第10話「もう一部屋」
朝の光が、まだ何も置かれていない部屋に落ちていた。
一晩、眠れなかった。
仮住居の机に頬杖をついたまま、ルシアンの言葉を何度も反芻した。追放先をここに指定するよう宮廷に働きかけた。最初から全部知っていた。あなたに嘘をついたままでいたくなかった。
あの人の行動を、時間の順に並べ直した。
宮廷への働きかけ。追放先の指定。外套で紋章を隠しての訪問。資材と食料の匿名提供。窓枠の修繕。屋根からの落下を受け止めた腕。間取り図。辺境伯領への編入申請。委託管理人の推薦。聖女の介入の阻止。
そして、「あなたが自分の力で立ち上がっているのを邪魔したくなかった」。
贖罪なら、追放先を安全な場所に誘導するだけで十分だった。領主の義務なら、編入申請と委託管理人の任命で完了していた。
でもこの人は、半年間通い続けた。名前を名乗らず、窓枠を直し、間取り図を描き、完成した家を確かめに来た。私が「お帰りください」と言えば帰り、聖女が来れば駆けつけた。
それは、操作ではなかった。
あの人がここを選ばなかったら、私はどこにも行けなかった。それは事実だ。でも私がここで窓を開け、壁を塗り、床を張り、内覧会を開いたのは、私の意思だった。トーマが住むと決めたのも、メルダが布を縫ったのも、ヨルンが聖女の前で「更生なんかじゃありません」と言ったのも、ルシアンの操作ではない。
選択肢を残してくれた人がいた。その選択肢の中で、私は自分で動いた。
朝の光が机の上に広がっていた。私は椅子から立ち上がった。
七軒目の前に、ルシアンがいた。
正装ではなかった。黒の長衣に銀の留め金。紋章は見えていたが、畏まった装いではない。マルクスの姿はなかった。一人で立っていた。
私の足音に気づいて振り向いた。
「辺境伯閣下」
私は姿勢を正した。
「昨日のお言葉について、お伝えしたいことがあります」
ルシアンの目がわずかに動いた。身構えるような動きだった。
「あなたがこの土地を追放先に指定してくださらなければ、私はここに来られませんでした。それは事実です」
ルシアンは黙っていた。
「でも、私がここで家を直したのは、私の意思です。窓を開けたのも、壁を塗ったのも、内覧会を開いたのも。あなたが選択肢を残してくれた。その中で私が選んだ。それは操作ではありません」
風が通りを抜けた。十軒の家が並ぶ通りを。半年前、最初の窓を開けた時とは違う風だった。人の暮らしの匂いがした。炊事の煙と、干した布と、井戸水の湿り気。
ルシアンは何も言わなかった。ただ私の言葉を、一語ずつ受け止めるように立っていた。
「ですから、感謝しています。あなたがしてくださったことに」
それだけ言って、私は頭を下げた。
仮住居に戻り、机の上を片付けた。
委託管理人の書類を端に寄せ、空いた紙を広げた。炭筆を手に取った。
描き始めたのは、間取り図だった。
これまで八軒の家を改修してきた。すべて他の人のための家だった。トーマの家。メルダの家。ヨルンの家。移住してきた夫婦の家。行商人が「悪くない」と言った家。ルシアンが間取り図を描いた家。
一度も、自分の家を設計したことがなかった。
仮住居は最初に見つけた一軒をそのまま使っているだけだった。壁の状態が比較的良かったから選んだ。導線も採光も、前世の基準なら六十点がいいところだった。
炭筆が紙の上を走った。
居間。南向きの窓を大きく取る。朝の光が入る位置に机を置く。
台所。居間との動線を短く。井戸への出入り口を近くに。
書斎。委託管理人の書類仕事ができる広さ。棚は壁一面。
寝室。東向きの窓。朝日で目が覚める配置。
四つの部屋を描き終えて、炭筆が止まった。
紙の上に、余白があった。書斎と寝室の間に、もう一部屋分の空間が残っていた。
描くつもりはなかった。
でも手が動いた。
もう一部屋。用途を書き込めないまま、四角い枠だけが紙の上に現れた。
誰のための部屋なのか、自分が一番分かっていた。分かっていたのに、炭筆を止められなかった。用途の欄は空白のまま、部屋の形だけが確かにそこにあった。
午後、マルクスが仮住居を訪ねてきた。
「エヴァ殿。一件、ご報告がございます」
丁寧に一礼し、手にした書簡を差し出した。
「八軒目の床下から発見された文書について、辺境伯の指示で調査を行いました。三枚目の文書に押されていた紋章は、鍵と薔薇の意匠です」
「はい」
「この紋章を使用する侯爵家は、現在の王国内に一家のみです。ドルテアン侯爵家」
マルクスの声は落ち着いていた。だがその落ち着きの下に、注意深さがあった。
「ガルシア・ドルテアン侯爵。王都の土地利権を管轄する侯爵です。セドリック殿下の母方の叔父にあたります」
「その方の署名が、なぜ十年前の土地放棄の文書に」
「現時点では確証がありません。紋章の一致のみです。辺境伯は、確証を得るまで動かないと判断されています」
マルクスが書簡を引き、懐に戻した。
「エヴァ殿にも、同じ判断をお願いしたいとのことです。この件は、軽率に動けば相手に警戒されます」
「承知しました」
私は頷いた。侯爵家。王都の土地利権。十年前の土地放棄。点と点がかすかに線を描き始めていたが、まだ繋がっていない。
「もう一件」
マルクスが姿勢を正した。
「王都からの人口増加調査の打診が、正式な要請に格上げされる見込みです。辺境伯領への公式書簡として、近日中に届くとの情報があります」
「正式な要請ということは、回答義務が生じますか」
