七、なついた子猫(現在)
「モリーって副長、そりゃあ……」
裾を踏んづけ転がりながらも俺に飛びついてきた聖女を見下ろして、ゾアビッツが眉を寄せる。
そうだ、ムースも侍従長もウラユリも知らない。ゾアビッツだけが知っている。
十三年前、寂れた王子宮から『救助』された俺は、一年の『教育』期間を経て、騎士団副団長へと就任した。
神聖国の騎士団は、大きく近衛騎士団と遠征騎士団に分けられる。各々の騎士団の内、騎士は二百名でその下に衛兵や歩兵などの兵士が二千~三千名。そのトップは騎士団長、その下に副団長というのは名目だけで、主に近衛騎士団を騎士団長が、遠征騎士団を副団長が率いる。
近衛騎士団は王城と王都の守りが主任務。
遠征騎士団は、魔獣や盗賊団の討伐が主な任務だ。
「十年前の、あのモリーか」
副団長になったとき、俺はまだ十六だった。
近衛騎士団には貴族の子弟が多く、遠征騎士団には下位貴族や平民が多い。近衛騎士団を率いるのに必要なのは身分だが、遠征騎士団を率いるのに必要なのは強さだった。
俺は任務の際、積極的に前に出て戦った。
指揮官として褒められたものじゃないことは分かっていたが、強さを示さないことには遠征騎士団は付いてこない。指揮が行き渡らなければ死人が増える。
討伐完了報告に王都に戻り、報告書を上げる間もなく次の討伐箇所に向かう。
魔獣は基本的には魔物の領域と呼ばれる住処から出てこないが、繁殖時期になるとちょくちょく迷い出てくる個体が現れる。
「多分、そのモリーだ」
俺が『モリー』を見つけたのは、十年前、そんな魔獣討伐の最中だった。
山奥の集落が魔獣に襲われている。そんな一報を受けて遠征騎士団十五名と共にそこに駆けつけたとき、集落は全滅していた。生き残りを探しているとき、蛇の魔獣に襲われかけている子どもを見つけた。
ネコ科の――おそらくは黒ジャガーの獣人。年は三歳か四歳か五歳。本人が覚えていなかったので当てずっぽうもいいところだ。
魔獣に襲われて両親を失っただろうその子を保護して、王都まで連れ帰った。
ちなみに冒険者ギルドで魔獣の討伐を請け負って来ていたゾアビッツともそこで出会った。
魔獣から助けた俺と、子ども好きのゾアビッツにその子はとても懐いて――年も、両親の記憶も死にかけた記憶も忘れてしまったらしいその子は、モリーと名乗った。
懐かしい名によく似た名前。思わず、モリーではなくモリオンと呼びそうになった。その子の仕草も、失ったモリオンにとても良く似ていた。
辛かった記憶を丸ごと忘れてしまったらしいモリーは、ゾアビッツの厚い肩に乗ってよく一緒に歌っていた。「筋肉筋肉、やっぱり筋肉、筋肉最高~」と。
いや、なんで筋肉。
記憶を失って一番にインプットされるのが筋肉ってどうなんだ。
「モリーは王都の孤児院に預けた。そこで里親が見つかったって話だったよな!?」
俺の胸ぐらを掴みかねない勢いでゾアビッツが足を踏み鳴らす。
その衝撃で、聖女の軽い体がピョンと浮いた。
「そうだ、モリーは俺たちと一緒にいたいと言っていたが、男所帯、しかも討伐任務でほとんど宿舎にいない俺たちと暮らすのは無理だと孤児院に預けた」
それから一年近く、俺もゾアビッツも王都に帰ってくるたびモリーに会いに行った。しかし次第に任務は連戦連戦になり、王都に戻れる機会は減っていき、数ヶ月ぶりに訪れた孤児院で、モリーは裕福な里親に引き取られたと聞かされた。
幸せになってくれと祈るしか出来なかったが……
「裕福な里親ってのは、まさかの大神官かよ……」
ゾアビッツがギリリと奥歯を鳴らした。
「モリー? 俺を覚えていたのか?」
俺の問いかけに、聖女はコトリと帽子を傾げた。
十年も前のこと。幼児だったモリーが覚えてなくとも仕方がない。
「お前さんの名前がモリーだってのは合ってるか?」
