三、政略結婚の夜(現在)
「政略結婚なら、婚姻の儀まで顔も合わせたことがない……というのは珍しくもないが、夫婦となってなお、顔も声も分からないというのは珍しいんじゃないか?」
国王と大神官の元婚姻の儀を終えた俺たちは、仮の住まいとなる王子宮へとやって来ていた。テーブルを挟んで椅子に座り、俺は顔も見えない聖女を観察する。
聖女の側には常に女神官が二人侍り、聖女の言葉を取り次ぐらしい。
俺と同年代の狐系の女神官が口を開いた。
「このご衣装は聖女様の務めでございますので、何卒ご容赦を」
「そういえば名を聞いてなかったな、アンタは?」
「聖女様付きの神官にて、ローファと申します。こちらは同じくチシャ」
もう一人の山猫っぼい獣人の女神官がペコリと頭を下げた。こっちはまだ十代半ば、ウラユリ情報の聖女の年と同じくらいだろうか。
ローファがお目付役、チシャが友人相当といったところか。
「話に聞くに、聖女様は一般人と同じ食事は摂らないようだが……こっちは軍人あがりでね、とてもじゃないが聖女様と同じ食事というわけにはいかない。そこは理解してもらえるだろうか」
聖女の帽子が微かに動く。
承知したものと理解して、俺は侍従に食事を運ぶよう支持を出した。
戦場暮らしが長くなると、貴族的なコース料理なんてものとは縁遠くなる。
俺の前には所狭しと置かれたガツンと系の料理、メインは500グラムはあるぶ厚い熊肉だ。これは王都へ帰還する途中に村人に頼まれて害獣を俺が仕留めたもので、山奥で暮らす個体よりも獣臭い。聖女がどんな反応をするかとあえて用意した。
対して聖女の前にあるのは、小さな皿が二つ。
何かの草の葉と、木の実が幾つかコロコロと載っているだけだ。
「なんだそりゃ?」
興味深げに皿をのぞいてみせる俺に、応えるのはやはり女神官のローファだ。
「こちらは、わざわざ鳥も通わぬ山奥で採取させた滋味溢れる森の恵みですわ。聖女様は来る『聖夜祭』に国民全てに『聖女の恵み』をもたらすというお役目がございますから、聖なる力を高めるため、人の育てた牛、豚、鶏、さらに五穀を断つという修行をなされているのです」
「修行と」
「さようでございます」
ウラユリの噂話とは違う。
聖女は我が儘で偏食で人嫌い、人間は穢れていると見下しているという話だったが……
「そりゃあ聖女ってなぁ思ったより大変だな。大丈夫なのか」
俺の問いに、聖女は両腕を持ち上げてムキムキと「力持ち」ポーズをしてみせた。
聖女に耳を寄せた猫の女神官――チシャが、「はいはい」と頷いて俺の方を向いた。
「聖女はこの国の人たちが好きなので、がんばる、とおっしゃっております」
その言葉に、俺の心の奥にしまい込んだ面影が揺り起こされそうになった。
『この国の人たちが好き』
……こんなところで思い出すべき記憶じゃない。
俺は無理矢理記憶に蓋をして、聖女達を見た。
ちょっと困ったように微笑むチシャは、ひょっとすると聖女にもっと食べさせたいと思っているのではないか。
「がんばる、ねぇ」
それはつまり、本心では食いたいと思っているということだ。
俺は熊肉を一切れフォークにとると、聖女の前で大きく右から左、左から右へと移動させた。それに釣られて、聖女の帽子が笑っちまうくらい大きくゆらゆらと揺れた。移動する肉に合わせて、体ごとフラフラと揺れる。
聖女のベールの口元がジワリと濡れ、ポタポタッとテーブルクロスに水が垂れた。
……ヨダレだ。
「くくっ」
笑いをこらえつつ、肉を聖女の前でピタリと止める。
どうやら、本人の我が儘で偏食をしているというのはガセのようだ。
「食うか?」
聖女の帽子が、バッと上向いた。
それをローファが慌てて制する。
「なりません聖女様! 大神官様に怒られますわ」
ビクッとした帽子が、しおしおと俯く。
