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溶けた翼

作者: 宴屋ハル

 『私』という人間は、酷く曖昧な奴だ。

 二十代後半を迎えた今でさえ、自分の生き方一つ自分で決められない。いつだって世間に流されて、その存在すらしっかりしていない。

「まるで雲のようだな」と、友人は私を笑った。

 でも、雲は力を与える。その、白く大きな存在は、雨を降らせ雪を降らせ、木陰を与えて生物を守っている。眺める人々に想像の楽しさを教え、生きることの素晴らしさを伝える。

 その点私は、自分一人救えないほどの弱い人間だ。未だに親の仕送りに頼り、フリーターとして世界に揺られる私の行き着く先など、どうせろくな場所じゃない。

 

 私に一番失望しているのは、他でもない私自身だった。



「初めまして」

 目の前で礼儀正しくお辞儀をする少年達に、私は今までにないほどの戸惑いを感じていた。

「突然お邪魔して、申し訳ありません。家の鍵がかかっていなかったもので」

 幼い容姿からは考えられない口調で、背の高い少年が言った。部屋の鍵は昨日家の中で失くしてしまった。

 呆気にとられている私に、少年達はしっかり目を合わせた。

「僕達を育ててはもらえませんか?」

 

 空が白み、太陽が朝を知らせる頃、いつものようにバイト先のコンビニから帰ってきた私を出迎えたのが彼らだった。

 兄弟なのか、よく似た顔立ちの二人の少年。二人とも短い黒髪に、大きな二つの黒い瞳。まだ小学生のようにしか見えない少年達は、その年頃の子供達特有のあどけなさを一切感じさせなかった。

 その代わり、見かけには不相応な深い何かを、その漆黒の瞳に隠しているように思えた。

 そしてその何かが、どうしようもなく私を惹きつけた。


「僕は、田島雄一。こっちは、弟の浩二です」

 散らかった部屋に何とか場所を作って、私は幼い兄弟に座るよう促した。一言お礼を述べた後、兄の方が自分達の名前を告げた。

 何か飲むものでも出そうとした私を、雄一が止めた。

「どうぞお構いなく。それより、話を聞いて欲しいのです」

 真剣なその態度に押されて、私は床に腰を下ろした。本当は自分も喉が渇いていたのだが、もうどうでも良かった。


 「さっきも言いましたが、僕達は貴方に育てて欲しいのです。生活の場所を与え、食べるものを与え、僕達を支えて欲しいのです」

「君達にだって親はいるだろう。どうしてわざわざ私にそんなことを頼むんだ?」

「いないから頼んでいるのです」

「親がいないのか?」

「いないのです」

「親戚はいないのか?」

「僕達のことなど、興味はないのです」

 悪いことを聞いてしまったか、と私は後悔した。ところが少年は、そんな事など気にもしていないかのように、じっと私を見つめて言った。

「お願いします。自分達のことは自分達でします。貴方には、必要最低限の迷惑しかかけない事を約束します。大きくなったら、必ずご恩はお返しします。どうか僕達を育てて下さい」

 頭を下げる兄に倣って、小さな弟の頭も下がる。上目遣いで私を睨むようにして。


 このとき私は、彼らの中に潜む深い何かの正体を知った。

 それは、決意。彼らの頭から爪先までを通る、太く強い芯。

 私が、かつてより憧れていたものだった。


 一週間前のこの日より、私の家に小さな二人の同居人がやってきた。



「行ってくる」

 一人暮らしを始めた頃、同棲していた彼女がいた。もうとっくの昔に別れてしまったのだが、未だにその幸せな過去の習慣が抜けず、私はバイトのために家を出る時、小さな声でこう言う。今までは、静寂が私を見送るだけだったが、今は必ず返事が返ってくる。

「いってらっしゃい」


 少年達は、学校には行っていないと言った。最近までは、雄一は六年生として、浩二は一年生として、同じ小学校に通っていたが、両親がいなくなってからは学校には行かなくなったらしい。それは不味いのではと思ったが、誰より彼ら自身が気にする必要はないと言っていた。

 きっと誰も心配しないから、と。

 彼らは本当に手のかからない子どもだった。そして、実に気の利く子どもだった。自分のことだけでなく、私の嫌いな家事もやってくれる。おかげで私の生活は、以前より快適になっているのが事実だ。

