その3
というわけで、このページにも私はいる。いる、というよりかは存在させられている。抗えない力は、いつの時代も強大で、絶対で、それでいてこちらからは手の出ない位置にいたりするものだ。私もそうだ。
そうそう、前回、果たせなかった仕事を今回は果たさなくてはならない。
作品という漠然としすぎているジャンル分けのせいで中身が見えないかもしれないが、それはそれで物語が始まった時のドキドキ感が味わえるというモノではないのかね? まあ、もっとも、この世界に存在している以上はその感情もすべて、文字通り、手の上だがね。所詮は私と同じような存在が、同じように語り、同じように議論し、同じように感情をあらわにし、同じように操られているだけなのだが。
それがいいのかもしれないがね。それはそれで幸せなのだろう。例え幸せが仕組まれていても、仕組まれたとわからなければ純粋に楽しめるであろうし。な。
たとえそれが、誰かの不幸の上に成り立っている幸せだとしても、おそらく当人は知らなければのうのうとするであろうし。知っていたとしてもその位置であたふたするのみであろう。その位置へといった者はえてしてそういうモノである。
それは私に、私のような存在に限ってはそのどちらともいえない。特に私のような語り部という存在になってしまうと、否が応でもその世界のことはすべて知っていることになってしまうからだ。謎を解く楽しみもなければ、闘争の果てにたどり着く結果も知っている。なんとつまらないことか。
だから、たとえ私の幸せが誰かの不幸の上に成り立っているとしても、私はそれを知らなければならないし、手を下せるかどうか、下したとしてどうなるか。それを全て知ってしまっているのである。つまり私は登場人物兼語り部という時点で、私自身の行動や言動、果てには思考まですべて把握しているし、登場人物としての私が知らないところで事件が起こったとしても、語り部としての私が把握してしまっているため、結果的に私が知らないという事はなくなってしまっている。
なんとつまらないことか。なんと悲しいことか。なんと言う役回りなのか。私はこの存在を憎む。
まあ、この私が存在を憎むという事もすでに私は知っていたのだがね。
さて、では……と、言いたいが、今回もここまでの様だ。例によって次のページに私はいるので安心してくれたまえ。