第5話 3人の思惑
翌日早朝、シレンティウム行政府
ハルは執務室でエルレイシアの治療を受けていた。
本来であれば太陽神殿へ赴くところだが、状態もだいぶ良くなってきたのでもうそろろ治療を打ち切ってしまおうと思い、日課になっていた朝の治療に行かなかったところハルの来ないことに業を煮やしたエルレイシアが薬草を持って押しかけてきたのである。
たまった書類仕事を片付けようとしていたハルは、自席であえなくエルレイシアに捕まり上衣を剥がれ、椅子の背を右横にした状態で座らされて念入りな触診を受ける羽目になってしまった。
一頻り関係ない所も含めてハルの身体を撫で回したエルレイシアは、満足そうな表情で口を開く。
「筋肉の動きもなめらかですし怪我は随分と良くなってきています。でもまだダメです。きちんと治療には通って下さいね」
「分かりました……」
ぼつぼつと穴の跡が2つ残るハルの肩に自分の白く細い指を這わせ、その穴のふさがり具合と周囲の筋肉の動きを確かめつつエルレイシアが言うと、若干違和感が残っていることは事実なのでハルは素直に返事をした。
剣士らしく鍛え上げられたハルの身体は背丈に比べれば厚みがあり、エルレイシアから見える背中や肩ははっきりと盛り上がった筋肉が露わになっている。
治療で動き回る為今日のエルレイシアは長い金髪を結い留め、何時もの長衣では無く帝国風の半袖貫頭衣にズボンを身に着けた活動的な格好をしている。
「ん……」
「どうしたんですか?」
「……いえ、何もありませんよ?」
執拗に肩や背中の筋肉の筋をなぞる指に別の違和感を感じたハルが動かないまま尋ねると、エルレイシアは少しびっくりした様子で答える。
「あの……」
「い、いえ、何でもありません……でも、もうちょっとだけ……」
振り返ったハルの不信感いっぱいの視線にも手を止めずエルレイシアが言うと、執務室の扉が大きく開かれた。
「ハル兄っ、朝の稽古を……って、何してるのっ!?」
木刀を2本持って元気一杯に部屋へ現われた楓の笑顔が、仲睦まじい2人の姿を見て凍り付く。
ずんずんと怒りの表情で歩み寄る楓を余所に、エルレイシアが幾分声を低めてハルに質問する。
「ハル、誰ですあの娘は?」
「又従妹の秋瑠楓ですよ。紹介してませんでしたっけ?」
「聞いていません……」
「そうでしたか?……それはそうと楓、戸を開く前には叩いてだなあ……」
「そうですか、又従妹ですか……」
楓を窘めようとしたハルの言葉も耳に入らない様子でエルレイシアはそうつぶやくと、ハルの肩を自分の方へぐいっと引き寄せた。
「エルレイシア?」
「は、離れてよっ!」
驚くハルを余所ににっこりと微笑むエルレイシアは、顔を羞恥で赤くしつつたじろぐように立ち止まり、木刀の切っ先を突きつけてくる楓を気にした風も無く言い返す。
「どうしてですか?私は今ハルの怪我を治療している所です。あなたこそ治療の邪魔ですので部屋から出て下さい」
「……ハル兄、どういう事?何で治療でそんなにくっつくのさっ?」
「う~ん、どう説明したものか……」
楓に今の状況を上手く説明しようがなく、悩むハルの言葉を遮り口を挟むエルレイシア。
「どうもこうもありません、治療に必要だからです。それにハルはまだ稽古が出来る程まで快復はしていません。先程も言いましたが、治療の邪魔ですからお引き取り頂けますか?」
「ううっ、いやだっ」
「あら、わがままを言ってはダメですよ?」
だだをこねる子供のように首を左右に振り、言い返してくる楓を軽く言葉でいなしてエルレイシアは更にハルへと身を寄せる。
「だ、だからっ!治療で何でそんなくっつくのっ。必要ないでしょっ!離れて!」
「それこそ、い・や・で・す。」
ぺろりと舌を出すエルレイシアの勝ち誇った顔を見てついに涙目になった楓が、ハルへ怒りの矛先を向ける。
