第1話「廃墟の南窓」
風が鳴っていた。割れた窓枠を抜ける、乾いた音だった。
馬車が止まり、御者が振り返りもせずに荷台を顎でしゃくった。降りろ、ということらしい。
私は膝の上の布包みを抱え直して、木の段に足をかけた。踏み外しそうになったのは、足が震えていたからだ。三日間、ほとんど眠れなかった。
御者は私が地面に降りたのを確認すると、すぐに馬車を走らせた。王都の方角へ。砂埃が立ち、それが収まると、音が消えた。
道の先に、それはあった。
灰色の家々が並んでいる。屋根の抜けた家、壁の崩れた家、蔦に飲まれた家。十年間、誰も住んでいなかった場所だ。空気が重い。息を吸うと、肺の奥がざらつくような感覚がある。
乙女ゲーム「聖女の花園」。前世の私がスマートフォンで遊んでいたゲームの中に、この場所は確かにあった。マップの端、クリックしても何も起きない背景エリア。イベントが発生しない場所。つまり——安全な場所。
でもそれは、誰も来ないということでもある。
布包みの中身を確認した。着替えが二枚。下着の替え。それから、小さな革袋に入った母の形見の宝石。薄紫色の、爪の先ほどの石。母が死んだとき、侍女がこっそり私の手に握らせてくれたものだ。
それだけだ。
金はない。食料もない。追放された悪役令嬢に持たせるものなど、この程度で十分だと誰かが判断したのだろう。
前世でも、最後はこんなふうだった。
深夜のオフィスで仮眠を取って、朝になったら内覧会の会場設営をして、昼に顧客を案内して、夕方に報告書を書いて、夜にまた次の物件の図面を確認して。その繰り返しを何年続けたのか、もう覚えていない。
死んだのはワンルームの部屋だった。床暖房のない、フローリングの上。冬だった、たぶん。倒れた時に見えたのは、天井の染みだけだ。
誰も来なかった。
二度目の人生も、同じだ。目を覚ましたら伯爵家の娘で、物心ついたら母は病死していて、八歳で宝石を一つ握らされて、それから十二年間、悪役令嬢として生きてきた。ゲームの知識があったから筋書きは知っていた。第二王子セドリック殿下との婚約。聖女オリヴィアの登場。そして断罪。
知っていたのに、避けられなかった。
伯爵家の令嬢という立場では、王族との婚約を辞退する手段がない。セドリック殿下の劣等感も、オリヴィアの善意も、私にはどうすることもできなかった。
断罪の日、父は爵位を返上した。家名を守るために、私を勘当した。正しい判断だと思う。恨んではいない。ただ、あの日以降、私の名前から「クレスティール」は消えた。
無爵。平民以下。土地を持つ権利もない。裁判を求める権利もない。有爵者の庇護がなければ、住むことも働くこともできない身分。
それが今の私だ。
立ち尽くしていても仕方がない。
前世の癖が出た。物件を前にすると、足が勝手に動く。
私は廃領地の入口に立ち、まず通りを歩いた。南北に伸びる一本道の両側に、家が十数軒。石造りの壁はまだ残っているものが多い。木造部分——屋根、窓枠、扉——は朽ちているが、構造体は生きている。
井戸を見つけた。蓋を開けると、水面が光を返した。澄んでいる。
南に面した一軒が目に留まった。他の家と比べて壁の損傷が少ない。屋根も半分は残っている。何より、南向きの窓が大きい。
中に入った。埃が舞う。床板は一部が腐っているが、石の土台はしっかりしている。暖炉がある。煙突は——見上げると空が見えた。詰まってはいない。
南窓の前に立った。午後の光が斜めに差し込んでいる。
「……導線は悪くない」
口をついて出たのは、前世の言葉だった。
玄関から居間への動線。井戸との距離。窓の方角と日照時間。暖炉の位置と煙の抜け。頭の中で、勝手に査定が始まっている。
リノベーションすれば化ける。
そう思った瞬間、自分がおかしかった。追放されて、無一文で、身分もなくて、ここがどこかも正確にはわからないのに、物件を見る目だけは止まらない。
「……まずは一軒」
母の宝石を握った。これを売れば、最低限の資材は買える。漆喰と、釘と、板材。行商人が通りかかれば、の話だけれど。
南窓の前に荷物を置いた。ここを仮住居にする。
窓枠に手をかけた。固い。木が膨張して、枠にはまり込んでいる。体重をかけて押すと、軋んだ音がして、窓が開いた。
風が入った。
さっきまで肺の奥に貼りついていたざらつきが、ほんの少し薄くなった気がする。換気だ。十年間閉め切っていた空間に外気を入れれば、空気は変わる。当たり前のことだ。
でも、変わった。確かに、空気が軽くなった。
前世の内覧会も、準備はいつも窓を開けるところから始まった。物件の第一印象は空気で決まる。どんなに内装を整えても、空気が淀んでいれば客は「なんとなく嫌だ」と感じる。逆に、風が通っていれば、それだけで人は「ここに住めるかもしれない」と思う。
今度は、自分のために窓を開けた。
南の光の中で、埃が金色に舞っていた。
その夜、私は南窓の下に毛布を敷いて横になった。天井の梁に虫食いの穴がある。風が通るたび、小さな音がする。
眠れなかった。前世でも、新しい部屋の最初の夜は眠れなかった。
宝石を握ったまま、目を閉じた。明日、まずは井戸の水を汲む。それから、暖炉の煤を落とす。資材を手に入れる方法を考える。行商人の通る時期を調べる。
やることは山ほどある。何もないということは、全部これからだということだ。
翌朝、南窓から差し込む光で目が覚めた。
顔を洗いに井戸へ向かう途中、足が止まった。
隣の空き家の前に、足跡があった。
真新しい、大きな靴の跡。
十年間、誰も住んでいない場所に。昨日、私が歩いた道とは別の方角から来て、別の方角へ去っている。
誰かが、この廃領地に来ている。




