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不可能世界と黄昏商  作者: ざらめ
第一章 醜い王子はもう泣かない
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第1話 ほつれた日常に

自由で奇妙な旅を、私の想像力が許す限り書きたいと思います。旅好き、魔法好き、冒険好きは是非、読んでいってください。


可能世界とは、

その世界で成立している事象同士が全く矛盾しない、完全な世界のことである。


---

カタン、カタン、カタン、

いつもの音で、少年は強制的に起こされる。

この住居は家賃こそ破格なものの、隣に建てられている機織り工房が早くから作業を始めるので、機織り機の音が毎日のように聞こえるのだ。少年の住んでいる2階は1番作業場に近いらしく、リズミカルな目覚ましはせっかくの休日の朝を台無しにする。

しかしまあ、この都の住居の約半分は同じような騒音被害に悩まされているから仕方がない。もう半分はもっと劣悪な環境のスラムか、ごく少数の富裕層の豪邸である。

ここは綿都ミルミス。世界でも有数の木綿生産量を誇る、言わずと知れた木綿の都。住んでいる誰もが木綿を愛しているか、と言われれば全くそうでは無い。この都には賃金を求める労働者が外から沢山やってくるため、木綿への熱意はあまりなく、都全体も、どこかくたびれた空気を漂わせていた。昔は真っ赤だった工房の煉瓦の壁も、今となっては煤で薄汚れてしまっている。


「おはよう」


返答はない。孤独な挨拶は、すぐに機織り機の音に縫い込まれてしまった。

その少年、シェイルは、二度寝をしようか迷い、迷い、迷った末、ため息と共に体を起こした。

しかし、嫌なことばかりでもないのが人生。すぐに今日の用を思い出し、歯磨きをしながら心を踊らせた。

いつもの服を着て、朝ごはんを簡単に済ませ、いつもより多めに小銭をポケットに入れ、家を出た。

ところで、勤務先は隣ではない。家から少し離れたところにあり、いつも近道を使って通勤している。裏通りの石畳を駆け抜け、狭い煉瓦の壁の間を横歩きし、薄暗いトンネルをくぐり抜けてたどり着く。今日もその道を使うのだが、休日なので目的地は工房ではない。その近道の途中にある、雑貨屋さんだった。

ある日近道を通っていると見つけたのだ。3-5番地、壊れた橋の向こうにそのお店は突然できていた。

木綿の都、色を失ったこの都には似つかわしくない、黒を基調とした美しい店構えだった。どうしてこんな人目につかないところに店を構えたのか、どうしてこんな活気のない都で商売をするのか、どうしても気になり、その日の仕事の帰りに寄った。雑貨屋の名前は『うたたね』。扉を開けたそこは、なんとも魅力的で…


--

カラカラン。

「いらっしゃい、今日も来たんだね」

「こんにちは、いや、まだお早う御座いますですかね」

「どちらでもいいさ。さ、ゆっくり見ていきなよ」


店主は玄関の鈴が鳴ると、いつも座っている奥の椅子で新聞紙の上から顔を出し、少年に優しい挨拶をした。

緑の褪せたような髪色。両耳には小さな歯車のピアス。大きなボタン1つで留めているひらりとした服。度の入っているかわからない眼鏡。性別、年齢、名前も不詳。店主はとてもミステリアスな雰囲気を漂わせていた。それは店の内装も同様だった。

煌びやかな宝飾品から、何に使うか分からない錆びた小道具まで、普通に生きてればお目にかかることのない品々が所狭しと並んでいた。

シェイルは元来、雑貨が好きだった。これといった趣味もないし仕事に熱中しているわけでもなかったが、雑貨を眺めたり、たまに買ったりすることが唯一の楽しみだった。この都の外から来たものを見ると、その経路を想起する。馬車に揺られ、渓谷や砂漠を越え、長い時間をかけてここにたどり着く。そう考えるだけで、少し旅をした気分になれた。シェイルにとって雑貨だけが、この都を抜け出し自由になる手段だった。


