふふふ、どうやら隣にハルが来たようですね」
「えっ、本当~?じゃあ、ボクちょっと声掛けてこようっと……あたっ、な、なにするんだっ!」
目を閉じて浴槽につかったまま嬉しそうに言うエルレイシアに、楓が反応して浴槽から僅かに身を浮かせるが、はっしとその腕を捕まえられる。
「駄目です……ハルとは私が先にお話しします」
浴槽につかった状態で手だけを伸ばし、楓を捕まえたエルレイシアがきっぱりと楓に言った。
「な、勝手に何言ってるのさっ」
「そうですね、今なら向こうへ行って、うふ」
「あ、えっ、本気っ?」
「とにかく貴女は駄目です」
小声でつぶやくように言った言葉を楓が聞きとがめるのを遮り、エルレイシアは強引に楓を自分の方へと引き寄せる。
「貴女の魂胆は分かっています」
「え?」
「あなた……又従妹なのにハルを愛していますね?狙っていますね?」
「な、なにさっ、良いじゃん別に!ハル兄はボクだけのハル兄なんだから!」
エルレイシアの背後からの言葉に一瞬身を固めた楓であったが、直ぐに立ち直って言い返す。
エルレイシアにばれていたというのはまあ、予想の範囲内であるし、エルレイシアが又従妹なのにと言ったが、別にハルと楓が結婚することについても問題は存在しない。
「いいえ、それは違います。ハルは私が……私と一緒になります」
「そんなの認めないっ、ハル兄を一番スキなのはボクなんだから!」
「うふふ、負けませんよ」
そう言いつつガッチリと楓を抑え込むエルレイシア。
「は、離してよっ……む?」
「どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもないよっ!」
引き寄せられたことで身体同士が接触した所で楓は抵抗を一瞬止めるが、エルレイシアから問いただされて言葉を濁した。
しかし言葉を濁されたエルレイシアは楓が何を気にしたのかを直ぐに理解する。
身体の接触している所を見れば明らかであろう。
「うふふふ、それ程でも無いですよ?」
くっと胸を反らしつつエルレイシアが言うと、楓は唇を僅かに噛んだ。
「むむむ、く、悔しい……」
「でも、うん、良い弾力です」
「あっ、ん……へ、変なことしないでよっ!」
楓の言葉を聞いたエルレイシアがそう言いながら手をその前へと伸ばして触れると、楓はびくっと身体を反応させて言った。
抗議を意に介さずエルレイシアが触れ続けた為、楓が暴れ始める。
「やめっ?あっ!やん」
そうして2人だけで騒いでいる所へ、プリミアがやって来た。
「あの、すいません……あまり騒がないで貰えますか?」
先程から2人の会話を聞いてはいたものの、出来るだけ関わり合いにならないようにと少し離れていたが、お湯を跳ね散らかし始めたのを見て義務感から注意しようと意を決して近づいてきたのである。
それに非常に気になる会話が交わされてもいた。
「あら、どうもロットさん。貴女にも言わないといけない事があります」
「え?は、はい。なんでしょうか」
盗み聞きに近い形で楓とエルレイシアの会話を聞いていたプリミアは平静を装うとしたが、目が泳いでしまったことで失敗した。
含み笑いするエルレイシアと、苦笑いしている楓を見て下を向くプリミア。
エルレイシアは、笑みを消し、少し真面目に話し掛ける。
「貴女もハルのことを好きですね?」
「え、え?え、どうして?あ、ええっ?」
いきなりの直言。
しかも風呂場での追及に動揺するプリミア。
「……プリミアもそうだったんだ」
「私は最初から分かっていましたよ」
楓とエルレイシアの言葉に、プリミアも意を決して顔を上げる。
「あ、あの、それが……その、いけませんか?」
「私はハルのことを愛しています。ですから貴女もはっきり言って下さい」
「……うう」
しかし決定的な言葉を書いた返答はエルレイシアを納得させることが出来ずに、更なる追及を受けてしまった。
「プリミア~ボクもハル兄のことは大好きだよ」
助け船を出すかのような楓の言葉で、プリミアは感情と湯温でぐらぐらする頭を何とか固定し、きっとエルレイシアに向き直って答える。
「はううっ、好きでふっ……ああ」
呂律が怪しくなって間抜けな言葉を発したプリミアであったが、楓もエルレイシアも笑うこと泣く満足そうに頷いた。
