第3話 楓、プリミア、アルスハレアの到着
フレーディアより20日後、シレンティウム東城門
「……変わってないわね」
アルスハレアがシレンティウムの城門を遠望しながら感慨深げにつぶやく。
戦いで荒らされた農地や堀、それに城壁は綺麗に修復され、破損した街道や用水路、建物も既に修理がなっている。
一度は破却された湿地帯の水をせき止める堰も再構築され、今は水も捌けてその後に排水路が掘削され始めていた。
あちこちで木や石を打つ槌音が響き、鍬や円匙で土を掻き掘る音がしている。
そこにオラン人、クリフォナム人、帝国人の区別は無く、皆が泥とほこりにまみれて汗を流し、笑い合って働く姿があった。
修復されたばかりの街道をハルが率いる帝国兵が通ると、それに気が付いた市民達が手を振り、また別の者は頭を下げる。
「みんな生き生きしてるわね~」
「叔母さま、それは当然です」
アルスハレアが笑顔で手を振り返すハルの様子を見ながら言うと、エルレイシアが自分の事であるかのように答えた。
最大の脅威であったアルフォード英雄王率いる北方最強の軍を打ち破っただけで無く、アルフォード英雄王自身を一騎打ちで倒し、その武勇を認められて王位を譲られた辺境護民官の治める都市。
市民は誇りと自信に満ちているのだ。
ハルの後ろ姿を誇らしげに見ながらエルレイシアは言葉を継いだ。
「ハルは北の新たな英雄となったのですから!」
ハルはアルトリウスにフレーディアから戻って直ぐ執務室へと呼び出された。
執務室には既にヘリオネル、レイシンク、そしてアルキアンドが集まり、ハルとアルトリウスが来るのを待っている。
『ふむ、ではアルマール村の者達は皆このシレンティウムへ移住するというのだな?』
「はい、村は焼かれた上に農地は完膚無きまでに荒らされてしまいました。村の再建は不可能ではありませんが、厳しいものがあります」
アルトリウスの問いにアルキアンドは頷きつつ答える。
籠城戦の後調査した結果、村は完全に焼き払われており、住居に限って言えば再建には相当の費用と時間が必要で、間もなく冬が訪れることからも無理は出来ない。
農地は表面的に荒らされただけで再整備は可能との判断であったが、それにしても手間がかかる事に違いは無く、アルマールの族民達は途方に暮れた。
アルキアンドは再建を考えたが、族民達は元の村からそれ程離れてもいないシレンティウムへの移住を望んだ者が意外と多かったのである。
もともと防御不十分なアルマールの集落より、城壁と堀の整ったシレンティウムの方がはるかに安全であり、今回の戦いでシレンティウムが頼りになる事が分かったのも大きい。
また元の集落までは歩いて半日弱の距離でしかないため、馬車に乗り合って行けばかつての自分の畑をシレンティウムから耕しに行くことも可能であろう。
「しかし、一時的な避難ならともかく、7000人以上の移住者とは……」
ヘリオネルが唸る。
現在のシレンティウムの人口は、オラン人が2000人弱にクリフォナム人がやはり2000人弱、そして帝国人の市民が100人前後。
帝国兵を入れれば帝国人の数は800人程度にまで増えるが、いずれにしてもそこにクリフォナム人の南方系最大部族のアルマール族が拠点となる集落をシレンティウムへ移すとなれば、オラン人とクリフォナム人の数の均衡が崩れてしまう。
それでなくとも今回のフリード軍の略奪のおかげでクリフォナム人の移住希望者が増えているのだ。
ヘリオネルの本音を言えば遠慮して欲しい。
さらに募集を掛けていた移住希望者は、ハルがアルフォードを破ったことが伝わるにつれオラン人、クリフォナム人共に増え続けており、ここでアルマール族が本腰を入れてシレンティウムの移住経営に参画するとオラン人のシレンティウムにおける発言権は相対的に下がってしまうだろう。
しかし故郷を失う悲哀はヘリオネルの打算的な考えを押し流した。
あの辛さを今アルマールの族民達が味わっていることを考えれば、そして自分達をシレンティウムが受け入れてくれた時のことを考えればとても反対など出来ない。
「私は受け入れたいと思っていますが皆さんはどうですか?」
「俺も反対しないぜ……故郷を失う辛さは身に染みているからな」
ハルの質問にレイシンクがすかさず賛意を示した。