「それ、

「わあ!」

「そんなに驚かないでおくれよ」

「近いんですよ…それで?」

「いやあすまないね、で、それ、一昨日入荷した新商品なんだが、それに目をつけるとはお目が高い」

「綺麗な赤ですね。でもどこか悲しげな鮮やかさというかなんていうか」

「その宝石の名はね、『一匹兎の瞳』と言うんだ。もちろん本物の目玉と言う訳では無いよ?その寂しげな赤を言葉でどう表現しようかと試行錯誤した結果、その名前になったのさ。なかなか貴重な品だよ」

「店主さん、これはどう使うんですかね?」

「って聞いてるのかい...ああ、それか。

それは小瓶の中に入ってる『魔法』だよ」


呆れたような顔をしながら、シェイルに歩み寄る。革製の年季の入ったブーツが板張りの床を軋ませる。


「魔法!これがですか?」

「大抵、魔法の都の出身じゃないと魔法ってのは使えないんだが、それは用法を守ればだれでも使えるような状態にしてある。その魔法の名は、えーと、『雲羽根の翼』だったかな」


小瓶の中には半透明の紫色の液体が入っている。その色がとても美しく、シェイルはひと目で虜になってしまった。


「紫色が好きなのかい?そいつは確か使用者を雲のように軽くして、自由に飛べるようにするとかしない、と、か」


店主は(くう)を指でなぞりながら、うろ覚えの知識に真実味を帯びさせる。


「これ、いくらですか?」

「こいつは時価だねー。安定して入荷できるものでは無いからね。8000リーレくらいかな」

「8000…」


シェイルはポケットの中の小銭を握りしめ、今日の所持金を確認する。8000と言う数字には、どうも勝てそうになかった。その様子を、店主は横目で見ていた。


「あーあー、私としたことが商品の値段を忘れるとは。確か4000リーレくらいだったような気がするなー。君のポケットの中身次第では、もう少し安くなるかもなー」

「え、そんな…いいんですか?」

「あは、なあに、時価さ」


にやりと笑う店主。お得意様のいたいけな少年にはめっぽう甘いようだ。


「毎度あり。どうだい?もし時間があるならお茶でも。美味しい茶菓子もあるんだ」

「え!それじゃ、いただいていきます」


店の奥にある横長の、どう見ても仕事机のようにしか見えないテーブルで、密かなお茶会が始まる。滅多にお客さんは来ないため、いつも閉店時間まで2人で話をしていた。

店主さんは色んなことを知っていて、それは図書館の限界を悠に超えていた。雑貨の手入れの仕方、贋作と本物の見分け方、ここよりもっと北の都の話や、商人の人手不足の現状や、最近流行りの服装まで。この都の本という本を読み尽くしたシェイルにとって、この知識に溺れる時間が何よりも楽しかった。


得てして、至福の時間とはすぐに過ぎ去ってしまうもの。この裏通りは日当たりは悪いが、建物の並びの関係で夕陽だけは入ってくる。窓から差し込む橙色の光は、お店の中の埃を優しく照らす。


「おや、もうこんな時間か。そろそろ店じまいだね。楽しかったよ、今日もありがとう」

「ええ、こちらこそありがとうございます。また、色んな話、聞かせてくださいね。それじゃあ」

「…」


そう言って、シェイルは店を後にした。何か足りないような気がしたが、すぐに考えるのをやめてしまった。


---

「あー!!!」

がばっ、と、シェイルは珍しく機織りのカタンカタンという音より前に飛び起きた。この珍事には、それ相応の理由がある。

忘れ物をしたのだ。小さい頃からずっと持っている、大事なペン。昨日店主から古代魔法語を教えて貰っていた時ポケットから取り出し、その後話に夢中になって忘れてしまっていた。昨日の何か足りない感触はこれだったのか。

今日は昼から仕事だったが、用事が出来た。『うたたね』の開店時間は確か8時なので、今から行けば余裕で間に合う。すぐに支度をして、貴重品をバッグに詰め、いつもより急ぎめに裏通りを駆け巡った。

壊れた橋を飛び越えるのは慣れたものだった。勢いをつけ、向こう岸に着地する。するといつもの黒くて素敵なお店が



「…ない?」


シェイルは息を切らしながら、膝に手をつきながら、自分の見ているのが夢か真か必死に考えていた。

昨日までそこにあったお店が、跡形もなくなくなっている。からっぽになっている。

ドアを開ける。鈴は鳴らない。天井から垂れ下がった照明も、宝石も、よく分からない小道具も、

あのミステリアスな店主も。

全部全部無くなっていた。

もしかしてに賭けたが、大事なペンも一緒になくなっていた。というか机ごと。


「何がどうなってるんだ」


焦る、焦る、焦る、悲しむ。

その時、昨日感じた物足りなさの正体が突然わかった。いつもかけてくれる言葉がなかったのだ。

-またおいで。

玄関の鈴と共に、その優しい言葉がいつもは聞こえていた。昨日はそれが、なかった。

どこに、行ってしまったんだ?

