トップブリーダー
「高志さんは、大学生でいらしたわね。何を専攻してらっしゃるの?」
丸いテーブルを挟んだ向こう、僕と揃いのティーカップ片手に、けぶるような美女が小首を傾げてこちらを見ている。
カップの華奢な持ち手に絡まるその指は、陶器のそれに負けず劣らず白くて細い。
透けるような白い指に、爪先の赤いマニキュアがやけに艶めいて見える。
烏田栄美子、33歳、バツイチ独身子供なし。
東京都内マンションに住居あり。近郊避暑地に別荘あり。
趣味はガーデニング、仕事は在宅、都内数ヶ所に父から譲られた不動産を所持。
週1回のエステ通いとネイルサロン。
行きつけのヘアサロンの名前は『リル・ディーン』。
ネットで知り合って3ヶ月。
僕が彼女について知っているのはその程度だ。
「どうかしましたの…?」
絵に描いたような微笑を浮かべて、彼女が紅茶に一口、口をつけた。
「…あ、いえ」
いけない。
思いきり見惚れてしまっていた。
慌てて焦点を合わせれば、性懲りもなく僕の目は彼女の白い喉元に釘付けになる。
「ええっと、専攻、専攻でしたね。僕は、西洋史を勉強してるんです」
滑らかそうな喉元の柔らかなカーブを視線で辿ると、ワンピースの胸元へと辿りつく。
そこにはふくよかな盛り上がりと、翳りのある谷間。
ややどぎまぎしながら、返した言葉に彼女が肩を揺らして笑った。
…見透かされている気がする。
「西洋、というと…イギリスとか、フランスかしら?それともイタリアの方?」
「おしいな、ドイツですよ」
だいたい、期待するなっていう方が無理だろう。
出会い系のサイトで知り合い、3ヶ月のメール交換。
3日に一度はメールをやりとりして、今回、彼女の別荘で会う約束まで漕ぎつけた。
誘ってきたのは、彼女だ。
避暑を目的とした郊外の別荘地だけあって、まだ夏というには爽やかなこの季節には、人も少ない。
涼しげな白い幹の木々に囲まれた木造の別荘には、整えられた広い庭が付属している。
定期的に庭師が入るらしく、緑の芝は綺麗に刈られていた。
昼ごろに駅で待ち合わせ、迎えに来てくれた彼女の車は赤いベンツ。
その運転席が開き、ヒールを履いた細い足がアスファルトに伸ばされる。
膝下で揺れるワンピースのスカートの裾が、5月下旬の爽風に揺れていた。
ノースリーブのワンピースは淡いクリーム色、羽織ったストールの薄い水色と良く合う。
シャープなラインの顎と、緩く巻かれた肩までの髪。
白い肌に、頬はほのかに色づく桃色、髪は軽い栗色で。
涼しげな印象の目許と、ふんわりとルージュのひかれた柔らかそうな唇。
とてもではないが、三十路の女性には見えない。
というか、彼女は、僕の周りにいるどんな女の子よりも魅力的だった。
期待するなっていう方が、無理だよ。
僕はもう一度、頭の中で繰り返した。
会おうと誘われた最初は、そりゃ、さすがに迷った。
だって、33歳のオバサン、だろ?