 もちろん私も、彼らとの約束を守っている。寝る場所も、食べるものも、着るものも与えている。荷物もお金も一切持たずにやってきた彼らは、何かを買ってやる度に不思議な反応を見せ、馬鹿丁寧なまでの礼を言う。

 

 彼らがやってきた日、私は友人にもらった西瓜を切ってやった。正に食べごろというような赤色をした果物は、彼らの目にどう映ったのだろうか。

 大きな目を更に大きくさせた二人は、しばらくの間、西瓜と私を見比べていた。何かを待っているような二人に、私は何気なく笑って言った。

 どうして食べないんだ、と。

 その瞬間、兄の雄一が大声で、これは食べることが出来るのか、としきりに確認した。そして私が頷くと、まるでさっきまでとは別人のような勢いで、二人揃って競うように西瓜に噛り付いたのだ。

 大きなお盆に所狭しと並べられていた西瓜は、瞬く間に皮だけの物体になった。

 物足りなさそうな顔をしている弟の浩二をよそに、雄一は私に涙ながらに礼を言った。

 こんなに美味しいものは初めて食べた、と。


 洋服を買ったときも、靴を買ったときも、奮発して小さな玩具を買ったときも、彼らは今時の子供達では有り得ないような反応を返した。

 どれもこれも、彼らにとっては初めてのものばかりのようだった。まるで初めて外に出た赤ん坊のように、その目は輝きに満ちていた。初めて私のもとを訪れた時とは違い、大きな瞳には決意と共に喜びの色が見えるようになっていた。

 私は、そんな彼らを見るのが好きだった。次は一体、どんな感情を取り戻していくのか。何を知って、何を考えるようになるのか。それが知りたかった。

 もちろん、このままではいられないことは分かっている。きっといつか、何らかの形で彼らと別れることが来ることは分かっている。

 それでも私は…。


「五十嵐さん、最近明るくなりましたねぇ」

「え!?そうですか?」

 バイト仲間にそう言われ、私はびっくりして陳列中だった商品を落としてしまった。それを拾うのを手伝いながら、彼はにっこりと笑った。

「何だか、生きることを楽しく感じているように見えますよ。何かあったんですか?」

 まさか、身寄りのない子どもを勝手に引き取っているとも言えずに、私は愛想笑いを返した。バイト仲間は、余計な詮索は無用だとでも思ったのか、商品を私に手渡して店の奥へ消えてしまった。

 

 私は最早、彼らの父親になった気分でいたのである。


 その日、私は少しでも早く家に帰ろうと、朝焼けの中の帰り道を走った。



「今日は、仕事に行かないんですか?」

 ある日の昼、雄一が私に尋ねた。その言葉に反応して、テレビを見ていた浩二が駆け寄ってくる。

 シフト変更があってここ最近忙しかった。今日は久しぶりに休みをもらっている。さっきまで布団の中に居た私は、起きてからはずっとラジオを聴いていた。

 彼らが家に来てからというもの、私は暇さえあればテレビやラジオでニュースを確認するようになった。

 欲しいのは、雄一と浩二についての情報だ。家族が居ないとはいえ、子ども二人が行方不明になっているはずなのだ。学校などから、捜索願やらの届けが出されているのではないかと、私は気になって仕方がなかった。それは、早く彼らを本来の居場所に返してやりたいと思う一方、少しでも長く彼らと一緒にいたいという矛盾した気持ちから来る行動だった。

 そして、一週間以上が過ぎてからも、彼らを探す者はいない。

 ほっとしている自分がいる事を、自覚せずにはいられなかった。

「もしも休みならば、頼みたいことがあるのです」

 洗濯物を畳む手を止めて、雄一は遠慮がちに、しかし強さのある口調で言った。


「水族館に連れて行ってくれませんか?」



 私の住むアパートの最寄の駅から、電車で約三十分。シャトルバスに揺られること二十分。 県内でも有名な水族館に、私達三人はやってきた。

「よかったな、浩二。お前の大好きなイルカにも会えるぞ」

 兄に話しかけられ、浩二は満面の笑みを浮かべていた。

 私は、初めて見る、二人の兄弟らしい様子に微笑ましさと切なさを感じていた。


 この水族館の目玉は、周りを水で囲まれた、ガラス張りのトンネルだ。大きな水槽の中を歩くようになっているので、自分の横を、頭の上を巨大な魚達が通っていく。まるで、海の中を歩いている気分になれると評判だった。