誰に、聞けばいい…


そうだ!


「ジルさんなら知ってるかも」


ジルとは、シェイルの勤める工房の上司である。無論上司と部下というだけの関係なら、ここで頼ろうという思考には至らない。ジルは、職場で唯一、『うたたね』を知り、同じように通い詰めている人だった。彼も雑貨が好きで、シェイルはたまにジルと雑貨の話をしていた。

今日は確か出勤日だったはず。今行けばいるか。

またもや裏道を駆け巡り、職場にたどり着いた。少し乱暴にドアを開ける。そこには予想通りジルがいた。


「ジルさん!」

「なんだ、今日は昼から出勤だぞ?」

「違くて、その、『うたたね』の話なんです」

「ほう、」


ゆっくりと椅子から立ち上がった大きな体は、シェイルの倍はあろうかという巨体だった。シェイルはことの有様をできるだけ落ち着いて説明する。腕を組み、ジルはうんうんと丁寧に頷く。


「…と、言うわけで」

「なるほど…まあなんとなくそんな気はしていたがな。

シェイル、“黄昏商”って、知ってるか」

「黄昏商…え、まさか…」


シェイルは自身の知識の引き出しの中から、即座にその言葉を持ってきた。

黄昏商。

商人は、大抵どこかに根城を置いて商売をするものだが、ごく少数の商人は、その場所でいくらか商売をするとある日ぱたんと店仕舞いをし、新たな場所を求めて旅立つ。

夕方を境に、まるで不況により店仕舞いをしたように消えてしまうことから、そのような類の商人のことを「黄昏商」と言うらしい。

噂には聞いていたが、目にしたことはなかった。しかし、その憶測はほぼ、間違いないだろう。あの店主は、昨日を最後に、店仕舞いをした。「またおいで」を言わなかったのはそういうことだったのだろう。

なんで、何も言わずに…


「ペンは、商品と間違えて持ってっちまったのかもな。だとするとどうしたものか」

「他のなにかなら諦めたんですが、あれは大切なものなんです。失う訳にはいかない」

「かと言って、どこに向かうか分からないんじゃないのか?探しようがないんじゃあなあ」


そう、それはシェイルも考えていた。もっと言うならその答えを探すためにジルさんに会いに来たのだ。


「なにか言ってなかったか?あの店主の話してたことにヒントが隠れてたりしないか?」


ヒント?ヒント、ヒント…あ、

ここに来たのは正しかった。その助言で思い出した。

北の都の話を。


「層都!そうです、層都カトロアの話をしていました。次はきっと、そこに向かうはずだ。」

「層都か。確か至る所に水晶が生えた都だったか。まあ、どこに向かうにせよ、役所に言って手続きはしなきゃならねえな。層都に向かうなら北門を出るだろう。今から行けば、まだ間に合うが、仕事には間に合わなくなっちまうなあ」


ざっ、と、足の向きを変える。ドアの前にはジルさんが立っている。こうなることが、わかっていたのだろうか。


「どうするつもりだ」

「行ってきます」

「話を聞いていたのか?今から行けば仕事に間に合わない。いいか、お前の代わりなんかいくらでもいる。きっと1発でクビになるぞ。俺も厳罰は免れない。それをわかってるのかと聞いているんだ」