「ははっ、大神官には俺から言っておこう。これは熊肉だ。ローファが言った牛でも豚でも鶏でもない。さらに人が育てた獣でもなく、山の獣だ。殺したのも捌いたのも俺だ」
口元に手を当てて眉間にシワを寄せたローファとは対照的に、聖女は期待に満ちて帽子を揺らしている。
「大神官に聞いた。何故聖女の夫、次代の聖女の父に俺が選ばれたのか。人は原罪を背負っているが、直接『救い主』に洗礼を受けたクンツァイト一世は浄化され、その証拠に人にはあり得ぬほどの長寿を得た。クンツァイト一世の血を継ぐ王族は原罪を免れていると。さすがに、聖女の夫として大神官に選ばれた俺が穢れているとは、おぬしらも言わんな?」
言いつつも、我ながらなんて詭弁だと皮肉な笑みが落ちる。
この国で、最も人を殺しているのはおそらく俺だ。
戦争の英雄なんてのはそんなもんだ。
それなのに、ひいじいさんの血を引いているだけで『穢れていない』ときた。
「人の育てた生き物や調理した食事には人の穢れが移る、だったか。俺が狩って俺が捌き、俺が調理した獣なら構わんだろう」
ウラユリから聞いた情報だったが、否定されないということはその通りだったのだろう。
複雑な顔をしつつもローファは何も言わない。
俺は聖女のベールをほんの少し持ち上げると、熊肉を突っ込んだ。
「……!」
両手を頬に充てて、パァッと雰囲気が華やいだ。
顔が見えなくても分かるほど華やいだ気配に、俺はもう一切れの熊肉をフォークで刺した。
「もっと食うか?」
コクコクと頷く帽子に気をよくして、俺は次々と熊肉を切っては聖女の前に差し出した。
さしてベールを持ち上げているとも思えぬのに、パッパッと消えていく肉は気持ちが良い。
半分ほどの肉が消えたとき、聖女が腹を押さえて震えだした。
「聖女様!?」
跳び上がるようにして駆け寄り、聖女の背をさすったのはチシャだ。
ローファは顔をしかめて聖女を立たせた。
「いくら人の穢れが少ないといえど、聖女様のお体には肉など合わなかったのですわ。部屋に戻りましょう」
ヨロヨロフラフラと部屋に戻る聖女を支えるチシャと、無言で一礼し去って行くローファ。
俺はそれを見送り、パタリと戸が閉まるのを待って振り返りもせずに口を開いた。
「で、どう思う?」
給仕の中に紛れていた気配が、すうっと近づく。
「おそらく、今まで仙人のような食事しか摂ってこられなかったために、胃が受け付けなかったのでしょう。成長期でしょうに、あのような過度の食事制限を課されてお気の毒に」
クズリのじいさんが痛ましそうな声を出す。彼、侍従長のバーワスは王城で働く侍従のトップであり、俺とは古い付き合いだ。
「今頃吐いてらっしゃるかもしれませんわ。いくら滋養があるとはいえ、いきなり熊肉とは殿下も無茶をなさいます。パンがゆやお菓子は人の手の入ったものゆえ大神官様の不興を買うでしょう。淡泊なウサギや鴨肉辺りでしたらまだ多少はお召し上がりになれるかもしれませんね」
頬に手を当ててため息を付くアライグマの女官長、ムースとも子どもの頃からの付き合いだ。穏やかな物腰の割に人使いの荒い婆さんで、さりげに次は兎か鴨を獲ってこいと命じている。
俺が王城を離れていた十二年間、何かにつけ文をくれ物資を用立て俺を気遣ってくれていたのはこの二人だけだった。
「意外ー、我が儘放題どころかひとっこともしゃべらなかったじゃん。ベールの下の顔も拝めなかったし」
ウラユリは勝手に席に付くと、俺の食事をひょいひょいとつまみ始めた。
「あのローファって女神官は苦手だなー。チシャちゃんは可愛かった。オレとも遊んでくれたらいいのにぃ。聖女サマ一筋っぽいから無理筋っぽ」
それからウラユリは赤い舌を出してキャハハと笑った。
「何にせよ、初夜はお預けだね、かわいそーな副長ー」