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人間としての死

作者: 潮崎レオル

 私はこれまで、と言ってもものすごく短期間なのだが、光と闇、善と悪、生と死、世の理不尽、歪み、願い、決意といった題材で詩や短編、意見文・論説的文書を作成してきた。それらのほとんどは批判的内容なのだが、それでも、己が考えを主軸として書いてきたつもりであるゆえ、今更、非難を恐れるようなことはない。

 そしてこの度、人としての生死について考える機会を得たため、この場に記しておこうと思った次第である。

 さて、前置きはこのあたりまでとして、本題に入ろうと思う。

 次の一文を見てほしい。

 今、私たちは、この世に生きている。

 読んで、「当たり前のことじゃないか」と思った人が、圧到的に多数だろう。

 この『生きている』は、物質的・生物的に存在している、ということなのだが、これは至極当然のことであり、疑う余地もないことだ。

 目で視、耳で聴き、鼻で嗅ぎ、口で会話し、舌で味わい、肌に触れ感じている。そして、これらのいずれかが欠けているからといって、それで人間でなくなるという訳でもない。

 脳が機能し、心臓が鼓動し、生物学上でホモ・サピエンスに分類されている。ヒトという生物としての存在証明は、たったこれだけで、こうも容易くできてしまう。

 では、仮に、次のように言い換えるとしよう。

 今、私たちは、『人間として』この世に生きている。

 この上でも、当たり前だと言える人が多いだろう。事実、人間という言葉は、ヒトとほぼ同義だからだ。が、だからといって、人間的存在証明が生物的存在証明だけで済むかといえば、残念ながらそう簡単にはいかない。

 人間が人間である由縁。これまでに倫理科目を受けたことがある人は習ったこともあるだろう。それは、『知恵を持つこと』。

 ここで、知識と知恵は別なものだ、ということをおさえておきたい。知識とは、物事について知ることまたはその内容を指す言葉である。一方、知恵とは、得た知識を元に、思考し、事を切り抜ける能力と術のこと。つまり、知識の上に知恵があるのだ。

 知恵を持つこととは、すなわち自ら思考すること。他に流されることなく己が意志で思考を続けることこそが、人間の人間たる由縁なのである。

 従って、仮に思考することを忘れたのならば、知恵を持つことを捨ててしまったのならば、それこそ『人間としての死』だと言えるだろう。

 他に合わせるために思考を止めてしまう。その行為こそが、人間的存在の消滅なのではないだろうか。

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