 兄弟も、このトンネルが気に入ったようだった。進路を示す意で描かれている矢印を無視して、浩二は何度もここを往復している。

「すみません。疲れているでしょう?」

 大きな水槽の前に置かれたベンチの一つに腰掛けていると、さっきまで浩二の傍にいたはずの雄一が不安そうな表情をして立っていた。

 雄一や浩二が、こういった表情をするのはよくあることだ。それも決まって、私が笑っていない時。おそらく、私の機嫌を伺っているのだと思う。機嫌が悪かったり、疲れた顔をしたりしていると、自分達に原因があるのだと考えているようだ。

 だから私は、彼らの前ではなるべく笑うように努めている。

「そんなことないさ。いいのか?折角来たのに楽しまなくて」

「十分楽しいですよ。僕も浩二も、こういう所に来るのは初めてなんです」

 親には連れて行ってもらわなかったのか、という質問は、あまりにも失礼だと思いやめた。

「浩二は、海が好きなんです。あいつに絵を描かせると、海の絵しか描かないんですよ。おかげで、僕達の使っていたクレヨンの青色はすぐ無くなっちゃいました」

 そう言って、雄一は笑った。浩二は以前に比べればマシになったが、雄一の笑顔は、いつもどこか寂しそうだ。

 それからしばらく、お互い言葉を交わさなかった。トンネルの中にいた浩二が、私達の様子を不思議そうに見ていたが、すぐに、近寄ってきた巨大なエイに興味を移した。

 私は、目の前の水槽を目まぐるしく泳いでいく魚の群れを目で追った。流れに逆らって、流れに乗って。世間に逆らえない私は、きっとこの魚よりも不器用だ。

「…実は僕、水族館の魚が羨ましいんです」

 雄一が唐突に口を開いた。その目は水槽を泳ぐ魚に向けられていたが、もっと遠くの何かを見ているようだった。

「貴方は、彼らに自由がないと思いますか?」

 考えれば考えるほど深まる質問に、私は返事が出来なかった。

「海を知らない彼らにとって、ここは果てしない自由が広がっているのでしょう。餌に困ることなどないし、自然界の厳しい闘いに巻き込まれることもないでしょう。彼らはより広い世界を知らない代わりに、より深い愛情を与えられているのです。自らの親からも、ここにいる飼育員の方々からも、こうして彼らで心を和ませようとしている人々からも」

 だから、羨ましいのです、と雄一は目を閉じた。

 たかが水族館の魚に、これ程までの考えを膨らませる。見るもの触れるもの全てに様々な感情を持って、様々な思いを巡らせて、雄一にとって世界は誰よりも美しく、愛に満ちたものなのかもしれない。

 でもその理想の世界から、雄一自身は切り取られてしまっているのかもしれない。

「…いつでもいいので、今度は海に連れて行ってもらえませんか?」

「そうか。海はいいぞ。この辺の海はだいぶ汚れちまったけどな、沖縄辺りは綺麗だ」

「行ったことあるんですか?」

「兄さんが沖縄に住んでるからな。前はよく行ってたんだ」

 言いながら、何だか私は無性に、彼らに沖縄の海を見せたくなった。最後に兄の元を訪れたのは、大学生の時だったか。透き通る様に美しい沖縄の海は、未だに私の頭に鮮明に残っている。

