冷徹令嬢の願いとトランスファー家の二つの秘密①
「フォーチュン!僕はお前のような、いついかなるときも冷静で感情を表に出さない冷徹な女が嫌いだ!冷徹な女の傍に一生一緒にいるなんて虫酸が走る!僕はロウヒの無邪気な愛らしさと、その天真爛漫な心にこそ僕の妃の資質があると確信したんだ!だから冷徹令嬢のお前とは婚約破棄し、僕はロウヒと結婚する」
……と、第一王子のディスカードが婚約破棄を告げたとき、フォーチュンは騒然となった城の大広間から数名の者が扉を開けたまま飛び出した後、二手に別れて走っていくのを目の端で捉えていた。
二手の内の片方はフォーチュンの手の者だ。予想していた時間よりも随分と早くにディスカードが仕掛けてきたため、フォーチュンの付き人に扮して護衛してくれていた手の者が急いで馬車の用意をしに行ってくれたのだろう。
そして、もう片方は宰相だ。宰相はコラテラルの乳兄弟として育った侯爵家の者で、元々はコラテラルを王に推進する派閥を率いていたが、肝心のコラテラルが王位に興味を示さなかったため、仕方なく宰相となって怠惰な王の尻拭いをしている苦労人だった。
普段は辺境にいて国の守護を任されている……と、いう建前で辺境に追いやられているコラテラルが、ディスカードの婚姻調印式が済んだ後、王籍を抜けて辺境伯となって臣籍降下する予定で数日前から城に滞在することになったとフォーチュンに手紙をくれていたが、大広間に彼の姿はなかった。
おそらく王と王妃のどちらかか、もしくは両者が、それぞれの企みをコラテラルに阻止されないようにと画策したのだろう。卒業パーティーが始まろうかというのに、一向に王弟のコラテラルの姿がないため、宰相が密かに部下達に探させていることにフォーチュンは気づいていた。
宰相はディスカードの暴挙や、息子の暴挙を止めない王と王妃の様子を目の辺りにして、ジッとしていられなくなり、大広間を飛び出してしまったのだろうが、コラテラルの不在が王もしくは王妃の仕業であったのなら、宰相と彼の部下達がコラテラルを探し当て、直ぐにこの場に連れてくるのは難しいだろう。
フォーチュンはディスカードの嫌う、いつもの冷徹な表情のまま、内心ではコラテラルをこの場に呼ばなかった王もしくは王妃に感謝した。何故ならコラテラルは先王から口伝で……もしくは始祖王の手記なるものが王家に存在し、彼がそれを読んでいたとしたら……彼は王家とトランスファー公爵家との密約を知っている可能性が少なからずあったからだ。
もしもコラテラルが密約を知っていて、トランスフォー公爵家の正統な後継者であるフォーチュンに密約を継続してほしいと考えているのなら、彼は国のために王と王妃の企みをどんな手を使ってでも阻止して全力でフォーチュンを繋ぎ止めようとするだろう。
逆にコラテラルが密約を知らない、あるいは知っていても今後は密約を破棄してもよいと考えていたとしても、ディスカードの人となりを理解している彼は、やはり国のためにけしてフォーチュンを手放そうとはしないはずだった。
だからフォーチュンは、ディスカードがパーティーが始まる前に婚約破棄を告げてくれたことにも感謝していた。いい意味でフォーチュンを裏切ってくれたディスカードに対し、フォーチュンは礼を言いたい気持ちに駆られたが、この場で礼を言うのは却って怒りを買うだけだろうし、彼が与えてくれた折角の好機を無駄にはしたくなかったから、それを口にはしなかった。
家族からも王子の心に寄り添えなかった役立たずの冷徹な女は不要だと、除籍と追放を命じられたフォーチュンは、婚約破棄も除籍も追放も受け入れる条件として、自分も実父であるトランスファー公爵の遺産を相続する権利を前もって放棄するから、父にも実子である彼女の遺産を相続する権利を前もって放棄してほしいと望み、卒業パーティーに出席していた貴族達が見守る中、保証人となった王妃立ち会いの下、双方の相続放棄の手続きを無事に完了させた。
