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辺境護民官ハル・アキルシウス(改訂版)  作者: あかつき
第2章 シレンティウム造営
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第7話 シレンティウム市民の日常

1週間後、シレンティウム行政区・太陽神殿裏庭


「これは熱冷まし草、こっちは毒消し草、こっちは痒止草……」

「叔母さま、これは確か目薬になるのでしたね?」

「そうね、それは煮出してあげれば良い目薬になるわよ」

「煮出して使用する、ですね……っと」

「ええ、但し沸騰した湯は使わない事と、但し書きを付けておいて。」


 アルスハレアとエルレイシアは薬師達を助手にして、青空市場で買い求めた薬草や薬効のある物品を分類していた。

 周辺のみならず遠い場所から運ばれてきた薬草も採取場所や採取時期を記し、薬効と使用方法を記した木の札を付けてゆく。


 全員が薬草等に関して基礎的な知識を持っており、採取時期や場所に間違いがあるかないかはある程度分かるので、おかしな所のある物はあらかじめ商人や持ち込んだ人間に確認をして後日採取場所を確認することになっていた。

 しかし知識として身に付けてはいたが、改めてこうした形で分類し区分けを行って記録するという発想は今までクリフォナムの民には無く、この件を依頼された時はなるほどと大いに感心したエルレイシアとアルスハレアであった。


「エル、ちょっとこれこれ!」

「えっ?何ですか叔母さま?」


 分類と効能を帳面へと書き写していたエルレイシアがアルスハレアの声に振り返ると、赤い顔をしたシオネウスの女性薬師が持つキノコに目が行った。


「あっ!?」

「確かにこれは滅多に手に入らない珍しいものだけど、エルあなた……て言うか……」


 エルレイシアがその奇妙な形をしたキノコを目にした途端固まりかけるが、慌ててそれが入っていた籠を確かめる。


「わ、私の籠に……」


 キノコの入っていたのは果たしてエルレイシアが持ってきた籠であった。

 薬草を売りに来ていたクリフォナム人の老女に、全種類を見繕って入れるよう依頼はしたのは間違いないが、まさかこのような物を自分の籠に入れているとは!

 確かになかなか態度をはっきりさせない自分の想い人に対する愚痴をこぼしはしたが、それはあくまで買い物途中にする世間話の一つに過ぎなかったはず。

 しかし今思えば自分の言葉にいちいち頷いて慰めの言葉をかけてくれたので、調子に乗ってしまった部分はが無い事も無い。


 道理でおまけをしておいたと妙な笑みを浮かべながら、あの薬草商の老女が別れ際に言っていた訳である。

 てっきり頼んだ薬草の分量を多めにしてくれたものと思っていたエルレイシア。

 頼んだ薬草の種類にこのキノコは含まれていないので、愚痴に対する慰めと一度に大量購入をしてくれる上客に対する本当の意味でのおまけだろう。

 くすくすとエルレイシアの後で笑う薬師達は全員が女性でまだ若い。

 恥ずかしさでエルレイシアが耳までゆでだこのように真っ赤にしていると、その耳に叔母の呆れた声が入ってきた。


「恋は盲目とよく言ったものだけど……こんな方法は止めておいた方が良いと思うわ~」

「ち、違いますっ!」


 慌てて帳面を胸に抱きしめて叫ぶエルレイシアであったが、滋養強壮に絶大な威力を誇るという棒茸をその薬師から示されて視線がふらふらと泳いだ。

 それを見ていたアルスハレアが呆れた声を出す。


「やっぱり……いくらハル君がその気になってくれないからって、薬に頼るのはどうかと思うのだけど……」

「だ、だから、これは違います!薬草商のおばあさんが勝手にっ!」

「だったら捨てれば良いじゃ無い……」


 薬師から棒茸を受け取り、籠へ戻そうとしたエルレイシアを見てアルスハレアが言う。


「え、で、でも……捨てるのは流石に勿体ないですし……って、ち、違います!あのおばあさんへ返すだけです!」


 一瞬意味が分からないまま答えるるエルレイシアだったが、こっそり取っておくつもりだと勘違いされた事に気付き、慌てて否定をするがもう遅い。


「まあいいけれども、分量は間違えないようにしないと、それこそ寝かせて貰えなくなるわよ?」

「……寝かせて貰えない」

「そこでうっとりしているようじゃ、必要ないわね~」


心底呆れかえった声で言うアルスハレアの視線が別の方向に向いた隙を突き、エルレイシアは素早く棒茸を別の籠の中へ放り込む。

 それを見ていた薬師達の含み笑いをなるべく聞かないようにしながら、エルレイシアはアルスハレアの後について帳面付けを再開したが、その顔は火を噴きそうな程赤く染まっていたのだった。