「きっと連れて行ってやるよ」

「楽しみにしてます」

 叶えられない約束だとは、思いたくなかった。


 その日最後のイルカのショーに、私達は何とか間に合うことが出来た。運よくイルカと握手することが出来た浩二は、しばらくの間喜びと興奮で放心状態だった。



 駅前のレストランで軽く夕食を済まして、家に帰った頃には、既に九時を回っていた。背中に背負っていた浩二は、完璧に熟睡している。

 雄一がシャワーを浴びている間、私はぼんやりと外を眺めていた。空に輝く星の数は簡単に数えられる程度のものだったが、月は異常に明るかった。

 ふと、アパートへと向かう道の上に、人影が見えた。けれどもそれは、一瞬のうちに引っ込んでしまった。

「何を見てるんです?」

 尋ねられて振り向くと、雄一がタオルで頭を拭いていた。キョトンとした顔で、私の方を見ている。

 何でもないよ、と答えて、私は雄一の近くに座った。

「早く寝ろよな」

「僕は寝ませんよ」

 可笑しなことをさらりと言って、雄一は私の隣に腰を下ろした。ちゃんと髪が拭けていないらしく、水滴がポタポタと落ちていく。


「夜は、折角僕の時間が僕のものになるんです。本を読んでも、音楽を聞いても、何をしていてもいいんです。もったいなくて寝られませんよ」

「キミの時間は、いつだってキミのものだろうに」

 煙草に火をつけながら私が笑うと、雄一はゆっくりと首を横に振った。

「昔から、僕の時間は、いつだって他人のものなのです。浩二の時間だってそうです。貴方だってそうでしょう?自分の意思で生きている時間なんて、少ないんじゃないんですか?」

 彼の言っていることは、はっきり言って私にはよく分からなかった。ただ、私の人生に私自身の意思が反映されていることは少ない。それは頷けた。

 何をやるにしても、私は自分を隠している。意思を外に出すことを、自分を他人に見せる事が怖かった。こうしたいとは思っても、いつだって流されて流されて。行き着く先で、後悔の念に駆られて終わる。

 弱く、つまらない人間だ。

「僕達の時間は、母のためにありました。母の望むことは何でもしました」

 雄一が自分の過去を話すのは、これが初めてだ。余計なことは言わないでおこうと思った。

「朝から夜まで、僕達は母の言った通りに生きてきました。学校に行けば、先生と友達の言った通りに動きました。そうしろと、僕らの母は強く言っていましたから。逆らうほどの強さを、僕らは持っていませんでした」

 淡々と話す雄一の声から、感情を読み取るのは不可能だった。

「僕らが貴方のところに来たのは、初めて僕らが自分で決めたことなのです」

 立ち上る煙草の煙で、雄一の表情が隠れた。無理矢理見ようとは、考えなかった。

「…私がキミ達をここに置いているのも、初めての私自身の決断だよ」

 呟いた私の言葉を、雄一はどんな気持ちで聞いていたのだろうか。



 私が最も恐れていた事態が起こったのは、それからたった二日後のことだった。


「五十嵐徹さんですね?」

 いつものようにバイトに出ようとしていた私がドアを開けると、そこにはちょうどチャイムを鳴らそうとしていたらしい二人の男性が立っていた。

 疑問ではなく、確認の口調。刑事ドラマでよく耳にするものだった。

「少々、お伺いしたいのですが」

 威厳に満ちた黒の手帳に、金の輝きが眩しかった。


「田島雄一君と、田島浩二君という兄弟をご存知ですね?十一歳と六歳の」

 そう言いながら、年上らしい白髪混じりの髪をした刑事が、すっかり見慣れてしまった二人が写った写真を見せた。無駄だとは知りながら、私の首は自然と横に振られた。

「ここ最近、貴方の家に出入りする彼らの姿が目撃されているのですが」

 確信があるのなら、まわりくどい質問なんか必要ないだろうに、と私はこっそり溜め息をついた。それに気づいた若い方の茶髪の刑事が私を睨んだ。きっと彼も面倒なんだ、と思った。

