六、(十三年前・オブシディアン)
モリオンと暮らし始めて、五年が経った。
モリオンの手を借りずとも単独で狼の魔獣も猪の魔獣も熊の魔獣さえ余裕をもって倒せるようになり、群れに囲まれても冷静に対処出来るだけの場数も踏んだ。
俺の剣の相手は猫型のモリオンではおぼつかなくなり、『師匠』が頻繁に相手をしてくれるようになった。
まだ師匠には適わない。でも、三本に一本はとれるようになった。
最初の頃、師匠の姿は長く保たずじきにふにゃりと歪み崩れてしまったけれど、この頃になるとしっかりして、俺が剣を打ち込んでも崩れずに二戦目三戦目と続けられるようになった。
時々何かしゃべっているようだったけれど、それは分厚い膜を通したように声は聞こえても内容は中々聞き取れない。
唯一聞き取れたのは、へにょりと笑って言った『私はそれでも、この国の人がすきだから』という言葉だけ。
そろそろ森を抜けて城の外を目指そう。
冒険者になって、モリオンと一緒に旅をする。もしモリオンと師匠が別の人だったら、師匠を探して会いに行こう。
そう着々と準備していた頃、唐突に本宮との扉が開いた。
扉を開けたのは、五年前アレクに仕えていた侍従の取りまとめ役、今は侍従長になったクズリのじいさんだった。新たに妹が産まれ、閉ざされた王子宮を王女宮とすべく改修するための事前確認だったそうだ。
「まさか……まさか、オブシディアン殿下? 生きておられたのか」
涙ながらに俺の無事を喜んでくれた侍従長のじいさんによると、俺は乳母やトリアと一緒に事故に巻き込まれ、行方不明ということになっていたらしい。忘れられた王子宮で一人暮らしているなどと想像だにしなかったと侍従長は言った。
本宮に連れて行かれ、衣服を整えられた。
自分の生存が公になってしまったことは誤算だったが、目指すところは変わらない。落ち着いたら抜け出してモリオンと合流し、魔物の領域で『第一王子』は死んだことにして冒険者になろう。
「オブシディアン……私の血筋がまだこの世にあったことを喜ばしく思うぞ」
「ええ、ご無事でようございました」
アレクの下に未だ王子は生まれていないらしく、国王は俺の生存を歓迎した。王妃も目は笑っていなかったが表向きは喜んでいる風を装っていた。
「生きて、いたのですか」
ずっと会いたいと思っていたアレクは、何故か険のある表情で俺を見た。
侍従長に見つかっても、じいさんを振り切って森に逃げることもできた。でもそれをしなかったのは、このまま冒険者になってしまったら、王太子であるアレクとは二度と会えないだろうと思ったから。一目会ったら、姿を消そうと思っていた。
「久しぶりだな、アレク」
「僕はこの国の王太子です。貴方に愛称で呼ばれる覚えはない」
けんもほろろに俺を拒絶するアレクには、五年前の記憶は残っていないようだった。アレクはまだ七歳だった。俺を忘れても仕方がない。俺はともかく、あんなに好きだった乳母やトリアのことも忘れてしまったのだろうか。
「そうか……すまなかったな、王太子殿下」
五年間、俺がモリオンや師匠と共にあったように、アレクは王妃と共にあった。王妃を母とは思えない、家族は乳母とトリアだと言ったアレクは……きっともういない。
俺の心残りは、もうなくなった。
寂しいけれど、それがアレクの幸せならば仕方がない。
モリオンは王子宮に残して来ていた。俺を見た王妃がどういう反応をするか分からなかった以上、誰もいない王子宮のほうが安全だと思った。モリオンは強い。単独で獲物も狩れる。扉も開けて出入り出来る。数日なら不自由ないはずだった。
侍従の目を盗み本宮を抜け出して王子宮へ行けたのは、五日が経過してからだった。
俺は呆然と立ちすくんだ。
ようやくたどり着いた王子宮には多くの人の手が入り、俺たちが暮らしていた部屋は面影もなかった。濡れないようロビーに蓄えていた薪は運び出され、溜め込んだ毛皮やモリオンと寝ていた毛布は燃やされ、燻製肉や木の実は森へ捨てられていた。俺が五年かけて築いたものは、城の人間にとってはゴミと同じだった。
こんな騒々しい場所に、モリオンがいるはずはない。
師匠が姿を現すはずがない。
だから大丈夫。きっと、彼女らは見つかっていない。
自分自身に言い聞かせるものの、嫌な予感がした。王子宮の中を、何度も何度も行きつ戻りつしながら彼女らを探した。
そうして。
毛皮が燃え尽きた灰の中から、俺は猫の骨を見つけた。
あんなに艶やかな黒い毛皮、宝石のような目だったのが嘘のように、味気ない白になってしまったモリオンは、思わず取り落としてしまった地面の上で、カランカランと軽い音を立てた。
「ああ、王子宮の中に魔獣が住み着いていましてね、皆で囲んで追い詰めて叩っ殺ったんですわ」
「よくも……あれは、俺の……」
「ああ、王子が飼ってらしたんですかい? そりゃあ悪いことをしちまった。ただの猫だと思ったんですね。でもあれはれっきとした魔獣ですよ、化け猫ってねぇ」
頽れて涙を流す俺に近づき、全く悪びれもせずにニヤニヤと笑う騎士は、おそらくモリオンを魔獣だとは毛ほども思ってない。難癖をつけて、『王子の飼い猫』をなぶり殺しにしたのだ。
「まぁ、これに懲りたら、目立たず騒がず、無難に生きていくことですな」
そこまで聞いて、俺は目を見開いた。
王妃だ。
毛皮を燃やしたのも、モリオンを殺させたのも。
自分に逆らえば次はお前だと――そんなことのために、俺の唯一を。
今すぐにでも殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、俺はグッと拳を握り込んだ。
何故俺は、モリオンを連れて行かなかったんだ。
王妃に何をされたところで、俺が側にいて守ってやれば良かったのに。
許せないのは、王妃以上に自分自身。
……若い雄に徹底的に序列を教え込むのは、狼の本能だ。この群れのトップは王と王妃。
耳に木霊するのは、亡くなった母の教え。
『良いですかオブシディアン。貴方が良く国王ご夫妻や王太子殿下に仕えることが国の安寧に繋がるのですよ』
国のためならと、自身の死すらも受け入れた母。
母上、母上。こうまでされても、俺は逆らってはならないのですか。
きつく握った拳から、ポタポタと赤い雫が垂れた。
「……分かった。俺はコイツを埋めてくる」
王子宮から離れた森の中、多くの者が魔獣を恐れて近寄らないだろう場所に、モリオンを埋めた。やたらに王子宮に埋めて、『整地』でもされたらたまらない。俺しか行けない場所、俺しか知らない場所に。
それから、俺はモリオンが好きだったボア系やベア系の魔獣を狩っては墓に供えた。
死者に肉? と思わないでもなかったが、モリオンの好きなものなどそれくらいしか浮かばなかったからだ。
冒険者にはならなかった。
モリオンを失った今、旅に出る意味はなかった。それに師匠の手がかりはこの場にしかない。モリオンと師匠は同じ存在なのかもしれない。そうだとしたら俺はもう二度と師匠にも会えない。でも、モリオンと師匠は別の存在なのかもしれない。そうしたら、いつか師匠だけには会えるかもしれない。
その微かな希望だけが、俺の精神を保たせていた。
しかし城中を探し回っても蔵書を読みあさっても師匠とおぼしき人物の手がかりはまるでなく――一年後、俺は戦場へ向かうことになる。
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