「うふふ……やっぱりです。ハルは素敵ですからね、無理もありません。でも、譲るつもりも負けるつもりはありませんよ」
「むむうっ」
「そ、そうでふか……」
エルレイシアの宣言に唸る楓に再び下を向くプリミア。
「誰を選ぶかはハル次第ですが、誰が選ばれても恨みっこなしですよ?」
「分かってるよっ」
「……はい」
エルレイシアの言葉に、楓とプリミアも応じる。
「じゃ、じゃあ私は……」
突如始まった激しい女の戦いに身を投じてしまい、湯中りしそうになったプリミアが立ち上がると、ふとその光景を見ていた楓が目を丸くして言った。
「む、プリミア……でかいっ」
「えっ?」
ぴたりと動きを止めて自分を見つめてくる2人に、少し後悔と怯えが混じった気持ちで声を漏らすプリミア。
「あら、本当ですね、それに、奇麗な肌……」
「あ、あの、どうして2人とも近寄ってくるんですか?」
それでもにじり寄る2人に危険を感じ、背を向けた所で低い姿勢から楓が飛びついてきた。
「えいっ!」
ざばっと湯が大きく揺れる。
「あっ!?」
「う~ん、ボクのより随分柔らかいな……」
「や、止めてください楓さんっ……あっ、だ、だれか助けてっ」
同時刻、男湯
どっぷりと湯船につかって全てを湯に委ねていた2人の耳にも、隣の女湯からの嬌声が入ってくる。
「ふ~ん」
「まあ、ねえ」
さあああああ
湯の流れる音もその声を消すことは出来ず、他に人がいないこともあってその会話の内容は容赦なく2人にまで届き続けた。
それを聞いたルキウスが鼻を鳴らし、ハルは黙り込む。
ぴちょん
しばらくその嬌声を耳に入れつつ沈黙して湯に浸かる2人。
やがてプリミアの悲鳴が上がった所で、徐にルキウスが口を開いた。
「ハル……」
「何だ?」
「お前さあ……今の聞いてただろ?」
「……」
「なあってよ~聞こえたろ~?」
「まあ……ね」
「誰にすんだよ?」
「う……ん」
「なあ、言えよぉ。友達だろ~」
「……言えるか、そんな事」
ささああああ
無言で湯につかり続ける男2人。
再度女湯から上がる嬌声と共に、片方から静かな闘気が立ち上る。
「……色々想像しちまうなあ?」
「ああ……」
「……ふう」
「ん……」
「……お前さあ」
「うん?」
「……ずるいぞっ!」
「わぶっ!ごぼっ!?」
突如ハルに襲いかかるルキウス。
「こんにゃろ~!ちゃんと選べってんだ!1人でも泣かしたらぶっ殺す!」
「そ、そんな無茶なっ。や、やめ……ごばはっ?」
その日の夜、シレンティウム南の城門
最近人が増えてきたシレンティウムではあるが、未だ手つかずの街区も多く、特に南街区は未だ人の住まない場所も多い。
これは東と西に開発の容易な土地が存在している一方で、南街区に近いのはかつて湿地だった土地で、まだ十分圃場整備や用水路が整っていないこともある。
しかし、南の城門は帝国からやってくる人たちが最初に目にするシレンティウムであり、アルトリウスに作られたハルモニウム時代の製作による城門は尤も華麗で威風堂々としたたたずまいを見せていた。
新たな装飾も加えられ、大理石は夜目にも鮮やかな白色を浮き立たせており、清らかな水道水の流れる音と相まって、周囲はまるで幻想郷のようである。
その南の城門へ登る人影が2つ。
見張りの兵は夜間塔に登らず、城門付近を哨戒しているため、今は無人の城門の頂上へたどり着いたのはハルとエルレイシアの2人。
公衆浴場から一緒に帰り夕食を共にした後、ハルはエルレイシアを散策へと誘ったのだ。
今までも時折こういう散歩はすることがあったので、エルレイシアは特に思う所無くハルの誘いに応じた。
「うん、思った通り良い景色だ……」
「ええ本当に……また今夜は良い月が出ていますから、一層周囲が奇麗ですね……」
天には満月が輝き、それを彩るように様々な色の星々が隙間無く夜空を埋めていた。
それを見上げる2人の立つ周囲を、緩やかな暖かさを含んだそよ風がするりと抜けてゆく。
春の季節を思わせる土と草花の匂いが混じる風が2人の気持ちを小さくざわめかせた。
シレンティウムは都市成立後初めての春をこれから迎える。
農民達は今や遅しと圃場整備に勤しみ、播種の準備をぬかりなく進めている。
市民はこれからの未来に大いなる希望を抱き、日々生活に、仕事に努めていた。
そんな思いを抱いたハルがふと後ろを見れば、そこには小さくも煌々と輝く家々の灯火。