「う~酷いやハル兄っ!」
「そこでこっちへ来るか……」
理不尽な怒りを楓から向けられ、ぼやくハルを挟んで火花を散らす2人。
「おはようございますハルさん、旅館で出すパンの試作品を……あっ?」
そこに現われたプリミアが2人とハルの様子を見て凍り付く。
どうやら間が悪いことに旅館で焼いたパンを持ってハルを訪ねてきたようで、腕に埃避けの手巾がかかった手提げ籠を下げている。
良い焼きたてのパンの香りがふわりと部屋に満ちるが、全くもって今の雰囲気にはそぐわない。
「ハル、あの娘は誰ですか?」
「エルレイシア、目が笑ってない……」
「ハ、ハルさん、あの、これはっ……?」
涙目の楓とエルレイシアのとげのある視線を同時に向けられ、戸惑うプリミアにエルレイシアが声をかける。
「何かご用でしたか?」
エルレイシアから言葉をかけられてびくっと身を竦ませたプリミアだったが、ハルと目が合うと意を決して口を開く。
「あ、すいません……ハルさんに頼まれていた旅館で出すパンの試作品をお持ちしたんですけれども、お取り込み中です……よね?」
最後はエルレイシアの迫力に負けて言葉が内容声量共に尻すぼみになってしまうプリミアであったが、ハルが慌てて呼び止める。
「ああ、良いからっ!大丈夫っ、早速頂くから!」
結局その日の朝食はその場に居た全員でとることになった。
美味しかったが妙な緊張感にやられ、何処に入ったか分からない状態のハルであった。
その午後、プリミアから官営旅館の経営について相談があるとのことだったので、ハルは執務を切りの良い所で終え、行政庁舎にほど近い官営旅館へと赴く。
ハルが旅館の玄関をくぐると、受付台に座るオルトゥスが元気良く声を掛けてきた。
「いらっしゃい~あ、アキルシウスお兄さん!」
「やあ、今日はオルトゥス。お姉さんはいるかい?」
「うん~奥の部屋にいるよ~」
今日の訪問を姉のプリミアから既に聞いていたと見え、ハルの問いにオルトゥスは淀みなく答える。
「入って貰えっておねえちゃん言ってた~」
「そう?じゃあお邪魔するよ」
「あっちの部屋~」
オルトゥスの手招きと指さしにハルは苦笑しながら官営旅館の奥、事務室内へと入っていった。
「……うん、これでよし」
オルトゥスは受付台からハルの背中を見送り、にんまりと子供らしからぬ笑みを浮かべるのだった。
「……ええっと、ごめん」
「あ、あの、あのっ……?」
奥の事務室へ入った所で、白く汚れた上衣を手にした上半身裸のプリミアと横から向き合ってしまうハル。
プリミアも動揺し過ぎてしまったのだろうか、大声や悲鳴を上げるよりも驚いて身体を固めてしまったようだ。
「外、いるから……」
「あ、あの……あ、はいっ」
大きく鼓動する心臓を悟られないよう平静を装い、ハルはふいっと向きを変えると事務室の外へ出る。
プリミアは顔を真っ赤にしつつも下を向いたまま、パニックになった頭を何とか働かせて、手にしている新しい上衣を身に着けた。
そして汚れた上衣を奥の籠に入れ、何回か深呼吸をしてから外を見る。
「あっ」
直ぐに顔が火照ってくるのが分かったが、プリミアは嫌々をするように頬に手を当てたまま身体を捩り、じっと佇んでからもう一度深呼吸をした。
「よしっ」
むんと拳を握りしめてそう言いつつ、改めて外で待つハルを呼ぶべく、プリミアは事務室の入り口へと向う。
「す、すいません。もう大丈夫です」
「あ、そ、そう……」
しばらくしていた衣擦れの音が止み、ぼんやりとプリミアの声が掛かるのを待っていたハルであったが、部屋の中から顔だけを出して声を掛けてきたプリミアに、びくっと身体を震わせて返答する。
「……じゃ、じゃあお邪魔します」
「どうぞ」