僕が21だから、年齢差は実に一回り。
…べつに、会ってどうこう、っていう話があった訳じゃないけど。
やっぱり考えるだろ、健全な男としてはさ。
だけど会ってみて、俺の考えは180度逆転した。
いや、もう、全然オッケー。
むしろこっちからお願いしたいくらいだ。
「…高志さん?」
呼び掛けられて、僕ははっと彼女を見返す。
「――あ、いえ…すいません」
しまった、また意識が遠くにとんでいたようだ。
慌てて取り繕って、まさか考えていた事が彼女に伝わってはいないだろうかと盗み見る。
「おかしな方ね」
ころころと笑う様子に、僕はほっと胸を撫で下ろした。
甘い香りのする紅茶で喉を潤しながら、視線を彼女から離して芝生へと向ける。
僕と彼女が今いるのは、芝生に面した1階テラスだ。
視界の端を2つの白い塊が軽快に追いつ追われつ駆け回っていた。
「…残念だわ。フランスを勉強されているなら、マリー・アントワネットのお話も知ってらっしゃるかと思ったのに」
言葉に視線を彼女に戻せば、いつのまにか彼女の視線も芝を駆ける2匹の愛犬を追っている。
先ほどから飽きずに広い庭を追いかけっこしているのは、彼女の飼うパピヨン達だ。
ここまで乗ってきたベンツの後部席、我が物顔で座っていたのも彼等だった。
「マリー・アントワネット?」
有名な女王の名前に、僕は首を傾げる。
ええ、と彼女が頷いた。
「マリーの愛犬も、パピヨンでしたのよ」
愛しそうに目を細めながら、彼女の瞳は庭の端、薔薇の低木の合間を駆け回っている犬の姿に向けられている。
犬が駆ける度、その毛足の長い被毛はふわりふわりと風に揺れ、小柄な身体にも関わらず威風堂々たる威厳を感じさせる。
足は細く、小さい体の割に耳が大きい。
その耳から長く垂れた毛は美しく、パピヨン(蝶)の名はそこに由来するものらしい。
なるほど、小さな顔にフワリ広がる耳とそこから伸びた毛の様子は、見る者に蝶を想像させる。
「可愛いでしょう?」
声が近くなって、戯れる犬の姿を眺めていた僕は、慌てて彼女に顔を戻した。
「え?…あ、ええ。そうですね」
先ほどと変わらず、向かいの椅子に腰を降ろしたままの彼女が艶然と微笑んで僕を見ている。
思わず相づちを打った僕だけど、実際には、犬自体あまり好きではない。
あの無害そうに甘えてくる丸くて黒い目といい、だらしなく開いた口から時折覗く尖った歯といい。
どこが可愛いのか、僕にはさっぱり分からない。
…彼女の2匹の愛犬が、離れた所で遊んでいてくれて、実はほっとしていたりするのだ。
僕の内心に気付いてか気付かずか、彼女は飲んでいた紅茶をテーブルに置いて、椅子を立った。
ゆっくりとテラスを歩いて、芝生の上に足を踏み出しながら、振り返る。
軽く揺れる髪から覗いた折れそうに細い首筋が、印象的だ。
「私、ブリーダーもしていますのよ」
にっこりと笑む彼女に引き寄せられるように、僕も椅子を立つ。
一瞬、くらりと視界が揺らいだ…気がした。
彼女の色気に、少しのぼせているのかもしれない。
彼女の視線が、僕から再び2匹のパピヨンへと戻って行く。
「あの子たちは、ショードッグで、この間、念願のチャンピオンになりましたの」
嬉しそうに語る彼女のすぐ近くまで移動しながら、僕の頭はフル稼働だ。
ブリーダー。
確か、犬やら猫やらを繁殖させる職業だったはずだ。
ショードッグと言うと、多分、犬の美しさやしつけやらを比べる大会か何かがあったのではなかったか。そこで、チャンピオンになった、と。
「それは…すごいですね」
結局、僕の口から出たのは何の捻りもない文句。
…知らないものはしょうがない。
ちらりと、一瞬向けられた視線が悪戯を企む子供のように細まり、笑みを刻んで外される。
一歩、また僕から彼女が逃れるように芝の上を歩いた。
「すごいでしょう?私の自慢の子供たちなのよ」
そう言って、また一歩。
僕は誘われるように彼女の後を追って、靴裏に柔らかな芝を踏み締める。
