第10話 周辺地域の動静
北方辺境関所改め、コロニア・メリディエト
アダマンティウスの指揮によって北方辺境関所は大きく変貌を遂げていた。
今までの砦や関所の建物は辺境らしさをわざわざ演出していた訳ではないだろうが、壁や防御柵に至るまで全て木造であった。
アダマンティウスはそれをシレンティウムから運ばれてくる大理石やセメントを使って構築し直し、軍の駐屯地を含む帝国都市へと生まれ変わらせたのである。
北辺山脈と東部山塊の狭間に位置する峠であるため広さに難点はあるが、アダマンティウスは地形を巧みに利用し、40年かけてじっくり町作りを行っており、もともと関所とは言いながら北方辺境唯一の窓口として商業都市的な性格を持っていたこともあって改良は比較的容易に終了した。
改築したのは駐屯地と外壁くらいの物。
それ以外はほぼ以前の関所付属の町であるので、住民はそれ程驚きもしていない。
ただ関所という名称が無くなり帝国の市となったので、住民登録と納税義務が生じたことに一定の不満を漏らしたのみである。
それもアダマンティウスの緩やかな統治姿勢を知っている住民達は、その説得に応じてあっさり引き下がっている。
「うむ、これで正式な付属都市となったな……」
アダマンティウスが執務室で開いているのは新たに開設された西方郵便協会シレンティウム拠点局から送られてきた伝送石通信で、そこには辺境護民官ハル・アキルシウスの名前でアダマンティウスを第22軍団長と兼ねて、コロニア・メリディエト市長に任ずる旨が記されている。
追って署名のある正式な任命書が早馬で届く事になっているが、今日この時をもってアダマンティウスは帝国軍から辺境護民官の指揮下へ完全に入ったのであった。
そして北方辺境関所は解体され、正式にシレンティウムの付属都市コロニア・メリディエトとなった。
「ふうむ、私が市長……ふうむ……」
面はゆいものを感じたアダマンティウスはにやける頬を撫でながらつぶやく。
通信文を執務机に置き、立ち上がったアダマンティウスの眼下には帝国側に連なる山々。
そしてその先には広大で整然とした農地がある。
また農地の中にはコロニア・リーメシアの町がぽつりとあり、遙かその向こうには霞んではっきりしないが、帝国の流通を支えるセトリア内海までがかすかに望めた。
「我が西方帝国も無理をするものだ」
再度つぶやき、アダマンティウスはため息をついた。
見た目には分からないが、南方遠征に西方帝国の内外は動揺し始めている。
北東管区国境警備隊が解体され、アダマンティウスの素早い手配で既に15000の帝国兵が南へと去った。
残った5000名が同じくアダマンティウスにより第22軍団として再編制され、アダマンティウス本人がその仮の軍団長に軍から任じられたのは先日のこと。
軍は北東管区近辺に駐屯していた兵士達も根こそぎ南方へ動員し始めている為、周辺の都市や村落からは不安の声が上がっており、リーメシア州最大の都市であるコロニア・リーメシア市長はその代表として、有事の際にはアダマンティウスの助力を得たいと申し入れて来てもいる。
今のところ管轄が違う旨を告げ、直近地域については巡回を行って対応できるが本来のアダマンティウスの任務は北への抑えであるのでそう兵を割くことも出来ないと説明し、納得はして貰っているが、実際アダマンティウスは治安の悪化を感じていた。
もともと人の居ない所に配置していた国境警備隊は消滅した所で国境に影響は無いが、周辺から軍の部隊が居なくなってしまったこと自体に問題があるのだ。
皮肉なことに北方辺境はシレンティウムが発展すると共に急速に安定を始めている。
ハルがシレンティウム側で相当積極的に討伐もしているので、北方辺境にいた盗賊や山賊の類いが抜道を使ったり山越えをしたりして帝国内へ入り込み始めたのである。
更に治安の悪化を受け、数は多くないが触発されて地域の不満分子や不良集団が動き始め治安の悪化に拍車をかけており、周辺の村落や都市に不安感を与えてもいた。
今のところ目立った動きは無いが、目端の利いた者が統率し始めては厄介である。
