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コトノハ美術館  作者: 百里芳
【企画展示:「青くて小恥ずかしくなる展」】
8/25

常設展示:「産毛のこちら側のフロア」――学芸員による挨拶

担当キュレーターより


「わたし」って一体どこからどこまでなんでしょうか。


爪を切ったら、その爪は捨てられます。「わたし」はわたしとして残ります。

もし手首が切り落とされたら、手首は(惜しまれつつも)捨てられるでしょう。やっぱり「わたし」はわたしとして残ります。

もし肘から先が切り落とされたら、肘から先は(先ほどよりもさらに惜しまれつつ)捨てられるでしょう。ご期待通り「わたし」はわたしとして残ります。


それでは、切り落とす場所が二の腕、肩と上がって言って、ついに、わたしの脳天から真っ二つに「切り落とす」ことになったら。

切り落とされたのは、右の身体でしょうか。それとも左の身体でしょうか。

残された「わたし」は、左の身体でしょうか。それとも右の身体でしょうか。



ちょっと目線を変えましょう。

「我思う、ゆえに我あり」という言葉があります。

世の中のすべてのモノはその存在を疑うことが可能でも、それを疑っている自分自身の存在は否定できない、という趣旨の哲学の言葉です。

若い時分、この言葉を知った自分は、「そうか、考える=思っている自分自身は存在を否定できないのか」といたく感銘を受けたものでした。


しかし、この考え方は、あくまでも「我」という確固たる自分が居る前提の議論です。

真っ二つに切り裂かれた右のわたしと、左のわたし。どっちが「わたし」なの、と疑う私たちには時代遅れの議論です。


「わたし」ってなあに。「わたし」ってどこからどこまで。


おしゃれで、いつも素敵な服を着ているあの人は、裸にしたらどうなるのか。

素敵な歌声を持ち、皆から好かれる歌手から、声帯を奪ったらどうなるのか。

世界記録保持者の、短距離ランナーから、足を奪ったらどうなるのか。

名前で自分たちを区別している、わたしたちから、名前を奪ったらどうなるか。

そのときわたしは「わたし」でいられるのか。


このフロアでは、「わたし」というものをどんな眼差しで捉えられるのか――

「わたし」を「産毛のこちら側」と暫定して展示して行くフロアです。



えっ、どうして「体毛」じゃなくて「産毛」なのかって?

……かつらを体毛とするかどうか、むずかしいところですからね。

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