声色が一変する。そう、シェイルが高い機織り機を壊した時と同じ声色だった。シェイルは身構えた。体が震える。


「行ってきます」

「させないぞ」


大きな体の大きな両腕を広げる。それは目の前の対象の行動の阻止を意味していた。シェイルはそれでも、ゆっくりと歩き出す。

大きな体に小さな抵抗。勝てるはずがない。絶対に。

普通なら。しかし、

小さな手で払っただけで、その大きな体は横に立ち退いてしまった。図体の割に力がないだけ?否、あるいは。


「ごめんなさい、自分勝手で、

ありがとう」


たったったっと、遠のく足音。

広げた両手は、少年の決意を止めるには、あまりにも無力だった。

ジルは振り返り、その小さな背中を見た。


「“ありがとう”、ねえ。気づいてやがったのかな。俺が止める気ないって」


ジルは知っていた。シェイルの野望。きっと店主を追いかける理由は、ペンだけじゃないということも。


「いいさ、それに比べりゃ大した罰じゃねえ。どうか、

…帰ってくるなよ」


たはは。乾いた笑いは、嬉しい敗北を感じさせた。

ジルは右の拳を前につきだす。なぜ、ただ忘れ物を取り返しに行くだけのはずなのに、旅立ちを見送るような気持ちになっているのか。

自分で分かってはいたが、口には出さなかった。


---

シェイルは走った。不規則に揺れるバッグ、針を刺されたように痛む肺、慣れない運動に驚く筋肉、そのどれもが鬱陶しかったが、気にしている暇はなかった。

北門にたどり着く。監視員にバレないように、ゆっくりゆっくり門を潜る。あまりに警備がザルすぎて、安堵と同時にこの都の未来を憂いた。

門の先に広がる草原。風が草木を均一に撫でる。少し先に、馬車に乗る人が1人。きっと、と、急いで駆け寄る。


「店主さん!」

「あ、あら、お得意様じゃないか。わざわざどうしたんだいこんなところまで」

「私、どうやら、ペンを忘れちゃったみたいで」

「あ、ああなるほど、そういえば見覚えのないペンが紛れ込んでたようなないような…えーとこれだ、間違いないかい?」


店主はどことなく挙動不審だった。少年がどうやって自分を見つけたのかも、どうやってここまでやってきたのかも、気になることはあるはず、しかし何も聞かない。


「あ、これですこれです。ありがとうございます」

「すまなかったね、監視員の目を盗んでここまで来たのだろう?さ、用は済んだんだから戻りなさい」

「んー…」

「どうしたんだい?何か買いそびれたものがあった?」

「…」

「えーと、何をお探しで?」

「…」


今度は、シェイルが俯き黙ってしまった。何も喋らなくなってしまった。たくさん言いたいことがあるはずなのに。いや、喋られない、のではなく、喋りたくない、のか?

誰も真相のわからない沈黙が続く。


「えーと、」

「店主さん、」

「あ、はい!」

「あなたは、黄昏商

「おい!そこのお前!出国手続きをしていないだろ」


ぎく、っと、2人で振り向く。

そこには、警棒を携えた警官がいた。馬に乗った強面は、どうやら1人2人ではないらしい。


「お前を連行する。何もしなければ悪いようにはしない。もし抵抗するなら、監獄行きは避けられないぞ」

「あー、この都の警備はきちんと機能してるようだねえ、よかったよかった」


煽るような口調で警官に話しかけたのは、さっきまであたふたしていた店主だった。今はすっかり、いつもの雰囲気に戻っていた。歯車のピアスを、くるくると弄りながら、そっと服の内ポケットに手を突っ込む。


「なんだお前は。そいつに手を貸すならお前も共犯だぞ」

「監獄ってのは、“あの”冷たい冷たい鉄格子の中のことかい?そりゃなんとも可哀想だね。しかし、


あの色のない平凡な日常に戻るのは、

もっと可哀想だね」


シェイルは、

店主の横顔を見ていた。

その不敵な笑みは、今まで見た中で1番楽しそうだった。

警官は警戒する。そのポケットから出したのは、

不思議な形の瓶だった。


「小瓶:“葉の透く朝日”」


そう言って、緑色の瓶を地面に叩きつけた。薄い硝子は衝撃ですぐに割れる。眩い光は、その場にいる全員の瞳を鮮やかな緑色に染めた。


「乗って!僕の戦法は逃げが基本だから」

「え、は、はい!」


なんとか正気を取り戻し、シェイルは馬車の荷台に飛び乗った。店主はぱんと鞭を弾き、馬は走り出す。そして同時に、シェイルはその小瓶の中身がただの緑色の液体ではないことに気がついた。

その液体は草原の草をぐんぐんと成長させ、茎一つ一つがまるでツタのような太さになり、馬と警官の体にまとわりついた。警官達は身動きが取れず、共犯者の馬車からどんどん離されていく。


