底にいる
夜のダム湖には、音がない。
波もない。風もない。虫さえ鳴かない。
まるで、水そのものが呼吸を止めているようだった。
直也はスマホを手に、湖岸のコンクリートの端にしゃがみこんだ。
画面には生配信のコメントが流れている。
「マジで行ったw」
「やばw 夜のダムとか呪われるぞ」
「例の儀式やるんでしょ?」
画面の奥、薄い霧が湖面にかかっている。山の影が歪んで揺れて見える。
直也はにやりと笑って言った。
「じゃあ今からやるね。言われた通り、“声”が聞こえても三回までは無視すること。四回目で振り返ったら終わり、ってやつ」
彼は立ち上がり、湖に背を向けて、静かに目を閉じた。
**
1分。2分。
スマホのコメントは次第に減っていく。バカバカしいという視聴者が抜けていくのだ。
そのときだった。
「ねえ」
直也は肩を震わせて、声を出さずに笑った。スマホを少し持ち上げて、実況を続ける。
「今、なんか聞こえた気がする……けど、まだ一回目ね。ルール通り無視します」
沈黙。
「……こっち、見て」
声は、今度は明確に聞こえた。男の声ではなかった。子どもと女の中間のような、湿った声。
水の中から響くような、くぐもった響きだった。
「これはヤバいな。ちょっと背筋きた。けど……もう一回、聞こえるまで無視」
霧が濃くなる。気温が落ちてきて、吐く息が白い。
そして三度目の声。
「……なおやくん」
直也の背がわずかにこわばる。スマホのカメラが微かに揺れる。
「名前……言われた」
その瞬間、コメント欄がざわつく。
「今、映った?」
「水の中、なんか光ってない?」
「うわうわ、まじで屋根映ってるじゃん!」
直也はスマホの画面を覗きこもうとし、少し振り向きかけた。
その時、四度目の声が、すぐ耳元で囁かれた。
「待ってたよ」
**
ーー水音。
スマホは地面に落ち、カメラは月明かりに照らされた湖面を映し続ける。
そして、ゆっくりと――何かが、水面から“浮かび上がって”くる。
それは、濡れた髪の少女だった。
顔は白く、目だけが大きく見開かれ、笑っていた。
その背後。水の奥、朽ちた柱と、屋根と、瓦が揺らめいている。
沈んだはずの村。その家々の中に、灯りが一つ、二つと、点っていく。
まるで、帰ってきた子どもを迎えるかのように。
**
翌朝、ダム湖からは何も見つからなかった。
ただ、直也のスマホだけが湖岸に落ちていた。
電源は生きており、アーカイブ動画が保存されていた。
再生すると、ラスト数秒。水面に浮かぶ映像の中で、カメラが小さく揺れた。
――その奥。カメラ越しに、何十という顔が、こちらを見上げている。
笑っていた。歯を見せて。動かぬ目で。ただ、笑っていた。
それを最後に、再生は止まった。動画は、それきり再生できなくなった。
今でも、夜のダムには光があるという。
水底の村の住人たちが、今でも誰かの帰りを待っているのかもしれない。