普通のこと
普通のことを普通にする。
早寝早起きをする。
信号を守る。
食事の前後にいただきますとごちそうさまを言う。
普遍的で何でもないようなことを、きちんとこなす。
それが僕の人生においての目標だった。
捨て猫がいたら里親を探した。
迷子を見つけたら交番まで連れて行った。
誰かの悪口を聞いたら注意した。
そんな風に僕はこの十八年間を生きてきた。
だから、だろう。
「――ッ」
驚くほど非日常的な光景を目にして。
尻餅をついた子供と、それに牙を向けた化け物を目にして。
逃げもせず。
隠れもせず。
愚かにも、僕は立ち向かってしまった。
見上げるほどの化け物に向かって。
それが無謀だと知りながら。
「うおぉぉぉぉおおおおおおッ」
気がつけば拳を握りしめて、僕は地面を蹴っていた。
踏み出した一歩は、もう後ろへは下がれない。
腹を括り、覚悟を決め、化け物の顔面を殴打する。
人を――生物を、殴ったのは、これが初めてだった。
けれど、それは意外とうまくいく。
殴り抜けた拳は、化け物を怯ませた。
顔を押さえ、化け物は仰け反っている。
この隙に。
「今だっ、はやく逃げ――」
振り返った先の子供に視線を合わせたすぐあとのこと。
胸が、肺が、苦しいほどに圧迫された。
「けふっ――あ……」
咳き込んだ拍子に溢れ出す血。
喉の奥からこみ上げてくるそれは、止めどなく口の端から滴り落ちていく。
いったい何が起こったのだろう。
全身からゆっくりと力が抜けていく。
身体が酷く重くなり、気怠くなり、だらりと頭を垂れた。
その時になって、ようやく僕は気がついたのだ。
自身が、化け物の爪に貫かれていることに。
「いってぇな、おい。なんで、ただの人間が俺を殴れるんだぁ?」
化け物はそう言いながら、ずるりと爪を引き抜いた。
支えを失い、脱力した身体は力なく地に落ちる。
夕闇に染まるアスファルトは、硬くて仄かに暖かい。
いや、違うな。これは血の温度か。
「まぁ、いいや。ガキは後回しにして、こいつを先にいただくか」
頭を掴まれ、持ち上げられる。
ぼとぼとと音を立てて、血が地面に落ちる音がした。
寒い。とても寒い。
血を失い過ぎたんだ。
だから。
「あー……」
取り返さないと。
「――あ?」
地に足をつける。
血だまりに降り立ち、片手にもった化け物の腕に目を落とす。
「おまえ……どうして。その腕はっ、俺のっ」
片腕を失った化け物は叫ぶ。
「返せっ! 俺の腕!」
取り戻そうと、残ったほうの腕が伸びた。
けれど、これは返せない。
先に失ったのは、僕のほうだから。
「いただきます」
喰らう。平らげる。
化け物の腕を、血肉を、噛み千切って飲み込んだ。
「ごちそうさま」
失ったものは取り返した。
血肉は自身の糧となり、僕の奥底に眠るなにかを呼び覚ます。
そして、化け物の手は派手な音をたてて、停止する。
「おまえ……まさか」
化け物の腕は届かない。
受け止めたからだ。
自身から生えた、黒い獣の尾によって。
「転生……狐――転生体かッ」
「なにそれ?」
黒い尾を使って化け物の腕を弾き上げる。
同時に、がら空きになった胴へ、攻撃を仕掛ける。
僕に生えた五つの黒い尾。
それを槍に見立てて突き放ち、化け物の肉体を穿つ。
「あぐっ――」
肉を抉られ、骨を砕かれ、化け物は吹き飛んだ。
道路を二転三転し、大量の鮮血を散らしながら、ようやく停止する。
僕はそちらへとゆっくりと向かう。
化け物は逃げようとしていたけれど。
身体が上手く動かないようで、ずるずると這っていた。
「ま、待てっ。殺すなっ! 俺たちは同族、同じ妖魔だろ! 見逃し――」
自らの尾を槍に見立て、また突き放つ。
今度は確実に息の根を止めるため、頭と心臓を貫いた。
「悪いけど。知り合いに化け物はいなくてね」
もう決して、この化け物は起き上がらない。
ただの肉塊になったそれから目を逸らし、背後の子供に視線を向ける。
「大丈夫?」
そう尋ねると、目を見開いて唖然としていた子供は、ぴくりと反応した。
「う、うん。だいじょうぶ」
「そう。よかっ……た」
不意に全身の力が抜けて、また身体は地に伏した。
意識が遠退く。身体の感覚がなくなっていく。
さっきまであれほど動けていたのに。
いまはもう尻尾ひとつ動かせない。
というか、あれ?
なんで僕に尻尾が生えているんだ?
「き、きつねさん。きつねさんってばっ」
子供の小さな手が、僕を揺らしている。
けれど、それに答えるだけの気力はすでにない。
思考能力も低下しきり、なにも考えられなくなる。
ただただ、あぁ疲れたと、思うばかり。
重い瞼をゆっくりと下ろして、僕は意識を手放す。
泥沼に沈み込むように、深い深い眠りについた。
ブックマークと評価をしてもらえると嬉しいです。