「辺境伯の四半期報告に含める形で回答可能です。ただ、王都が辺境の人口動態に関心を持つこと自体が異例です。誰かが宮廷内で話題にしている可能性があります」
マルクスはそれだけ言って一礼し、七軒目の方に戻っていった。
夕方、九軒目の改修現場からトーマが戻ってきた。
「大家さん、九軒目の壁は明日には終わる。ヨルンが屋根を確認してる。メルダがカーテンの布を裁ち終えたから、明後日には内覧に出せるぞ」
「ありがとうございます、トーマさん」
「で、あんたは何を描いてるんだ」
トーマが机の上の間取り図を覗き込んだ。
「これは……自分の家か?」
「はい」
「おお。やっと自分の番か。ずっと他人の家ばっかり直してたからな」
トーマが笑った。それから図面を指さした。
「この部屋は何だ。書斎の隣の」
「まだ決まっていません」
「ふうん」
トーマはそれ以上聞かなかった。肩をすくめて出ていった。
日が傾いた頃、七軒目の前でルシアンと顔を合わせた。
ルシアンは七軒目の窓枠に手をかけていた。建てつけを確認する仕草だった。半年前から何度も見た動作だった。あの時は名前も身分も知らなかった。今は知っている。それでもこの人は同じことをしている。窓枠を確かめ、壁を見て、煙の抜けを気にしている。
「辺境伯閣下」
「ああ」
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
ルシアンが窓枠から手を離し、こちらを向いた。
「あなたがこの土地に通い続けたのは、贖罪のためだけですか」
直接的すぎる問いだった。無爵の委託管理人が辺境伯に向ける質問ではなかった。でも、もう回り道をする余裕がなかった。
ルシアンは長い間、黙っていた。
夕日が通りを橙色に染めていた。十軒の家の窓に灯りがともり始めていた。井戸端でメルダが布を畳む音が聞こえた。ヨルンがトーマに何か報告している声が聞こえた。
「違う」
ルシアンの声は低かった。
「最初は贖罪だった。父が捨てた土地を、なんとかしなければならないと思っていた。あなたがここに来て、家を直し始めた時も、まだそうだった」
ルシアンの視線が通りの先に向いた。
「だが、いつからか変わった。あなたが窓を開けるたびに空気が変わるのを見ていた。あなたがトーマを迎え入れた日、あなたの声が震えていたのを聞いていた。あなたが内覧会で動線の説明をする時の目を見ていた」
ルシアンが私を見た。
「俺はここにいたい。贖罪ではなく。領主としてではなく。俺が」
声が途切れた。ルシアンの手が一度握られ、開かれた。言葉を絞り出すように。
「あなたのそばに」
目の奥が熱くなった。
涙が出た。
止められなかった。こらえようとしたのに、目の縁から溢れて頬を伝った。
前世で泣いたのは、ワンルームの部屋で一人だった時だけだった。誰かの前で泣いたことはなかった。泣く理由がなかった。
今、理由がある。
この人が名前を呼んでくれるまで、認められなかった。描いた間取り図の、用途を書けなかった部屋。誰のための部屋なのか、自分が一番分かっていた。
「あの間取り図に」
声が震えた。
「説明のできない部屋を、一つ描いてしまいました」
ルシアンの目がわずかに見開かれた。
「誰のための部屋かは、分かっています。分かっていたのに、描くまで認められませんでした」
ルシアンは動かなかった。ただ私の言葉を聞いていた。私の涙を見ていた。
「辺境伯閣下」
「ルシアンでいい」
短く、低い声だった。
「ルシアンさん」
その名前を口にした時、胸の中で何かが静かに定まった。閣下でも、名前のない常連さんでもない。この人の名前を、初めて自分の声で呼んだ。
ルシアンが一歩近づいた。手を伸ばしかけて、止めた。それから、ゆっくりと私の肩に手を置いた。
重くて、温かい手だった。
翌朝、仮住居の窓を開けた。
半年前に開けた最初の窓と同じ動作だった。でも風の匂いが違った。炊事の煙。干した麦の匂い。井戸から汲み上げた水の湿り気。メルダが朝から布を広げている音。トーマがヨルンに作業の指示を出す声。
人の暮らしの匂いがした。
通りには十軒の家が灯りをともしていた。朝の光の中で、壁の漆喰が白く輝いていた。南向きの窓が光を受けて、通り全体が明るかった。
机の上には、昨日描いた間取り図が広げてあった。居間、台所、書斎、寝室。そして、もう一部屋。
用途の欄に、炭筆で小さく書き加えた。
「客間」。
嘘だった。でも、今はまだそう書いておく。
私の居場所は、私が作った場所だった。割れた窓枠を直し、漆喰を塗り、床を張り、人を迎え入れた場所だった。そしてここに、一緒にいたいと言ってくれる人がいる。
窓の外で、七軒目の扉が開く音がした。ルシアンが朝の空気を確かめるように通りに出てきた。窓枠に手をかけ、建てつけを見ている。いつもと同じ仕草だった。
私は間取り図を畳み、棚にしまった。靴を履き、扉を開けた。
井戸に水を汲みに行く。今日も、やることは山ほどある。
通りの向こうでは、王都の方角から朝靄が薄く流れていた。あの街の貴族議会で、誰かが「辺境の人口流出」について発言し始めていることを、私はまだ知らなかった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし楽しんでもらえたなら★★★★★ボタンをぜひ押していただけると嬉しいです!
ブックマークやリアクションなどもとても励みになっています!