「帝国自体に何事も無ければ良いのだがな……」
アダマンティウスはそう言いつつ執務室を後にした。
シレンティウム程では無いにせよコロニア・メリディエトも発展途中で、やるべき事は非常に多いのだ。
同時期、リーメシア州、コロニア・リーメシア市長室
市長室には、都市の行政を司る各長官達と共に、都市参事会の有力議員達が集まっている。
その顔はどれも晴れやかなものとは言い難く、市長などは執務机にかけたままあからさまにしかめっ面で額を揉み込んでいた。
「市長、治安の悪化が著しく最早我々だけでは対処できません。都市内のみであればともかく、街道や周辺村落まではとても手が回らないのが現状です」
治安長官が苦しげな声を出したが、リーメシア州の総督を兼ねて務めるパーンサ市長は反応を示さない。
続いて商工長官が口を開いた。
「明らかにシルーハのものと分かる盗賊もちらほら見受けられます」
「シレンティウムの影響か……」
そこでようやく市長が口を開く。
最近東照の物品がシレンティウム経由で輸入されるようになった反面、海路シルーハ経由で輸入される量が減っている。
どうも東照が以前の値上げ交渉でシルーハにやり込められたことを根に持って、流通経路をシレンティウム経由へと振り替えているらしい。
嗜好品主体の東照貿易は物自体の量がそれ程多くない為、陸路であろうと海路であろうとそれ程手間はかからない。
それにシルーハ経由にせよシレンティウム経由にせよ、このコロニア・リーメシアを通り物品は帝都方面へと運ばれるので、帝国側の商人や流通業者に不利益は無い。
そしてシレンティウム経由の方が東照物品は量も多く価格も安い。
シルーハ商人のように足下を見て交渉してくるわけでも無く、粗悪品を混ぜる事も無い。 シレンティウムの金髪碧眼の商人達は非常に良心的であったので、むしろシレンティウム経由を歓迎すべきだと帝国側の商人達は考えていたのだ。
おかげでコロニア・リーメシアの町は好景気で湧いており、パーンサ市長としてもその意見を汲み今の体制を維持するつもりであった。
そんな中で専ら不利益を被っているのはシルーハの商人達。
シルーハから入る船の商品は、それまでの東照の産品に代わってシルーハの麻布や草茎紙が増えている。
それらとて需要が無い訳では無く、帝国内で十分売れる品物であったが、高級志向の東照物品に比べれば品質や利益の面で劣る事は否めない。
シルーハからすれば今までの良好な関係を無視し、帝国側が自らの利益を鑑みて東照と直接交渉をして流通経路を変えたように映っているのだろう。
ここ半年程の間で東部国境周辺において、度々シルーハと西方帝国の間で小競り合いが起きているのもこの事と無関係では無く、リーメシア州としては頭の痛い問題であった。
「ユリアルス城の者共は何をしているのだ?」
都市参事会議員の1人が不満たっぷりに言うと、治安長官が心苦しそうに口を開いた。
「後詰の部隊が居なくなった為に城から動けないのです。シルーハの国境守備隊も盛んに挑発を繰り返しているようです。事態を知らせる伝令がとっくに帝都へ行っているはずなのですが、返答はなしのつぶてだそうです」
「なんと?それではリーメシア属州に軍は居ないも同然では無いか!」
治安長官の回答に愕然とする都市参事会議員。
ユリアルス城はセトリア内海沿いの隘路に設けられた帝国側の砦で、かつては東照を激闘の末破ったリキニウス将軍が活躍した古戦場でもある。
その後勢力を後退させた東照と、戦死した豪腕将軍リキニウスのまともな後任を送れなかった西方帝国に代わって、南から進出してきたシルーハ王国がこの周辺一帯を硬軟両面から制圧した。
文化的には西方帝国と同じセトリア内海文化圏に属する地域であったが、その後も西方帝国は本格的な進出が出来ないまま現在に至っている。
そのユリアルス城には帝国東方管区国境警備隊と、かつてリキニウス将軍が率いた帝国第3軍団が入っている。
しかし南方大陸侵攻の動員令がこの地にも及び、後詰めとなるリーメシア属州から2個軍団が引き抜かれてしまった。