レイシンクも形は自然災害と違えども故郷を失った者なのである。
アルマール村の族民達が持った思いは痛い程分かる。
「私も、受け入れには賛意を示したい……」
ヘリオネルも故郷を追われた身である、最後はしかめっ面ではあったが賛意を示した。
その後、シレンティウム太陽神殿前
『な、なに!?アルスハレアを連れてきたであると!?』
アルキアンドとの会談後、ハルとアルトリウスはハルの治療の為、エルレイシアの待つ太陽神殿へと向かっていた。
その際に、フレーディア城での顛末を語ったのだが、アルトリウスはアルスハレアを同行してきたという話を聞いて素っ頓狂な声を上げた。
「え?ええ、はい。故郷はアルマールだと言っていましたし……引退後はエルレイシアと暮したいとの要望でしたから」
『ぐむ、どうにも覚えのある人間の気配がすると思えばっ……ハルヨシよ、お主とんでもない事をしてくれたである』
アルトリウスの狼狽える理由が分からず、反対に自分が狼狽えてしまうハル。
アルトリウスの言うとおり何かとんでもない事をしてしまったような気になり、恐る恐るその理由を尋ねようとしたところで横合いから肩に手を置かれた。
「あ、アルスハレアさん」
青空市場からの帰りだろうか、ハルが振り返ると籠に購入した薬草や香草を山のように積めて持っているエルレイシアとアルスハレアがいた。
「何がとんでもないのですか?」
にこやかに、それでいながら全く笑っていないのではと感じられるくらいの怒気を含んだ声がアルスハレアから発せられる。
すかさず回れ右をするアルトリウス。
『……では我は北の工事現場へ行くのである。ハルヨシよ、後はよしなにな!』
「先任、そっちは南ですが……」
アルトリウスへ思わず声をかけてしまったハル。
しかしその声を無視し、ふいっと消え去ろうとしたアルトリウスにアルスハレアの神官術がかけられた。
「……此の世にあらざる者の身を地に縛り行き足を止め賜え、制縛」
『ぐわっ!?』
消えようとして果たせず、むりやり地面に固定されたアルトリウスがつんのめる様にして立ち止まる。
そのアルトリウスへゆっくりと近づき、アルスハレアが声をかけた。
「お久しぶりですね、アルトリウス?」
『う、うむ、久しいのであるな~』
気まずい沈黙が当たりを包む。
街行く人も太陽神官と死霊、そして辺境護民官の取り合わせに何事かと注目し始めた。
「……言うことはそれだけですか?」
『う、うむ……』
「地に彷徨う霊よ、安らかなる眠りを天にて得られん事を……」
『なっ?』
「清浄!」
『うおおおおお!?』
自分の問い掛けに無言のアルトリウスへいきなり清浄術を放つアルスハレア。
周囲に光が満ちて降り注ぐが、すんでの所で制縛術を破って光をかわしたアルトリウス。
しかしそのマントの一部はすっぽり溶け落ちている。
驚いて声も無いエルレイシアに持っていた籠を押しつけると、アルスハレアは腕組みして仁王立ちになり、辛うじて術をかわして地に手を突いた格好で息を切らせているアルトリウスへ冷然と言い放つ。
「……なかなかしぶといですね?」
『いっ、いきなり何をするのであるかっ!もう少しで昇天するところであったぞ!』
「ふふふ、不義理な男にお仕置きです」
アルトリウスの必死の抗議にそう言い返すアルスハレア。
口をぱくぱくさせているアルトリウスを見てハルは青くなり、エルレイシアも普段とは全く違うアルスハレアの様子に圧倒されている。
街行く人は野次馬根性を十分以上に発揮し、面白そうな顔で少し遠巻きにその様子を傍観していた。
「お、叔母さま……?」
何とかそう言葉を発したエルレイシアに、アルスハレアは振り向きもせずに言う。
「エルレイシアも良く覚えておきなさい、甘い顔をするだけではいけません。男は与えるだけではだれてしまうのです、適度な刺激とお仕置きは必須なのです」
『無茶苦茶を言う』
「反省がありませんね……地に彷徨う霊よ……」
『だあっ!やめんかっ!ハルヨシっ、このばあさんを止めるのであるッ!』
「はっ!はいっ」
アルトリウスの声にようやく我に返ったハルは詠唱を始めたアルスハレアの口を塞ぎ、市民の面白がるような視線を避けてエルレイシアと一緒に太陽神殿へと駆け込んだのであった。