ぎこちない仕草で事務室にハルを導き、椅子を勧めてからお茶を出す。
「すいませんでした。パン生地を捏ねた時に汚れてしまって……着替えていたんです」
「い、いや」
ハルもぎこちなく返答すると、プリミアの顔が真っ赤に染まった。
「その、ハルさん……見ました?」
「……ごめん」
更に顔を赤くして下を向くプリミアの姿を見て、思わずハルは先程の光景を思い出してしまった。
真っ白な肌、奇麗な曲線を描く背筋の入った背中、控目ながらも柔らかそうな胸。
作業をしていた為か、さらさらした茶色の髪を上げてあったのでうなじもばっちり見ることが出来た。
思わず拳を握りしめたハルを、プリミアがじっと見つめる。
「あの……」
「ああ、いやこれは違いますよ?」
「いえ、ハルさんなら良いんです」
「うえ?」
がっと普段に無い力強さでハルの手を握るプリミア。
「ロットさん、力強いね」
「何時もパン生地を捏ねたり、料理をつくったりしていますから……そうじゃなくて、ハルさんっ」
「な、何でしょうっ?」
しばらく見つめ合う2人。
ぐっと手に力を込めたプリミアだったが、しかし次の瞬間栓が抜けたようにその力が抜けていく。
プリミアはそれでも手は放さないままに口を開いた。
「実はご相談が……」
「あ、相談、そうそう、相談ね?何かな」
「じゃあ、色々大変だけど頑張って」
「はい、相談に乗って頂いて有り難うございました」
結局官営旅館の経営方針や、雇用計画、提供する料理やその仕入れなどについての話しに終始し、プリミアは機会を逃してしまった。
かつて宿屋の女将さんをしていたというメテラという人物を雇う許可を得られたのは大きかったが、プリミアの狙いは別にあったので、その事ははっきり言ってどうでも良い。
一旦は踏ん切りが付いて決定的な言葉を口の手前まで上らせたのだが、ハルの笑顔を見て一気に恥ずかしさがぶり返し、気合いが抜けてしまったのだ。
上半身だけとは言え、裸を見られたのも影響してしまった。
別にハルに見られるのは構わないのだが、やはり不意打ちは効く。
「うう~私の馬鹿……」
手を振って行政庁舎へ去って行くハルを笑顔で見送りながら涙声でつぶやくプリミア。
そしてハルの姿が見えなくなってからがっくり肩を落して旅館の玄関へと向う。
「おねえちゃん、好機だったのに~」
「オルトゥス?」
「せっかくお膳立てしたんだからっ」
「……あなたの仕業ね?」
プリミアはハルが来たら受付で待って貰うようにオルトゥスに言付けていたのだ。
にまっと笑みを浮かべた弟の頭に真っ赤な顔でげんこつを軽く落とし、プリミアは言った。
「今度はちゃんと前もって言うのよ?」
「わかった~」
行政庁舎、ハルの部屋
プリミアとの話し合いを終えて部屋へ戻って来たハルを楓が出迎えた。
「ハル兄!」
「あれ?帰ったんじゃ無かったのか」
驚くハルに満面の笑みを浮かべた楓がたたっと軽やかに駆け寄る。
そしてハルの肩を撫でて言った。
「……一人鍛錬じゃつまんないもん、本当は治ってるんでしょ?」
顔を近づけ、まるで犬がそうするようにふんふんと鼻を鳴らしながらハルの肩を調べる楓に苦笑しつつ言葉を返す。
「まあね」
「じゃあ、文字通り肩慣らししようよ!」
嬉しそうな笑みを深めた楓が言うと、ハルは楓の手がかかったままの肩を眺めてから答えた。
「う~ん、いいぞ。ただエルレイシアに見つかるとうるさいから、ここの屋上で軽くな」
「やったっ!」
行政庁舎屋上
「たあっ!」
「なんの!」
楓の手によって正面から打ち下ろされた木剣を打ち返しながら、ハルは隙を見せた楓の脚を狙って自分の木剣を打ち込んだ。
楓はそれを受け止めずに、ハルの木剣をとんぼ返りで躱した。
「大分上手くなったなあ……」
「源爺からしっかり鍛えて貰ったんだよ~」