フォーチュンは皆に別れの一礼をし、大広間から出ると、そのまま足を止めることなく城門を目指し歩いた。独り歩くフォーチュンには婚約者や家族に対する未練は一片もなかった。むしろ解放された爽快感がフォーチュンの足取りを軽くし、ドレスを着ているとは思えない程の加速が増した結果、彼女は通り過ぎる景色と化した城内にいる者達の声も姿もハッキリと認識することが出来なかった。
だからフォーチュンは、「待ってください、フォーチュン嬢!」と、大慌てで声をかけてきた第二王子のアライに気がつかなかった。……もしも、ここでフォーチュンがアライに気がついて足を止めていたら、彼は顔を赤らめ、上ずった声で彼女にこう言っただろう。
『わ、私は初めてお会いしたときからフォーチュン嬢をずっとお慕いしていたのです!こんなにも美しく聡明で優しいフォーチュン嬢を婚約者にしておきながら、あの愚兄ときたら!別室でお待ちいただけませんか?直ぐにでもアレを断罪し、王位継承権を剥奪させて追放してきますから!今年でやっと二歳になる隣国の公女との婚約も母上を説得して解消してきます!ど、どうか僕の妃になってください!』……と。
しかしフォーチュンはアライがいたことにも気づかないまま素通りしてしまったから、アライも「さようなら、フォーチュン嬢。さようなら、私の初恋。僕はいつまでもあなたの味方だ!あなたの幸せをいつも願っています。どうかお幸せに」と、フォーチュンの歩き去る姿を目を潤ませ、手を振って見送ったのだった。
フォーチュンはアライに見送られていたと気づかないまま肩で風を切る勢いで歩き続けて、城門を出た。すると、そこには先に大広間から出ていった手の者が黒塗りの馬車で待機していた。
「ありがとう。直ぐに馬車を出して」
フォーチュンは早歩きの勢いのまま馬車に飛び乗ると御者に合図し、城を後にした。馬車に乗って人心地ついたフォーチュンは、自分がずっと手にしていた書類に目を向けた。
「これでもう思い残すことはないわ……」
フォーチュンは書類を胸元にそっと引き寄せると、紺碧の瞳にサファイアの輝きを煌めかせて満足げに微笑んだ。
フォーチュンを乗せた馬車は国内唯一の港、ディパーチャーに向かっていた。交易の要衝となるディパーチャーは、石灰岩や漆喰で作られた真白の建物が立ち並ぶ様が美しいと国内外の者達から観光名所としても有名な港であった。
フォーチュンは怠惰なディスカードの代わりに公務で何度も訪れていたから、ディパーチャーに住む者達はディスカードの顔は覚えていなくとも、フォーチュンのことを見知っている者が多いこともよくわかっていて、もしも後からコラテラルの追手が来た場合、行き先の露見は免れないだろうこともよくわかっていた。
露見しないようにと服を変えたり、馬車を乗り換えたり、はたまた目的地とは関係のない回り道をしてみたりすることは可能ではあったが、今回だけは時間をかけないことが最良の選択であったし、着の身着のまま出ていったと皆に印象付けるためにも、フォーチュンは馬車を真っ直ぐにディパーチャーに向かわせた。
フォーチュンはディパーチャーに着くと、真っ先に出入国管理事務所に向かい、その扉を叩いた。
「皆様、お久しぶりです。お元気でしたか?早速で申し訳ないのですが出国の手続きをお願いしたいのです」
「ええっ!?」
「フォーチュン様?」
「な、何故ここに?」
国が運営している出入国管理事務所には高度な教育を受けたものの家を継げない貴族家出身の者が大勢勤めていたし、フォーチュンがディスカードの代わりに視察で年に二回か三回の割合で毎年訪れていたこともあったからか、事前連絡もなく突然訪れた彼女が出国の手続きに来たと告げた瞬間、出入国管理事務所の所員達が一斉に驚きの声を上げるのは仕方がないことだった。
「どうなされたのですか、フォーチュン様?どうしてこちらに?……確か今日は城で学園の卒業パーティーとディスカード殿下との婚姻調印式が行われているはずではなかっ……っ!?」
所員達の騒ぐ声に気づいて、慌てて所長室から飛び出してきた出入国管理事務所の所長は、フォーチュンがいつもと違った着飾った姿であることに目を大きく見開き、そして彼女がいつもの冷徹な表情を崩し、眉を下げて悲しげな表情となったことに更に驚いて、問いかけようとした言葉が途中で止まってしまった。