『全くとんでもない婆になったものである……』
「失礼な。あなたがそういう風だから婆になってしまったのよ!」
『と……年を取ったのも我のせいであるのか?』
「おまけにその姿……アルトリウス、あなた水の精霊と致しましたね?」
『いっ、致すとはなんであるかっ!これは生前の契約で……』
「致したのでしょう?」
『うぬうっ……』
太陽神へ入った途端に言い合いを始めてしまったアルトリウスとアルスハレアを見てハルは呆れ、エルレイシアは笑う。
エルレイシアは買い入れた薬草を籠ごと乾燥戸棚にしまうと、呆れて2人を眺めるハルの背をそっと押した。
「エルレイシア?」
「いいですから」
訝しげに振り返るハルを立てた人差し指で制し、エルレイシアはハルを太陽神殿の裏へと連れ出す。
「積もる話もあります。ここは2人きりにしてあげましょう」
「……言い合いしているようにしか見えないですが」
2人の言い合いはとうとう40年前に遡ってしまったが、そこでふとアルスハレアが何かに気付いたように言葉を発した。
「……あれからもう40年経つのね、つい昨日のように思い出されてしまうけれど」
『うむ、長いようで短い年月であった。息災……な訳では無いだろうが、よくぞ再び戻ってくれたのである。また会えるとは思ってもいなかったが』
息災なようでと言葉を続けようとしたアルトリウスだったが、アルスハレアに鋭い視線を送られてとっさに言葉を入れ替える。
その言葉はアルスハレアを満足させるものだったようで、表情がようやく和らいだ。
「大怪我をしたあなたが水の精霊を封じ、私を気絶させてアルフォードに引き渡した後のことは……アルフォードから全部聞きました」
治療を施そうとしたアクエリウスを封じ、アルスハレアに気当てを放って気絶させたアルトリウスは、その後満身創痍のまま帝国とクリフォナムの民に語り継がれることとなる激闘の後、アルフォード王に首を落とされた。
「どれだけ私が……」
涙は落ちない、声は、上げない、そしてそれ以上の言葉も無い。
しかしアルスハレアの40年の涙と苦しみは、しっかりとアルトリウスに届いた。
40年前のあの日、自分の肩にすがりついて、意識を失うことに懸命にあらがおうとしたアルスハレアの悲痛な顔を思い出す。
『済まぬであったな……しかし悪いとは思うが我はあの時のことを後悔はしていない』
真面目で繊細な自分を豪放な態度で上手く隠し、常に前向きで将来と目標を見据えて人々を引っ張っていた40年前の勇姿がアルスハレア脳裏によみがえる。
「ふふ……そうでしたね。あなたはそういう人でした」
僅かに微笑みながらアルスハレアが答えると、アルトリウスも苦みを含んだ笑みを浮かべて言った。
『我らがいたから……あの時我らが悲劇に苛まれたからこそ、今のハルヨシやお主の姪のエルレイシアが居る、続いてくれる。そう考えれば悪いことばかりでは無かった、と思えるのだ』
「ふふふ、まるで自分の果たせなかった夢を子供に負わせる親のようですよ……」
少し熱を帯びたアルトリウスの言葉に、アルスハレアはおかしそうに含み笑ってから答える。
『うむ、そうであるな……何としても我らが果たせなかったことをあやつらには為して貰わねばならんのである』
「……分かりました。私たちがたどり着けなかった未来、あの子達には辿り着いて貰いたいですからね」
アルスハレアは触れることの出来ない透けたアルトリウスの手の上に自分の手をかざした。
40年前に取り縋った頃とは比ぶべくも無いしわだらけの手だが、アルトリウスは手のひらを上に返して応じてくれる。
一瞬、アルスハレアにはアルトリウスが何時もの若々しい姿では無く、自分と同じように年相応の姿に見えた気がしたのだった。
「ほら、やっぱりです」
「はあ、なるほど……」
趣味悪く太陽神殿の奥の部屋から2人の様子を覗くエルレイシアとハル。
会話の内容は聞こえないが、怒鳴り合う声が静かに会話する声へと変わったのでこっそり覗いてみたところ、そこには良い雰囲気のアルトリウスとアルスハレアの姿があった。
「……あの、近寄り過ぎです」
2人の姿に触発されたのか、うっとりして寄り添おうとするエルレイシアから身を離すハル。
「イイじゃないですか……あん、そんな邪険にしないで下さい」
