第7話「辺境伯の名」
「正式にお伝えしなければならないことがあります」
朝の通りに、二つの人影が立っていた。
一人は、あの人だった。ただし今日は外套を着ていなかった。黒の長衣に、銀の留め金。胸元に紋章が縫い取られている。鷹と盾の意匠。ゲームの中で一度だけ見た覚えがあった。辺境伯家の紋章。
もう一人は、昨夕に通りの端で一礼した小柄な人物だった。黒い外套を脱いだその人は、端正な身なりの男性で、腰には短剣を佩いている。騎士爵の帯剣だった。
あの人が紋章を見せている。名前を名乗らなかった人が、正装で私の前に立っている。
「ヴォルフリート辺境伯、ルシアンと申します」
低い声。短い名乗り。その声は、「悪くない」と言った時と同じだった。窓枠を直した時と同じだった。屋根から落ちかけた私を受け止めた時と同じだった。
足が震えた。
「こちらは側近のマルクス・ゼーヴァルトです」
傍らの男性が背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「マルクスと申します。お目にかかれて光栄です」
落ち着いた敬語だった。私に対しても丁寧だった。無爵の私に対して。
私は背筋を正した。辺境伯。王族に次ぐ高位の貴族。無爵の私が対面する相手としては、本来ならば跪いて挨拶すべき身分の方だった。
膝を折ろうとした。
「その必要はない」
ルシアンが短く言った。私の動きを見て、片手をわずかに上げた。
「今日は公務で来た。用件を伝える」
私は膝を折りかけた姿勢のまま止まり、それから立ち直った。辺境伯閣下が不要と言うならば、従う。
——閣下、と呼べば、この胸のざわつきに蓋ができると思った。
「この土地を辺境伯領に編入する申請を行いました。王室直轄地としての管理が形骸化しているため、隣接する辺境伯領が管轄を引き受ける形です。申請は既に受理されています」
ルシアンは懐から巻かれた書類を取り出し、私の前に差し出した。マルクスがそれを受け取り、広げて見せた。辺境伯家の紋章入りの公文書だった。
「あわせて、あなたを辺境伯領の委託管理人として推薦します。これにより、土地使用権と簡易な行政権——住民登録や市場開設の許可を含む権限が付与されます」
委託管理人。
その言葉の意味を、頭が追いかけた。無爵の私には土地を持つ権利がない。裁判を求める権利もない。でも委託管理人ならば、辺境伯の代理として土地を管理し、住民と取引ができる。法的な地位が、ここで初めて与えられる。
「辺境伯閣下」
私は姿勢を正して言った。
「この土地の改修と内覧会は、私が勝手に始めたことです。王室直轄地の無断使用にあたると承知しております。それにもかかわらず、このような措置をいただけるのでしょうか」
ルシアンは一拍、間を置いた。
「この土地は十年間、管理者がいなかった。あなたが来るまで、誰も手をつけなかった。行政上の手続きの不備は、私の管轄権で補正できる。問題にはならない」
手続きの不備を補正する。それが辺境伯としての権限でできることだと、ルシアンは言った。
そして私は、同時に理解した。
資材。食料。図面。
全部、この人だった。
軒先に置かれた板材と釘。棚に並んだ干し肉と保存パンと茶葉。机に置かれた間取り図。すべて、辺境伯ルシアンが届けていた。外套で紋章を隠し、名前を名乗らず、完成した家を確かめに来ていた。屋根から落ちかけた私を受け止めたのも、この人だった。
トーマが言ったことを思い出した。「十年空き家だった場所に、備蓄が残るわけないだろう」。あの時から気づいていたはずだった。誰かが私を助けていると。
「あの資材も、食料も、すべて辺境伯閣下が」
「ああ」
短い肯定だった。
「なぜ」
ルシアンは答えなかった。マルクスが横で静かに目を伏せた。
「なぜ、名前を隠して」
「……あなたが自分の力で立ち上がっているのを、邪魔したくなかった」
その言葉は低く、短かった。だが声の奥に、私がこれまで聞いたことのない重さがあった。