そのため東の国境を抑える軍は、第3軍団だけになってしまったことから容易に動けなくなってしまったのである。
パーンサ市長は遂に頭を抱えた。
北方の英雄王アルフォード王が名も無き群島嶼出身の辺境護民官に討ち取られ、町は湧上がったが好景気と高揚感に沸いたのも束の間、軍が食料や物資の調達と徴発を始め、あれよあれよという間にコロニア・リーメシアのみならず、帝国東北の要であるはずのリーメシア属州全体から帝国軍の姿が無くなった。
それと呼応するように増え始めた盗賊や山賊、最近は何と海賊までが周辺地域を騒がせ始めている。
市長が常駐しているような大規模な都市には警備隊や治安官吏がおり、いくら大人数になろうともおいそれと賊如きに引けは取らないが、村落や小さな町はそうはいかない。
盗賊討伐や治安回復の嘆願はコロニア・リーメシアへ毎日のように届いており、ここ2、3ヶ月で急激に治安が悪化したことを如実に示していた。
知り合いの市長に連絡を取ったところ何処も同じような情勢らしく、良い方策は無いものかと逆に相談されてしまう始末である。
「先日も北方辺境関所のアダマンティウス軍団長へ治安維持の申し入れを行ってみたが、管轄が違うとやんわり断られてしまった。有事の際の出動は辺境護民官と相談の上応じると言ってくれたが、辺境護民官は帝国領域内に一切の権限を及ぼせないから期待は出来ないだろう」
その時のことを思い出したのか、パーンサ市長の眉間に付いたしわが一層深くなった。
市長の言うとおり広汎で曖昧かつ強大な権限を持つ辺境護民官は、国境を越え西方帝国の領域内に入った時点で全ての権限を失うとされている。
辺境護民官の権限とはあくまで西方帝国の領域外における裁断権なのだ。
「東部国境の情勢も不安定だというこの時期に、どうして軍は南方大陸遠征などと言う無茶を始めたのか……」
「今の軍閥に国内の情勢が見えているとは思えない。あるのは驕り高ぶり、見栄だけだ。おおかた南方遠征も見栄を満たそうとする心が拠り所だろう」
「国境警備も覚束ない軍に存在意義など有るのか……」
「南方大陸侵攻など……またどっちつかずな皇帝陛下の悪い癖が出たのじゃないか?」
行政官や参事会議員が口々に不満を述べる。
「西方帝国はもう草創期を過ぎてしまった……今の帝国に大陸の西を制したかつての勢いは無い、今は現状維持と再構築の時代に入りかけているのだ。それを理解できずにいる者達がまだ帝国にはたくさん居るということだ……」
以前シレンティウム経由の東照交易策を支持した商業者組合長の都市参事会議員が、最後にそう言うとパーンサ市長が暗い顔を上げた。
「被害に遭っている町や村には悪いが、帝都へ訴状を送る以外手立てが無い。兵をまともに持たない我々にできる事は何も無いのだ。直近で自由に動かせる最大の軍を持つ辺境護民官とはよく連絡を取っておこう。そうすれば万が一の際には援助を請うことも出来るだろう」
「……万が一というのは、隣国の侵攻を差しているのですか?」
「可能性が、無いとは言い切れない以上、最悪の事態に備えるのが上に立つ者の役目だ。心構えはしておいて欲しい」
別の参事会議員の言葉にパーンサはこめかみを揉みながら応える。
誰もが暗く沈んだ顔をしていたが、これは現状考えられないことでは無い為反対意見は出なかった。
「分かりました……辺境護民官殿へ書簡を送りますか?」
「ああ頼む。要望と併せてこちらの窮状を伝える文面にしておいてくれ。少しでも辺境護民官の心が動くような窮状を訴えておくんだ」
「招致致しました」
行政長官の質問に答えるパーンサ市長。
そして、行政長官が一礼して部屋を出て行くと大きくため息をついた。
「動揺が動揺だけで終われば良いが……」
間もなく冬が終わる。
しかし帝国の冬はこれから来るのだ。
一端の政治家として、また行政官吏として不幸で不毛なその訪れをひしひしと感じ、再びパーンサ市長はため息をつくのだった。
フリンク族の城邑・ハランド、族長館