舞うような軽さで自由自在に間合いを詰め、時には距離を置いて打ち込んでくる楓に対してハルは本調子でないこともあって自分からは積極的に動かない。
少しずつ位置をずらしながら楓の攻撃を木剣で受け止め、いなして隙を作っては足や手を狙って打ち込む。
「やあっ」
「お?」
それまで楓が放っていた隙を狙う軽い打ち込みから一転して鋭く重い打ち込み。
ハルは少し狼狽えて木剣を揺らした。
「えい!」
後退しかけたハルの足をつま先で外側から引っかけ、楓が木剣を押し込んだ。
「おっと?」
「わっ?」
相手だけを押し込むつもりが、その際に木剣を手ごと絡められてしまったことでハルの上に倒れ込む楓。
2人は縺れ合うようにして屋上の大理石に倒れ込んだ。
ハルは楓に衝撃が伝わらないよう絡め取った木剣を軽く放り投げ、楓の頭をだいて後方へと倒れる。
ごん
「う……いて……」
「ハル兄、大丈夫?」
背中を打って呻くハル。
それを聞いた楓が心配そうに尋ねるが、ハルはあははと笑って無事を伝えると徐に口を開いた。
「いや……強くなったな。力も付いたし、身体もでかくなったからな」
「うん……」
木剣を奪われてしまったが、何とか引き分けに持ち込んだ楓。
今までは余裕でいなされて全く相手にして貰えず、悔しい思いをしていたが、数年の修行と成長でようやくハルに追い付いてきたようだ。
肩を並べることは出来なくとも、背中を追う事くらいは出来るようになったのである。
「じゃあ、そろそろ退いてくれ」
「やだ」
ハルが肩に手をかけて言うが、楓はそれを拒否して逆にハルへ抱きついた。
「お、おい」
戸惑うハルを余所に、楓は腕に力を込める。
汗ばんだ身体同士が密着し、ハルの体臭がふわっと楓の鼻腔をくすぐった。
まだ幼い頃に鍛錬の後、疲れ果てた自分を負ぶって風呂へ連れてくれた、逞しいハルの背中から感じたものと寸分違わぬそれに、楓はハルが昔と変わっていないことを何となく実感する。
鍛錬中も楓が怪我をしないようにと常に気遣いを忘れず、かと言って手抜きをしないで相手をしてくれた、優しい親戚のお兄さんはようやく楓の手の届く場所に来たのだ。
何時までたっても腕の力を抜かない楓に呆れたのか、ハルが上半身を起こす。
その手が優しく頭に置かれるのを感じ、楓は愛おしさで堪らなくなって顔を上げた。
「ハル兄、もう領へは戻らないの?」
「……分からない」
「どうしてさ?」
突然の詰問に戸惑いつつも、ハルは真剣に答える。
「やるべき事が、やらなくちゃいけない事が出来たんだ。それを放ってはいけない」
「じゃ、それが終わったら帰ろうよ……ね?」
楓の甘えるような誘いに、悩むハル。
この地で為すべき事は余りに大きく、未だその入り口にすら立てていないのが実状であるのに、軽々しく終わりの後について口には出来ない。
しかし、漠然とこの地に残ることを予想していたハルに、楓は故郷に帰るという新しい選択肢をもたらした。
この選択肢は非常に魅力的で、一旦は北方辺境の発展に尽くし切り、全てをなげうって使命を果たそうと決意したハルの心を強く捕らえる。
確かに、事が成れば帰郷しても構わないのだ。
ただ、ハルの目指す事業は決して易しい道行きでは無い。
そもそも、極めて優秀な先任者は様々な阻害要因があったとは言え失敗し、その命を散らして亡霊と化しているのだ。
必ず成功するとは限らないし、また自分一代で為し遂げられるかどうかも分からないのである。
「まあ、その時になってみないと分からないなあ……」
「うん、その時はボクがきっとハル兄を連れて帰るから!」
曖昧な答えを返すハルであったが、楓は一応満足した。
可能性は全くのゼロでは無い、そう考えた楓は一層強くハルの胸に顔を押しつけ、当人が戸惑うのを余所に懐かしい感触と香りを笑顔で堪能するのだった。