「いや、ね。ちょっとっ……」
覗き中に騒ぎ立てることも出来ず、壁際であったことからあえなく追い詰められ、身体を寄せられてしまう。
「静かにしないと2人に気付かれてしまいますよ」
「うう……」
身じろぎしようとしたハルをそう窘めて制し、エルレイシアはハルを壁に押しつけるような格好でぴったり寄り添うと、幸せそうな顔でその肩に自分の頭を預けるのだった。
数日後、シレンティウム南水路工事現場
「辺境護民官殿、お知り合いという方達が退役兵協会の人たちと一緒に訪ねてきているのですが、どう致しましょうか?」
「知り合い?」
南西の湿地から水を排する為の水路を改めて開削する工事現場で、ハルは円匙を地面に突き立て、額の汗を拭いながら怪訝そうに返事をした。
エルレイシアの献身的な治療の甲斐もあって左肩の怪我も随分良くなり、機能回復訓練がてら土木作業に精を出していたのだ。
しかしわざわざ呼びに来た兵士には悪いが、北方辺境に知り合いは居ない。
おそらく騙りの類だろう。
「う~ん……適当に追い払ってしまってくれますか?」
「はあ、良いのですか?1人は御身内と言っておりますが……」
「え……身内?」
自分の身内ははるか遠くの群島嶼にしかいないが、何となく嫌な予感がする。
「……取り合えず、会うだけ会ってみるか」
思い直したハルは円匙を担ぐと、呼びにやって来た帝国兵の後に従いシレンティウムへと向かった。
執務室へ戻ろうと行政庁舎の前に来たところで、ハルは2人の少女が佇んで話しているのを見つけた。
「あ、楓!?……とロットさん?」
見覚えのある姿に思わず声を掛けると2人が同時に振り返った。
「ハル兄!」
「アキルシウスさんっ」
ひとしきり騒いだ楓を相手にした後、ハルはプリミアと言葉を交わす。
「ご無沙汰しております、あの折は本当に有り難うございました」
「怪我はもう大丈夫なんですか?」
「はい、お陰様で傷跡も残らずに治りまして……」
ハルは執務室へ案内すると香草茶を淹れて振る舞いつつプリミアに軽く近況を訪ねた。
帝都にいる時は身の危険を感じたと言うことで、わざわざ北方辺境へハルを訪ねるべく弟と2人で旅をしてきたことがぽつりぽつりと語られる。
「もっと自分が上手く立ち回れていれば良かったのですが……申し訳ない」
「いえ、アキルシウスさんは別に悪くありません。仕方なかったのです」
少し会話に間が空き、ハルがふと部屋の反対側を見るとプリミアの弟オルトゥスと先程文句を言い終えた楓はガッチリした石造りの執務室を物珍しそうに眺め、時折ひんやりする壁を触ったり叩いたりして遊んでいるのが視界に入った。
それを見たハルがふと気付いて問い掛ける。
「そう言えば、どうしてウチの又従妹と一緒に?」
「途中、盗賊に襲われかけたところを助けて貰ったんです」
オルトゥスと仲良くしている楓の様子を見ながらハルが尋ねると、プリミアは微笑みながら答えた。
詳しく聞けば北方辺境に向かう街道の途中で偶然行き合ったところ、いきなり襲いかかってきた盗賊団との戦闘になったが楓とその従者達が苦も無く追っ払い、打ち倒してしまったという。
向かう先が同じということもあってそれから一緒に旅をしてきた2人であったが、まさか目的とする人物まで同じとは関所に着くまで分からなかった。
「本当に驚きました。ハルさんの……又従妹さんだったんですね」
「まあ、又従妹というか、妹みたいなもんなんだけども……」
壁の装飾や造りを確かめるのに飽きたのか、こちらへ近づいてくる楓とオルトゥスを見ながらハルが少し言葉を濁す。
『ほう、その方がハルヨシの又従妹であるか』
「ひえっ!」
『ふむ、してその方がハルヨシに帝都で命を救われたという娘であるな?』
「は、はいっ」
不意に2人の前に現われたアルトリウスは、品定めをするように2人をそれぞれ眺め回すと顎に手を当てて考える仕草をした。
『……なかなかの器量である!』
「ハ、ハル兄!し、死霊がっ……!」
脱兎のごとく駆けてきた楓がぶるぶる震えてハルの背中に隠れてアルトリウスを指さし、プリミアは言葉も無く自分にしがみついてきたオルトゥスを抱きしめてアルトリウスを凝視している。
「ああ、そうか……心配しなくて良い、こちら先任のガイウス・アルトリウス顧問官」
