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ぼくの知らない灯台(下)

作者: 七水 樹

短編(上)(下)に分かれた作品の(下)です。


(上)はこちら → https://ncode.syosetu.com/n2251ek/


ぼくの知らない灯台(上) 続き



 きっかけは、祖母の認知症の発覚だった。ともに過ごした思い出や祖母が好きだった景色を、祖母が忘れてしまわないようにと、淳は絵を描いたのだ。父の実家の近くにある高台から、海と空の境界とそれに望む岬が見える景色の絵。そこに、祖母はよく淳を連れて行ってくれていた。


 完成した絵は母から絶賛され、祖母のもとへ送る前に、母の友人の個展でゲストとして紹介されることとなった。絵のことを知った友人が、ぜひ、と薦めてくれたのだ。その時の淳は、自分の絵が評価されることを素直に喜んで、展示を快諾した。だが、事件はその個展の展示の最終日に起こってしまった。



「俺はあの絵には、灯台があるべきだと思う」



 はっきりと意志のこもった声音で、亮はそう言った。そこでようやく、淳は顔を上げた。亮の目を真っすぐ見つめ返す。


「お前は一度、あの絵に灯台を描いてる。だけど上から、空で灯台を消しただろ。何でだ。あの絵には、灯台が良かったんだ」


 力がこもって、亮の声は硬くなっていた。圭太は何の話なのかわからず、置いてけぼりにされているようだった。それもそのはずだ。あの絵に灯台が存在することは、ごく一部の人間しか知らないし、気づいていない。


 淳は、静かに口を開いた。


「僕は、あの灯台を知らない」


 亮は淳の言葉の意味がわからないようで、眉間の皺を深くした。構わずに淳は続ける。


「だから僕は灯台が消えて当然だと思う。一度描かれてしまったのだから、どうやったって消えはしないけれど。だから、灯台が描かれたあの絵はもう、僕の絵じゃないんだ」


 言いきって、淳は目を伏せた。


 消えた、灯台。


 確かにあの絵には一度灯台が描かれた。しかしそれは淳の描いたものではないのだ。絵は盗まれて、一週間足らずで突然帰ってきた。その時に、描き足され、そして消されたものだった。淳の知らない灯台なのだ。淳の思い出の景色には、灯台は存在しない。


「……どういうことだよ」


 亮の声には、怪訝に思っていることが滲んでいた。その疑問は、淳も浮かべたものだ。なぜ描かれた灯台は消されて、戻ってきたのか。誰がそんなことしたのか。未だに犯人は見つかっていない。


 困惑した亮の様子から、あり得ないのだとわかっていながらも、淳は問うてみずにはいられなくなった。あの絵にあるはずのない灯台が、相応しいという亮を攻撃してみたくなったのだ。


 淳はベンチから立ち上がって、真正面から亮と向き合った。


「君が描いたんじゃないの?」


 唐突な問いかけに、は、と亮は短い声を漏らす。


「君が盗んで僕の絵に灯台を描き足して、そして消したんじゃないの」


 今度は疑問というよりも、はっきりと攻撃的な意味合いを込めて断定した口調で言ってみた。ようやく意味を理解した様子の亮は、一瞬でかっと顔を赤らめさせた。突然降りかかったとんでもない言いがかりに、口を戦慄かせる。


「アニキがおまえの絵なんかぬすんだりするもんか」


 淳に反論したのは、亮ではなくパンサーだった。


「まんねん二位の負け犬のくせに」


 パンサーに言い返したのは淳ではなく、サブローだった。いつの間にか、淳の傍らにやって来ている。もちろん、亮やパンサーには見えていないし、今の言葉も聞こえていない。けれど淳には聞こえている。


 そうだ、彼は淳がいることによって長い間、トップを取ることが出来なかったのだ。淳を妬んで、絵に細工をすることだって十分あり得る。万年二位で、亮は順位に拘っているのだから。淳の絵を穢して、淳を傷つける動機があるのだ。


 サブローの言葉をそっくりそのまま言ってしまったら、彼はどんな顔をするだろうかと淳は思った。灯台が相応しいなどという亮を、明確に傷つけることができるとわかっていた。わかった上で、言いたい、という衝動が沸き上がってくる。