 同日・シレンティウム北側台地


楓は故郷から引き連れてきた陰者と呼ばれる従者を伴って、シレンティウム市の北側にある台地の斜面を登っていた。

 周囲は紅葉が進んだ落葉樹で覆われているが、楓が目当てとするものはなかなか見当たらない。


「楓様、こちらにありました」

「えっ、本当?」


 陰者の1人が楓を呼んだので、楓は急な斜面をするすると器用に木と岩を避けながらその場所へと急いだ。


「これです、間違いありません」

「本当だ~ハル兄の言ったとおりだった」


 楓の目の前にあるのは冠黄櫨の成木で、既に全ての葉を真っ黄色に染め上げているが、楓の視線はその先端に鈴なりに生っている木の実へと向けられている。

 群島嶼では見たことの無い鳥がその実を盛んについばんでおり、楓が木を揺さぶると驚いたその鳥はけたたましい鳴き声を上げながら飛び去った。


「実も生ってるし、ここならよく育ちそうだねっ」

「はい、あの実はどうしますか?」

「うん、一応“収穫”しておいてくれるかな~ハル兄に見せないとっ」


 楓の言葉にその陰者は頷くと素早く木へ昇り、実の生っている枝を葉ごと折り取って木から身軽に飛び降りる。

 楓はその後呼子を鳴らし周囲に散っていた陰者を呼び集めた。


「どう?他にあった?」


 しばらくして陰者が全員揃ったことを確認した楓が持っていた図面を差し出すと、何人かの陰者が自分の見つけた冠黄櫨の在処を木炭の切れ端で書き込んでゆく。

 図面に書き込まれた冠黄櫨の在処を見ると、概ねこの北の台地の全体にぽつりぽつりと生えていることが分かった。


「何だ、案外直ぐに見つかっちゃった」







 台地から戻った楓がハルの執務室へ入ると、丁度ハルは書類を仕上げ終えた所であった。

 ハルはその書類を文箱にしまうと執務室へ意気揚々と入ってきた楓に顔を向ける。


「お疲れさん、どうだった?」

「ハル兄の言ったとおりだったよ、ハイこれ~」


 楓が差し出した実が鈴なりに生った冠黄櫨の枝葉にハルの口元がほころぶ。


「これは……台地に生えていたのか?」

「うん、そんなに数は多くないし、変な鳥が凄い勢いで食べてたから実はあんまり残ってなかったけどね~」


 手渡された枝葉を眺め回しハルが尋ねると、楓は更に得意げな表情で答えた。




 楓はハルから陰者を使って冠黄櫨が自生している場所を見つけるよう頼まれ、寒い中北の台地の山林を徘徊していたのである。

 ハルはシレンティウム周辺で切り倒された木を見て、故郷と同じ樹種がいくつか自生していることに気が付いていたが、冠黄櫨がこの地に自生しているかどうかはっきりは分からなかったので楓へ調査を頼むことにした。