『おう、アルトリウスである。宜しく頼むのである』
手を腕組みに変えたアルトリウスが自己紹介すると、呆けたようになる2人。
「ま、まともにしゃべった……!」
「こ、こんなこと……」
アルトリウスとハルがごく普通に会話する様子を見てようやく落ち着いた3人。
最初は恐る恐るアルトリウスと話していたプリミアも、直ぐ普通に会話できるようになった。
『ほう、ロット嬢は帝都の旅館で仕事をしていたのであるか……うむ、これは良い!』
プリミアの素性や経歴を聞いていたアルトリウスがそう言うと、楓と話していたハルは首を傾げる。
「何が良いんですか?」
『うむ、実は宿泊施設の建設が終わっていたのだが切り盛りする人間がおらんということで困っておったのだ。その方、やってみる気は無いか?』
「ああ、そう言えば……」
ハルもアルトリウスの言葉に思い当たる。
行商人や移住希望者達から宿泊施設設置の要望が出されており、それに応えるべく行政街区の一角にシレンティウム市直営の宿泊施設を建設することになっていたのだった。
それが完成したのはハルがフレーディアに行っている間のことで、ハルも報告を受けてはいたがすっかり失念してしまっていた。
「はい、それならばお役に立てそうですが……」
『何、心配は要らん。給金は帝都の時よりは少なかろうが住居と食料は弟殿ともども保障しよう』
「いいんですか?」
アルトリウスが胸を叩く様子に少し戸惑いながらプリミアがハルに尋ねる。
ハルはプリミアの不安を払拭するべく笑いながら答えた。
「ああ、客はクリフォナムやオランの人たちが多くなるだろうけど、むしろこちらからお願いしたいんです。やって貰えるかい?」
『宿は四階建てでな~豪華では無いが趣味の良い清潔で綺麗な宿である。別棟には我の設計により帝国風の風呂も完備しているのであるぞ』
アルトリウスが得意げに言う。
ハルは裸の付き合いという意味より、風呂のような公共施設を増やし、人種や民族が違うシレンティウム市民に共通の公共道徳を普及させようと考えた。
そこで第一号として宿泊施設に付属させる風呂の設計は、一家言持っているというアルトリウスに依頼したのであった。
宿泊施設に付属させたのは、外から来たクリフォナム人やオラン人にも風呂そのものより、それを通じて公共道徳を普及させやすいと考えたからである。
風呂の習慣はクリフォナムやオランには無い。
水浴びや水遊びせいぜいである為、風呂の作法は帝国風になる。
『ふふふ、まあ~後はアクエリウスを説得するだけであるな、大変楽しみである!では参ろうかロット嬢!弟御も同道せよ』
「は、はいっ」
「うん」
アルトリウスがロット姉弟を連れて出て行こうとするが、執務室の出入り口でプリミアが立ち止まって振り向いた。
「ハルさんっ!」
うんといった感じで自分を見るハルに、プリミアは一生懸命な様子で言葉を紡ぐ。
「あの、本当に有り難うございます。お礼らしいお礼も出来ない内にまたお世話になってしまって……本当に、どうお礼を言っていいのか……」
「気にしないで良いよ。困った時はお互い様だし、なかなか見つからなかった宿屋をお願いするんですから。こちらこそ有り難う」
「はいっ、では……失礼します!」
「仲良いね~ハル兄~?」
「帝都で事故に遭った所を助けただけだぞ……て、それより楓!お前っ」
プリミアとハルの会話を面白くなさそうに眺めていた楓が近づいて来るなりそう言ったが、ハルは怪訝そうに言葉を返し、そして今更であったが楓を問いただす。
「なに?」
「なに、じゃない!どうやって此処まで来たんだ?大叔父は?」
「源爺からちゃんと許可はもらってきたもんっ」
ハルの詰問口調に反発したのか楓はそう言うとぷいっと明後日の方向を向いた。
あり得ない回答にハルは更に楓を詰問する。
「なあっ?……嘘付け!お前は次期当主だろうっ?」
「次期当主はハル兄だよっ。ボクはその1の家来っ」
「え?」
「だから~ハル兄の仕事が終わったらボクと一緒に領へ戻れば良いって……そう言われたよ?」
楓から発せられたいきなりの言葉に一瞬絶句したハル。
確かにそういう方法が無いでもないのだ。
しかし自分は決めた、この地に尽くすと。
ハルは故に一瞬浮かんだその考えを心の中で否定しつつ、ため息を漏らしながら口を開いた。