「すごい、あれが、魔法…」

「植物を急成長させる魔法は、魔法学の中では初歩的なものでね、早い子は10歳に満たないうちにマスターするそうだ、まあ、同じ魔法でも、時空を歪ませて急成長させる魔法となれば難易度はぐんと跳ね上がるらしいが。っと」


1聞いてもないのに10話すお喋り店主は、青空教室の邪魔をする存在にいち早く気づいた。


「やはり、ツタ程度じゃ馬は止められないね。後ろを見てご覧、追いつかれるなこれじゃ」

「わあお。こりゃまずいですね」


思わず変な感動詞をこぼしてしまった。走る馬車は思ったより大きな音を立てるものだが、追いかけてくる警官の怒号はそれを塗り替えてしまうものだった。


「少し汚れただろう、洗い流してやらなきゃね」


そう言ってポケットから取り出したのは先程より大きな、全体的に丸みを帯びた瓶だった。栓を外し、店主は馬車の後ろに移動し、


「中瓶:“海底のコルク栓”」


中身を草原にこぼした。

それは地面に着陸する前にみるみる膨張し、まるで絵本で見た津波のような大きな水の波を作り出した。シェイルは懐かしい潮の匂いで、それが海水であることに気がついた。


「うわあああ!!」


警官も馬も、たまらず波に飲み込まれる。突然の海水浴には、なにものも逆らえない。バランスを崩した馬はバタバタと倒れ、草原のど真ん中に倒れ込んだ。


「あっはー!どんなもんだい!」


店主は不安定な馬車の上で小さくジャンプした。テンションの高さにシェイルは少し引く。


「危ないですって!」

「あっは。大丈夫さ、慣性の法則の恩恵を受けているからね。って、おいおい嘘だろ」


波に全て飲まれたと思っていたが、2人の視線の先には、一体の馬と1人の警官が。成程どちらも強靭な肉体だ。海水浴程度ではのぼせないらしい。シェイルは、まだなにか奥の手があるんでしょうと、店主に救いの眼差しを向ける。


「あっはは、それが喜ばしいことに商売繁盛。奥の手は全部売れちゃったみたいでさ…」

「おいおい嘘でしょ…」


店主はポケットというポケットを裏返し、そこに希望はないことを少年に確認させた。と、次の瞬間


ばん!


と、耳をつんざくような音。その強靭な警官には鬼に金棒、なんと黒光りの拳銃を空に向け発砲した。生まれて初めての命の危機が、シェイルを襲う。


「止まらんと!次はそちらに向けて発砲する!」

「さすがに諦め時ですか、いや、まだあった!奥の手!」

「お、なんだ少年!」

「これって、どう使うんですかね?」


バッグを漁っていた少年が見つけたのは、昨日『うたたね』で最早投げ売りみたいな値段で購入した『雲羽根の翼』だった。


「そうか!それがあったか!それはね、ツタのやつと同じで割るタイプだ!君の足元に叩きつければまるで翼が生えたように飛べるはずさ!それでやっつけよう!」

「なるほど!やるしかないですね!」


パリン。

翼は?


「えっと…それやっぱ飲むタイプだったわ。間違えた。」

「えー!!何間違えてるんですか!身銭を切って買ったのにー!」

「すまないすまない、後で同じの入荷して君にあげるからさあ」

「その後がないんですよ…」


無慈悲に飛び散った液体はすぐに蒸発してしまった。

馬車は警官の馬に追いつかれてしまった。

万策は、尽きてしまった。

ここで、終わりか。

短い冒険だったが、楽しかった。

シェイルは硝子の上にへたりこもうとし、


やめた。


もうひとつ、気づいたことがあった。店主は、誰よりも雑貨を愛していた。この人が、他の人のものを商品と間違えて持っていくことなんて、そんなことするはずがない。んじゃ、その心は?決まっているだろう。