 似た樹種があれば持ち帰ってもらった上で調査し、冠黄櫨の栽培に生かそうという考えであったが、楓は若干特徴は異なるものの冠黄櫨そのものを持ち帰ってきたのである。


「よし、じゃあ……北の台地は黄櫨畑にしよう。楓、木蝋作りは覚えてるか?」

「うん、もちろんだよ~」


 ハルから頼りにされたことが嬉しくて思わず声が弾む楓。

 秋留領では黄櫨の大規模な栽培を行い、秋にはその実の収穫を行っていた。

 木蝋作りは帝国に併合される以前は群島嶼の一大産業で、秋留領でも米の収穫が一段落した後に良質な黄櫨の実を大量に集めて領の住民総出で木蝋作りに励んだものである。

 実は蒸してから圧搾し、最後に丸く形成した上で冷やし固めて木蝋を製造するのだが、今はその余裕も無く木蝋作りは一旦断絶している。


 しかしながら断絶したのは商品としての木蝋作りで、自家用の木蝋は未だ製造を続けている。

 そのため子供の頃から木蝋作りに参加している楓も全工程をなんら問題なく再現できるので、ハルは楓を木蝋作りの責任者兼指導員として使おうと考えていた。

 胸を張る又従妹にハルは少し意地の悪い笑みを浮かべて言う。


「じゃあお前に黄櫨畑と木蝋製造を命じる。畑作りは春からで良いからな」

「はいっ!て、ハル兄……?」

「なんだ?」


 元気よく答えた楓だったがふと疑問を感じてハルへ質問する。


「木蝋作りはいつから?」

「今からだ」


 ハルの笑みの意味に気付いた楓の顔が引きつった。


「や、山を駆けずり回って成ってる黄櫨の実を集めろって事なのっ?」


 この寒い山中をそれ程多くない冠黄櫨を探して彷徨うのである。

 さっきは見つけるだけで良かったが、今度は実を集めて持ち帰らなくてはならない。


「そうだぞ、道具は用意しておいてやるから、早く行ってこい」


 悲鳴じみた楓の言葉に平然と応じるハル。


「ひ、酷いやっハル兄っ!う、埋め合わせはして貰うからねっ!?」

「分かった、考えとくぞ~とりあえず試作品を作ってもらいたいから、それぐらいは集めてくるんだ」


 恨みがましい目を向けて言う楓を手を左右に振って面倒くさそうに応じるハル。

 楓はとうとう半泣きになって叫んだ。


「おにーっ!」






 数日後、シレンティウム行政区・官営旅館



 今日は新しい従業員さん達がやって来ます。

 主に私、プリミア・ロットが勤めていた帝都の宿屋を参考に、他の旅館や宿を利用したことのある帝国人の皆さんの意見や提案、オラン人、クリフォナム人の風習、禁忌や避けるべき事を詳しく学ばせて頂いた上に、提供するサービス内容を決めさせて頂きました。

 オランの人もクリフォナムの人もあまり細かいことには拘らない性格の方々だと言うことですが、色々な意味において経験豊富で目の肥えた帝国や東照の人達もお見えになります。

 私としては誰がお見えになったとしてもサービスの質を落とすつもりはありません。

 お客様の好意や気質に甘えて接遇をおろそかにするなどもってのほかです。


 大恩あるハルさんに任された旅館失敗や粗相は許されませんから。

 帝都で命を救って頂いたのみならず、北方辺境へ文無し同然でやって来た私たち姉弟に居場所と仕事を与えて下さいました。

北方辺境だけで無く西方帝国や東照にも評判とされる宿を提供すべく、私は精一杯、そして力の限り頑張るつもりです。

今日やってくるのは帝都出身の料理人さんに給仕係さん、そしてクリフォナムの客室担当の人達で、事務や経理、受付は私と弟のオルトゥスが担当します。

 いずれは客室担当の人達から事務や経理が出来そうな人を見つけるつもりですが、とりあえずは仕事の要領や性格を見極めなくてはなりません。


 客室や食堂の内装と家具配置も終わりましたし、シーツや枕などの寝具やお皿などの細かい備品も全てチェックが終わっています。

 後は従業員さん達に接客や給仕、物品手配やトラブル処理の練習をみっちりして頂き旅館を一刻も早く開館することだけです。

 私が以前勤めていた宿の支配人はしょっちゅう愚痴をこぼしていましたが、今ならその気持ちがよく分かります。

 支配人はいつもこんな大変な仕事をしていたのですね。

 重圧、責任感、今自分がその立場におかれてみて初めて分かりました。


「お~すごいね!あの石剥き出しの壁がこんな奇麗になるとはね~」

「あ、ルキウスさん!」

「やあ、様子を見に来たんだ。どうだい調子は?」

「いつもありがとうございます。今日も良いですよ」


 ルキウスさんは帝都治安官吏時代にハルさんと組んでいた人で、私が貴族のどら息子に撥ねられた時懸命に介抱して下さった方です。

 ハルさんが左遷された後もちょくちょく尋ねて来られ、弟共々大変面倒を見て頂きましたが、言いがかりのような理由で官吏をクビになってしまい私たち同様ハルさんを頼ってシレンティウムへ来たそうです。 