「淳」


 沈黙を破って、淳の手首を掴んだのは圭太だった。


「花火、しよう」


 これまでと違う意味合いの間が生まれた。


「え」


 淳は声を漏らして振り返る。圭太は真剣な顔で淳を見つめていた。真っすぐな目を受け止めることになって、淳はぱちぱちと瞬く。


「やりたいんだろ。だったらやろうぜ、花火」


 圭太に、な、と同意を促されて、淳は思わず頷いていた。先ほど呟いたのは自分だったが、ただの思いつきの言葉だ。まさか友人との約束ごとに繋がると思わなかった。


「急に、何言ってんだお前」


 止まっていた時が動き出すように、亮はひゅっと息を吸い込んでそう言った。わずかに声が裏返っている。頬の赤らみはまだ残っていた。


「花火やるんスか、アニキ」


 期待が籠った声で、パンサーはそう言った。先ほどまでの怒りなどもう忘れてしまったようで、亮の服の裾を引いている。花火なんて、と亮は言い返そうとするが、きらきらと輝く瞳に見上げられてその言葉は尻すぼみに消えていった。迷ったように目を伏せていたが、腹をくくったのか、亮は「……で、それ、いつやるんだよ」と圭太に問うた。良いアニキだな、と淳は思う。とても人の努力を踏みにじるような人間には、思えない。


「今日」


 圭太の答えに、きょう、とまたもや亮は声を裏返させた。


「思い立ったが吉日だろ。どうだ、淳?」


 圭太はそう言って淳を窺う。どうせ両親は夜遅くにならねば帰ってこないし、夜の予定もない。大丈夫だよ、と頷いた。


「でもさすがに花火なんてまだ売ってねーだろ。どうやって用意するんだよ」


 花火をやることが決まって、喜びに小躍りし始めるパンサーの横で、いくらか表情のやわらいだ亮はそう問うた。それに対して、さすがに圭太も唸り声をあげる。確かに、六月の終わりではまだ花火を売っているところは少ないだろう。今日やるとなれば早急に手に入れなければならないし、子どもの足では探せる範囲も限られてくる。


 三人が腕組みをして、うーん、と悩んでいると、店の奥からおばちゃんが出てきた。にっこりと優しい笑みを浮かべるおばちゃんは、長方形の袋に収まった、花火セットを胸の前で抱えていた。





 淳たちは、駄菓子屋の裏手にある空き駐車場で、花火をした。おばちゃんが持っていた花火は、一年前に娘夫婦がやって来た時、孫と一緒に遊ぼうと思って用意していた物の残りなのだそうだ。一年前の花火はわずかにしけっていたが、それでも美しい火花を薄闇の中に咲かせた。たった一セットの花火はあっという間になくなってしまって、パンサーの高いきゃっきゃという笑い声も、線香花火の時には小さな囁きへと変わっていた。


「アニキの花火、大きいっスね」


 亮の線香花火を褒めた瞬間に、パンサーの火種は地面に落ちてしまった。あー、と残念そうな声を上げて悲しむパンサーに、亮は彼の持つ花火は二人のものだと言って励ました。ずいぶんと、パンサーを可愛がっている様子が窺える。口は悪いし、態度も大きいが、それでも亮は悪い人間ではないのだ。彼は、とても繊細な絵を描く。動物や、静止画などの緻密かつ大胆な筆遣いは、プロの絵描きも舌を巻くレベルだ。自分は亮よりも絵が上手いなどと、淳は思ったことがなかった。だから、世の中の順位というものに違和を感じていた。亮は、亮にしか描けない絵を持っている。淳は、淳にしか描けない絵を持っていると思う。それでいいのではないかと、橙の火花が細やかに枝分かれして伸びていくのを、淳は静かに見つめていた。


 二人分の期待に応えるように、亮とパンサーの線香花火は、他の誰よりも長く、眩く、橙に輝きを保っていた。


 時期の早い花火を終えて、皆は駄菓子屋の前で別れた。



 淳が帰宅したのは、相も変わらずの真っ暗な部屋だった。母は、淳が帰宅してから約二時間後に帰ってきた。父はまだだった。淳は既に風呂も食事も済ませてしまっていて、いつも両親との会話は就寝の挨拶だけになる。だがその日母は電話をしていて、淳はリビングで本を読みながら、母の電話が終わるのを待っていた。声色や口調から、伯母だろうなと察する。母の相槌が続いて、間もなく母と伯母の電話は終わった。電話を切って、母は小さく息をつく。