七軒目の内覧会は、ルシアンの資金提供で規模が変わった。
マルクスが手配した資材が馬車で届き、トーマとヨルンが運び込んだ。漆喰も板材も釘も、これまでとは桁が違う量だった。メルダが新しい布地を受け取り、七軒目のカーテンだけでなく、既存の六軒の窓にも布が行き渡った。
七軒目の完成は早かった。私が間取りを決め、メルダが内装を仕上げ、トーマとヨルンが壁と屋根を直した。ルシアンの資金と資材が、これまでの人力の限界を超えさせた。
内覧会の日、通りに行商人が二人来た。辻からわざわざ足を延ばしてきたのは、街道で「辺境に面白い場所がある」という噂を聞いたからだと言った。移住希望者がさらに三人現れた。
通りに人が増えている。井戸端の朝の会話が賑やかになった。メルダが仕立てた衣服を行商人が買い付けたいと言い始めた。子供の声が聞こえた。移住した夫婦の間に赤子がいることを、私はその時初めて知った。
でも、私の中には別の感覚が渦巻いていた。
仮住居で一人になった夕方。
辺境伯閣下。
その呼称が、口の中でごろごろと転がった。
あの人が辺境伯だったなら、今までの親切はすべて領主としての義務だったのではないか。管轄地の隣にある放棄された土地を、行政上の責任として管理していただけなのではないか。食料も資材も、領主が管轄地域の住民に行う支援の一環にすぎなかったのではないか。
六軒目の窓の前に一緒に立った時の感覚を思い出した。あの人のそばにいると空気が軽い、と感じたことを。でもそれは、辺境伯が自領の管理のために視察に来ていただけだったのかもしれない。
身分を隠していたことが、小さな棘のように刺さった。裏切られたとまでは思わない。でも、全部知っていたのに何も言わなかった人が、ずっと隣にいた。その事実が、今の私の足元を揺らしている。
与えられた場所ではない、自分で作った場所だと思っていた。でも、最初から辺境伯の支援があった。資材があったから二軒目が直せた。食料があったから生き延びられた。法的な黙認があったから追い出されなかった。
自分の力で立ち上がったと思っていたものの土台に、この人の手が最初から入っていた。
それを知った上で、ここに立ち続けるにはどうすればいいのか。
答えは出なかった。
翌朝、七軒目の前でルシアンと顔を合わせた。
正装のままだった。紋章の入った長衣。マルクスが一歩後ろに控えている。
「辺境伯閣下、委託管理人の件、お受けいたします」
私は背筋を伸ばして言った。声は平らに保った。
「ただ、お願いがございます。今後の打ち合わせは、マルクスさんを通していただけますか。私は管理人として、正式な手続きに沿って進めたいと思います」
ルシアンの目がわずかに動いた。一瞬だけ、何かが揺れたように見えた。
「わかった」
それだけだった。ルシアンは踵を返し、マルクスと共に東の方角へ去った。
辺境伯閣下。
その呼称は正しい。私は無爵で、この人は辺境伯だ。正しい距離を取るべきだ。全部知った上で、それでもここに立つために。
七軒目のモデルハウスの中に、ルシアンの私物が置かれているのをヨルンが見つけたのは、その日の夕方だった。
「大家さん、七軒目に誰かの荷物がありました。外套と、書類鞄みたいなものが」
トーマが腕を組んだ。
「辺境伯が住み着いたってことか」
メルダが窓の外を見ながら言った。
「あの人、自分の家には帰らないつもりなのかしらね」
通りの東の端に、ルシアンの姿はもう見えなかった。でも七軒目の窓には、外套がかけてあった。
同じ日の夕方、マルクスが仮住居を訪ねてきた。
「エヴァ殿。辺境伯領の行政官として、一件ご報告がございます」
丁寧に一礼し、手にした書簡を差し出した。
「王都より、この土地の人口増加に関する調査の打診が届いております。辺境伯領への正式な問い合わせの形です」
王都からの調査。
この辺境の、十年間誰も見向きもしなかった土地に、王都が関心を寄せ始めている。




