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天使が泣いた日

作者: 久坂 薫

 少女は最期まで少女のままだった。 



町外れの海辺に、小さな家があった。そこには、一人の少女が住んでいた。


少女に名前はない。なぜなら名前を呼んでくれる人がいないからだ。故に、少女は自分の名前などもうずっと昔に忘れてしまっていた。だから、名前はない。

少女は病気でもあった。もうずっと昔に、何百億人に一人しか罹らないという奇病に罹ってしまっていた。医者はみんなさじを投げた。人はうつることを恐れて、少女を迫害した。少女には、人目を盗むようにひっそりと町外れに住むしか道はなかった。

また、少女は、時間(とき)がどれだけ流れようと少女だった。大人の女性にもならないし、老婆にもならない。もちろん、若返ることもない。少女はいつまでも少女のままだった。そしてそれこそが、少女が患っている奇病だった。

少女の時間は、病気に罹った少女の時からもうずっと止まったまま。

けれど、止まったのはあくまで少女の体の時間だけである。少女の命の時間は進み続けている。

ある日、少女は悟った。自分に残された時間は残り僅かだということを。本当の年齢は、もう老婆と呼ばれるであろう歳の時だった。

少女に悔いはなかった。残す者もいない少女は、死ぬことも恐れてはいなかった。それでも、ただひとつ、一つだけ少女には未練があった。

『海と空の境界線』。少女はもうずっと昔から探していた。来る日も来る日も海を眺めて。海の青さと、空の青さを見比べて。澄んだ青。透き通った青。輝く青。優しい青。天色。空色。水色。沈みかけの太陽に照らされると、茜色。緋色。橙色。太陽が沈んでしまうと、黒色。群青色。紺碧色。

少女は『海と空の境界線』を見つけたかった。

独りぼっちの少女の、唯一の願いだった。



そんな少女を神様は哀れに思ったのか。少女のもとに、天使と名乗る少年が現れた。

少年は空の中を飛べた。少年は海の中を飛べた。少年は、奇病を患ってからは誰からも嫌われた少女に、優しく手を差し伸べた。だから、少女は少年の手を取った。少年が天使であることを信じた。

少年は言った。天使は願いを叶えることができる、と。

願いが本物だったら、つまりは心の底から思っているものであったならば、天使は神様から授かった聖書の魔法で願いを叶えることができる。

目を見開く少女に、少年は言葉を続けた。

少年は少女の願いを叶えるために現れたのだ、と。

病気を治すことでも、永遠の命でも、目も眩むような黄金の山を出すことでも。なんだって叶えてあげる。

少女は選ばれたのだ、と。

少年は得意げに笑んで見せた。少女は戸惑いを露わにした。けれど少年はただ笑むばかりだったので、少女は自分の願いを考えてみた。天使だという少年に叶えてもらう、自分の願いを。

やがて、少女はゆっくりと口を開いた。そしてこれまたゆっくりと、首を横に振った。

自分には、天使にかなえてもらうような願いはない。

少女の言葉に、今度は少年が目を見開いた。

誰か、もっと強い思いの籠った願いを持つ人を選んであげて。

少女はたおやかに笑んで見せた。少年は戸惑いを露わにした。けれど少女に迷いは見いだせなかったので、少年はそっと目を細めた。少女が選ばれた理由を噛み締めながら。

少女は可哀そうな人であった。早くに両親を亡くし、そのうえまだ幼いうちに奇病に罹ってしまい、あらゆる人に嫌われ、邪険にされ、そして独りぼっちで生きてきた。神を恨み、人を憎み、世界を呪ってもおかしくはなかった。しかし、少女はそうしなかった。

少女はどこまでも少女のままだった。

純真で、純粋で、無垢で、真っ白。

少女の白はどんな悪意にも染まらなかった。どれだけ歳を重ねても、身も心も、まるで赤子のような幼い少女。誰にも侵されはしない、積もりたての白銀の雪。

少女の心は美しかった。

だから少女は選ばれて、だから少女のもとに天使はやって来たのだ。



少年は少女の小さな手を掴んだ。そして自分の背に広がる、天使の象徴ともいえる翼をはためかせた。風が起こり、少年の太陽の光を受けて照り輝く柔らかな金髪と、少女が身に纏う白いワンピースがなびき揺れた。