「おかえりなさい。お疲れさま」


 定型文のように、淳は本を閉じて母に声をかけた。母は、ただいま、と力ない声で言って笑う。


「今日も遅くなっちゃってごめんなさいね。問題はなかった?」

「うん」


 いつもの駄菓子屋に行って、圭太と会って、亮とパンサーにも会って、みんなで花火もしたけれど、問題はなかった。問題はなかったから、淳は頷くだけで済ませた。


「今ね、佐貫の伯母さんからの電話だったんだけど」


 淳はまた、うん、と頷いた。やはり伯母で合っていた。佐貫の伯母は父の姉で、症状の悪化から病院に入院することになった祖母の世話をしている。伯母から電話がある時は、大体祖母のことで何かあった時だ。


「龍ヶ崎のお義母さんが、最近、淳の絵を見たいって言うんですって。『淳ちゃんが絵をくれるのはもうすぐかしら』って」


 母は淳の顔色を窺うようにしながら、控えめに笑った。


「……きっと、入院する時にあげると言った絵のことを、思い出してるんだと思うの」


 それは淳にもわかっていた。祖母が楽しみにしていたのは、四年前に書いたあの絵だ。昼間亮が口にした、盗まれた絵のことだ。


「それでね、伯母さんからお義母さんのために、また……淳に絵を描いて貰えないかって、お願いされたんだけど」


 どうかしら、と母はスーツのジャケットを脱いでハンガーにかけながら、そう問うた。今度は、あっさりと頷くことはできなかった。


 あの絵は祖母に贈ることができなかったのだから、祖母が欲しいと言うのではあれば今度こそ絵を贈りたい。その想いはもちろん淳の中にも存在している。


「……考えとくね」


 ぽつりと淳が返した言葉に、母がほっと胸を撫で下ろしているのを淳は空気で感じていた。絵を描けなくなって、学校にも行かなくなって、両親は腫れ物に触るように自分のことを扱っているように淳は思っていた。持て余している、と思わずにはいられない。


「じゃあ、僕もう寝るね。おやすみなさい」


 淳は母の言葉を待たずに立ちあがった。そのまま部屋へ歩いていこうとする淳に、母は何か言いたそうにしていたが、気づかないふりをして淳はリビングを出た。



「おばあちゃんが、絵を見たいんだって」


 部屋に入って、問われたわけではないが淳はサブローにそう告げた。サブローは、家では淳の部屋から出ようとはしない。部屋以外では淳が返事をしないためかもしれなかった。


 サブローは淳を一瞥すると、ふぅん、と鼻を鳴らした。それから、描くの、と短く問うた。


「描くよ」


 同じように、淳も短く答える。


 サブローは、寝転がっていたベッドから身を起こすと、ひょいと飛び降りて淳のもとへとやって来た。淳は、部屋のドアに背を預けて俯いていた。サブローは淳の表情を窺うように下から覗きこんで「変なモノ、憑けてんのに?」と首を傾げた。


 母に、祖母が絵を欲しがっていると聞いてから、妙に体が重くなっていた。照明を一つ落としたかのように、視界がわずかに暗くなっている。いつものことだった。


 サブローが言うには、淳は絵に対して強い負の感情を抱いているために、それが良くないものを引きつけて、その結果体調不良に陥る、ということらしかった。負の感情を振り払えなければ、いくら学校を休んでも、絵から逃れ続けても、根本的な解決はしない。


 淳はサブローの問いに、うん、と頷いた。


「大丈夫、もう他の人には見せないし、おばあちゃんにも見せないから」


 淳の答えに、サブローは眉根を寄せる。祖母が絵を見たいと言うから、そのために絵を描くのではないのか、と言いたいことは淳にもよくわかっていた。しかし、それではまた誰かの餌食になるだけなのだ。入院するおばあちゃんのためにという孫の想いは、誰もが共感しやすいありきたりな思いやりなのだ。多くの人が共感した結果、高額での買い手がついたり、盗難被害に遭ったりして、淳の絵は淳の絵ではなくなった。それでも、その共感や感動、話題性というベールを被せられて、偽物は本物の淳の絵になり変わってしまう。