「皆様、お久しぶりです。……諸事情がありまして私はトランスフォー公爵家から籍を除け、ただのフォーチュンとなりました」
フォーチュンはそう言った後、悲しげな表情はそのままで、皆に向かって微笑んでみせた。
「っ!?」
「一体何があったのですか!?」
「もしかして、あのポンコツ……んんっ!いや、ディスカード殿下がまた何かやらかしたのですか?」
「フォーチュン様が悲しげにされている姿など初めて見ました……。見ているだけでこちらまで何だか胸が張り裂けそうです。どうか理由をおっしゃってください」
普段のフォーチュンの冷徹な表情しか知らなかった彼らは、フォーチュンが意識的に眉を下げただけで目をめいいっぱい見開いて驚いたし、微笑みを浮かべただけで大きく狼狽えだした。フォーチュンはそんな彼らに、ずっと手にしていた書類を所長に差し出した。
「これは……」
フォーチュンから書類を受け取った所長は書類に書かれた内容を見て、二の句が継げなくなってしまった。
と、いうのもフォーチュンが差し出した除籍届にも、トランスファー公爵とフォーチュンがお互いが相手の遺産を相続放棄する証明書にも、トランスファー公爵がフォーチュンをトランスファー公爵家から除籍する理由が書かれていて、そのどちらにも王と王妃が証人として署名も捺印もされていたからだ。……しかも。
「……婚約破棄と除籍と追放、おまけに相続放棄ですか。書類に書かれた受理時刻はたった二刻前。……普通なら城からここまで来るのに四刻はかかるというのに、そんなにも早く追い出したかったのか。フォーチュン様はあの怠惰な王子の代わりにずっと頑張ってこられたというのに、こんな仕打ちはあまりにも惨すぎる……」
出入国管理事務所の所長も所員達も、普段からフォーチュンがディスカードに大事にされていないことは周知の事実であったから、彼女がドレス姿のまま出入国管理事務所に来たことや尋常ではない速さで城からここに来たこと、そして何よりも彼女が持っていた書類で、彼らは王家やトランスフォー公爵家がフォーチュンを一刻も早く国外に追放させようと急いで連れてきたのだと思い込んだ。
「このディパーチャーは港町になら誰でも入れますが、国防のために出入国管理事務所が発行した通行証を持って所内に設置された門を通らないと港には出入り出来ませんので、直ぐの手続きをお願いしたいのです」
「ううっ、なんてお労しい……。わかりました。至急、出国の手続き準備をさせていただきます」
「よろしくお願いします。……あっ、そうだわ。準備が整う間、ここの隣にある質屋に行ってきてもよろしいでしょうか?何せ城から直接来たものですから私は何も持っていないのです。旅支度どころか出国手続きの手数料すらも払えないのではディスカード殿下のご命令に従うことが出来ませんから」
悲しげな微笑みを浮かべるフォーチュンに否やを言える者は誰もいなかった。……それどころか。
「ええ、構いませんが……。そうだ!ちょうど今日で期限が切れる質屋の優待券があったんです!私は質屋に用はないので良かったら使ってください!今、取ってきますから少し待っていてくださいね!」
そう言って席を外した所長は裏でゴソゴソと何やら物音を立てていたが戻ってくると、雑に糊付けしたばかりの茶封筒を差し出した。
フォーチュンは出入国管理事務所の隣にある質屋は事務所と同じ国営であるため、優待券など出さないことをよく知っていたから、きっと所長が裏でフォーチュンの事情を書き、法に触れない程度で出来るだけ厚遇するように頼む書状をしたためたのだろうと推察し、彼の気遣いを有り難く思った。
「お心遣い、ありがとうございます。有り難く使わせていただきますね。ではまた後で」
そう言って向かった質屋でも、こちらも視察で顔見知りだったことや所長の封筒が功を奏し、フォーチュンは半刻も経たない内に質屋で身につけていたドレスや靴を適正価格よりも遥かに高値で買い取りしてもらい、一般的な平民女性の旅支度の質流れ品を適正価格よりも遥かに安値で手に入れることが出来た。