 そして今も時々巡回の途中こうして尋ねてきて下さいます。


「あ、ルキウス兄さん」

「おうオルトゥス、その服似合ってるぞっ」


弟のオルトゥスもルキウスさんを本当の兄のように思って、大変なついています。

 ルキウスさんは私たち姉弟と同じ帝都の下町生まれと言うことで、少し街区は離れては居ますけれども、共通の話題や知り合いも多くまた気さくな性格で私も鬱ぎがちだった療養中は随分助けられました。

 今も知り合いらしい知り合いの居ない私たちにいろんな人を紹介してくれたり、相談相手になってくれたりしています。


「お?今日は忙しそうだな~また後で来るよ」


 ちらほらと従業員さん達がやって来たのを見てルキウスさんが言います。


「あ……申し訳ありません」

「いいっていいって、寄ったのはこっちだし、じゃ、またな」

「はい、また……」


 ルキウスさんがオルトゥスの頭に手をやりながら私に笑顔を向け、手を振りながら街路の方へと去って行きました。

 本当によくして頂いて勿体ない事です。


「お姉ちゃんさあ~」

「なに?」

「ん~ん……べつに良いけどさあ」


 どうしたのでしょうか?

 弟が何か言いたそうですが……結局何も言わずに黙ってしまいました。





 シレンティウム工芸区、鍛冶屋町


「何だ、心配する必要なんかねえじゃねえか、立派な水車があらあ!」

「親方、立派どころじゃねえです。ありゃ前居た街にあったのよりでっかいです!」


 帝国人の鍛冶職人とその弟子であるクリフォナム人の弟子は、シレンティウムの工芸区に到着してから工房を与えられた。

 動力源があるかどうかを心配して街の散策に出た親方に、地元のアルマ-ル出身の弟子が道案内を買って出たのだが、2人はすっかり道に迷ってしまっていた。


 いくらアルマ-ル出身とはいっても弟子が故郷を出たのは何年も前のことであり、ましてやその当時は死霊都市と呼ばれて近づくことを禁じられていたシレンティウムの内部を知っているはずも無い。