少年は、少女の唯一の願いを知っていた。少女はその願いを願わなかったけれど、少年は天使としてではなく少年としてその願いを叶えてあげたくなった。 

少女の心に触れて、少年の胸は温かくなったから。

それ故の少年の行動の唐突さに、少女は慌てながらも微苦笑して、しっかりと手を握り返した。

二人は空を、海を舞う。

少年の思いは少女に伝わってはいないけれど、少年の優しさは少女に伝わっていた。

この時、少年は天使ではなくただの少年で、少女も可哀そうな人ではなくただの少女だった。

『海と空の境界線』は見つかったの。

少年は少女に尋ねた。少女は淡く微笑んで答えた。

見つかったのかもしれないし、見つかっていないのかもしれない。

少女の言葉は曖昧で、少年には理解できなかった。少年はしきりに首を傾げて考える。それを見かねてか、少女はくすりと微かに笑った後、もう一度口を開いた。

『海と空の境界線』には触ることなんてできないし、近寄ったらわからなくなってしまうでしょう。

少女が同意を求めるように少年の顔を仰いだので、少年はひとつ頷く。それを見て、少女は満足そうに話を続けた。

だから、私が見つけた『海と空の境界線』が本物かどうかなんて確かめようがないと思うの。

少女はそこで言葉を紡ぐことを止めた。少年もここまでくれば少女の言いたいことを理解したのか、納得したように幾度か首を縦に動かした。

結局、少女の唯一の願いが叶ったのかどうかは少年には分からなかった。しかし、楽しそうに、たまに声をあげつつ笑む少女の姿を見ることができたので、少年は満足だった。

少女の家から大分離れた、陸が一切見えない海のど真ん中。海の青さと、空の青さに包まれた世界。

少女が笑ってくれると、少年も嬉しかった。

けれど、幸せは長くは続かないのが世の常だ。

少女の命の灯は、すでに消えかけていた。

興奮で紅潮していた少女の顔から血の気が失せて、少しずつ青くなる。温かった体温も下がってきていることが、触れているところから少年にも伝わってきた。

少女の顔が苦しみに歪むことこそなかったが、危ない状態だということは一目瞭然だった。

少年は動転した。天使である少年は、少女に残された時間が僅かだということは知っていた。けれど、こんなにも短いとは思っていなかったのだ。

加えて、同じ時間を過ごすうちに、少年は確かに少女に惹かれてしまっていた。共に過ごした時間こそ短いものの、少女の清らかな心に少年は惹かれずにはいられなかったのだ。

死期が近く、心の綺麗な人間のもとに行く事が、天使の役目。そこで人間の願いを叶えることが、天使の仕事。人間に必要以上の情を抱いてはいけないのが天使。恋情なんてもってのほか。相手の人間が死のうが生きようが、同じ時間を生きることなどできるわけがないからだ。

天使と人間は、近いようで、遠い。

少年は若く、まだ天使としての役目にも仕事にも不慣れだった。天使として無知だった。

だから、少女に淡い恋心を抱いてしまった。

だから、少年は望んでしまった。

「僕に、生きたいって願ってよ。そうじゃないと……君は、死んでしまうよ」

少年は望んだ。

少女が天使である少年に願うことを。

「………………」

けれど、少女は静かに首を横に振るだけだった。

「願ってよ……。願って……」

少年の声が震える。喉の奥から嗚咽が聞こえた。

けれど、少女は困ったように眉尻を下げるだけだった。

「なんでっ、なんで願ってくれないの。生きたいって、ただそれだけ言えばいいだけなのにっ……」

緩やかに波打つ海に、ぽつりぽつりと滴が落ちてくる。

自分を抱いて嘆願する少年の右手を両手で包みながら、少女は大好きな海の色と空の色を、目に焼き付けた。

今の時間は、澄んだ青で透き通った青で輝く青で優しい青。天色。空色。水色。

沈みかけの太陽に照らされると、茜色。緋色。橙色。太陽が沈んでしまうと、黒色。群青色。紺碧色。

瞼を閉じても脳裏に浮かぶ、毎日見た海と空の色。

「『海と空の境界線』はちゃんと見つけられたよ」

少女はそっと囁いた。少女は天使に願わなかった。

少年の右手を包んでいた少女の手が、離れ落ちる。

少年は目を見開いて、そして泣いた。



 海の青さと、空の青さに包まれた世界で。

 天使が泣いた日、少女は息をひきとった。

 少女は最期まで少女のままで、そして、幸せだった。


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[良い点]  シナリオの中盤まで台詞無しで淡々と綴ることによって「独特な世界観」が描かれていると感じました。  そして終盤のみに台詞を入れることによって「俯瞰」していた文章が一気に「感情的」な文章に変…
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