「馬鹿言え、そんなこと出来るか……」
シレンティウムを完成させ、引退する。
確かに今楓が示したのは一つの終わり方かも知れない。
楓がここに居る、人手不足の領を離れてここに来られたと言うことは、秋留村や領全体に少し余裕が出来たのだろう。
シレンティウムが完成する頃には自分が戻ってもやっていけるぐらいには復興しているかも知れない。
しかしここに赴任した当時ならいざ知らず、今のハルにはその選択肢は無かった。
そもそも任期は相当長いのである。
「仕事は1年2年で終わるものじゃないぞ」
「そんなあ~一族で若者はハル兄とボクぐらいしかいないんだよっ?」
楓の言葉でおよそ言わんとするところを察したハルはげんなりとする。
これは源継の差し金だろう。
領の分散防止と一族の結束を第一に考える、古い群島嶼人らしい源継の思惑は分かっている。
楓を嫁に取らせて本家と分家の領を合わせてお家再興を為すといったところか。
最初は家臣と為して距離を縮める作戦だろう
踊らされている楓が可哀想だが、この様な僻遠の地にまで来てしまったのであれば返すのも危険である事だし、無碍に追い返すわけにも行かない。
「全く、源継大叔父にも困ったもんだ……楓は妹みたいなものなのになあ」
楓は可愛いがそれは妹や年下の親族に向ける親愛の情であり、異性間の愛情では無い。
それに距離を縮めると言っても、既に肉親の距離に居る楓にそれ以上縮まる要素は無いのだ。
「ボクはハル兄の妹じゃないよ?」
「そう言ってもいいようなもんだろう?」
「まあ、そうだけど~」
楓は不承不承ハルの言葉に頷く。
分家とは言っても血縁も地縁も極めて近い分家であり、兄妹同然に育ったのであるからそれは否定できない。
しかし楓が抱いている感情は断じて兄妹の愛情などでは無いのだが、それを説明するのも気恥ずかしく楓は手近にある椅子へどさっと勢い良く座った。
「あっ?」
「ん、何だそれ?」
その拍子に腰に下げていた革袋が床へと落ちる。
革袋は源継が楓に渡したものである。
「そうだった、源爺がこれをハル兄にって……」
落ちた革袋を見て源継からの言伝を思い出した楓は、すいっと指でそれを拾い上げてハルに渡した。
「源継大叔父が?」
ハルが怪訝そうな顔をしつつ楓から革袋を受け取って中を見る。
中に入っていたのは大量の木の実。
「これは……冠黄櫨の種じゃないか?」
「うん。そうだよ~」
黄櫨は群島嶼で採蝋用の樹種であるが、冠黄櫨はその中でも温暖な平地より寒冷な山地を好む樹種である。
小粒な果実が秋に大量に実るが、これを採取し、更にそれを蒸した後に圧搾すれば木蝋となる。
群島嶼の木蝋原料の一つであるのだが、寒冷な気候を好む為温暖な群島嶼での栽培は余り盛んではない。
群島嶼では他の黄櫨や漆木の方が栽培しやすい為である。
「楓、秋留村で黄櫨は植えていないのか?」
「焼け残った木はまあまああるけど、蝋を作っても船がないから売りにも出せないし、人手も無いしね~おまけに食べ物を作るので大変だから、蝋を作ってる暇は無いみたい」
西方帝国との戦いで最後まで活躍した群島嶼の水軍と海運が解体されたことは知っていたが、未だ再建は許されていないらしい。
帝国が南方大陸侵攻の足掛りとして行った群島嶼侵攻は、その目的が帝国から南方大陸への海上輸送路を確保と途中の妨害勢力である群島嶼の水上戦力を潰すことにあったので、当然と言えば当然の措置ではある。
「そうか……」
源継の意図は今ひとつ分からないが、確かにシレンティウムの気候は冠黄櫨の栽培に適していると思われる。
後は土と水だが、どのみちここにある土と水で育たなければ栽培は出来ないのでこれは実際植えて試してみる以外に試す方法は無い。
成長して実がなり、蝋が採れるようになるまでは10年程かかるだろうが、試してみる価値はあるだろう。
革袋の中の木の実を見つめて考え込んでしまったハルを見ながら、楓は木の実が実る頃には故郷へ帰れればとふと思う。
でもそれまでには自分達の関係も何とかしておかなければならない。
今のままではいつまで経っても自分は“妹”のまま、関係の進展は望めない。
「がんばるぞっ」
「何をだ?」
胸元で右こぶしを握りしめて言う楓を、ハルは不思議そうに振り返った。