「それで、ハレミアの野蛮人どもを引き込むというのか?」
ダンフォードと相対しているのは片眼を斬撃の跡で潰した老人。
しかしその体躯は顔以外にその男を老人と断じる術が無いほどの隆々とした筋肉で覆われており、椅子からはみ出さんばかりの巨体と相まってただならぬ威圧感を持っていた。
ダンフォードが首を縦に振り言葉を発する。
「そうだ伯父上!そうすればフレーディアどころかシレンティウムも我らのものだ。フリードに代わってフリンク族の時代が来るんだ!」
ふんと鼻でダンフォードの言葉を笑い飛ばし、膝へついていた肘を戻したその男、フリンク族を率いる大族長グランドルは椅子へ深く背を沈め、徐に口を開いた。
「そうしてハレミア人を追い出してからお前はフリードの王となるのか?あいつらは人間では無いぞ、野獣をそう簡単に操れるものか、それ程上手く事が運ぶわけがない」
「伯父上、それでもハレミア人どもの武力と威力が利用に値する事をよく知っているのは伯父上だろう?」
「それが御し難いという事もな……ハレミア人を馬鹿で知恵の無い蛮人と侮ることはできん。うかうかしていると後ろにいるわしらに討ち掛ってくるような見境の無い連中だ」
ダンフォードの言葉に姿勢を変えること無くグランドルは答えたが、ダンフォードの言葉は尚も続く。
「だからこそ使いようがあるんだ!あいつらを誘い込んでフレーディア城へぶつければ裏切り者のベルガンなど一蹴できるし、後詰めに出て来た辺境護民官を打ち破って王冠を取り戻すことも出来る!」
その言葉に苦笑を禁じ得ないグランドルであったが可愛い甥っ子のことである、自分に降りかかってくる話でも無いのでやらせてみようという気になった。
上手く甥がフレーディアを奪還して政権を回復すれば、北方諸族の一部族に過ぎないフリンク族も地位向上が望めるであろう。
フリンク族は大昔にクリフォナムへ寝返ったハレミア人の一派と言われており、文化や言葉のなまりは既にクリフォナムのものであるが、戦士達は大柄なクリフォナム人の中でも取分け大柄な者が多く、代々優れた戦士を数多く輩出してきた。
アルフォードはその武勇を当て込んでフリンク族の族長から妻を迎え、更には特別に貢納を免除して北のハレミア人に対する防御を担わせていたのである。
「ふむ、お前の考えはよく分かった。ハレミアの族長パガンに連絡を取ってやろう。しかし!その後の交渉はお前が責任を持ってやるのだ。わしはこの件には関知せぬから好きにやれい」
「伯父上っ、恩に着る!」
ようやく言質を取り、ダンフォードは愁眉を開いた。
これでハレミア人との交渉さえ上手くいけばシレンティウムに対する反撃の糸口がつかめるのだ。
ハレミア人は北方辺境の更に北の極北地域に住み暮らす真性の北方蛮族であり、戦いの時に鎧や衣服を着けない事でも有名である。
粗末な剣と槍で武装し、その巨躯をいかして力押しの苛烈な戦いをすることでも知られており、帝国から蛮族と呼ばれるクリフォナム人やオラン人から、更に野蛮だ蛮族だと恐れられていた。
文字を持たず、口伝で部族の歴史や記録を残し、農業を営みはするものの粗放的でとても自分達の食料を賄えない為に度々南下して他部族の村邑や都市を襲う。
西方帝国やセトリア内海の諸国家や諸部族とは交流が殆ど無く、金銀を知りはするが利用せず、また馬に乗らない。
クリフォナムの英雄王アルフォードが度々このハレミア人後に攻め入っては討ち破り、北の安全を確保しなければならなかった程の存在である。
クリフォナム人とは不倶戴天の敵同士であり、今まで共闘したり友好関係にあったことは一度も無い。
しかしその常識を覆し、ダンフォードは10万とも20万とも言われているハレミア人の戦士を北方辺境へ呼び込もうとしているのだ。
ダンフォードが館から出ると、外は雪がちらほらと舞っていた。
「なんだ、雪か……」
「ダンフォード様」
ダンフォード付きの護衛戦士達が近寄ってきた。
退却の途中、アルマールやアルゼントの族民達から奇襲を受けて数を大幅に減らし、またダンフォードらを見限って立ち去ってしまった為、ダンフォードが率いているのは今や3000名程の戦士だけ。