かすかに聞こえる楽しげな音楽は、繁華街にある居酒屋だろうか。
耳を澄ませば、小さな子供のむずかる声や赤ん坊の泣き声も聞こえるようだ。
それを窘めようとする両親の困ったような声もする。
自然とほころぶ口元をそのままに、ハルはエルレイシアへ静かに語りかけた。
「聞こえる?……この声」
「ええ、しっかりと」
「見える?この街の静かな幸せが?」
「もちろんです」
ハルが視線を戻すと、そこにはにっこりと微笑むエルレイシアの顔があった。
「おつかれさま、ハル。あなたはここで為すべき事を為しました」
エルレイシアの思いのこもった言葉にハルは首を左右に振ると口を開く。
「今まで有り難う。ここまでこれたのはエルレイシア、君のおかげだ」
「いいえ、私は何もしていません……私は最初に少し族民との橋渡しをしただけ、後はハル、あなたが人を集め、街を作り、戦いを経てこのシレンティウムにこんな平和と日常をもたらしたんです」
「それでも……あの日あの時に君との出会いが無ければ、今の自分は無かったから」
ハルはそう言いながらエルレイシアの両手を正面からゆっくりと包み込むように取り、そして自分の手で温めるように握りしめる。
「今日は感謝と、それから……お願いがあって……」
「……お願い、ですか?」
嬉しさいっぱいで自分の手をハルに任せつつも、エルレイシアは少し驚いていた。
今まで彼からこういう行動を取ったことは無いからである。
目の回るような高揚感に囚われたエルレイシアが軽く混乱していると、ハルは徐にエルレイシアの左手を開き、その中へ金色の指輪を入れた。
「ハル!これは……」
手の中の金色に輝く指輪を見て驚き喜ぶエルレイシアを正面から真剣な眼差しで見つめ、ハルは深呼吸してからゆっくりとその言葉を紡いだ。
ハルの言葉をエルレイシアは胸元でぎゅっと指輪を握りしめたまま身じろぎせず聞く。
「エルレイシア、君が必要だ……今までも、これからも、だから一緒に来て欲しい」
風が吹く。
春の風がゆっくりと吹き、街路樹の梢を揺らし、葉擦れの音を立てた。
そして戻る静寂。
「まだまだ為すべき事は、為したいことは沢山あるんだ……その、上手く言えないけど、エルと一緒に為し遂げたいことが一杯ある。街のことも、2人のことも、それからその他のことも……」
「ハル!」
ハルの言葉を途中で遮るように、エルレイシアは指輪を握ったままハルに身を預けた。
そしてそのまま何も言わず顔をハルの胸に埋めると、エルレイシアは小さな声で話し始めた。
「……ずっと待っていました、ハル、ずっと待っていたんです。不安だったんです」
衣服を通じて温かい湿り気を肌に感じ、ハルはそっとエルレイシアの背中に手を回した。
「ごめん……やっぱり、なかなか覚悟が決まらなくて……」
捨てられなかった故郷へ帰るという選択肢。
一度は諦めたが、楓の来訪がその選択肢に現実味を与えてしまっていたのだ。
帝都で下級官吏として勤めたのは、故郷である秋留村へ仕送りをする為。
あの時の故郷は全てにおいて疲弊し、復興に少しでも資金が必要だった。
西方帝国軍総司令官の布告で、群島嶼の衛士や剣士は高給での仕官が認められていたが、戦いに敗れて刀を折り、弓弦を切ったハルに再び戦争に従事する気持ちはその時失せていたのである。
ヤマト剣士の誇りはただ戦う事だけでは無い。
戦いの中にだけ存在する物でも無い。
戦いとは守る為のものであり、獲得する為のものであり、存在を示すものである。
ハルは群島嶼と西方帝国の戦いの中で、どの目的も果たせず意義と方向を見失った。
親族を戦いの中で失い、故郷を焼かれ、主君の降伏、それに伴う解雇という形で最後の存在を示す誇りすらも奪われたハルは、ヤマト剣士としての存在意義を一旦全て奪われたのである。
故郷の復興に自分の剣士としての役割は無く、群島嶼内で自分が守れなかった物を見ながら生活することに苦痛を感じたハルは、故郷を離れて少し自分を見つめ直し、そして世界を知り、故郷に対するせめてもの罪滅ぼしにと復興資金を得るべく帝都に出た。
当然いつかは故郷へ帰るつもりでいた所を、貴族との諍いの結果数奇な運命がハルをこの北方辺境へと誘ったのだった。
伝統を汚し、誇りと守るべき物を失い、連綿と受け継がれてきた故郷の人と物を失ったハルは目を曇らせていた。
