妖魔
微睡む意識と、霞がかった視野。
ふと気がつくと僕は意識を取り戻していた。
何度か瞬きをして、視界を鮮明にする。
そうすることで、僕はようやく現在位置を知ることができた。
「白っ」
見渡す限りの白、白、白。
ここは白以外がなにもない。
強いて言うなら、うっすらと線が引かれているくらいだ。
それはそれぞれ、床と壁と天井を区切っている。
酷くだだっ広い真っ白な空間。
どうやら僕は、そんな非現実的な場所にいるらしい。
「……天国って、意外とこざっぱりしてるんだなぁ」
口をついて出た、天国という言葉。
自分のその言葉に自分ではっとして、意識を失うまえのことを思い出す。
子供。化け物。血。腕。尻尾。殺害。
そこまで思い出して、ようやく自身がおかれている現状に意識が向く。
「あれ、動けな――なんだ? 鎖?」
身体は縛られていた。
頑丈な鎖に雁字搦めにされている。
それはイスにまで及んでいて、立ち上がることは叶いそうにない。
尻尾まで絡みついている。
天国というには、あまりにも物騒な扱いだった。
むしろ、これから地獄に落とされそうな雰囲気だ。
この真っ白な空間が、次の瞬間には地獄絵図に変わっている、なんてことにならないと良いけど。
「――気がついたようですね」
どうにか鎖を解けないかと試みていると、前方から声がかかる。
年若い少女のこえ。
鎖に向いていた視線を正面へと向かわせると、その声の主が目にはいる。
黒くて長い髪をした、前髪ぱっつんの女の子。
歳は同じくらいだろうか? まだあどけなさが残っているように見える。
服装は白を基調とした、なにかの制服のようなもの。
一目見て見当がつかない辺り、メジャーな職業ではなさそうだ。
「その鎖は解けませんよ。今の貴方はひどく弱っているので」
「弱ってる……そういえば、身体に穴が」
再び視線を下げて、自身の胸の辺りをみる。
すると、そこにはやはり、大きな穴が空いていた。
一見して、生命活動が維持できないほどの致命傷。
なのに、痛みはまったくない。
「なにこれ? なんで、死んでないの? 僕」
「死んでますよ。心臓は動いていません」
たしかに心臓の鼓動は聞こえない。
「……じゃあ、なんで意識があるの?」
「貴方が妖魔だからです」
妖魔?
たしか、あの化け物も同じことを。
「はるか昔から存在し、死の訪れとともに新たな生へと転じる妖魔。名を、転生狐。それが貴方の正体です」
「僕が……あの化け物と同じ?」
だから、あのとき同族だと、妖魔だと、そう言っていた?
「……衝撃の事実って奴か」
僕が化け物だったなら、この胸の穴にも納得がいく。
普通なら死んでいた。そう、死んでいるべきだった。
普通のことなのに、それが普通に出来ていない。
人生の目標は、すでに達成されていた。
僕はその先にある、化け物という存在に、なってしまったのだ。
「キミは、なら僕を殺しにきたのかな」
化け物の存在を知っている。
この鎖のことを承知している。
彼女は見たところ、人間だ。
僕のこの姿を見て、恐れた様子も、戸惑った様子もない。
なら、化け物を殺しにきた者だと思うべきだろう。
「事と次第によっては、そうなります」
「ということは、助かる道があるってことか」
人としてすでに死んでいるというのに、助かるもなにもないけれど。
「よく見ていてください」
そう言った彼女は、差し出すように手の平をのばす。
そして、その上に小さな焔を灯した。
「これは魔術。そして、それを扱う私たちは魔術師と呼ばれる秘匿された組織の人間です。その勤めは、人に徒なす妖魔を討滅すること」
魔術と、魔術師。
妖魔を討滅する者たち。
「貴方には、その手伝いをしてもらいます」
「化け物と――妖魔と戦えって言うのか。自慢じゃないけど、僕は一度だって喧嘩なんてしたことがなかった人間だったんだ。そんな僕に勤まるかどうか」
「勤まります」
そう彼女は断言した。
「どうして?」
「貴方は妖魔に勇敢にも立ち向かい、返り討ちにあっても立ち上がり、最後には妖魔を討滅した。そう聞いています。貴方が助けた、あの小さな少年から」
あの子供。
そうか、無事だった。
僕が生前に、人間として最後に行った普通のこと。
それは無事に、成し遂げられていたのか。
「それに助かりたいのなら、出来なくても貴方は妖魔と戦わなくてはいけません。なぜなら」
そこで一度、彼女は口を噤む。
だが、すぐに言葉をつづけた。
「貴方は妖魔を討滅し、その肉を喰らわなければ肉体を維持できないのですから」
突きつけられたのは、非情なる現実。
妖魔を討滅し、その肉を喰らう。
自分の手で殺し、自身の手で解体し、己の血肉としなければならない。
殺すことも、解体することも、ずっと他人任せにしてきた。
そんな僕が、すべてを自らこなさなければならない。
それがどれだけ大変なことか。
想像するだけでも、その難易度の高さは計り知れない。
けれど。
「わかった。僕は生きたい」
例え、すでに死んでいたとしても。
「そのためなら、手伝うよ。妖魔と戦う」
僕は生き方を変えるつもりはない。
普通のことを普通にする。
妖魔を討滅することは、その分だけ人間を救うということ。
僕には妖魔を倒せるだけの力がある。
力があるのなら、それを人のために振るうのが道理――普通のことだと思うから。
僕は魔術師を手伝い、妖魔を討滅し、そしてその肉を喰らう。
「本人の意思を確認。暴走の可能性は限りなく低いと断定。総評、彼は未だに人であろうとしています」
彼女は、僕の答えを聞いてそう誰かに告げるように言葉を放つ。
瞬間、この白しかない空間に色が宿った。
しかし、それは決して明るいものではない。
暗くて冷たい打ちっ放しのコンクリートへと染め上がる。
けれど、そこは地獄ではなく、現実だった。
「よーし、それだけわかりゃあ十分だ」
金属が擦れ合うような甲高い音を鳴らして、鉄の扉が開かれる。
そうしてこちらの空間へと足を踏み入れたのは、中年の男性だった。
だらしのない服装をした彼は、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
「本日付で、お前は俺の部下になる。よろしくな、冴島通」
彼はそう僕の名前を呼んで、手を差し出した。
それと同時に、僕を拘束していた鎖が光となって散る。
どうやら、この鎖も魔術師の魔術だったらしい。
いやはや、今日は驚かされてばかりだ。
「よろしくお願いします」
僕は自由になった手で、彼の手を取った。
こうして僕の数奇な一日は始まりを告げる。