妹と弟は辛うじて付いてきたが既に諦めの境地で余り積極的に事を起こそうとしない。
唯一フリンク族だけが母親の縁で受け入れてくれたがそれ以上の援助は無く、他部族に援助を請う使者を送ってもみたがその返事ははかばかしくなっかった。
フリード族はすべからく新たな北の英雄であるハル・アキルシウスの武力とアルフォード王から授かった王位を恐れているのだ。
ばかばかしい、フリードの族民ですら無い者がどうして北の地を統べることが出来るのだ。
正当な王の血を引く自分こそがその地位に相応しい。
今は勢威を失っているとは言えここでくじけては終わりである。
幸いにもまだ付き従ってくれる者達も居る。
伯父の援助も十分とは言えないが受けられる、そして飢えた野獣のごとこハレミア人が動けば、動かせさえすればまだ逆転の目はある。
それだけでは無い。
「……シルーハの使者は無事お帰りになりました」
「そうか……」
南の王国がダンフォードへ接触を求めてきている事は非常に心強い。
今はまだ連携は不十分で心許ないものだが、南北挟撃の芽が出て来たのだ。
「ふん、館へ戻るぞ」
それだけ言うとダンフォードは護衛戦士を連れ、降りしきる雪の中を与えられた館へ向かった。
東照帝国西域州・塩畔、西方府
石造りの建物が林立する東照帝国西方府の首府である塩畔の街並みは、東照発祥の都市計画に沿った碁盤の目状の町作りが為されていた。
東照風の三角屋根には瓦が敷き詰められ、破風が設けられている。
くっきりと区切られた街路や街路樹は西方のものとそう変わりないが、それらの特徴を持つ建築物は独特で東方の文化的影響が随所に見られた。
大陸のほぼ中心に居位置する塩畔は、東照帝国が治める領土の最西端に位置する西方府の首府として建造されて大いに栄えた。
かつて軍兵10万を常駐させていた塩畔だが、それも今や昔の話。
本拠地である大陸東岸に興った豪族の手による兵乱や、その南方で旗揚げした新興国である南照王国に押され、東照帝国も西方帝国と同様往事の勢いを失っている。
今はシルーハとの交易路としての位置付けが大きく、逆に西方の文物を東照本国へ送る中継地点として栄えている町で、かつての軍事都市や行政都市といった面影はもう無い。
その塩畔の北端に設けられた西方府の庁舎。
東照帝国のゆったりした官服を身に付けた役人達が慌ただしく登庁し始めていた。
西方帝国の廃棄都市へ城市大使として赴任した介大成からの手紙が届いたのである。
「ほうほう、まあまああの寡兵でよう勝ったものじゃ、こ奴らなかなかやりよるど!」
伝令使から渡された介大成からの手紙を開き、“匙錬丁宇務戦勝”の文字に行き着くと、赤い東照風の前袷服を身に着け、帯を絞めた男はでっぷりとしたその腹部をぱんぱんと叩きながら感嘆の声を上げた。
手紙には戦勝の事実だけで無く、その作戦や指揮官の能力、兵の資質まで記されており、介大成の観察眼が人並み以上のものであることを示していた。
「黎盛行都督っ」
「何じゃい?」
「他に何か言ってきておりませぬか?」
楽しそうに介大成の手紙を読みふける都督に、しびれを切らした役人の1人が声をかける。
都督とは東照帝国における地方官職の一つで、州をいくつか束ねた地域を治める高位役人である。
西方府は配下に州が3つ有するもののいずれも人口が少なく小規模である為、帝国の州総督にあたる州牧を置かず、黎盛行が都督として3州を併せて治めている。
ちなみに都督に当たる官職は西方帝国には存在しない。
その黎盛行、役人から言われて鷹揚に頷くと手紙を読み直し始めた。
「おおう、そうじゃなあ……うむ、これかのう?なになに……おおっ?これはっ?」
「何とありますか?」
「おお~う……うう~む……なんともはや、まさかのう……」
「……都督」
この人はいつもこうだ。
真剣に論じなければならない物事でも面白い方向へ持って行こうとする悪い癖がある。
面白そうに言葉を発しつつも肝心なその中身を言わない自分の態度に、役人達の苛々が募ったのを察知したのかようやく黎盛行は手紙の中身について言及した。
