第8話「十年前の沈黙」
この土地が捨てられた日のことを、あの人は知っていた。
八軒目の床板を剥がしていた時だった。
ルシアンが去って五日が経っていた。委託管理人の書類仕事はマルクスが届けてくれる。資材の手配もマルクス経由になった。私が望んだ通りの形だった。
望んだ通りのはずなのに、通りの空気がどこか重い。
八軒目は南通りの端にある二階建てで、一階の床が大きく傾いていた。トーマとヨルンが梁を支え、私が床板を一枚ずつ外していく。メルダは隣で窓枠の寸法を測っている。
三枚目の床板を外した時、土台の石積みの隙間に何かが挟まっていた。
油紙に包まれた書類の束だった。
紐を解くと、紙が三枚出てきた。端が茶色く変色し、文字の一部は滲んで読みにくい。だが公文書の形式だということは分かった。王室直轄地の管理書式に似ている。ゲームの中で百科事典機能を眺めていた時に見た、あの堅い書式だった。
一枚目は住民退去勧告の記録だった。
日付は十年前。この土地の住民に対し、退去を命じた公文書の写し。理由の欄には「領政維持の困難」とだけ記されていた。
二枚目は、退去に伴う土地管理権の放棄申請書だった。署名欄に名前があった。
ヴォルフリート。
先代辺境伯の署名だった。ルシアンの、父親の名前だった。
三枚目は添え書きのような短い文書だった。別の署名があったが、インクの滲みがひどく判読できない。ただ署名の横に押された紋章は、かすかに読み取れた。盾の中に鍵と薔薇の意匠。見覚えのない紋章だった。侯爵家のものだということだけは、紋章の格式から推測できた。
トーマが覗き込んだ。
「なんだそれ、古い書類か」
「十年前の領政文書みたいです。この土地の住民退去勧告の記録と、土地管理権の放棄申請書」
「放棄申請書? つまり誰かがこの土地を捨てたってことか」
「先代の辺境伯です」
トーマが眉を寄せた。メルダが手を止めてこちらを見た。
「辺境伯閣下の、お父上ということ?」
「はい」
私は三枚目の文書を見つめた。侯爵家の紋章。放棄申請書に添えられた、別の人物の文書。これが何を意味するのか、今の私には分からない。
分かっているのは一つだけだった。ルシアンは、この土地が捨てられた経緯を知っていた。知っていて、ここに通い、資材を届け、名前を隠して私のそばにいた。
マルクスに連絡を取った。翌日、ルシアンが来た。
正装ではなかった。黒の長衣に銀の留め金。紋章はあるが、あの日ほど畏まった装いではない。マルクスは同行していなかった。
七軒目の前で待っていた私に、ルシアンは数歩の距離で立ち止まった。
「文書を見せてほしい」
私は油紙の包みを差し出した。ルシアンは三枚の文書を一枚ずつ確認した。一枚目で表情は変わらなかった。二枚目の署名を見た時、指先がわずかに止まった。三枚目の紋章を見た時、顎の筋肉が一度だけ動いた。
そして長い沈黙があった。
「辺境伯閣下。この文書について、ご存知のことを教えていただけますか」
私は姿勢を正して尋ねた。委託管理人として、この土地の歴史を知る必要がある。それは正当な理由だった。
ルシアンは文書から目を上げた。
「十年前、父がこの土地を放棄した」
低い声だった。いつもより、さらに短い言葉だった。
「住民は二百人ほどいた。農家、職人、商人。辺境伯領の東端として、小さいが安定した集落だった」
ルシアンの視線が、通りの先に向いた。今は七軒の灯りがともる通りを。
「父は領政の縮小を決めた。この土地の維持費用が辺境伯領の財政を圧迫していると判断した。住民に退去を勧告し、土地の管理権を王室に返還した。俺は十五だった。反対したが、聞き入れられなかった」
「住民の方々は」
「大半は王都近郊に流れた。一部は他領に散った。全員の行き先を把握できたわけではない」
ルシアンの声に感情の色はなかった。事実を述べているだけだった。だがその平坦さが、逆に重かった。
「父は五年前に亡くなった。俺が家督を継いでから、この土地の再生をずっと考えていた。だが辺境伯が直接手を入れれば、父の失政を公に認めることになる。政治的に難しかった」
そこで言葉が途切れた。
私は三枚目の文書を指した。
「この署名と紋章は、どなたのものですか」
ルシアンは一拍置いて答えた。
「確証がない」
「心当たりはおありですか」
「ある。だが推測の段階で口にすべきではない」
その声は硬かった。推測ではなく、ほとんど確信に近い何かを抑えている声だった。でもルシアンはそれ以上語らなかった。
私は文書を受け取り、油紙に包み直した。
頭の中で、この半年間のすべてが組み替わっていく。
ルシアンが外套で紋章を隠してこの土地に通っていたのは、父の失政を知っていたからだ。名前を名乗らなかったのは、辺境伯家の名前がこの土地にとって加害者の名前だったからだ。資材を匿名で届けたのは、辺境伯として公に関われなかったからだ。
すべてが、贖罪として説明がついてしまう。
この土地を捨てた辺境伯の息子が、罪悪感からこの土地を再生しようとしていた。そこにたまたま追放されてきた私が、家を直し始めた。都合が良かっただろう。私が動けば、ルシアン自身は手を汚さずに済む。
頭では分かっている。十年前のことはルシアンのせいではない。十五歳の少年に、父の決定を覆す力はなかった。
でも。
最初から全部知っていた人が、何も言わずに隣にいた。私が「自分の力で立ち上がった」と信じている間、この人はずっと知っていた。この土地が捨てられた理由も、私がここに追放された経緯も、全部。
「少し、考える時間をいただけますか」
私の声は自分でも驚くほど静かだった。
「辺境伯閣下。一度、お帰りください」
ルシアンの目が揺れた。あの日、私が「辺境伯閣下」と呼んだ時と同じ揺れ方だった。でも今度はそれ以上に深い何かが、一瞬だけ見えた。
「わかった」
ルシアンは踵を返した。三歩進んで、足が止まった。振り返りはしなかった。
「エヴァ殿」
マルクスではなく、ルシアン自身の声だった。
「俺に弁解する資格はない。だが一つだけ。あなたがこの土地で成し遂げたことは、俺の贖罪の結果ではない」
それだけ言って、ルシアンは東の道を歩いていった。
私はその背中を見送った。七軒目の窓にかけてあった外套は、もうなかった。
八軒目の改修を続けた。
一人で床板を張り直し、壁の漆喰を塗った。トーマが梁を支え、ヨルンが資材を運んだ。メルダが窓の寸法を測り、布を裁った。四人で動いた。
でもルシアンはいなかった。
資材の補充が止まっていた。マルクス経由の定期便はあるが、ルシアンが個人的に持ち込んでいた分がなくなった。漆喰が足りない。釘が足りない。板材は在庫を使い切れば終わりだった。
三日が経った。
朝、井戸に水を汲みに出た時、空気が重いと感じた。
気のせいかもしれない。でもこの半年間、家を直すたびに軽くなっていったあの感覚が、わずかに戻っている気がした。ルシアンがいなくなったこととは関係ない。たぶん、天候のせいだ。
八軒目の作業を終えて仮住居に戻ると、通りの東の端から土埃が見えた。
馬車だった。
街道の方角から、一台の馬車がこちらに向かっている。辺境伯領の馬車ではなかった。車体の側面に、見覚えのある紋章が描かれていた。
王都の紋章だった。