「……はい。通行証の料金は確かに受け取りました。こちらが領収書と通行証となります。他国への移住目的で出国される場合、貴族だと王の承認がないと移住は出来ませんし、お持ちになっておられる財産の内、成人の貴族は四割、平民だと一割を出国税として支払ってもらいますが、フォーチュン様の場合だと公爵家から除籍されて平民になられたので出国するのに王の承認は必要ありません。そして今日学園を卒業されたばかりであること、着の身着のまま追い出され、ご実家からも王家からも何も財となるものをもらっていない……慰謝料も旅費すら渡さずに追い出すなんて血も涙もない奴らめ……コホン、失礼。これらのことを考慮し、フォーチュン様に出国税はかかりません。またフォーチュン様は実父のトランスフォー公爵とお互いに遺産の相続放棄手続きを済ませておられるようなので、我が国の税務署に対しての年に一度の所在報告義務もありません」
「それは良かったわ。どこの国に住むかはまだ決めていなかったの。所在報告をするために慌てて住まいを決めなくてはいけないのかしらと心配でしたの」
「そうですね。我が国の税務署は、この周辺諸国の中でも群を抜いて優秀ですし、特に貴族の所得隠しや脱税といった税金逃れは絶対に許しませんからね。フォーチュン様は除籍されていますし、トランスファー公爵の遺産相続放棄の手続きも済ませているから問題はありませんが、もしもフォーチュン様が相続権を持ったまま他国に渡って所在報告がなければ、税務署の者達が相続税を求めて地の果てまでも追いかけてきて国に強制送還されることになっていたでしょう。……ではお荷物を拝見させていただきます。タオル、歯ブラシ、歯磨き粉、櫛、着替え、旅費……良かった、質屋はきちんと優遇してくれたようですね。これだけあるなら当面は路頭に迷うこともないでしょう。はい、全て問題ありません。鞄の中には危険物も国外持ち出し禁止品もありませんでした。これで安全審査も税関審査も終了し、審査も全て終えました。いつでも出国出来ますよ」
「ありがとう。直ぐに国外に出る船はありますか?」
「そうですね……。ああ、今からだとグレイという商人が所有している船がいいでしょう。グレイの船は港で一番大きな船だから直ぐにわかると思います。彼の船は貨物船ですが、人も若干なら乗せてくれるんです。彼は隻眼で強面な外見ですが真面目な男なので、彼の船なら女性の一人旅でも安心ですし、他国の内情にも色々詳しいので頼りになりますよ。港に出て一番大きな船を探して向かってください。もしも断られたら、お手数ですがこちらにお戻りください。他の船をご紹介しましょう」
「そうなのね。色々教えてくれてありがとう。皆さん、今までありがとうございました。いつまでもお元気で。さようなら」
「これらこそ今まで本当にありがとうございました。フォーチュン様もいつまでもお元気で。さようなら。……どうかお達者で」
フォーチュンは出入国管理事務所の所員達と別れの挨拶を述べた後、通行書を携えて門をくぐって港に出ていった。そして港にある一番大きな船を目指して暫く歩いていると、目当ての船から隻眼の男が慌てた様子で降りてきて、フォーチュンの姿を見つけると走り寄ってきて深く一礼した。
「おかえりなさいませ!フォーチュン様っ!出迎えが遅れて申し訳ありません!」
「ただいま、グレイ。そんなに慌てなくても大丈夫よ」
「お早いお帰りで何よりです。直ぐに出港の準備を始めさせます」
「ありがとう。よろしく頼むわね」
フォーチュンは冷徹な表情から一変、朗らかな笑みで答えるとグレイのエスコートで船に乗り込んだ。
その昔。始祖王がお忍びで下町を散策中、彼は異母弟に雇われた暗殺者に襲われたが、たまたま居合わせた平民の騎士に命を救われた。始祖王は自分を救った騎士の腕前はもとより、自分の正体が王だとわかっても冷徹な態度を崩さない騎士の度量の大きさに惚れ込み、彼を側近くに置くために、トランスファーという家名と公爵位を与えた。
