第6話「図面を描く手」
前世で最後に描いた間取り図は、自分が住むはずのない部屋のものだった。
深夜のオフィスで、翌日の内覧会用に仕上げた三LDKの図面。家族向けの間取り。広い居間に、子供部屋が二つ。私には縁のない暮らしだった。それでも線を引く手は止まらなかった。誰かが「ここに住みたい」と言ってくれる部屋を作ることだけが、あの頃の私にできることだった。
今、机の上にあの人が置いていった図面が広がっている。六軒目の間取り。壁の位置、窓の寸法、暖炉と入口の関係。正確で、無駄がない。
この図面をそのまま使うこともできた。でも、私はそうしなかった。
六軒目は、あの人の図面をもとに改修を始めた。
ただし、私なりの修正を加えた。入口から居間への動線を少しだけ曲げて、玄関を開けた瞬間に部屋の全体が見渡せないようにした。まっすぐ見通せる間取りは効率がいい。でも、住む人にとっては「入った瞬間にすべてが見える部屋」より、「奥に何かありそうだと感じる部屋」の方が、居心地がいい。前世の内覧会で学んだことだった。
収納を一つ追加した。暖炉の反対側の壁に、棚板を二段。あの人の図面にはなかった場所だ。でも、メルダの仕事を見ていて気づいた。布地や糸を扱う人は、暖炉の近くに布を置きたがらない。火の粉を嫌う。収納は暖炉から離れた場所にもう一つ必要だ。
トーマとヨルンが壁の補修を進めている間、メルダが窓の寸法を測っていた。
「この窓、前の家より少し横に長いわね。カーテン、横幅を広めに取った方がいいかしら」
「お願いします。朝は東窓から光を入れて、午後は南窓に切り替える使い方を想定しています」
「ふうん。それなら南窓のカーテンは少し厚めの布にするわ。午後の光は強いから、遮りすぎず柔らかくする生地がいい」
メルダの手が布地の上を走った。仮縫いの速さが目を見張るほどだった。
六軒目には、一軒目から五軒目にはなかったものが生まれていた。私の空間設計と、メルダの内装布と、トーマとヨルンの力仕事。四人の手が一つの家に重なっている。
内覧会の日が来た。
完成した六軒目の前に、「内覧会」の看板を立てた。
一軒目の時は朽ちた板切れに炭で書いたものだった。今はトーマが削った板に、メルダが布で文字を縫いつけたものになっている。
新しい移住者が二組、内覧会を見に来た。辻の行商人づてに話を聞いたという若い夫婦と、年配の猟師。どちらも廃領地の家を見て回り、夫婦は四軒目を、猟師は五軒目を気に入った。移住者が七人になった。
井戸を共有する暮らしが定着し始めていた。朝にトーマが水を汲み、ヨルンが各家に配る。メルダは移住者の衣服の繕いを引き受けて、代わりに食材を受け取った。簡素な市のようなものが、井戸の周りで自然に生まれている。
通りの空気が、また変わっていた。
ヨルンが最初に口にした。
「大家さん、ここの空気って、来た時よりずっと軽くなってませんか」
「そうだな。俺が来た日はもっと重かった。今は普通に息ができる」とトーマも頷いた。
六軒の窓が開いている。七人が暮らしている。井戸の水が毎日汲まれ、暖炉に火が灯り、通りに足音がある。建物を直し、人が住み、手入れをする。その繰り返しが空気を変えたのだろう。換気の規模が大きくなったということだ。一軒より六軒の方が、風は通る。
理屈はそれだけのことだと思った。
六軒目の完成日の午後。
あの人が来た。
外套を目深にかぶった長身の姿が、通りの東の端に現れる。いつもと同じだ。でも今日は、入口の前で足を止めた後、中に入った。
これまでは外から覗くだけだった。壁を確かめ、窓を開閉し、暖炉を覗いて去る。中に入って見学するのは初めてだった。
私は後を追って中に入った。
男は居間の中央に立っていた。入口からの動線——私が曲げた動線を歩いてきた男は、一度立ち止まり、奥の部屋への視線の抜け方を確かめるように首を動かした。
「導線を変えたんですね、と言われるかと思いました」
私は男の横に立った。
「あなたの図面では、ここはまっすぐ通っていました。少しだけ曲げました。入った瞬間にすべてが見える部屋より、奥が気になる部屋の方が、人は長くいたくなるので」
男は黙って、曲がった動線の先を見ていた。
「収納も一つ追加しました。暖炉の反対側に。布を扱う方が住む可能性があるので、火の粉から離れた場所に」
男は壁際の収納棚に目をやった。それから窓に歩み寄った。メルダが縫ったカーテンに触れた。指先で布地の厚みを確かめるような動きだった。
「これは、あなたが」
「いいえ。メルダさんが縫ってくれました。午後の光を柔らかくするために、少し厚めの布を選んでくれて」
男はカーテンから手を離した。
南窓の前に、二人で立っていた。窓の外には通りが見える。トーマが井戸端でヨルンと話している。若い夫婦が四軒目の前で荷物を運んでいる。
同じ窓から、同じ景色を見ている。
何も特別なことは言わなかった。男は相変わらず名前を名乗らず、私は相変わらず聞けなかった。でも、この人の隣にいると空気が軽い。窓の外の空気ではなく、この部屋の中の空気が。
この人がいる場所は、いつも少しだけ息がしやすい。
それが何を意味するのかは、まだわからない。でも、この人のそばにいると安心する。その感覚を否定できなくなっていた。
男が六軒目を出た後、通りの端まで見送るともなく目で追った。
東の方角へ消えていく背中。外套の裾が風に揺れる。
振り返らなかった。前に一度だけ振り返った時とは違う。今日は中に入って、同じ部屋に立って、同じ窓から同じ景色を見た。それで十分だと言うように、まっすぐ歩いて行った。
仮住居に戻ると、メルダが入口の前で糸を巻いていた。
「あの人、中に入ったの?」
「はい」
「初めてじゃない。今まで外からしか見なかったのに」
メルダは糸を巻く手を止めなかった。
「あんた、あの人と同じ部屋に立ってたでしょ。窓のところで」
「はい。景色を見ていただけです」
「そう。景色ね」
メルダの口元が少しだけ緩んだ。「まあ、やるしかないでしょ」と呟いて、仮住居の方へ歩いていった。
夕暮れの通りに出た。
井戸の周りに人がいる。七人の暮らしが、灯りになっている。この場所が好きだと思った。人のために作った場所だけれど、私もここが好きだ。
六軒の家を直した。七人が住んでいる。窓を開けて、空気が変わった。でも一番変わったのは、この場所に対する自分の気持ちだった。与えられた場所ではない。追放された先でもない。私が直した場所だ。ここが好きだ。
仮住居の戸口に立った時、通りの向こうに人影が見えた。
あの人ではなかった。
小柄な、黒い外套を着た人物。通りの西端から現れ、六軒目の前を素通りし、七軒目の空き家の方へ歩いていく。その所作は静かで、乱れがなかった。平民の歩き方ではなかった。
一度だけ、私の仮住居の方を振り向いた。それから丁寧に一礼して、通りの東の端へ消えた。
あの人の連れだろうか。これまで遠くから見ていた人影が、初めて近くまで来た。