「人違いかとお思いですか?」

 尋ねる白髪の刑事に、私は視線すら向けなかった。いつの間に、彼らのことがニュースになっていたのか不思議で仕方がなかった。

「私達も、この目で見ています。今週の水曜日、夜の九時過ぎに貴方の家に帰ってきたのは、貴方とこの兄弟でしたね?」

 水族館から帰ってきた私が窓の外から見た人影は、彼らだったようだ。

「この兄弟は、二週間ほど前から行方不明になっています。家族の方から捜索願が出されているのですが…」

「家族?」

 思わず私は聞き返した。親はいないと、親戚は関係ないと言っていたのに。

「中に入っても」


「ちょっと待ってください」

 白髪の刑事の言葉を遮ったのは、幼くも強い声だった。 


「雄一、浩二」

 呼びかけると、雄一と、その腕をしっかりと握っている浩二は私の方を向いて微笑んだ。悲しみと、決意と、後悔と。色々なものが混ざった微笑みに、私は何も言えなくなった。

「田島雄一君かね?」

「そうです。こっちが弟の浩二です」

 私にしたのと同じように、雄一は自分達を刑事に紹介した。白髪の刑事が、目を細めた。

 茶髪の刑事が、私に向けて何かを言おうとした。ところが、雄一の声がそれを邪魔する。

「その人は、僕達が勝手に巻き込んでしまったのです。理由も聞かずに僕達を傍においてくれた、親切な人です。何も悪くありません。悪いのは、僕達です」

 鋭い目で、雄一は刑事達を見つめた。浩二が、私を見てもう一度微笑んだ。無理をしているんだ、と捉えてはいけない気がした。

「…母が、探しているのですか?」

「そうだ。早く帰ってやりなさい」

 答えたのは茶髪の刑事だった。さっきまで私に質問を投げかけていた白髪の刑事は、兄弟の方を見たまま動かなかった。

「この人に何もしないのなら帰ります。僕達は約束したのです。必要最低限の迷惑しかかけないと」

 私ですら忘れている約束だった。

「…大丈夫。君達が無事だと分かったから、少し話を聞くだけだよ」

 やっと白髪の刑事が口を開いた。優しそうな声は、相手が子どもだからだろうか。


「お世話になりました」

 頭を下げる雄一と浩二は、酷く小さく見えた。私は初めて、彼らに儚さをみた。

 気持ちの整理がつかない私に、浩二が右手を差し出した。私が手を出すと、彼は私の手に小さな木彫りの鳩を握らせた。先に紐がついていて、首から下げられるようになっている。不恰好だったが、ずっと握っていたからか暖かかった。

「それ、僕が教えて、この間浩二が初めて彫ったんです。僕と浩二からのお礼です」

 大事にしてやってください、と雄一は笑った。

「…ありがとう」

 お礼を言ったのは私ではなく浩二だった。初めて聞く浩二の声は、涙が出るほど切なかった。

 

 その日から、僕の部屋はまた、僕一人のものになった。



 翌日、僕は警察に呼ばれた。そこで、兄弟との生活を全て話した。初めて彼らが来たことも、毎日の暮らしのことも、水族館に行ったことも、海に連れて行く約束も全て話した。雄一が話してくれた、水族館の魚の話もした。自分の時間の話もした。

 ただ一つ、身寄りがないという彼らの嘘は話さなかった。

 兄弟は、無事に家に戻ったそうだ。 

 結局彼らは家出人だったらしく、私は、今後このような事があったら警察に知らせるようにと注意を受けて帰された。


 部屋に帰った私は、バイトに行こうとして止めた。昨日も無断欠勤をしてしまったし、バイト仲間からの電話にも出なかった。きっとクビになるだろう。

 広くなった部屋の真ん中で、私は何故か窮屈さを感じていた。締め付けられる胸の痛みや切なさは、今まで経験したことのないものだった。いや、忘れているだけなのかもしれない。

 

 どうしようもなく、寂しかった。悲しかった。苦しかった。


 兄弟に救われたのは私だ。

 私が兄弟にしてやれたのは、ただ養うことだけ。物質上の手助けだけだ。

 でも彼らは、私の心を変えてくれた。生きる楽しみを、自分に対する自身を与えてくれた。 こんな私でも、ちゃんと他人に感謝されるような事が出来るのだ。自分の意思を持つことが出来るのだ。人と触れ合うことが出来るのだ。

 あんな小さな子供達に、私は様々なことを学んだ。

 