……と、いうのが表向きのトランスファー公爵家の成り立ちの話だが、真実はそうではない。実際は異母弟に命を狙われているのを知っていた始祖王が異母弟を罠に嵌めようと下町に出て、諍いを始めた際、たまたま居合わせたのは平民の騎士などではなく、本当は裏社会の首領をしている青年だったのだ。
青年は裏社会に生きながらも義侠心に溢れていて、王家のつまらん争いごとなど城でやれ、関係のない民衆を巻き込むなと策を講じて、異母弟の放った暗殺者達と始祖王が密かに忍ばせていた護衛達を仲間とともにあっという間に制圧してしまった。
始祖王は青年の講じた策の素晴らしさや彼の仲間達の機動力の凄さに感嘆したが、何よりも彼が諍いを制圧した後、自分一人でやったのだと王に名乗り出て、自分が処罰を受ける代わりに仲間の命の保証とこれから二度と王家のゴタゴタに民衆を巻き込むなと交渉してきた、彼の度胸の良さや仲間や弱い者を守ろうとする優しさや心の強さ、そしてどんな相手にも冷徹に接する姿に王としての資質を感じ、すっかり惚れ込んでしまった。
青年に惚れ込んだ始祖王は初め、彼を自分の養子に迎え、次代の王となるよう命じ……駄々をこねたが、青年が固辞したため、仕方なく始祖王は青年がトランスファー公爵となり、始祖王が治める国を“表”から守ると同時に、裏社会の首領として“裏”からも国を守ってくれるなら青年の仲間達の命は奪わない……つまりは王家公認の悪党になれという、とんでもない密約を持ちかけた。
その提案に驚愕した青年は始祖王に、自分が密約を都合よく解釈し、裏社会で荒稼ぎするだけして国を守らない本当の悪党だったらどうするんだ、民を本当に思いやるなら酔狂な考えは改めろと叱責したが、始祖王は青年が本当の悪党ならば叱責などしない、やはりお前は王に向いていると意に介さない様子で密約を交わすよう迫ったため、根負けした青年は密約に条件をつけるのならと渋々了承した。
その条件とは今後、王家とトランスファー公爵家のどちらかが人を思いやる心を忘れ、罪のない人間に無体を働いた瞬間に密約が破棄されるというものだった。青年が裏社会の首領らしからぬ条件を掲げたため王は腹を抱えて大笑いし、これは国や民のために王家が持ちかけた密約だが、公には出来ない契約であり、“裏”の仕事にかかる必要経費や報酬は契約内容の性質上、国の予算から表立って支払えない故、代わりに青年や仲間達がこれまで通り裏社会で収入を得ることを特約で許すと約束した。
すると青年は自分や仲間達は私利私欲のために悪事を働いたことはないが、そのような特約をもらえるのは有り難い話だと感謝を述べつつも、過ぎた金はいつか自分達の子孫を本物の悪に染めてしまうだろうから、トランスフォー公爵家の当主が代替わりをするときには、代々の王が新しいトランスフォー公爵家当主と面談し、密約を継続するか破棄するかをきちんと見極めるようにと更に条件をつけて密約を交わした。
……というのが、実際のトランスファー公爵家の成り立ちだったのだ。そのようなわけで初代トランスファー公爵となった青年と始祖王が交わした密約により、代々のトランスファー公爵家当主は"裏”の仕事をしていたのだが、トランスファー公爵家の入り婿だったフォーチュンの実父や、彼の妾だった義母や妾の子である異母妹のロウヒはトランスファー公爵家の部外者であったため、その事実を知らされていなかった。
トランスファー公爵家唯一の後継者として生を受けたフォーチュンは、物心付く前から貴族教育とは別にトランスファー公爵家当主としての英才教育を叩き込まれており、成人してトランスファー女公爵となった暁には、“表”の仕事である公爵としての務めや領地経営は勿論のこと、“裏”の仕事である裏社会の首領として国を裏側から守ることになっていた。
フォーチュンのそんな将来が変わったのは十年前のことだったが、変わったのはディスカードがフォーチュンに一目惚れして婚約者にしたせいでもなければ、密約を知らないトランスファー公爵がフォーチュンから当主の座を奪ったせいでもなく、原因は王とフォーチュンの母の双方が揃って密約を破っていたと十年前に知ってしまったからだった。