なんとなく、何か話題を振らなければ彼女が逃げて行ってしまいそうな気がした。
彼女の視線は、僕ではなく、愛犬を見ている。
「毛並みも綺麗だし…手入れも大変なんじゃないですか?」
背中にかけた言葉に、彼女は振り返ることもなく、軽やかな足取りで犬達の戯れる薔薇の方へと歩み寄る。それを追い掛けて、僕も歩く。
言った自分の言葉は妙に頭の中に反芻して、目の前を行く彼女の大きく開いた白い背中を追いながら、まるで夢の中にでもいるような気分になってくる。
彼女が歩くたびに肩甲骨が滑らかな動きで揺れ、すっと通った背筋がワンピースの薄い布の中へと消えて行く腰付近、括れた腰から続く布地に隠された尻の動きも、扇情的だ。
「そうですわね。毎日のブラッシングと、週に一度はトリミングに参りますの。でも、一番気をつけているのは、何よりもご飯ですわね」
ようやく振り向いた彼女が、口許を綻ばせて僕を見遣った。
その足元を、小型犬が2匹、じゃれるように走って通り過ぎていく。
いつのまにか、薔薇の木はすぐ傍だ。
薔薇は、その蔦を伸ばして広がっており、茂みを作って芝生の一画を占めている。
遮るもののない芝の中、ここだけは、茂みに隠れるスペースがある。
「ドッグフードは、やっぱり色んな種類があるんですか…?」
さりげない話題を振りながら、振り向いた彼女をそれ以上逃さぬよう、僕はなるべく自然な仕草で腕を伸ばした。
逃げるかと思った彼女は、しかし、動かない。
艶のある唇は緩く綻び、合間からは白い歯が覗いて、まるで誘っているかのようだ。
伸ばした僕の指先が、彼女の剥き出しの肩に触れる。
自分の肩に置かれた僕の手に視線を落とした彼女が、小さく笑ったように見えた。
僕の質問には答えず、
「何か、運動でもしてらっしゃるの?…逞しい身体」
うっとりと呟く彼女の瞳が濡れている。
持ち上がった細い手が、僕の二の腕を撫でていくのを、ぼうっと見つめながら喉を鳴らす。
頭の芯が、滲んだように惚けている。
「…ジム、に…通ってるんれす」
舌まで回らなくなってきた。
いくらなんでも、それは色香にあてられすぎだろう、僕。
これではあまりにも、格好悪い。
ゆるりと振った頭に、しかし思いの外視界が揺らぐ。
……いや。
…ちょっと、これは、さすがに。
思わずそのまま倒れそうになるのを、僕は必死で踏ん張って堪えた。
目の前では、絶世の美女が、艶然たる笑みを自分に向けている。
僕の様子を気にした風もなく、彼女が僕の胸板を愛しそうに撫で下ろした。
それだけで、意識がとびそうになる。
「…ええ、ええ。ちょうど良い感じだわ」
彼女の掌は、僕の胸元を行ったり来たり、しっとりと濡れた瞳で数度頷き。
「筋肉の付き具合も、堅さも。脂肪が多過ぎるのは、あまり良くないのよ」
ふふ、と可愛らしい笑みを漏らして喋る彼女の言葉は、僕の頭の中で意味を成さない。
駄目だ…、どうしたっていうんだ…。
くらくらと回る世界、彼女の姿も世界と一緒にぐるぐる回る。
調子が悪いなんて、そんなレベルの問題じゃない。
遠くで甲高い犬の鳴き声が聞こえた気がした。
「大丈夫。ただの睡眠薬ですわ」
…なんだって?
鈴を転がしたような彼女の耳ざわりのよい声が鼓膜を伝わって頭の中で撓む。
「余りたくさんの睡眠薬だと、この子達にも良くありませんもの」
また、甲高い鳴き声。
今度はやけに騒がしい。
まるで、何かを急かしているように吠え立てる。
…気分が悪い。
目が回る。
ド、と鈍い衝撃とともに地面が近くなってようやく、自分が倒れた事を悟る。
すでに滲んで暗くなりつつある視界に、ヒールの靴と、ぴょんぴょんと跳ねる白い足がちらついた。
肉食の、小さな獣の足だ。
…冗談だろう?
言葉にしようと動かしたはずの唇はもう動かない。
暗転する視界。
全てが遠のいていく中で、ただやけにクリアに声だけが降ってきた。
「やっぱり…餌が一番、大変ですわね」
――…やっぱり、犬なんて生き物は、嫌いだ――……。