 頬を流れた涙の理由を受け止められないほど、私は捻くれていなかった。

 幾筋モノ涙が頬をつたい、顎をなぞり、首から下げられた鳩に落ちた。濡れても濡れても、木彫りの鳩は暖かかった。



 それから数日後、私は初めて兄弟の家を訪れた。私の家から、そう離れてはいなかった。

 黒い服を着た大勢の人間に混ざって家に入ると、写真の中の雄一と浩二が、私を迎えてくれているかのように笑っていた。

 相変わらず、寂しそうな笑顔だった。

 周りの人は泣いていたが、僕は彼らの前では泣けなかった。

 ただ、ありがとう、とだけ繰り返していた。



 兄弟の家から帰る途中、川原を見つけた。一服しようと思い近づくと、先客がいた。

「…よお、アンタか」

 右手をあげて挨拶をしてきたのは、いつかの白髪混じりの刑事だった。


「式の帰りか」

「ええ。刑事さんと一緒です」

「何だ。気づいてたか」

「会場が狭かったですし。ネクタイも締めずに来てる刑事さんは目立ちますから」

「嫌いなんだよ、苦しいから」

 苦笑して彼は言った。

 川原を駆け抜けていく爽やかな風は、どこか秋の匂いがした。煙草を吸おうとしていた事を思い出し、私は喪服の内ポケットを探る。

 出てきたのは、中身を伴わない煙草のパッケージだった。

 ぐしゃりと握りつぶしてポケットに戻す。隣に座っていた刑事が、無言で煙草を差し出した。私にはあまり馴染みのない銘柄だった。

「自殺…だってなぁ」

 煙草の煙を吐き出しながら、気の抜けた声で彼は言った。私は答えず、火をつけた煙草を咥える。肺に流れ込む煙が、心を落ち着かせた。私は、生きている、と。

「小学生のガキがよ、二人揃って縄跳びの縄で首吊りだ。どこで学んだんだか」

「…知っていること、教えてくれますか?」

 無意識のうちに、私はそう言っていた。妙にはっきりした声に、私が一番驚いた。

 一瞬怪訝そうな顔をした刑事は、すぐに納得の表情を浮かべた。


「田島兄弟の母親は、児童虐待の容疑がかかってたんだ」

 風に乗って消えてしまいそうなほど小さく、老いた刑事は呟いた。

「兄弟が通っていた学校から、警察に直接相談があってな。まぁ、体育の時に見えた二人の傷がおかしいとかあったみたいでな。普通、虐待を受けてる子供は体育とかは嫌がるんだがな」

 私は、彼らが素直に授業を受けていた理由を知っている。授業を休むことも、彼らにとっては先生に逆らうことと同じだ。

「警察の方で調べてたんだ。聞き込みしたり、自宅に張ってたりよ。でも、証拠は一切掴めなかった。家の中から子供が泣く声もしないし、母親が叫ぶ声もしねぇ。一緒に暮らしていた母親の兄も、近所の連中も、口を揃えて、仲がいい親子だと言いやがる」

 それは兄弟の努力だ。きっと彼らは、母が望んだ事をしただけなのだ。それが自分の身を傷つけていると知っていても、彼らは従うしかなかったのだ。

「勘違いだと学校の連中に言っても、あっちはあっちで食いさがらねぇ。そんな時、兄弟が姿を消したんだ」

 そして、偶然逃げ込んだアパートの、偶然鍵が開いていた私の部屋に入り込んだのだ。

 必死の逃亡だったのだ。

「どうして、私のところに居ると思ったんですか?」

 気になっていたことを尋ねた。

「アンタの隣の部屋の奴が、警察に連絡してきたんだ。“隣に住んでいる奴の所に、最近見慣れない子供が居る。誘拐かもしれない”ってな」

 どうやら私はとんでもない誤解をされていたようだ。

「兄弟の家から近い方だろ?あのアパート。だから、念のために俺達が張りこんでたんだ。アンタがつれて帰ってきた子供が、田島兄弟だった時は驚いたよ」

 刑事は言葉を切ると、まだ十分吸える長さの煙草を、携帯灰皿に押し付けた。


「虐待されている可能性を知りながらも、あの子達を家に帰したんですか?」

 私は怒っているのかもしれない。何も気づいてやれなかった私自身に。

「可能性は、あくまで可能性なんだ。母親も、兄弟の行方を知りたがっていた。関心がない方がマシだったよ」

 彼も怒っているのかもしれない。分かっていても何も出来なかった彼自身に。

 

 大人は無力だ。

 必死で闘っていた子供に何も出来ず、大口を叩くだけなのだ。


「父親は、どうしていたんです?」

「田島兄弟の父親は、次男の浩二が生まれた日に失踪した」

 険しい顔で刑事は言った。

「長男が生まれた頃から、仕事以外で家を空けることが多くなったらしい。それで、次男が生まれれば失踪。きっと逃げたんだろうな。子供を育てる責任に耐えられなかったんだ」

