作家は奴隷
皆さんは現在、どれほどの数の物語が紡がれているか考えたことがあるでしょうか。本としての小説だけでなく、漫画、アニメ、ドラマ、映画……どれをとっても、物語です。
これほど物語が氾濫しているのであれば、クリエイターというのはさぞ儲かるに違いない、と勘違いしてしまう人もいるかもしれません。でも、違うのです。
我々が思うに、物語とは作者を指すことはありません。物語は物語です。そして、仮にそれ以外の何かを示すとすれば、それは、物語を世に出した出版社であり、協力したスポンサーであり、そう言った権利というのは、すべて作者から取り上げられるものなのです。
道行く子供に母親がいう言葉に耳を傾けてごらんなさい。
「そんな風に悪いことばかりしていると、作家にしかなれないよ」
「作家なんて、バカのやることだからね」
そうは言うが、と思われる方もいるかもしれません。
「物語、新たなモノを作り上げることは尊いことだ。その作者がバカというのはどう考えてもあり得ないのではないか」
お答えしましょう。それは、作家というのがあまりにも無防備であるからです。
作家が作った物語は、一体、誰が触れられるものでしょうか? 作者本人ですら触れることのできない世界を造り上げ、あるいは映像として浮かび上がったものを必死で描写し、出来上がるものであります。ですが、物語は物質的なものではありません。
ゆえに、作者には何の権利もない。それがこの世界の常識であります。
陶芸品であれば、粘土からろくろを回し、一つの器を作り上げることで、確かな存在をもって作り手とその作品を明瞭にすることが叶います。
しかし、作家というのは――無から無を作り出しているにすぎません。そしてこの高度に科学が発展した社会は、そのような曖昧模糊とした存在を認めません。厳密に定義された確たる物がなければ、それを保護しようというのは土台無理な話なのです。
作家は奴隷である。作家たちはそう自分を卑下します。何の奴隷だと聞けば、作品の奴隷と答えます。
私たち、クリエイター以外の普通の人間にとっては、違います。作家は奴隷である。何の奴隷か、それは消費者の奴隷であります。
つまるところ我々は、作家ではなく出版社、映像会社、アニメの供給元の名前だけを知っていればよろしい。物語などという無を売り込んできて、これで金を取ろうとするなど、これすなわち単なる泥棒であります。
その物語を如何に我々に明確に伝えてくれるか、その努力をした者たちに敬意を払わねばなりません。
先程に挙げたほかに、声優さんがいます、俳優さんがいます、監督がいます、脚本家がいます。
彼らは作家などというウジ虫以下の存在に対して、ちゃんと実績を持った一個人であるのです。プロフェッショナルであります。作家が、俺は作家なのだ、と主張するのは、俺は詐欺師だ、と警察の前で公言しているようなものなのです。
作家と言えば、編集者の存在も欠かせません。作家が誰でもなれる職業である、ゆえに、フリーランスである、ろくに給料をもらえなくても仕方がない。
そんな彼らを導くエリートである編集者は、当然毎月決まった給料を会社から与えられ、物語という無をこねくり回すことしか能のない野蛮人どもの相手をしなければなりません。これがどれほどひどい生活環境であるか、想像できるでしょうか。
作家は知性のない獣そのものであります。それを宥め、何とか納得させるだけの手綱を引く。編集者はいわば、サーカスの調教師のようなものです。
私の知るA社のある編集者は、作者の権利を守れ、作品を守れ、印税を上げろと脅してくる作者を何とか対応し、奴隷に相応しいだけの待遇をくれてやったと聞きます。その英雄的行為に出版社は大いに感謝し、彼は金一封を与えられたとのことです。
また、作家は時折とんでもない発言をします。「作品は作者のものだ」という言葉です。
何と傲慢な言葉でしょうか。物語は無数の受け取り手がいて、それぞれが「読んでやっている」代物であります。既に作者の手を離れたものを、何の権利があって取り返そうとするのか――もとい、そもそも何の権利もないのです。作品は読者のものであり消費者のものです。
作品は消費されるものです。
そして作家は、それが自分の子供か何かのように発狂して手放すまいと無駄な足掻きをするのです。このような話の通じない、社会常識のない人間たちは、いわゆる利権ゴロと呼ばれるにふさわしいことでしょう。
では、どうして作家は軽んじられているのに、新たな物語は彼らの手によって作り上げられるのかと言えば、これが最もコスパが良いからであります。
作家というのは無から物語を作り上げたと喚くのが好きな連中です。そしてそういう人間は悲しむべきことに、このエリートたちが闊歩する偉大なこの国においても、一定数存在します。ただ、奴らの良いところはそれだけ数があるので、当分絶滅の危機は免れるだろうということです。
もちろん出版社や、映画会社、広告代理店やアニメの供給元が本気を出せば、それは凄い物語が生まれると私は確信しています。作家なんて目ではないでしょうし、将来的には、不要となるかもしれません。
ですがそうなると、今度は奴らはやけを起こすのです。
奴隷である作家よりもさらに劣る、何も生み出せない連中がいます。我々が「ワナビ」とさげすむ連中です。
作家は誰でもなれるという謳い文句に、特に社会に出てやっていく能力のない奴らは、光に集まる蛾のようなものです。そして、お話にならない作品を量産して、自分の作品を買え、と脅迫してきます。
このような連中はもう失うものがないので、何をしでかすかわかりません。プライドだけが高いやつらは、ある意味では無敵です。ゆえに、我々のようなエリートを逆恨みして、自爆攻撃のような恐ろしいやり方で自分を認めさせようとします。
もしも作家という職業が名目上でも消えてしまえば、この野蛮人よりも野蛮人、単なる社会秩序を脅かすテロリストが増加することを意味するのです。
作家は確かに奴隷であります。ですがえた・ひにんのように、社会は一見彼らを認めているようにしなければ、国家の転覆が行われるやもしれぬ。それは、某国を破壊した共産主義のように我々の国をも呑み込むでしょう。
そしてまた、作家は無から物語を生み出したと豪語しますが、まったく違います。
かつて、物語は真実民衆のものでありました。そうした作品は様々なジャンルを開拓し、後の世の模範となりました。連中はそれをいじくりまわして、オリジナルだと叫んでいるにすぎません。そもそも作家と呼ばれる連中は、厚顔無恥にも、誰でも思いつくような典型をちょっといじっているだけなのです。その点は、ワナビも、作家も、大差ありません。
そんな誰もが思いつくものをまとめて、先駆けして作り上げ、成功した途端に天狗になる連中を、我々は作家と呼んでいます。作家のオリジナリティ、という言葉は、既に矛盾を孕んでいるのです。
それでは、そろそろ本日の講演をお開きにしましょう。聡明なる皆さんは、作家など目指さないことでしょう。私も、あなた方がエリートから最下層の人間に落ちていく姿を見たくありません。
本当に偉く、素晴しいのは、作家ではありません。プロの編集者、出版社、映画会社、広告代理店。
我々は彼らこそが真実の物語の担い手であると認められる日を願ってやみません。
ご清聴ありがとうございました。