「介大成の奴め、シレンティウムへ土産をやれというてきたわい!」
「土産……ですか?」
頭に疑問符を浮かべる役人達。
抽象的な言い方をする黎盛行の術中に嵌まっているのだが、生真面目な役人達は土産と言われてもぴんと来ない。
「そうじゃ、我が東照帝国の官位と官服、それに戦勝を祝う使者を派遣せよというてきたのじゃ!」
「そ、それは」
「うむ、まあ……西方府の役職であればやれんことも無いんじゃが、さすがに西方人へほいっと簡単にやれるものでは無いしのう、急ぎ帝にお伺いを立てよ」
絶句する役人を余所に、黎盛行は楽しそうに笑いながら言った。
「そんな簡単にはいきませんぞ?はっきり申しまして無理だと思います」
こともなげに言った黎盛行へ指示を受けた役人が顔を青くして進言する。
しかし黎盛行は意に介した様子も無く手を振ってその役人を追いやった。
黎盛行が手にしているその手紙には……
~シレンティウムの盛況さと殷賑振りは近隣に並ぶもの無く、反抗勢力は今のところ取るに足らず、新たな北の英雄の誕生に北方蛮族は軒並みその膝下へ屈しつつある。
経済政策にはか帝国で官吏として辣腕を振るった者が登用され、その農商工生産や施策に弾みが付いた。
帝国は南方へ侵攻する模様であるがそれを察知したシルーハの動きが最近活発化してきている。
シルーハの目的は我が西方府か帝国東部諸州の何れかは不明なるも、帝国の都市でありながらも北方蛮族の軍兵を自由に動かせるシレンティウムを東照へ取り込めば西方の領国経営が安定するだけで無くシルーハへの牽制ともなり、更には東照本国を脅かす新興国への援助にもなる事は間違いない~
介大成の手紙には以上の通りその理由が述べられているのだが、いたずら好きの黎盛行はその事については触れないでいた。
「まさかっ……介大成の言葉を鵜呑みにするのですか?異人へ官位など以ての外です!」
「何をゆうとる、前例が無い訳では無いじゃろう?」
棒を呑んだような顔で悲鳴を上げるように反発した役人を窘めるように黎盛行が言う。
確かに蛮族の大族長や異国の王を東照の役職に任命し、あるいはその王位を認めて援助を与え、更に敵対的な夷狄に対処したと言う例は東照の歴史において枚挙に遑が無い。
「しかし……」
「お主は西方帝国の官吏に対しては前例が無いと言いたいのじゃろうが、そうは言わせんでえ~秋留晴義とやらはフリードの王位を継承しとる、いわゆる蛮王じゃ。良いからつべこべゆわんでさっさとせんかい。それから東方郵便協会の局長を呼んでくれい」
「ははっ」
「こっちは介大成本人からの要請じゃなあ……シレンティウムに東方郵便協会の出先を設置して、通信の便宜を図って欲しいと言ってきたわ」
なおも言い募ろうとする役人を強引にやり込め、別の役人に黎盛行は指示を下した。
東方郵便協会は西方郵便協会と並ぶ歴史有る郵便協会である。
設立自体は草創期の東照帝国が行ったが、現在の運営はその手を離れ独立性を保っている。
しかしその成り立ちの為か東照帝国の指示や依頼については無条件で引き受ける為、中立性に疑問が残る事から西方郵便協会はあまり連携していない。
せいぜい大陸の東方と西方の間で郵便の遣り取りがある時、その管轄境で引き継ぎ依頼をする程度である。
「それであれば今後交易で必要となってくるでしょうし、我々としても異論は有りませんが……」
「分かったらはようせい、シレンティウムは遠いでえっ!」
「はっ!」
「おお、それから、そこのお前っ!」
指示を受けた役人が慌ただしく出て行くと、黎盛行はまた別の役人を呼びつけた。
「はい、何でしょう?」
「シルーハがなにやら怪しげな動きをしとるようじゃぞ、やつらの様子を探ると共に兵を集める準備をしておけい」
「了解しました」
役人が再び慌てて出て行くと、黎盛行はにかっと笑みを浮かべた。
「介大成の奴めなかなかやりおるわい……シレンティウムもわしの見込んだとおりの力を示した事じゃしのう、こりゃ面白くなってきたわい!」