 ましてや最近のシレンティウムは新興都市と呼ぶに相応しい増改築振りで、今日の風景や街並みは1日たりとも保たない。

 翌日には街路が新設されて家が2、3軒建っていることだって珍しくないのだ。


「お前の故郷はどんな田舎かと心配してたが……こりゃ期待できる町だな!オイ」

「はい、親方!」


道に迷いながらも立派な水車を見つけて笑顔の親方に嬉しそうな弟子。

 帝国にいる時は年々受注が減り、儲かるのは隣の武具職人だけという毎日だった。

 腕に自信はある、職に誇りを持ってもいる、クリフォナムから弟子も取ったが……仕事が無い。

 しかも家には養わなければならない嫁と子供が4人も居るのだ。

 親方は唯一西方帝国内で儲かっている武具職人へ転向しようかと考えたこともあったが、農具や民具を作る鍛冶職人としての誇りを捨てることは出来なかった。


 そう思い悩んでいたある日、クリフォナム人の弟子に新しい街が北方辺境に出来たのでそちらで仕事をしてみたいと相談されたのである。

 興味を持って詳しく聞けば、新しく出来た街というのは北方辺境に新しく出来たシレンティウムという都市で、帝国の技術を持った職人や工人を盛んに募集しているという。

 これは好機だと職人の勘が働いた。


「おう、じゃあ俺もそっちへ行くぜ!店?こんなしけた店畳んじまやいいんだよ!」


 即座に決断した親方は家族を説得し、弟子を道案内に家財一式に看板や鍛冶道具全てを馬車に満載して北方辺境ははるばるシレンティウムまでやって来たのだった。


「おうおうおうっ、実に期待させてくれるじゃねえか!」

「親方っ……!」


 弟子の背中をどやしつけながら水車を見上げて親方は思う。

 道には迷ったが路頭と人生には迷わずに済んだようである。





 シレンティウム工芸区、服屋町



「そうそう、そこの縫い方は出来るだけ細かい目でね」

「はい、分かりました」

「すいません師匠、これで良いですか?」

「どれどれ……そうね、こうすればもっとやりやすいわね」

「あ、はい。ありがとうございます!」


 オラン人やクリフォナム人のお針子に丁寧な技術指導をしている40半ばの帝国人の服装を纏った女性は、一通り見回ると自席に戻り自分の仕事の続きを再開した。

 女性の髪は淡い金髪で背が高く、外見だけを見ればオラン人やクリフォナム人の特徴を持っている。

 しかし周囲のお針子達とは明らかに異なる言葉のなまりや立ち居振る舞いは、その見かけに寄らず完全に帝国人のそれであった。




彼女の出身はオラニア・オリエンタと呼ばれるオラン人の居住地域であるが、幼少時に親に連れられ帝国へと移住した為、出自はオラン人であっても帝国で暮した年月の方が長い。

 故に考え方や仕草、習慣は完全に帝国人であったが、皮肉なことにオラン人そのものの外見から帝国内では差別的な扱いを受けることもしばしばで、彼女は成人してからも色々と辛い目に遭うこととなる。

 夫も彼女と同じ境遇のクリフォナム人であり、より帝国人らしくなろうと帝国軍へ入って厳しい訓練に明け暮れたが、生粋の帝国人とは決して埋まらない溝あった。


 そんな2人が出会ったのは夫が兵士として働いていた駐屯地。


 彼女が軍用品の納入に出入りしていた事から補給品を担当していた夫と知り合い、その外見や境遇から親近感を持ったのがきっかけであった。

 夫の退役後、幸せな結婚をして子供を儲けはしたものの相変らず自分や夫、子供達は外見上の特徴から嫌がらせを受けたりすることが多く、彼女は帝国というものに疑問を覚え始めていた。


 ある日夫が持ち帰ってきたのがシレンティウムへの移住話。

 夫は退役後貴族屋敷の用心棒をして日銭を稼いでいたが、殺伐とした仕事に嫌気を感じていた所、退役兵協会からシレンティウムへの移住者を募集していることを聞きつけて応募したのである。

 夫が土木技師として採用されたことを妻に打ち明けてシレンティウムへ移住したいと相談した時、驚きはしたが彼女は快くこれを承諾した。

 そして彼女は帝国のある町で苦労して開いた裁縫店を知人へ譲り、家族と一緒にはるばる北方辺境までやってきたのである。


 最初は生まれ故郷であるとは言え見知らぬ地での生活に不安もあったが、シレンティウムの街は帝国であるのにどこか異なり、また道行く人の大半がオラン人やクリフォナム人という光景に不思議な安らぎを覚えた。

 彼女たちは自分たちの求めて止まなかったものがこの都市に有ると感じたのである。

 住居や店舗の手配を受けて早速若いクリフォナム人やオラン人の弟子を取り、彼女は悪いしがらみの無い自由な生活を始めたのであった。


「師匠、これはどのようにしたらよいですか?」

「ああ、それは……」


 自席に縫いかけた服を持って質問にきた若いオラン人のお針子に指導しながら、彼女は帝国では味わったことの無い穏やかで賑やかな、そして充実した日々を心から楽しんでいる自分に気が付いた。