「フォーチュン様のお部屋にお着替えをご用意しています」
「ありがとう、グレイ。もう大丈夫だとは思うけれど、念の為に着替えは出港してからにするわ」
グレイは十年前まではトランスファー公爵家の“表”の管財人としてトランスファー公爵家で働いていた男だった。フォーチュンの実母は生前、優秀だったグレイに“裏”の管財人にもなってほしいと勧誘していたそうなのだが、当時から生真面目だった彼は例え国を支えるためとはいえ、裏社会に関わるのは己の矜持に反するからと固辞していたらしい。
病に伏したフォーチュンの実母は自分の死後は、フォーチュンが成人してトランスフォー公爵家を継ぐまでの間、彼にフォーチュンの"表”の補佐をするよう命じていたがトランスファー女公爵が亡くなると、トランスファー公爵がフォーチュンを領地の屋敷の屋根裏部屋に閉じ込め、グレイに自分の補佐をするよう迫り、グレイに散財を諌められて逆上した後妻がグレイを壺で殴ると、彼は後妻ではなくグレイを咎めて、手当もせずも給料も退職金も払わずに屋敷から追い出した。
グレイは、もはやここまでと無念の死を覚悟したが、そこにたまたま王妃教育を受け終わって城から領地に戻る途中だったフォーチュンの馬車が通りかかって助けられたのだ。グレイは命の恩人であるフォーチュンに深く感謝を述べたところ、フォーチュンは冷徹な表情のままグレイの手当をしながら、労災について説明しだした。
当時まだ8歳の子どもが口にした労災という言葉にグレイは戸惑ったが、彼女の話す内容をよく聞けば、仕える者を守り、安心させようという心から出てくる発言だと直ぐにわかるものだった。
フォーチュンが全力で自分を労ろうとしてくれていることに気が抜けたグレイは、相手が子どもだということを忘れ、トランスファー公爵夫妻を訴えたいと打ち明け、それが出来ないなら彼らと刺し違えてでも復讐したいと吐露してしまった。
『献身的に勤めていたのに無下にされ、命まで脅かされたグレイさんの怒りや悲しみはよくわかります。だけど平民のグレイさんへの暴行や殺人未遂で父達を裁判所に訴えても身分差を理由に不起訴にされてしまうでしょう。それに父達が悪いのに刺し違えであなたが罪を負うのは間違っていると私は思うのです……。本当に父達が申し訳ありませんでした』
フォーチュンは真摯に謝罪してくれたが、やりきれない怒りが収まらないグレイは“裏”の使用人になりたいと申し出て、“裏”として報復したいと言ったがフォーチュンは首を横に振った。
『仕返しのために“裏”の人間になろうと考える気持ちはわかります。だけど我がトランスファー公爵家が代々、“裏”の仕事をするのは悪事を好んでいるからではないですし、“表”の人間を憎んでいるからでもないのです。水清ければ魚棲まずという言葉があるように、人は善だけを認める環境に居続けると疲弊してしまう。かといって汚れ過ぎた水では魚が皆息絶えてしまうように、悪に染まりきった環境を放置しておくと人は堕落し、やがては国が乱れて滅んでしまう。だから我がトランスファー公爵家は国内が程々の善悪で留まるように“裏”から調整しているだけなのです。グレイさんは父達とは違い、信頼出来る人間だから話しますが、これは初代トランスフォー公爵の遺志で……』
フォーチュンはグレイの憎悪に理解を示しつつも、トランスファー公爵家が“裏”の仕事をするようになった理由を明かすと同時に、どうしても復讐を望むなら自分に手を貸してくれないかと持ちかけてきた。
『私にはどうしても叶えたい願いがあるのですが、それを叶えることがグレイさんの復讐にもなるのではないかと思うのです……』
元々、グレイはフォーチュンがたった8つの歳で母を亡くし、実の父親に領地に追いやられても、泣き言を言わずに領内の運営計画を立てていたときも驚きつつも感心していたのだが、幼い少女が願いを胸に秘めて一人で頑張ろうとしている姿にいたく感銘を受け、“表裏”のトランスファー公爵家ではなく、彼女自身に忠誠を誓い、それ以来フォーチュンが最も信頼する忠臣となったのだ。