 誰も、あの灯台が描き足されたものだとは気づかなかったのだ。淳だけが叫んだ。誰かの筆が乗ってしまえば、それはもう僕の絵ではないと。僕はそんな灯台を知らないのだと。しかし世間が評価するのは、天才少年画家が描いたという、肩書を持った作品であった。灯台が描かれて消されたあの絵は、盗難後に戻ってくると、盗難前と同じ金額で買い手に買い取られていった。素晴らしい絵だと、評されながら。


「僕は、おばあちゃんが死んだら描くよ。おばあちゃんのために。もうそんなに長くないんだ。だから、母さんは死ぬ前にプレゼントを贈ってあげたいんだ。でもそれは、きっと『おばあちゃん想いの良い孫からの贈り物』として、絵そのものを評価されない。僕は、おばあちゃんに絵をあげられない」


 一息に言い切ってしまって、淳は息を吸った。体が少し軽くなったように感じる。


「だから僕は、誰にも見せない。僕だけの絵を描いて贈るために」


 声の調子は若干の明るさを取り戻し、淳の口角はわずかに上がっていた。サブローはまた、ふぅん、と鼻を鳴らした。


「なに描くの?」

「花火」


 淳は間を空けずに答えた。


「おばあちゃんと昔、花火をやったんだ」


 湿ったアスファルトのにおいに、火薬を重ねたのもそのためだった。口にすると、鮮明に思い出が蘇ってくる。梅雨の長い七月のことだ。手に持つタイプの花火は、それが初めてだったのだ。おばあちゃんが大きな花火セットを買ってくれて、一緒に遊んだ。それが、とても楽しかったことを覚えている。


「おばあちゃんも花火が好きだったんだ。だから、花火の絵を描きたい」


 それで、と語り続ける淳には閃きが舞い降りていた。


「誰にも見せずに燃やす。燃やして、おばあちゃんに届けるよ」


 淳の胸は久しく高鳴りを感じていた。絵を描こう、描きたい、という欲求を素直に感じる。そこには他者の目を気にすることも、過去の淳への後ろめたさも何もなかった。思いのままに絵を描く、自由がそこにはあった。



 まもなく、祖母は亡くなった。七十四歳だった。病院に入院して疎遠になってしまっていた祖母は、葬式で久方ぶりで出会うと淳の記憶の中の姿よりもずっと痩せていた。細身ではあったが背筋がしゃんとしていて、岬を一望できるお気に入りの高台までずんずんと歩いていく祖母の後ろ姿が懐かしかった。


 淳は、花火を描いた。祖母が亡くなった後に、祖母のために一生懸命に筆を重ねていった。鮮やかな包装紙を突き破って零れ落ちる火花の、一瞬のきらめきをかき集めた美しい絵になった。輝かしく、闇に映える絵であった。


 淳は、花火の絵を燃やす。綺麗さっぱりと燃えることのないそれに、しつこく火を灯した。やがてそれは、燃えて尽きていく。



 火薬のにおいもしなければ、美しくもない、淳の花火は燃えていった。


「主人公だけは本人が書いて、他の登場人物はリレー形式で他の人が書き足していく」という課題で出来上がった作品です。

 サブローや圭太、虎ノ門 亮くん、パンサーなど、自分が考えた人物ではないキャラクターを動かすのは難しかったですが、とても新鮮で楽しかったです。

 淳はもともと、長編の主人公だったのでいつかそちらの話も書いてみたいなぁ……と思っています。亮くんはお気に入りなので、ぜひとも出演していただこうと思います(笑)


 次回は、11月27日(月)21時頃「幻想テラリウム」を投稿予定です。

強大な力を持つ謎の生命体の友となった、「選ばれし子ども」であったのに、突然その力を失ってしまったら……という短編です。

 では、最後までお付き合いくださりありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
[気になる点] (上)でサブローは淳の小学三年の頃の姿をそっくりそのまま写し出されていることと(下)で淳は順位に違和感を覚えていると描写されているのに、(下)でサブローが「まんねん二位の負け犬のくせに…
2017/11/26 22:23 退会済み
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