チャンスだ。


「だめだ」

「偶然と、皆の協力で、自由まであと1歩ってとこなんだ。こんなところで、旅を終わらせる訳にはいかない」


シェイルは立ち上がった。

足は震えている。もちろん手も。

しかしその手で、なんとか取り返したペンを、逆さに握りしめていた。

どうせ破滅の道。それなら、


「店主さん」

「なんだい」

「私は、


満月を盗む勇気が欲しい」



そう言って、ペンを振りかざし、警官の方へ、飛んだ。

店主は少年がなぜ“その言葉”を知っているのか、わからなかった。

少年はなぜ、この状況で“そんな言葉”を口にしたのか、わからなかった。

ただ、歴然とした事実として、

警官が発砲した弾丸はシェイルには当たらず、

少年のペンは貫通こそしなかったものの、

警官の胸を突き、その痛みで落馬させた。


「あ、はは、

翼は、元々あったってわけか」


馬車を止め、少年の方にUターンする。

馬から降りた少年の手を取り、もう一度馬車に乗って、ゆっくり北に向かって進み出す。


「君、どうしてあの言葉を、いや、それより、

無事でよかった。ありがとう」


大きな疑問は一旦置いておいて、店主はいつもの優しい顔で笑いかけた。


「どういたしまして」

「さあてどういたしましょうか。あの長い長い沈黙がなければ、君はさっさと帰れたわけだが」

「“色のない平凡な日常”に?」

「あ、あれは失言だったよ…」

「事実です。きっと店主さんもわかってたんでしょう?」


シェイルは食い気味に返答する。


「ペンを持っていったのは、意地悪ですよね?」

「バレた?いやー職業柄この都を出なきゃならないのはそうなんだが、どうやら僕は君のことがめっぽう気に入ってしまったらしくてね」

「言えばよかったのに」

「この仕事はいい事ばかりじゃない。それなりの苦難を伴う。僕の気分で誘う訳にはいかない。だから、君の意志を、ある意味試したんだ。ま、意地悪に変わりはないね。あ、ちなみに追っかけてこなかったら郵送で君の家にペンを送り付けてたよ。大事なものなんだろうからね」


こうなるとすぐにいつもの調子だ。この状態の店主さんに敵う気がしないと、シェイルは黒目で半弧を描く。


「君が黙ってた理由も、そこにお望みのものがあったからだろう?どんなにお金を詰んでも家に持って帰ることの出来ないものがさ」

「そこまで、わかってたんですね。大当たりですよ、全く」

「それで?答えはYESでいいのかな?」

「なんの答えです?」

「僕の元で従業員として働いてくれるんだよね?」

「YES以外に選択肢ないでしょう」

「近くにいい都がある。籍や人種を問わない、あの都より

ずっと環境のいい仕事を提供してくれるところをね。僕のコネを使えば

「あーあー聞こえませんわ。何も聞こえませんわ。要件があるなら明後日ぐらいに言ってくれませんかねー」

「あっはっは。なんて都合のいい耳だ。高値で買い取らせておくれよ」


正午。真っ直ぐな陽の光を浴びながら、商材に被せてある布の上で、その人は何度も笑った。

ひとしきり笑ったあと、店主はシェイルの方を向いた。


「僕の名前、教えてなかったよね。

僕はユラ。君の憶測は大当たり、しがない黄昏商さ」

「やっぱりですか。ユラさん、私の名前も、知らなかったですよね。私はシェイル。苗字は、多分忘れました」

「多分ね。含みのある言い方じゃないか。まあうちで働くにはシェイルだけで十分さ。それでだね」


あらたまったように、ユラは体ごとシェイルの方に向ける。しっかり目を合わせて、今から言うことの重要さを態度で伝える。


「雇用被雇用の関係になったからには、『うたたね』の秘密を教えなくちゃね」

「秘密?」

「そうさ。僕はね、表向きの顔は黄昏商だが、裏の顔も持っていてね。そいつは、そこそこ名の通った情報屋。名は『白昼夢』だ」

「情報屋…?」

「そして、その顔を表に出すには合言葉がいるんだけど、なんともまあ、偶然か必然か」


ユラは、既にその不可思議を不可思議のまま受け入れた顔をしていた。しかし、謎はいくら噛み砕いても謎のまま。


「その合言葉は、

“満月を盗む勇気が欲しい”、さ」

「え」


ユラの目に映るのは、自分よりももっと驚いた顔をしている、少年の姿だった。



こうして始まった、2人が織り成す、奇妙で素敵な旅。

最終目的地は、ない。

黄昏商とは、そういう生業なのだから。


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