再び聖女はコトリと反対に帽子を傾げた。
そういえば、俺は聖女の名も知らない。誰が呼んでいるのも聞いたことがない。
「聖女の名は何というんだ?」
首を巡らせて女神官達に聞くも、チシャはあわあわと両手を振り、ローファは静かに首を横に振った。
「あ、あたしなんかが聖女様の御名を知ってるはずがありませんっ」
「聖女様は聖女様でございます」
「……つまり、十年もの間、聖女の名を呼ぶ者は誰もいなかったということか」
本人が知らなくても無理はない。
モリーと呼ばれて反応したのも、俺を好意的に感じてくれたのも、無意識下の反応だったのだろう。
「……!」
俺は足にしがみついたまま離れない聖女を抱き上げ、左腕で縦抱きにし――そのあまりの軽さに驚いた。まるで、十年前のあの日と何ら変わっていないかのようだ。
思わず凝視するも、聖女の帽子はキョトンと小首を傾げている。
その仕草も、十三年前に失ってしまった黒猫のモリオンと……十年前に拾った黒ジャガーのモリーと姿がかぶる。
「そうだな、じゃあお前さんの名はモリオンにしよう。昔の俺の親友の名で、黒く艶やかな守りの石、魔除けの石だ」
両頬に手を当てて、聖女――いやモリオンの気配がパアッと華やいだ。
「殿下! 大神官様に断りもなく、勝手な真似をされては困ります!」
「妻に力ある石の名を贈るのはアルファルファ神聖国の王族の習いだ。大神官も悪いとは言わないだろうさ。だがおそらく正式に名乗るのは渋い顔をするだろうから、とりあえずはここだけのナイショだ」
コクコクと頷き、上機嫌に腕を振り回す聖女を微笑ましく見ていると、鼻が違和感を覚えた。腐敗臭が、聖女から強く漂う。
「そういえば、このニオイは何なんだ?」
眉を寄せた俺に、ムースがすすすっと近寄ってきた。
「聖女様は、殿下の作られた物しか召し上がれません」
「ああ」
「聖女様は長く断食修行をなさってこられたので、胃がとてもお小さくあられます。一度に食べられるのは子猫の食事ほど。殿下がよそってくださった雑炊のほとんどを食べきれません」
「そうか」
聖女の食がそれほど細いとは思わなかった。それじゃあ中々太れないだろう。
「しかし食べきれない食事を下げようとすると、聖女様は激しく威嚇して体全体でお皿を囲み、誰にも取られないようにするのです。最初は『食べ過ぎるとお腹が痛くなりますよ』と申し上げても無理に食べて腹痛を起こされておりましたが、今は……」
ムースは痛ましそうに眉を寄せ、部屋を見回した。
「時にはお召しになっておられる神官のローブ。時には部屋のあちこちに、雑炊の残りを隠すのでございます」
「雑炊をか!?」
「はい」
菓子やパンならまだ分かるが、雑炊はほとんどが水分だ。ローブなんかに隠したらビチャビチャになるし、腐敗も速い。いつ作ったかも分からないそんなものを食ったら、腹を下す。風邪も引く。五穀断ちより体に悪い。
「分かった。良かれと思って俺がよそりすぎたようだ」
聖女はブンブンと必死に首を横に振っている。
ご飯が減るのは悲しいとか思っているんだろう。
俺は思案を巡らせた。
「そろそろ固形物でも食えそうか?」
聖女はコテリと首を傾げる。
「まずはそば粉のおやき。次はそばボーロか。携帯できていつでも食える食料があれば、モリオンも安心だろう」
コクコクと首がもげそうな勢いで頷く聖女に、ムースも優しい微笑みを浮かべて言った。
「まぁまぁ良うございましたね聖女様。それでは是非このムースに聖女様のローブを貸してくださいまし。お菓子を入れられるよう、内側にポケットをお付けしましょうね」
ローファが目を吊り上げて「神聖なローブにそのようなっ」と叫んでいたけれど、聖女は両手を握りしめて盛大に感動していた。
それからというもの、聖女はムースにすっかりなついた。