 私は、そんな無責任な父親に自分を重ねていた。私だって変わらない。兄弟に会っていなければ、これから変わろうとも思わなかった。

「母親も不安だったんでしょうね。だから、虐待なんかにはしったんでしょう。雄一や浩二がいなければ、ずっと愛する人と暮らせたんだ」

 自分で言ってから、私は無性に悲しくなった。もしそうならば、雄一や浩二は母親にとって愛する存在ではなかったのだ。

 それを雄一は知っていた。幼いながらに浩二も。だから、愛が羨ましかったんだ。だから、二人揃って私のところへ来たんだ。

 

 育てて欲しかったんじゃない。愛して欲しかったんだ。


「あの兄弟にとって、アンタの“優しさ”は暖かすぎたんだ」

 複雑な感情を精一杯堪えて、刑事は重い声で言った。

「“太陽”に近づきすぎた“英雄”は、偽物の翼を溶かされて落ちちまう。兄弟は“優しさ”に近づきすぎた。“強がり”なんて脆い翼は、簡単に溶けちまったんだ」

 刑事から視線をそらして、私は空を見上げた。

 

 この空より透き通った海に行く約束を、果たせなかったことが悔しかった。


「雄一は、父親の顔を覚えていたでしょうか」

「さあな」

「父親は、我が子の顔を覚えていたでしょうね」

 私の声は、ちゃんと彼に届いたか。


「手前の命より大切な存在だぞ。忘れるわけないだろうが」

 

 私と刑事の間を、風が吹き抜けていった。

「人の親は辛いですね」

「あぁ。偉ぶったって、結局何も守れなかったりするんだ。…守り抜いた後が怖いんだ」


「結局俺は、何にも変わっていないんだ」


 まだ、そんなに年老いていないはずの彼の頭に生えた白い髪は、彼の苦悩と苦労を物語っている。私はそう思った。

 しばらくして、刑事は立ち上がった。

「帰るな。仕事が待ってる」

 私は立ち上がらずに彼を見上げた。

「その鳩、浩二が彫ったやつだろ?昔、雄一が作ったやつに似てる。夜も寝ないで、本と木材と彫刻刀と格闘してたよ」

「あげませんよ。これは、私がもらったんです」

 分かってる、と刑事は笑って私に背を向けた。別れの挨拶も言わずに歩いていった。


 我が子に“愛”という強い本物の翼を与えてやれなかった父親の背中は、酷く寂しかった。



 その日、私は久しぶりに街を歩いた。

 ところどころで、無料の求人案内をもらっていく。帰ったら眺めてみるつもりだ。


 私は、本気で子供達を守れるような大人になりたいと願っている。それは綺麗事なのかもしれないが、目指す価値のあるものだった。

 雄一や浩二のように、愛を知らずに生きていくのは悲しすぎる。怯えた心を、寂しい心を隠して生きていくのは悲しすぎる。

 子供が、自分の身を犠牲にしてまで大人に尽くす必要はないのだ。逆に、大人が全てを子供に捧げて生きる必要もないのだ。

 同じ人間。助け合って、支えあって、励ましあって生きていく必要があるのだ。大人は子供を愛す。子供は大人を愛す。そんな事は、同年代の友人や異性に対する感情の延長線なのだ。もっと言えば、他人を想う事は、自分自身を愛す事の延長線なのだ。

 自分を愛せなかった私は、他人と関わることが苦手だった。そして今、自分を愛すことが出来た私は、他人を愛したくて仕方がなかった。

 私にもようやく、飛び立つための翼が生えたのだ。

 

 いつか、沖縄の兄のもとを訪れようと思う。

 そして、海を眺めてみようと思う。

 首から下げた木彫りの鳩に、壮大な海を見せてやりたい。

だいぶ長くなってしまいました。短編は話をまとめるのが苦手な私には、難しかったです。

読んでくださって、ありがとうございます。

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[一言] とても感動しました。 これからも心が洗われるような、素敵で綺麗な物語を 創っていって下さい。
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