 シレンティウム市・西街区、テオネルの家



「でよ、お前が言った訳だ。“あの杭を打て!”ってな。そこでおれが木槌を、こうっ……やってだな……!」


 ほろ酔い気分で顔を僅かに赤らめ、テオネルが木槌を振るうように力強く空の木杯を振りまわす。

 すると奥の台所から料理を運んできた、くりっと大きな青い目に金髪を後ろで結んだ快活そうな若いオラン人の女が呆れて言った。


「もう、お兄ちゃん。その話何度目なのよ?片方の当人のウェルスさんも呆れてるわ」

「いやティオリアさん、呆れてはいませんよ……ただ酔っ払ってるのによく同じように何度も話せるものだなあと……」

「それって、呆れてるって言うのよ?」

「そうでしたか……あはははっ」


 同じように空の木杯を持った元ボレウス隊副官、クイントゥス・ウェルスが朗らかに笑う。


「もう!ウェルスさんも酔っ払ってるっ」


 ぷうと可愛らしく頬を膨らませつつも、テオネルの妹ティオリアは空になっているクイントゥスの木杯へ麦酒を注いだ。


「はい、ウェルスさん」

「ああ、どうもありがとう……」

「何だティオリア、兄貴は彼氏の後かよ?」


 テオネルはにやにやしながら空のままになっている自分の木杯を見せびらかすように左右へ振る。


「なっ、何言ってるの?」


 まんざらでもなさそうな照れ顔でティオリアは言い募る。


「ま、いいさ。戦友に妹が嫁ぐなんてなあ……こんな良いことは無い」


 妹から酒を注いで貰いながらテオネルは上機嫌で言った。

 そして木杯を持ったまま未だ飲まずにいるクイントゥスを見ると、にかっと笑う。


    こん


 息の合った2人に打ち合わされた木杯が軽やかな乾杯の音を響かせた。


「しかしあのボレウスの野郎の部隊に居たにしちゃあ真っ当なヤツだな、お前は……」

「……あの時の自分を今でも絞め殺してやりたいですがね」


 ぐいっと酒をあおった2人はそう言い合うとどちらからとも無く苦笑した。

 かつては奪う者と奪われる者の立場であった2人は、決して交わることの無い関係であったはずだった。

 しかしシレンティウムで再会した2人は籠城戦で別働隊として市外に隠れ、最後は一緒に堰を破って溢水作戦を成功させて戦勝に貢献した。

 堰を破壊した後近くに居たフリード戦士に見つかり、2人の居た部隊はばらばらになってしまう。


 その時命からがら湿地へと逃げ込んだテオネルとクイントゥスの2人は、湿地の魔物や執拗に追い掛けてくるフリード戦士達を避け、時には戦い、互いに助け合ってシレンティウムへと無事帰還した。

 最初は互いの素性を知っていただけにその態度と口調は余所余所しいものだったが、必要に迫られて協力している内にいつしか互いの背中を守り合う仲になっていたのである。


「「戦友に!」」


 そしてその戦友は間もなく義兄弟となる。

 シレンティウム籠城戦後頻繁に行き来するようになったテオネルとクイントゥスは、早くも最終段階の呑み友達へと行き着いた。

 最初はテオネルの家族に遠慮していたクイントゥスだったが、誘われて家を訪問している内にこのオラン人の家族と交流を深めていくことになる。

 帝国のお土産や食べ物を持参してはテオネルの家で飲み明かす仲になったある日のこと、テオネルは妹であるティオリアをその席に呼んだ。


 ティオリアは以前からオラン人に無いタイプの生真面目で頭の良いクイントゥスに興味を持っており、またクイントゥスも時折宴席に同席する可元気な美少女を気にしていたのである。

 このテオネルの策略は図に当たり、元気なオラン娘のティオリアと実直な帝国将官はその席で意気投合した。

 最初は気の合う友人であった2人だが付き合いを重ねる内にそれぞれが相手に惹かれ始め、そして男女の仲になった。


 今日はクイントゥスがオランの仕来りに則り一族の長と家長へ婚約の挨拶に来たのであったが、小難しい儀式の後は底が抜けるまで飲み明かすのがオランの流儀であり、度々その洗礼を受けていたクイントゥスはその場を上手く切り抜け、テオネルと一緒にティオリアを連れてテオネルの家へとたどり着いたのである。

 テオネルの妻と子供はテオネルらが帰宅した際は既に眠っており、妻が少し顔を覗かせたがいつものことと気にしている様子も無く再び寝室に戻ってしまった。


「まあ呑め呑め義弟よ!」

「……了解したぞ、義兄」


 木杯を傾ける2人の様子を嬉しそうに見ていたティオリアは、そっとクイントゥスの横へ座ると木杯を空けたクイントゥスの耳に囁く。


「これからよろしくねっ」

「う、うん……分かってる、こちらこそ宜しく」 

「お前らまだ早いぞ?ここは俺の家だからな」


 2人が出す甘い空気を敏感に感じ取ったテオネルは、しかめっ面で2人を窘めるのだった。

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