左遷時も最初は適当に過ごしてから、退職時の纏まった金を得て故郷へ帰ることを考えていたが、2つの出会いが彼の心に変化をもたらす。
北方辺境で真っ直ぐに生きる太陽神官と、過去に敗れ、死す身となっても自分の役目を何とか果たそうと画策する帝国軍司令官である。
最初は惰性もあったかもしれない。
口車に乗せられていたのかも知れない。
しかし今、自分にはシレンティウム市とその市民という守るべきものが出来、辺境護民官としての存在意義を大いに示すことが出来ている。
先任から伝統と誇りも受け継いだ。
形も場所も人も全てが異なるが、一度失ったもの全てが今ここにある。
これを再び失うことは出来ない、守らなければならない。
「エル、今まで不安に思わせて悪かった……でも覚悟を決めた。一緒になってここに残るよ、例え辺境護民官をクビになってもね」
「大丈夫ですよハル、父から授かったフリードの王位が残っています。それに私はハルが辺境護民官だから好きになった訳ではありません」
ハルがきっぱりそう言うと、エルレイシアは涙に少し濡れた顔をハルから離して答える。
その答えに苦笑しながらハルはエルレイシアが握りしめていた指輪を取り、その左手の薬指へそっと嵌めた。
「これは帝国の風習、それからこっちは故郷の風習」
ハルはそう言いながら背中に差していた短い守り刀を外し、エルレイシアに手渡す。
エルレイシアの普段身に付ける長衣の色に合わせ、鞘と柄は白色で揃えられている。
「これは?」
「守り刀っていうんだ。剣士の妻は必ず持つ護身剣のこと。はい、後ろ向いて」
長衣の帯の上から剣帯で守り刀をハルに結わえられながら、エルレイシアはうっとりと月明かりに光る指輪を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「妻……」
しばらくしてハルが声をかける。
「はい、出来た」
ハルの言葉でくるりと振り向いたエルレイシアは満面の笑顔。
「ハル、もう離しませんよ?私は何があってもあなたに付いていきます」
「こちらこそ……待たせてごめん、これからも宜しく」
笑顔でそう言いあった2人は、しばらく見つめ合った後、そっと唇を重ねる。
ハルが静かにエルレイシアの腰に手を回した。
暖かさを増した風が2人の周囲を舞う。
「あ……ハル……んっ」
「……」
1度離れた2人は熱に浮かされたような熱い吐息を同時に吐いた。
そしてもう一度。
月明かりの下で2人は何時までも重なり合ったまま時を過ごしたのだった。
南城門、弓射設備
術で気配を消し、息を殺して遠目に2人を見守る別の2人がいる。
ぼんやりと光る方が小さな声で言った。
『ふむ、やはりな……今日あたり決めると思うたわ、我の見立てに間違いなかろうが』
「エル、よかったわね……」
片方はどうやら年配の女性のようで少し涙声。
それを揶揄する男の声が飛んだ。
『何じゃ?お主泣いておるのか……良い歳をして情けない』
「……何よ、歳は関係ありませんでしょう、よくよく失礼な亡霊ね」
ぐすぐすと鼻を小さく鳴らしてから抗議する女性を余所に、安心感を出して男が言う。
『ふふん、まあ何はともあれ、ハルヨシはこれでシレンティウムに一生涯残ることを選択したのである。族民達も安心するであろう』
「あなたも不安だったのでしょう?」
『……まあな、本音を謂わばそうである』
女性に問いただされた男は少し不本意そうに答えた。
「私は姪っ子の幸せだけが望みよ、ま、ハル君なら大丈夫でしょう」
『それは心配なかろうよ。あやつ程誠実な者はそうはおらん。能も有る……自信は少し無いようだが、それは今後に期待であるな』
女性の声に再び男が鼻高々な様子で応えると、女性は不満そうに言葉を継ぐ。
「そうじゃないわよ、鈍いじいさん亡霊ね!子供よ子供っあっちの方よ!」
『お主……なんであるか、しばらく見ん内に随分擦れたな……』
「うるさいですよっ……あ~でも早く見たいわ~2人の赤ちゃんっ、何か良い薬無かったかしら……」
『全く何と言うばあさんであるか……ハルヨシめに妙な薬を盛られぬよう注意しておかなくてはいかんであるな』
呆れた男を無視し、そう言ながら重なる2人を覗く女性に男は独語するのだった。




